感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-09-07

[]まんがで哲学を描いてみた!

*『本』2013年8月号(講談社)8−10頁 →『現代ビジネス』9月5日転載

「まんがで哲学を描いてみた!」

森岡正博

講談社現代新書から『まんが 哲学入門』という本を出すことになった。大げさに言えば、これは「哲学界」と「まんが界」に波紋を呼び起こすかもしれない出版物なのである。

まず哲学界についてであるが、いままで、たとえば『まんが ニーチェ入門』というふうに、過去の偉大な哲学者の思想をまんがで解説する本はたくさんあった。哲学史の流れをまんがでおさらいする本もあった。しかしながら、哲学者である著者本人が、自分自身の思索をまんがで描いた本というのは存在しなかったのだ。

「え?」と思われるかもしれない。そう、この本の約二三〇ページにわたるコマ割まんがの原画を描いたのは、私なのである。A4の用紙に鉛筆書きでまんがの原画を描いて、それをプロの漫画家である寺田にゃんこふさんに版下に仕上げてもらったのだ。寺田さんは、私の原画に忠実に、すばらしい線で完成させてくださった。

哲学の二千数百年の歴史の中で、哲学者自身によって全編まんがの本が描かれたことはなかった。これを快挙と言わずして何と言おう!とひとりで盛り上がっているのである。できあがった版下を何人かの方に見ていただいたが、登場するキャラたちが「なかなかカワイイ」そうである。「かわいい哲学オリジナルまんが」がここに登場したのだ。

次にまんが界についてである。実は、インターネットで「まんが横書き論争」なるものが勃発している。日本のコミック本は右綴じで、吹き出しの文章は縦書きである。実際に調べてみると分かるが、プロの漫画家によるほとんどすべてのまんが本は「右綴じ縦書き」になっている。なぜなのかは分からないが、手塚治虫先生がそのようにしたから、そうなっているのではないだろうか。

しかし、海外に輸出するときのことを考えれば、まんが本は「左綴じ横書き」のほうがぜったいに良いのである。たとえば英語や簡体中国語やスペイン語などは横書きだから、横書きのほうが翻訳した文字を入れやすいのだ。これまでの日本のメジャーなまんがは、縦書きを固守してきた。その伝統を大手の出版物ではじめて破ったのが、『まんが 哲学入門』なのである(コマ割まんがにこだわらなければ、山井教雄『まんが パレスチナ問題』『まんが 現代史』という横書きの二冊がすでに講談社現代新書から出ている)。

もちろん、講談社現代新書は「まんが界」の外側にいるから、この本の試みがただちに日本のまんが界に波紋を呼び起こすとは考えにくい。でもここに何かの可能性を感じてくれる漫画家さんたちがいればうれしいなと思う。

さて、『まんが 哲学入門』の内容に戻ろう。

この本では、私が何十年もずっと考え続けてきている四つのテーマ、すなわち「時間とは何か」「存在とは何か」「私とは何か」「生命とは何か」について、できるかぎり奥深くまで突っ込んで考えてみた。これらは、多くの読者が気になっているテーマでもあるはずだ。誰だって一度は、「時間が流れるっていったいどういうことだろう?」と考え込んだことがあるだろう。

時間はどんどん流れていって、それを止めることは誰にもできない。時間はほんとうに流れているのか、それとも時間は流れていると私たちが「感じている」だけなのか。そもそも「流れる」とは、いったいどういうことなのか。

というような哲学の根本問題を、「まんまるくん」と「先生」の掛け合いの形でゆっくりと解きほぐしていくスタイルのまんが本なのである。「まんまるくん」は球形の身体に手足がそのまま付いているというかわいい形態のキャラであり、ときおり頭のてっぺんに旗が立ったり、顔が自由自在に変形したりする。「先生」は眼鏡をかけていて優しげであるが、どこにも口らしきものがなく、首が不気味にぐんぐん伸びたりする。そのほかにも、「いまいまくん」という外見が癒し系のキャラが走り回り、ストーリーに彩りを添える。

