感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2014-12-17

[]山本芳久『トマス・アクィナス 肯定の哲学』

2014年12月共同通信配信

 トマス・アクィナスは、ヨーロッパ中世神学を大成させた哲学者だ。主著『神学大全』は、その圧倒的な分量と緻密な論理構成において、容易に人を近づけない荘厳さを帯びている。西洋哲学史にそびえ立つ最高峰のひとつなのだ。

 本書は、トマスが人間の「感情」をどのように捉えていたかに着目し、その思索の一端を私たちの目の前に展開したものである。これまで近づきがたかったトマスの哲学を、至近距離から検討することが可能になった。

 トマス哲学の基礎には、世界をその根底から肯定する「根源的肯定性」の思想がある。たとえば、「愛」と「憎しみ」は同じくらいの力をもって対立する感情であると考えるのが普通であろう。しかしながらトマスはそう考えない。なぜなら、「愛」は「憎しみ」なしにも存在しうるが、「憎しみ」は常に何らかの「愛」を前提にするからだ。すなわち、まず初発に「愛」があって、しかるのちに「憎しみ」が登場するというのである。

 このような小さな気づきが、世界を見る私たちのビジョンを大きく変えていくのだ。そしてそれは、絶望に陥った私たちが自分の生を肯定的な方向へと向き直していくための、かけがえのない力となる。これこそが、トマスが現代人に発する希望のメッセージなのである。

 聖書には「神は愛である」と書かれている。これは人間が受動的に感じる愛のことではなく、神が世界のすべてをその隅々に至るまで肯定し尽くそうとする能動的な意志の運動のことである。

 トマスは、「善は自らを拡散させる」と言う。世界の根底にある「これでよし」という肯定や希望は、それみずからの力によって、次々と人々へと伝達されていく。その明るい自己肯定の旋律を感受し、静かに受け止めることが宗教経験の本質である―。そうトマスが言っているように私には思えた。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

2014-07-17

[]塚原久美『中絶技術とリプロダクティヴ・ライツ フェミニスト倫理の視点から』

2014年6月27日週刊読書人掲載

この本を読んではじめて、日本の人工妊娠中絶が世界のスタンダードからとんでもなく遅れており、日本の女性たちは時代遅れの環境で危険な中絶手術を行なっているという事実を知った。日本は医療技術の先進国だとばかり思っていたが、その常識が崩れ去ってしまった。この書評を読んでいるみなさんも、本書に目を通せば、日本の現状に唖然とするであろう。

中絶というと、女性のお腹の中の胎児を殺して、そのバラバラになった身体を掻き出すといったイメージを持っている人が多いのではなかろうか。私もそうであった。実際に日本の産婦人科で行なわれている多くの中絶が、そのような方法(拡張掻爬術:略称D&C)でなされている。手術は全身麻酔で行なわれる。しかしながら、世界のスタンダードを見てみると、この方法が主流である国は、先進国では日本以外どこにもないのである。そればかりか、いまやWHOは拡張掻爬術を使うべきではないと勧告しているのだ。

WHOが指定する方法は、真空吸引(略称VA)というものである。これは、局所麻酔をしたあと、電動あるいは手動で子宮内容物を吸引除去するやり方で、数分以内にすべてが終わる。女性はそのあいだ意識があるので安心することができ、痛み、出血、子宮穿孔リスクが少ない。これは胎児がまだごく小さい初期中絶に適用される方法で、米国では一九七〇年代に拡張掻爬術から真空吸引への転換が行なわれた。

米国で真空吸引を体験した女性の文章によれば、まず細いチューブが子宮の入り口に入れられ、機械のスイッチが押されてから、わずか数分間で子宮内容物が吸引される。排出されたものは「赤い少しドロッとしたもの」であり、肉眼では特別な物は何も確認できないと体験者は言う。いまやこれが先進国の標準である。

実は、もうひとつの新しい中絶の方法がある。それはミフェプリストンという中絶薬を使うやり方である。リスクがあるとの疑義もあったが、現在ではそれは否定され、WHOのお墨付きもあって、海外では通常に使われている。これはさらに画期的なものである。というのも、薬さえあればいいわけだから、妊娠した女性が自宅で中絶をすることができるのである。中絶は流産に近い方法で行なわれ、自分で処理するのでプライバシーの侵害の心配が少ない。重い月経のようだと表現される。著者も強調するように、これはまさに女性の自己決定権に即した中絶だと言えるだろう。

ところが、日本はこうした世界の潮流から完全に取り残されていると著者は言う。二〇一〇年に著者らが行なった調査によれば、実に九割もの医師が現在なお拡張掻爬術を行なっているのである。拡張掻爬術を行なうには、ある程度胎児が大きく育っていなければならないから、日本では、妊娠初期の中絶希望女性に対して、胎児が大きくなるまで待つようにとの指導がされることもあるようだ。海外では真空吸引ですぐに終わるにもかかわらずである。

