山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』

トマス・アクィナス 肯定の哲学

トマス・アクィナス 肯定の哲学

2014年12月共同通信配信

 トマス・アクィナスは、ヨーロッパ中世神学を大成させた哲学者だ。主著『神学大全』は、その圧倒的な分量と緻密な論理構成において、容易に人を近づけない荘厳さを帯びている。西洋哲学史にそびえ立つ最高峰のひとつなのだ。
 本書は、トマスが人間の「感情」をどのように捉えていたかに着目し、その思索の一端を私たちの目の前に展開したものである。これまで近づきがたかったトマスの哲学を、至近距離から検討することが可能になった。
 トマス哲学の基礎には、世界をその根底から肯定する「根源的肯定性」の思想がある。たとえば、「愛」と「憎しみ」は同じくらいの力をもって対立する感情であると考えるのが普通であろう。しかしながらトマスはそう考えない。なぜなら、「愛」は「憎しみ」なしにも存在しうるが、「憎しみ」は常に何らかの「愛」を前提にするからだ。すなわち、まず初発に「愛」があって、しかるのちに「憎しみ」が登場するというのである。
 このような小さな気づきが、世界を見る私たちのビジョンを大きく変えていくのだ。そしてそれは、絶望に陥った私たちが自分の生を肯定的な方向へと向き直していくための、かけがえのない力となる。これこそが、トマスが現代人に発する希望のメッセージなのである。
 聖書には「神は愛である」と書かれている。これは人間が受動的に感じる愛のことではなく、神が世界のすべてをその隅々に至るまで肯定し尽くそうとする能動的な意志の運動のことである。
 トマスは、「善は自らを拡散させる」と言う。世界の根底にある「これでよし」という肯定や希望は、それみずからの力によって、次々と人々へと伝達されていく。その明るい自己肯定の旋律を感受し、静かに受け止めることが宗教経験の本質である―。そうトマスが言っているように私には思えた。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

村瀬幸浩『男子の性教育: 柔らかな関係づくりのために』

男子の性教育: 柔らかな関係づくりのために

男子の性教育: 柔らかな関係づくりのために

2014年6月共同通信配信

この本を読むと、性教育に対するイメージが大きく変わるはずだ。著者の村瀬は、高校生や大学生に向けて、男子の性を見つめ直すことの重要性について語りかける。まず話題として取り上げるのは「射精」である。

男性雑誌やポルノ映像では、射精は気持ちのいい体験として描かれているが、ほんとうにそうなのか。男性たちは、射精の後でみじめな気持ちになったり、射精をする自分自身を情けなく思ったりはしていないか。

実際に、中高生の男子に調査してみると、3〜5人に1人が、射精は気持ちいいものだとは思っていない。村瀬はこれらのデータを説明した後に、男子学生たちに自由に意見を書いてもらった。

すると、はじめて射精を経験したときにそれを肯定できなかった、射精してから後悔にかられることがたびたびある、男の体は汚いし性欲はなくなったほうがいい、男性性器は汚く醜いといった声が届いたのである。

男子学生たちの切実な声を踏まえたうえで、村瀬は、「射精する身体」をもって生まれてきたことを若い男性たちが素直に肯定できるような性教育がぜひとも必要であると強調する。

ともすると、それは失われた「男性性」を復活させようという意見のように聞こえるかもしれない。しかしながら、村瀬が提唱するのはまったく逆のことだ。

単に「抜く」だけの自慰を繰り返すのではなく、みずからの身体を慈しむセルフプレジャーへと射精を変容させることを通して、パートナーと新しい「柔らかな関係」をつり出していってほしいと村瀬は願っているのである。

村瀬による男子の性教育は、授業を受けた女子学生にも大いなる感銘を与えている。男子であっても性被害を受けて心身に大きな傷を残すことがあるという事実についても、ていねいに解説されている。男女の生理についての情報も豊富だ。男子の性をどこまでも優しく見つめようとする村瀬に拍手を送りたい。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ フェミニスト倫理の視点から』

2014年6月27日週刊読書人掲載

この本を読んではじめて、日本の人工妊娠中絶が世界のスタンダードからとんでもなく遅れており、日本の女性たちは時代遅れの環境で危険な中絶手術を行なっているという事実を知った。日本は医療技術の先進国だとばかり思っていたが、その常識が崩れ去ってしまった。この書評を読んでいるみなさんも、本書に目を通せば、日本の現状に唖然とするであろう。