存在とは何かというテーマについては、「なぜ世界にはそもそも何かが存在するのか。なぜ世界には何も存在しないというふうになっていないのか」という「形而上学の根本問題」(ハイデッガーの命名)に正面から取り組んだ。実際、描き始める前は、「ほんとにまんがでこのハードな問題をやるの?」と絶望したものだが、やってみるとなんとかなるものだ。そして、話は、現代哲学のホットな話題である可能世界意味論へとつながっていくのである。

まんがを使うことで、きわめて効果的に表現できる哲学的なテーマがあることもわかった。たとえばこの本の第3章で「私」というテーマについて議論しているのだが、この問題はそもそも文章で表現するのがたいへん難しいのである。私が自分自身のことを「私」と呼ぶときに、そこには、宇宙でただ一人だけ特殊な形で存在しているこの私、というような意味が含まれている。しかしそれを「この私」という言葉で表現しようとしても、それはあらゆる人の存在様式に普遍的に当てはまるような「この私」一般に読み替えられてしまって、当初意味しようとしていたものが指のあいだからすり抜けていくのである。

このあたりの機微を指摘するために、哲学者の永井均は〈私〉という表記法を編み出してなんとかそれを表現しようとしてきた(『〈子ども〉のための哲学』講談社現代新書)。私は「独在的存在者」という言い方でそれを表現しようとしてきた。しかしいずれのやり方を使っても、言葉でそれを説明するのは非常に難しいし、その真意が読者になかなか伝わりにくいのである。

ところが、まんがを使うと、その核心部分を一発で伝えることができる。図を見ていただきたい。この「あなたなのです!!」という吹き出しの中の文章と、そこに描かれている絵によって、〈私〉や「独在的存在者」というものの真意が、読者に直接的に伝わるようになっている。この絵だけではすぐに意味するところのものが分からない方は、ぜひこの本の該当ページの前後をじっくり読んでみていただきたい。何かしら、心に響くものがあるはずだ。

f:id:kanjinai:20130904173901j:image:left

実際に、まんがで哲学を描いてみて、まんがという形式の持つ無限の可能性をもっと積極的に開拓すべきだと思うようになった。そう、まんがと哲学は、非常に相性がよいのである。これまでの「まんがで哲学者の思想を解説する」みたいな本とはまったく異なった未知の可能性がそこにはある。まんがの絵を描いていくことそれ自体が、哲学的な思索そのものになっていくような表現方法があり得るのである。今回、私自身がまんがの原画を描いてみて発見した最大の果実がここにある。

この本は、著者自身の哲学的な思索を、まんがという形式で、直接読者へと届ける本である。その試みがどこまで成功しているかについては、ぜひ手に取って確かめていただきたい。しかし、全編コマ割まんがで新書を出すという企画にゴーサインを出してくださった現代新書編集部には、ほんとうに敬意を表したい。

私が最初に持ち込んだまんがの原画は、いまから考えれば非常に稚拙なものだった。そこに何かの可能性を見出してもらえなければ、この本は存在しなかっただろう。信頼されて原画を描き続けるうちに、私の技量はどんどん上がっていった。第1章から第4章まで三年間かかっているが、読者はこのあいだの時の流れに、私の作画の進歩を見ることができるはずだ。

もし本書が評判になれば、きっと『まんが 論理学入門』『まんが 宗教学入門』などの新書が引き続いて出現することになるだろう。そういう可能性が開けていったら、すごく楽しいと思う。

2013-02-20

[]宮沢賢治・幸福目指す「決意表明」

『読売新聞』(大阪版 2013年2月7日 夕刊)でのインタビュー

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>。賢治は『農民芸術概論綱要』でそう記した。「これを真正面から受け取ると、私たちは幸せになってはいけないことになる」と森岡さんは話す。現代、地球の裏側の紛争や飢餓の情報がすぐ届く。大災害も絶えない。不慮の事故や病気、いじめもある。全人類が幸せになる日は来ないからだ。

 だから、賢治の言葉はみんなの幸福を目指す「決意表明」だと森岡さんはとらえる。「幸せでない人々から目をそらさずにかかわっていく。その条件で、人は幸せを感じてよいのだと僕は考えます」

