感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-03-29

[]『決定版 感じない男』(ちくま文庫)


感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

2005年に、ちくま新書から刊行された『感じない男』は、ネットを中心に圧倒的な反響があり、その後読み継がれて男性学の古典の一つとなりました。そしてちくま新書版が品切れになったのを機に、このたび、ちくま文庫で再刊されることとなりました。

発売は4月10日ですので、ぜひ書店で手にとってみてください。この本のうわさは聞いていたけれども書店にないので見たことがないという方も、4月中は書店の文庫棚にありますので。

文庫版には、「感じない男はその後どうなったのか」という長めの補章が付け加えられています。その中から一部を紹介します。

補章 第2節より

 ・・・・・

 そもそも私がこの本を書こうと思ったのは、男性のセクシュアリティについて、客観的な事実を解明したいと考えたからではありません。私がこの本を書こうと思ったのは、セクシュアリティについての自分のつらさや悩みがどこから来ているのかを、どうしても知りたかったからです。

 自分自身のセクシュアリティを掘り下げていくことは、どうしようもない痛みを伴います。なぜなら、それは自分自身の内面に秘めてきた「弱い部分」を、自分自身に対してあからさまにすることでもあるからです。そもそも、弱い部分であるからこそ、それを他人からも自分からも隠しているわけなのですが、しかしその部分に光を当てることをしなければ、自分のセクシュアリティのもっとも本質的な箇所を鷲掴みにすることはできません。

 そしてさらに言えば、もし他人の目に見える形でその作業をやり切ることができれば、それはきっと同じような弱さや痛みを抱えている人たちに、何かの力を与えることができるだろうし、そうやって「弱さ」を接続面としてつながっていくことによって、何か新しい世界が開けてくるのではないかと私には思えたのです。私はこの本で、自分の「弱い部分」を他人の目の前にさらけ出しました。刊行後に私が精神状態を崩した原因のひとつは、まさにここにありました。私のいちばん「弱い部分」を、誰でも、いつでも容易に刃物で刺しに来ることができるという状態に置いたのですから。

補章では、感じない男のその後、生命学との関係、ロリコン社会の進展などについていろいろと書きました。ABK48についてもちらりと触れました。

2013-03-12

[]磯村健太郎・山口栄二『原発と裁判官』

これまでの日本の原発訴訟において、裁判官はどう考え、どう判断してきたのかを(元)当事者たちへのインタビューによって浮かび上がらせた本である。福島の原発事故の前と後では、原発訴訟に対する市民の意識もがらりと変わったであろう。なによりも、これまでの原発訴訟を裁いてきた裁判官たちがいちばん困惑していることだろうと想像するが実際はどうなのだろうか。

これは東京電力柏崎刈羽原発第一号機訴訟(新潟地裁)裁判官であった西野喜一さんの言葉である。

行政事件や労働事件、国家賠償事件、公安事件などで、国家の意思にそぐわない判決を出すと、自分の処遇にどういうかたちで返ってくるだろうか。そのように考えるのは組織人として自然なことです。原発は国策そのものである、という事実が裁判官の意識に反映することは避けられないと思います。無難な結論ですませておいたほうがいいかな、と思うことは、可能性としては十分にありえます。(84頁)

国策の推進という方針に沿った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります。(85頁)

もんじゅ訴訟高裁判決では国が敗訴した。そのときの裁判長であった川崎和夫さんはこのように言う。

国を負かすことへの抵抗は、そんなにはなかった。国策に反する判決をするから重圧を感じたかというと、そんなことは感じませんでした。しかし、『変な判決を書いたヤツだと思われるだろうなあ』という思いはありました。『川崎、ばかだなあ』と言われる気がして・・・。それがプレッシャーといえばプレッシャー。だって、それまで原発訴訟で国や電力会社側を負かした判決を出した裁判官はいなかったわけですから。(145頁)

しかしながら、その後の最高裁ではこの判決が控訴棄却となり、くつがえされたのだった。その背景にある「調査官」の実態など、なかなか興味深い。高裁の裁判長である川崎さんが、判決文を書くときに、最高裁判事に向けたメッセージ(ちゃんと勉強してほしい!という)を忍び込ませていたということには軽い衝撃を受けた。