中絶というと、女性のお腹の中の胎児を殺して、そのバラバラになった身体を掻き出すといったイメージを持っている人が多いのではなかろうか。私もそうであった。実際に日本の産婦人科で行なわれている多くの中絶が、そのような方法(拡張掻爬術:略称D&C)でなされている。手術は全身麻酔で行なわれる。しかしながら、世界のスタンダードを見てみると、この方法が主流である国は、先進国では日本以外どこにもないのである。そればかりか、いまやWHOは拡張掻爬術を使うべきではないと勧告しているのだ。
WHOが指定する方法は、真空吸引(略称VA)というものである。これは、局所麻酔をしたあと、電動あるいは手動で子宮内容物を吸引除去するやり方で、数分以内にすべてが終わる。女性はそのあいだ意識があるので安心することができ、痛み、出血、子宮穿孔リスクが少ない。これは胎児がまだごく小さい初期中絶に適用される方法で、米国では一九七〇年代に拡張掻爬術から真空吸引への転換が行なわれた。

米国で真空吸引を体験した女性の文章によれば、まず細いチューブが子宮の入り口に入れられ、機械のスイッチが押されてから、わずか数分間で子宮内容物が吸引される。排出されたものは「赤い少しドロッとしたもの」であり、肉眼では特別な物は何も確認できないと体験者は言う。いまやこれが先進国の標準である。

実は、もうひとつの新しい中絶の方法がある。それはミフェプリストンという中絶薬を使うやり方である。リスクがあるとの疑義もあったが、現在ではそれは否定され、WHOのお墨付きもあって、海外では通常に使われている。これはさらに画期的なものである。というのも、薬さえあればいいわけだから、妊娠した女性が自宅で中絶をすることができるのである。中絶は流産に近い方法で行なわれ、自分で処理するのでプライバシーの侵害の心配が少ない。重い月経のようだと表現される。著者も強調するように、これはまさに女性の自己決定権に即した中絶だと言えるだろう。

ところが、日本はこうした世界の潮流から完全に取り残されていると著者は言う。二〇一〇年に著者らが行なった調査によれば、実に九割もの医師が現在なお拡張掻爬術を行なっているのである。拡張掻爬術を行なうには、ある程度胎児が大きく育っていなければならないから、日本では、妊娠初期の中絶希望女性に対して、胎児が大きくなるまで待つようにとの指導がされることもあるようだ。海外では真空吸引ですぐに終わるにもかかわらずである。
ではなぜ日本でこのようなガラパゴス化が起きたのかであるが、それについては著者の綿密な歴史研究をぜひお読みいただきたい。一点、指摘しておけば、日本で中絶薬による自宅中絶を政府が規制しているのは、日本の刑法に堕胎罪があるからである。妊娠女性が自分の手で中絶をするのは犯罪なのである。日本の法体系では、堕胎は国家によって管理されるべきものであり、けっして女性自身がそれを行使してはならないのである。結局のところ、この問題は、国家による人間の再生産の管理という急所に行き着くのである。
本書の後半では、女性たちがみずからの身体をコントロールし、社会の中で自身の生き方を切り開いていくためのリプロダクティヴ・ジャスティスと、女性の経験からボトムアップのやり方で構築されるフェミニスト倫理の展望が述べられる。この部分は希望に満ちており、男性である私にとっても勇気づけられる内容であった。本書は、中絶を切り口とした、すぐれたジェンダー学の成果だと言えるだろう。


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戸田山和久『哲学入門』

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

2014年4月20日日経新聞掲載

私とは何か、自由とは何か、生きる意味とは何かというような問いを、徹底的に突き詰めて考えていくのが哲学だ。本書は、ここ数十年の英語圏分析哲学や科学哲学の知見を縦横に駆使しながら、これまでの教養主義の哲学入門にはなかった、新しい世界像を垣間見させてくれる。

著者の戸田山は、次のような前提で哲学をしていこうとする。まずは、唯物論である。この世のすべては物理的なものだけでできている。そして、たいがいのものは物理的なもの同士の相互作用で説明することができる。もうひとつは、自然科学を信頼することだ。哲学も、科学の知見によって鍛えられながら発展していかなければならない。