 賢治は、この「決意」を実現に近づける道筋を書き残していないだろうか。森岡さんは、のちに著わされた『銀河鉄道の夜』に着目する。

 四つの原稿が残るこの未完作の第三次稿で、印象深い場面がある。星座巡り鉄道で、<ほんたうのさいはひは一体何だらう>と問う主人公ジョバンニ。やがて横にいたはずの親友カムパネルラが忽然と消え、不安と悲しみで泣き叫ぶ。すると、ある博士が現われて語る。<みんながカムパネルラだ><幸福をさがしにみんなと一しょに・・・行くがいい>

 「お前の出会う人はみんなカムパネルラなのだという。不思議な言葉です。ここでいうカムパネルラとは、”いま一番身近で大切な相手”のことではないか」と森岡さん。

 誰にとっても、人生のときどきで近しく大切な人がいる。まず目の前のその人を幸せにすればいい。もしみんながこの気持ちでいれば、幸せは世界に広がる。

 「普通の人が実践できる思想に賢治は達した。『農民芸術概論綱要』で提起した幸福の問題を解決していると思います」

いろいろ長くしゃべったのだが、ポイントを的確にまとめてくれた。細部ではいろいろ異論もでるだろうが、全体として、この路線のことが浮かび上がってくる。

2013-01-31

[]体罰と倫理学 加藤尚武『子育ての倫理学』

「体罰と倫理学について倫理学者は論考を書くべきだ」とあるところで言ったら、この本を教えてもらった。加藤尚武はヘーゲル研究から応用倫理学に進んで倫理学界を引っ張った人で、この業界では大物である。私の先生筋にも当たる。

いずれにせよ正しい体罰の方法をガイドラインとしてまとめておく必要がある。(164頁)

というわけで、体罰は、正しい体罰である限り正当化されるという立場である。(ここでめまい感を感じる人もいることだろう)。

(1)年齢・・・体罰の必要で有効な年齢は、だいたい10歳から15歳である。15歳を過ぎたら・・・前提となる事実を指摘して命令する説得が主役となる。・・・だいたい10歳以前では、子どもが悪いことをしたときには、きびしく叱るだけで十分であり、体罰の必要はない。(164−165頁)

体罰の対象となる行為は、反復された意図的な悪行であり、自分で「悪い」と思っていながら、「どうせ処罰はされないだろう」と思ってする行為や、挑発的にわざと悪いことをするという態度の場合である。一回だけの悪行、過失、怠慢、不注意は体罰の対象にならない。(165頁)

・・・最初の行為に体罰を下すのは正しくない。一度厳しく禁止することを申し付けておいた行為について体罰が適用される。(166頁)

体罰は父親が行ない、母親はやや中立的な態度をとる。平手で頬を殴る。反抗的な態度を示す場合には、再度、殴る。突き倒すとか、跳ね腰で倒すとかの行為もありうるが、倒れたら起こす。絶対に蹴らない。危険であるだけでなく、足で苦痛を与えることは子どもの人格を傷つけるからである。(167頁)

体罰は倫理的に正しい行為であるが、それが濫用されると、自分の思い通りにならないときに人を殴るという最悪の形態になる。したがって、正義の怒りを抱くことのできる心情の純粋性とその怒りを客観的に正しく制御する自制心とが伴わないと、体罰は行なうことができない。(168頁)

加藤は、家庭での正しい体罰を推奨しているが、学校での体罰は基本禁じていることを付記しておきたい。

しかし、体罰は父親が行なうべきとか、足で蹴ると人格否定になる(平手で殴ると人格否定にならないらしい)とか、つっこみどころ満載の奇書としてひょっとしたら後世に残るであろう。実際問題として、内容は、おっさんが持論を学術語を使いながらとうとうと開陳していくというものであり、哲学倫理学とはとうてい呼べないと私は思います。

2012-02-27

[]「正しく怒る」朝日新聞・生きるレッスン

本日夕刊の、『朝日新聞』全国版・夕刊(関西を除く)の「生きるレッスン」欄に、私の「正しく怒る」というエッセイが掲載されました。この欄の連載エッセイはネットには載せていませんが、今回はひさびさに転載してみます。

「正しく怒る」 森岡正博

昨年、原発事故が起きました。そのときの政府や東京電力の対応を見て、怒りがこみ上げてきた方も多かったはずです。人々のかけがえのない生活や故郷をいったいなんだと思っているのか、と。

