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2014-05-03

[]戸田山和久『哲学入門』

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

2014年4月20日日経新聞掲載

私とは何か、自由とは何か、生きる意味とは何かというような問いを、徹底的に突き詰めて考えていくのが哲学だ。本書は、ここ数十年の英語圏の分析哲学や科学哲学の知見を縦横に駆使しながら、これまでの教養主義の哲学入門にはなかった、新しい世界像を垣間見させてくれる。

著者の戸田山は、次のような前提で哲学をしていこうとする。まずは、唯物論である。この世のすべては物理的なものだけでできている。そして、たいがいのものは物理的なもの同士の相互作用で説明することができる。もうひとつは、自然科学を信頼することだ。哲学も、科学の知見によって鍛えられながら発展していかなければならない。

しかし、そのような立場を取ってしまうと、最初に言ったような、私だとか、自由だとか、生きる意味というような、見ることも触ることも測定することもできないような抽象物はどこにも実在しないという結論になってしまうのではないだろうか。

だが戸田山は、そうは考えない。それらの抽象物は、私たちが生き物としてこの地球上で進化していくプロセスのなかで、どこからともなく湧き出てきたというのだ。そしてそれらの抽象物は、物質とはまったく異なった形式で、私たちの住むこの世界にはめ込まれ、私たちにとってなくてはならない不可欠のピースになったのである、と。

人間と動物のあいだに決定的な断絶があるわけではない。人間が登場する以前の動物だって、自由のようなものを持っていたし、原始的な記号操作もできた。生物進化のプロセスの途上で、人間がそれらをさらに発展させて、自己制御能力や、未来についての目標設定能力を開発していったのである。その結果として、人間は、目的、自由意志、道徳といった高度な抽象物を使いこなせるようになった。その道筋を哲学的に論究した箇所が本書の白眉である。

だが、自由意志や責任などの抽象物は、いつか使い勝手が悪くなるかもしれない。脳科学の進展によって、人間の自由意志と思われていたものが、実は、脳内物質のはたらきによって生み出された虚像であることが分かるかもしれないからだ。

しかし、たとえ自由意志や責任という概念が人間から奪われたとしても、それによってディストピアが到来するわけではない。むしろそこは他人から理不尽な責任を押しつけられることのない魅力的な社会かもしれないと著者は言うのである。哲学者からのこの挑戦状をどう受け止めればいいのだろうか。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

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[]若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

2013年11月24日日経新聞掲載

本書で取り上げられる池田晶子は、『14歳からの哲学』などのベストセラーで知られる哲学エッセイストである。池田の文章は、自分の直観的な結論を読者の前にポンと投げ出すというスタイルであり、非常に独特である。

池田自身が敬愛しているプラトンやデカルトやヘーゲルは、なぜそのような結論が導かれるのかについて渾身のロジカルな議論を重ねるのであり、評者はそこにこそ哲学の醍醐味があると考えているので、池田のスタイルには不全感を禁じ得ない。

しかしながら、本書の著者である若松は、池田のそのようなスタイルによってこそ光を当てることのできる思索があるのだという。そして池田のテキストをたんねんに読み解いて、そこから繊細な果実を抽出してくるのである。

若松が池田に読み取るのは、「言葉はいったいどこから来るのか」という問いである。ある言葉が、書き手を通路として貫いて彼方から降臨してくることがある。そのとき、その言葉を発したのは書き手なのか、それとも彼方の存在なのか。

読み手のほうにおいても、同じことが言える。私がある文章に、いかづちのように撃たれるとき、私が出会っているのはその書き手なのか、それとも書き手という通路を伝ってこちらまでやってきた彼方の存在なのか。

池田はこのあたりの消息を、「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだ」と書く。若松はこれを、さらに存在の深みに向けて掘り下げていく。するとそこには、池田という書き手を「場所」としてそこでさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風が立ち現われ、そこにおいてちょうどつぼみが開花するように、言葉が、魂の交わりのコトバへと変じていくというのである。

若松は、自身が敬愛する哲学者、井筒俊彦を読むようにして、池田を読んでいるのであろう。たしかに池田は、存在がコトバとしてみずからを顕現する瞬間のことを繰り返し語っている。そして若松のまなざしもまた、この一点に注がれているのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


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