しかし、そのような立場を取ってしまうと、最初に言ったような、私だとか、自由だとか、生きる意味というような、見ることも触ることも測定することもできないような抽象物はどこにも実在しないという結論になってしまうのではないだろうか。

だが戸田山は、そうは考えない。それらの抽象物は、私たちが生き物としてこの地球上で進化していくプロセスのなかで、どこからともなく湧き出てきたというのだ。そしてそれらの抽象物は、物質とはまったく異なった形式で、私たちの住むこの世界にはめ込まれ、私たちにとってなくてはならない不可欠のピースになったのである、と。

人間と動物のあいだに決定的な断絶があるわけではない。人間が登場する以前の動物だって、自由のようなものを持っていたし、原始的な記号操作もできた。生物進化のプロセスの途上で、人間がそれらをさらに発展させて、自己制御能力や、未来についての目標設定能力を開発していったのである。その結果として、人間は、目的、自由意志、道徳といった高度な抽象物を使いこなせるようになった。その道筋を哲学的に論究した箇所が本書の白眉である。

だが、自由意志や責任などの抽象物は、いつか使い勝手が悪くなるかもしれない。脳科学の進展によって、人間の自由意志と思われていたものが、実は、脳内物質のはたらきによって生み出された虚像であることが分かるかもしれないからだ。

しかし、たとえ自由意志や責任という概念が人間から奪われたとしても、それによってディストピアが到来するわけではない。むしろそこは他人から理不尽な責任を押しつけられることのない魅力的な社会かもしれないと著者は言うのである。哲学者からのこの挑戦状をどう受け止めればいいのだろうか。

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若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

2013年11月24日日経新聞掲載

本書で取り上げられる池田晶子は、『14歳からの哲学』などのベストセラーで知られる哲学エッセイストである。池田の文章は、自分の直観的な結論を読者の前にポンと投げ出すというスタイルであり、非常に独特である。

池田自身が敬愛しているプラトンデカルトヘーゲルは、なぜそのような結論が導かれるのかについて渾身のロジカルな議論を重ねるのであり、評者はそこにこそ哲学の醍醐味があると考えているので、池田のスタイルには不全感を禁じ得ない。

しかしながら、本書の著者である若松は、池田のそのようなスタイルによってこそ光を当てることのできる思索があるのだという。そして池田のテキストをたんねんに読み解いて、そこから繊細な果実を抽出してくるのである。

若松が池田に読み取るのは、「言葉はいったいどこから来るのか」という問いである。ある言葉が、書き手を通路として貫いて彼方から降臨してくることがある。そのとき、その言葉を発したのは書き手なのか、それとも彼方の存在なのか。

読み手のほうにおいても、同じことが言える。私がある文章に、いかづちのように撃たれるとき、私が出会っているのはその書き手なのか、それとも書き手という通路を伝ってこちらまでやってきた彼方の存在なのか。

池田はこのあたりの消息を、「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだ」と書く。若松はこれを、さらに存在の深みに向けて掘り下げていく。するとそこには、池田という書き手を「場所」としてそこでさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風が立ち現われ、そこにおいてちょうどつぼみが開花するように、言葉が、魂の交わりのコトバへと変じていくというのである。

若松は、自身が敬愛する哲学者、井筒俊彦を読むようにして、池田を読んでいるのであろう。たしかに池田は、存在がコトバとしてみずからを顕現する瞬間のことを繰り返し語っている。そして若松のまなざしもまた、この一点に注がれているのである。


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中村桂子『科学者が人間であること』

2013年9月22日日経新聞掲載

 中村桂子による渾身のエッセイであり、科学を志す次世代の若者たちへの熱いメッセージである。地球の中で生き物の一員として生きていることを真に大切にするような人間たちによって、これからの科学は担われなければならないと中村は語る。

 中村にそれを再認識させたのは、2011年の東日本大震災であった。日本の原子力技術は優秀なので大事故は起きないだろうと思っていた科学者はたくさんいたが、「実は私もその一人でした」と中村は告白する。その反省から、中村は再度みずからの原点に立ち返り、「人間は生き物であり、自然の中にある」という地点から、将来の科学のありかたを根底から再考しようとするのである。

