『<生命>とは何だろうか』岩崎秀雄

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

いまや人工的に細胞の中身を作ることができるような時代になっている。そのような時代において、生命とは何なのかを、学際的に捉えようとしている著者の書いた概観書である。とくにこの本では、生物学と美術(美学)の接点が大きく取り上げられており、非常に現代的な内容となっている。その名も「生命美学」というのであるが、カント美学を現代によみがえらせるかのようなその試みは成功するのだろうか。実際に、細胞をもちいた美術作品はかなり注目を浴びるようになっていて、そのインパクトをどう考えればいいかは今日的なテーマだろう。著者は2006年から「細胞を創る」という手弁当の学際研究会をはじめているとのことで、こういう形で始まるものは将来性があるように思う。

ひとつ思うのは、著者の言う「生命」に、「人間の生命」が、明示的な形では入っていないように思われる点である。これはすごく難しい問題で、たとえば哲学のジャンルである「生物学の哲学」には、「人間の生命」というものはそれ自体としてはテーマにはならない。(生物学の哲学ではハイデガー存在論は扱わない等)。生物学からのアプローチと、実存主義生の哲学的アプローチが、乖離しているのがこの分野での大問題である。それをつなげようとしたのがハンス・ヨーナスらであり、私たちはそれを念頭に置きながら「生命の哲学」というジャンルを構想しようとしている。しかしこの二つのアプローチをつなげていくのはすごく難しいという気がする。が、やらなければならない。

『フーコー・コレクション3 言説・表象』

この巻も、松浦寿輝による解説が優れているので、引用する。

個人などというものが、はたしてあるのか。書物などというものが、はたしてあるのか。主題などというものが、はたしてあるのか。そして何よりも、作品などというものが、はたしてあるのか。・・・『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』や『資本論』を明確な輪郭と堅固な実体を持つ言説単位として読むには及ばない。ましてそれらを「無神論」なり「資本主義批判」なりといった硬直した主題枠の中に囲い込んで何かをわかったつもりになる必要などさらさらない。名前を持たない無数の言説断片たちのレギオンが絶えざる闘争と和解を繰り返す灰色の不確実の空間の中に、ひとたびすべてを返してしまうこと。そして、そこに斜めに走り抜けてゆく意味も方向も欠いた無数の逃走線の絡み合いを丁寧に解きほぐし、個人とも書物とも、作品とも主題とも無縁の非人称の力動システムが徐々に姿を現わしてくるさまを記述し尽くすこと。そうした試みにフーコーは、「思想史」からは断乎として身を引き離す「思考の考古学」の名を与えた。(448頁)

未来に向かって投企する人間主体の自由などもはや問題化されえない言説空間で、フーコーが視線を注ぐのは泡粒のように沸き立っては散ってゆくこれら非人称的な「言表」の予想しがたい戯れなのである。・・・その編成のプロセスを通じて出現する「言表」のシステムを「史料体」と呼ぶことを提案したいと論を進めるとき、・・・・みずからの「考古学」とはこの「史料体」の探査にほかならず、起源へと向けて時間軸を遡行してゆく復元の学ではないのだといっているのである。(452−453頁)

フーコーの考古学が答えようとするのは、それら「言表」のレギオンがいかなる力によって衝き動かされ、いかなる規則によって律せられ、いかなる様態において編成され、システムへと生成し遂げてゆくのかという問いに対してである。それら大小無数の出来事の波動は、最終的に、或る時代の知のありかたを特徴づける思考の枠組みとしての「エピステーメー」を構成するが、それは当然のように、静かな堆積作用によって形成される「知の地層」のイメージをはるかに逸脱する力動性を孕み、不安定に揺らぎつづけている。・・・・フーコーの「エピステーメー転換」の概念はときおりトマス・クーンの「パラダイム・シフト」のそれに比べられることがあるが、言表それ自体を出来事と捉えるこの視点に立つかぎり、フーコーの考古学がクーンの科学史の問題基制から一線を画すものであることは言うまでもない。・・・・クーンは、・・・・既成の鋳型に無理やり自然を押しこめてゆく「通常科学」が一方にあり、その機能が限界に達した時点で開始される「異常な」探求と、その結果として生じる「科学革命」が他方にあるというわけだが、こうした正常/異常の二元論ほどフーコーから遠いものはない。恒常態としての「正常」な観察や認識の働きに或るとき「異常」が出来し、かくして「革命」が惹起されるといった事態がこれまでの科学史上に少なからず生起してきたことはなるほど事実だろう。だがフーコーにとって、歴史における不連続性とは、そうした「大偶発事」の一つであるばかりでなく、「言表という単純な一時のうちにすでに現前している」のであり、言い換えれば、「史料体」を構成する「言表」という「言表」は、どれもこれも、日常時と非常時を問わずことごとくextraordinaryなのである。(455−456頁)

クーンのパラダイムシフトと、フーコーエピステーメーの違いについての指摘は、重要なところだと思う。

ベーコン『学問の進歩』シェリング『学問論』

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

岩波文庫の重版本。フランシス・ベーコンが1605年に書いた『The Advancement of Learning』の日本語訳で、この本は「英語で書かれた最初の哲学書といわれる」らしい。内容はと言えば、哲学概説で、新書本みたいな感じ。ベーコンはおしゃべりである。のちに書かれる主著ノヴム・オルガヌムへの序章のような感じなのだろう。再度品切れになる前に持っておいてよい本かもしれない。

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

こちらも岩波文庫の重版本。こちらは初版が1957年である。1802年イエナ大学における講義録。

それは真の観念的なもののみがそのまま媒介なしにまた真の実在的なものであり、そういう観念的なものの外には他のものは何も存在しないといういっそう高い前提なしには、一般的にもまた或る特殊な場合においても、考えられないのである。われわれはこういう本質的統一を哲学のうちにおいてさえも実際は証明することはできない。それはむしろ一切の学問が学問たるための通路なのだから。しかしそれなくしては、一般に学問はないということだけは証明されるし、またともかく学問たらんとする要求をもつすべてのものにおいては、本来この同一、言いかえれば観念的なものへの実在的なもののこういう全的な同化が・・・意図されるということは立証される。(16頁)

ドイツ観念論ですなあ。