同じ頃、遠いアラブの国々でも、独裁政権の圧政に対する若者たちの怒りが爆発していました。彼らは怒りのエネルギーを武器にして、果敢に戦いを挑み、多くの犠牲と引き換えに自由をつかみ取ろうとしています。

このように、不正なことに対して、腹の底からふつふつと怒りが湧き上がってくるのは、人間にとってとても大切なことです。そして、それが大きな共感となって社会全体に広がるとき、社会変革のうねりが訪れるのです。

しかし同時に私たちは、「正しい怒り」の罠についても、きちんと知っておかなくてはなりません。「正しい怒り」で胸がいっぱいになると、「怒っている私こそが正しいのだ」というふうに、私を正義の側に置いてしまいがちになります。すると、私の正義を邪魔するものは「悪」である、という思考回路ができあがります。

それがさらにもう一歩進むと、「悪」である彼らに正義の裁きを加えて社会を良くしていくためならば、こっちだって少々の「小さな悪」を行なってもかまわないはずだ、となってしまうことすらあるのです。

歴史を振り返ってみれば、このような行き過ぎが何度も繰り返されてきました。そして「正しい怒り」で胸がいっぱいだと、なかなかそのような罠に気づけません。

すなわち、ほんとうの意味で「正しく怒る」とは、「不正は許せない!」という怒りによって動機づけられた自分の行為のひとつひとつが客観的に見ても「正しい」と言えるのかどうかを、たえず冷静に自己点検しながら、その怒りのエネルギーを上手に正義へと結びつけていくことではないかと私は思うのです。それができてはじめて、私たちはより良い社会を作っていけるのです。

字数制限もあって、十分には言えてませんが、大意は明瞭かと思います。

> 朝日デジタルの記事

2011-12-28

[]来年に新刊が出ます

ながらくごぶさたしておりましたが、来年の2月と3月頃に、私の新刊が出ます。ひとつはエッセイ集で、『33個めの石』と対をなすような本になりますが、「33個め」よりもよい内容に仕上がりました。ご期待ください。もうひとつは宗教学者との対談で、現代における「救い」について語ったものです。対談は震災の前後をはさんで行なわれ、はからずも時代に即応したテーマとなってしまいました。というわけで、来年になったら詳細情報をこのブログでお知らせします。

2011-12-24

[]明るくマスターベーションする日本人青年

オランダ(たぶん?)のテレビのレポートに登場した日本人青年。青年は明るくマスターベーション、彼女はそばでミシン縫い。時間を計ったりしている。仕込みでなければ、これはすごく興味深い映像でしょう。

【視聴注意】

D

追記:

出演男性は佐藤雅信さんという方みたいですね。映像中に出ている自慰ツールの開発者のようだから、営業の一環なのでしょうけど、彼女との共同生活の様子は仕込みではないような感じだから、なかなかすごいものです。

2011-11-16

[]「草食系男子」の現象学的考察

「「草食系男子」の現象学的考察」というエッセイ・論文を書きました。そもそもはソウル大学の『日本批評』から依頼があり、日本語で書いて寄稿し、それが韓国語(ハングル)に翻訳されて刊行されました。その日本語元原稿にさらに手を入れて日本語で改めて発表しました。

草食系男子の話題はもう過去のものとなったような気もしますが、ある意味、市民権を得たとも言えるわけで、そろそろこのような振り返り記事・研究が必要とされるころでしょう。先日も、ニューヨークで現地の方と話していたら、日本の草食系男子に興味をもっているらしいし、先日はドイツの雑誌から寄稿依頼を受けました。

ここに述べたのは、あくまで当事者の一員だった私の目から見た「草食系男子」現象に過ぎませんが、きっと何かの資料として役立つことでしょう。

「草食系男子」の現象学的考察

森岡正博

1 「草食系男子」という言葉の誕生

「草食系男子(草食男子)」という言葉は、2008年から2009年にかけて流行語となった。新聞、テレビ、雑誌、インターネットなどでさかんに取り上げられ、人々の日常会話にもたびたび登場した。流行語になるにつれ、当初の意味合いは多様化していき、人々は様々に異なった意味を付与しはじめた。2009年12月に、「新語流行語大賞」(ユーキャン主催)のトップ10のひとつとして「草食男子」が選ばれた。2010年になるとこの言葉は普通名詞化し、2011年現在、人々はこの言葉にさほど興味を示していない。流行語の生命は短いから、そのうちに廃れていく可能性も高い。しかし、この言葉の登場によって、若い男性を見る人々の目が一変したことは事実である。日本の男性史におけるエポックメイキングな出来事であったと言えるだろう。