 しかしそのときに、西洋の方法論はもうダメだから、これからは東洋の方法論で行こうというような発想を、中村は拒否する。真に必要なのは、西洋由来の科学を生命論的世界観によって生まれ変わらせることである。

 哲学者大森荘蔵によれば、物理学に代表される近代科学は、世界をいのちのない死物のかたまりとみなし、それを数字で描写し尽くそうとする。

 中村はこの死物的なアプローチを全否定するわけではない。むしろ、そのような世界観の上にぴったりと重なるようにして、「川は生きている、雲も生きている、風も生きている」という生命論的世界観を描き込んでいくことが必要だと中村は言う(大森荘蔵はこれを「重ね描き」と呼んだ)。

 そうすることによって、科学的な「機械論的世界観」と日常的な「生命論的世界観」の両方にいのちを吹き込むことができ、その両支柱の基盤の上に次世代の科学を作り上げることができるというのである。そして日本の理科教育には、そのようなことを可能にするポテンシャルがあるという。

 中村が目指しているのは、「生きているってどういうこと?」「人間ってなんだろう?」という原初の問いへとありのままに迫っていくことのできる科学だ。まだ生まれ来ぬ将来の人間たちにまでこの問いを届けたいという著者の祈りが、この本には籠められている。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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まんがで哲学を描いてみた!

*『本』2013年8月号(講談社)8−10頁 →『現代ビジネス』9月5日転載

「まんがで哲学を描いてみた!」
森岡正博

講談社現代新書から『まんが 哲学入門』という本を出すことになった。大げさに言えば、これは「哲学界」と「まんが界」に波紋を呼び起こすかもしれない出版物なのである。

まず哲学界についてであるが、いままで、たとえば『まんが ニーチェ入門』というふうに、過去の偉大な哲学者の思想をまんがで解説する本はたくさんあった。哲学史の流れをまんがでおさらいする本もあった。しかしながら、哲学者である著者本人が、自分自身の思索をまんがで描いた本というのは存在しなかったのだ。

「え?」と思われるかもしれない。そう、この本の約二三〇ページにわたるコマ割まんがの原画を描いたのは、私なのである。A4の用紙に鉛筆書きでまんがの原画を描いて、それをプロの漫画家である寺田にゃんこふさんに版下に仕上げてもらったのだ。寺田さんは、私の原画に忠実に、すばらしい線で完成させてくださった。

哲学の二千数百年の歴史の中で、哲学者自身によって全編まんがの本が描かれたことはなかった。これを快挙と言わずして何と言おう!とひとりで盛り上がっているのである。できあがった版下を何人かの方に見ていただいたが、登場するキャラたちが「なかなかカワイイ」そうである。「かわいい哲学オリジナルまんが」がここに登場したのだ。

次にまんが界についてである。実は、インターネットで「まんが横書き論争」なるものが勃発している。日本のコミック本は右綴じで、吹き出しの文章は縦書きである。実際に調べてみると分かるが、プロの漫画家によるほとんどすべてのまんが本は「右綴じ縦書き」になっている。なぜなのかは分からないが、手塚治虫先生がそのようにしたから、そうなっているのではないだろうか。

しかし、海外に輸出するときのことを考えれば、まんが本は「左綴じ横書き」のほうがぜったいに良いのである。たとえば英語や簡体中国語やスペイン語などは横書きだから、横書きのほうが翻訳した文字を入れやすいのだ。これまでの日本のメジャーなまんがは、縦書きを固守してきた。その伝統を大手の出版物ではじめて破ったのが、『まんが 哲学入門』なのである(コマ割まんがにこだわらなければ、山井教雄『まんが パレスチナ問題』『まんが 現代史』という横書きの二冊がすでに講談社現代新書から出ている)。

もちろん、講談社現代新書は「まんが界」の外側にいるから、この本の試みがただちに日本のまんが界に波紋を呼び起こすとは考えにくい。でもここに何かの可能性を感じてくれる漫画家さんたちがいればうれしいなと思う。

さて、『まんが 哲学入門』の内容に戻ろう。

この本では、私が何十年もずっと考え続けてきている四つのテーマ、すなわち「時間とは何か」「存在とは何か」「私とは何か」「生命とは何か」について、できるかぎり奥深くまで突っ込んで考えてみた。これらは、多くの読者が気になっているテーマでもあるはずだ。誰だって一度は、「時間が流れるっていったいどういうことだろう?」と考え込んだことがあるだろう。