「草食系男子」という言葉が流行語になったのは、その言葉に対応する現実の「男性」たちが日本社会に存在していたからである。人々は、「女性化」し「男らしさ」を失ったように見える若い男性たちが増えていることを以前から感じ取っていた。その兆候は、20世紀の終わり頃に、髪を茶色にカラリングし、指にファッションリングをはめ、耳にピアスをするおしゃれな若い男性たちが登場した頃から存在した。当時、私は大阪府立大学に移ってきたばかりであったが、新入生を講義室の壇上から見下ろしたときに、男性も女性もそのほとんどが茶髪だったときの驚きを覚えている。よく観察してみると、ピアスをしている男子学生もいた。しかしいまからすれば懐かしい話である。現在のキャンパスには、髪を金色に染めてロングスカートを履いてくる男子学生がいる。先日、授業のあとで質問に来た男子学生のひとりは、サラサラの黒い前髪を女子高生のように赤い大きなヘアピンで止めていた。このように、まるで女性のようにファッションに敏感であり、筋肉があまり目立たず、どことなく暴力性の薄いタイプの若い男性たちが多くなったという感触を、人々は21世紀に入って抱きはじめていたのである。

このような時代の雰囲気を敏感に察知したマンガ作品に、菅野文の『オトメン(乙男)』がある。これは、外見は運動万能で男らしいのであるが、その内面はかわいいものが好きで少女的な感性を持つ男性を主人公としたもので、2006年から雑誌連載(『別冊 花とゆめ』)が開始された。「オトメン」とは、「オトメ(乙女)」と「メン(男)」の合成語である。男性に現われたジェンダーの揺らぎをテーマにしたマンガであり、評判を呼んだ。そしてこの2006年に、「草食男子」という言葉も登場したのである。ライターの深澤真紀は『U35男子マーケティング図鑑』というウェブマガジンに、「草食男子」というタイトルのエッセイを発表した。深澤はそのエッセイで、「恋愛やセックスに「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした「草食男子」」が若い世代に増えてきていると指摘した[1]。彼らは若い女性と夜に同じ部屋に泊まったとしても、とくに何もせずに一緒に雑魚寝をして帰ってくると深澤は述べる。年上の世代からすれば、このような男性たちの存在は理解を超えている。男ならばチャンスがあれば女を襲うはずだ、という年長者の「常識」からすれば、まったく「男性」のカテゴリに入るはずのない若者が増えてきたというのである。深澤はまた「「草食男子」はそこそこもてるので、恋愛経験もセックス経験もあります」とも述べている。それにもかかわらず、恋愛やセックスに積極的でないのが草食系男子の特徴なのだというのである。この点については、あとでコメントすることにしたい。いずれにせよ、「草食男子」という言葉の誕生は2006年である。「草食」というのは「草食動物」から取られたものであり、肉食動物のように(女性を)襲うことがない、女性にとって安全な男性というニュアンスがあったと考えられる。

深澤の提唱した「草食男子」という新語は、しかしながら2006年の時点ではまったく人々の意識を捉えなかった。この言葉に対する社会的反響はほとんどなかったのである。草食男子に一躍注目が集まったのは、2008年のことだ。その年の女性誌『non-no』5月号が、「出会い「4月革命」に勝利せよ! 男子の「草食化」でモテ基準が変わった!」という大特集を組んだ。この有名雑誌の特集によって、「草食男子」という言葉は世間に知れ渡るようになった。日本の草食男子・草食系男子について研究しようと思うものは、まずはこの雑誌の特集を詳しく調査しなくてはならない。その後の草食系男子についての言説の基本形の多くが、ここに述べられているからである。・・・・(続く)

本体を読む

→ http://www.lifestudies.org/jp/soshokukei01.htm