時間はどんどん流れていって、それを止めることは誰にもできない。時間はほんとうに流れているのか、それとも時間は流れていると私たちが「感じている」だけなのか。そもそも「流れる」とは、いったいどういうことなのか。

というような哲学の根本問題を、「まんまるくん」と「先生」の掛け合いの形でゆっくりと解きほぐしていくスタイルのまんが本なのである。「まんまるくん」は球形の身体に手足がそのまま付いているというかわいい形態のキャラであり、ときおり頭のてっぺんに旗が立ったり、顔が自由自在に変形したりする。「先生」は眼鏡をかけていて優しげであるが、どこにも口らしきものがなく、首が不気味にぐんぐん伸びたりする。そのほかにも、「いまいまくん」という外見が癒し系のキャラが走り回り、ストーリーに彩りを添える。

存在とは何かというテーマについては、「なぜ世界にはそもそも何かが存在するのか。なぜ世界には何も存在しないというふうになっていないのか」という「形而上学の根本問題」(ハイデッガー命名)に正面から取り組んだ。実際、描き始める前は、「ほんとにまんがでこのハードな問題をやるの?」と絶望したものだが、やってみるとなんとかなるものだ。そして、話は、現代哲学のホットな話題である可能世界意味論へとつながっていくのである。

まんがを使うことで、きわめて効果的に表現できる哲学的なテーマがあることもわかった。たとえばこの本の第3章で「私」というテーマについて議論しているのだが、この問題はそもそも文章で表現するのがたいへん難しいのである。私が自分自身のことを「私」と呼ぶときに、そこには、宇宙でただ一人だけ特殊な形で存在しているこの私、というような意味が含まれている。しかしそれを「この私」という言葉で表現しようとしても、それはあらゆる人の存在様式に普遍的に当てはまるような「この私」一般に読み替えられてしまって、当初意味しようとしていたものが指のあいだからすり抜けていくのである。

このあたりの機微を指摘するために、哲学者の永井均は〈私〉という表記法を編み出してなんとかそれを表現しようとしてきた(『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書)。私は「独在的存在者」という言い方でそれを表現しようとしてきた。しかしいずれのやり方を使っても、言葉でそれを説明するのは非常に難しいし、その真意が読者になかなか伝わりにくいのである。

ところが、まんがを使うと、その核心部分を一発で伝えることができる。図を見ていただきたい。この「あなたなのです!!」という吹き出しの中の文章と、そこに描かれている絵によって、〈私〉や「独在的存在者」というものの真意が、読者に直接的に伝わるようになっている。この絵だけではすぐに意味するところのものが分からない方は、ぜひこの本の該当ページの前後をじっくり読んでみていただきたい。何かしら、心に響くものがあるはずだ。

実際に、まんがで哲学を描いてみて、まんがという形式の持つ無限の可能性をもっと積極的に開拓すべきだと思うようになった。そう、まんがと哲学は、非常に相性がよいのである。これまでの「まんがで哲学者の思想を解説する」みたいな本とはまったく異なった未知の可能性がそこにはある。まんがの絵を描いていくことそれ自体が、哲学的な思索そのものになっていくような表現方法があり得るのである。今回、私自身がまんがの原画を描いてみて発見した最大の果実がここにある。

この本は、著者自身の哲学的な思索を、まんがという形式で、直接読者へと届ける本である。その試みがどこまで成功しているかについては、ぜひ手に取って確かめていただきたい。しかし、全編コマ割まんがで新書を出すという企画にゴーサインを出してくださった現代新書編集部には、ほんとうに敬意を表したい。

私が最初に持ち込んだまんがの原画は、いまから考えれば非常に稚拙なものだった。そこに何かの可能性を見出してもらえなければ、この本は存在しなかっただろう。信頼されて原画を描き続けるうちに、私の技量はどんどん上がっていった。第1章から第4章まで三年間かかっているが、読者はこのあいだの時の流れに、私の作画の進歩を見ることができるはずだ。

もし本書が評判になれば、きっと『まんが 論理学入門』『まんが 宗教学入門』などの新書が引き続いて出現することになるだろう。そういう可能性が開けていったら、すごく楽しいと思う。