ではなぜ日本でこのようなガラパゴス化が起きたのかであるが、それについては著者の綿密な歴史研究をぜひお読みいただきたい。一点、指摘しておけば、日本で中絶薬による自宅中絶を政府が規制しているのは、日本の刑法に堕胎罪があるからである。妊娠女性が自分の手で中絶をするのは犯罪なのである。日本の法体系では、堕胎は国家によって管理されるべきものであり、けっして女性自身がそれを行使してはならないのである。結局のところ、この問題は、国家による人間の再生産の管理という急所に行き着くのである。

本書の後半では、女性たちがみずからの身体をコントロールし、社会の中で自身の生き方を切り開いていくためのリプロダクティヴ・ジャスティスと、女性の経験からボトムアップのやり方で構築されるフェミニスト倫理の展望が述べられる。この部分は希望に満ちており、男性である私にとっても勇気づけられる内容であった。本書は、中絶を切り口とした、すぐれたジェンダー学の成果だと言えるだろう。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

[]村瀬幸浩『男子の性教育: 柔らかな関係づくりのために』

2014年6月共同通信配信

この本を読むと、性教育に対するイメージが大きく変わるはずだ。著者の村瀬は、高校生や大学生に向けて、男子の性を見つめ直すことの重要性について語りかける。まず話題として取り上げるのは「射精」である。

男性雑誌やポルノ映像では、射精は気持ちのいい体験として描かれているが、ほんとうにそうなのか。男性たちは、射精の後でみじめな気持ちになったり、射精をする自分自身を情けなく思ったりはしていないか。

実際に、中高生の男子に調査してみると、3〜5人に1人が、射精は気持ちいいものだとは思っていない。村瀬はこれらのデータを説明した後に、男子学生たちに自由に意見を書いてもらった。

すると、はじめて射精を経験したときにそれを肯定できなかった、射精してから後悔にかられることがたびたびある、男の体は汚いし性欲はなくなったほうがいい、男性性器は汚く醜いといった声が届いたのである。

男子学生たちの切実な声を踏まえたうえで、村瀬は、「射精する身体」をもって生まれてきたことを若い男性たちが素直に肯定できるような性教育がぜひとも必要であると強調する。

ともすると、それは失われた「男性性」を復活させようという意見のように聞こえるかもしれない。しかしながら、村瀬が提唱するのはまったく逆のことだ。

単に「抜く」だけの自慰を繰り返すのではなく、みずからの身体を慈しむセルフプレジャーへと射精を変容させることを通して、パートナーと新しい「柔らかな関係」をつり出していってほしいと村瀬は願っているのである。

村瀬による男子の性教育は、授業を受けた女子学生にも大いなる感銘を与えている。男子であっても性被害を受けて心身に大きな傷を残すことがあるという事実についても、ていねいに解説されている。男女の生理についての情報も豊富だ。男子の性をどこまでも優しく見つめようとする村瀬に拍手を送りたい。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2014-05-03

[]戸田山和久『哲学入門』

哲学入門 (ちくま新書)

哲学入門 (ちくま新書)

2014年4月20日日経新聞掲載

私とは何か、自由とは何か、生きる意味とは何かというような問いを、徹底的に突き詰めて考えていくのが哲学だ。本書は、ここ数十年の英語圏の分析哲学や科学哲学の知見を縦横に駆使しながら、これまでの教養主義の哲学入門にはなかった、新しい世界像を垣間見させてくれる。

著者の戸田山は、次のような前提で哲学をしていこうとする。まずは、唯物論である。この世のすべては物理的なものだけでできている。そして、たいがいのものは物理的なもの同士の相互作用で説明することができる。もうひとつは、自然科学を信頼することだ。哲学も、科学の知見によって鍛えられながら発展していかなければならない。

しかし、そのような立場を取ってしまうと、最初に言ったような、私だとか、自由だとか、生きる意味というような、見ることも触ることも測定することもできないような抽象物はどこにも実在しないという結論になってしまうのではないだろうか。

だが戸田山は、そうは考えない。それらの抽象物は、私たちが生き物としてこの地球上で進化していくプロセスのなかで、どこからともなく湧き出てきたというのだ。そしてそれらの抽象物は、物質とはまったく異なった形式で、私たちの住むこの世界にはめ込まれ、私たちにとってなくてはならない不可欠のピースになったのである、と。

人間と動物のあいだに決定的な断絶があるわけではない。人間が登場する以前の動物だって、自由のようなものを持っていたし、原始的な記号操作もできた。生物進化のプロセスの途上で、人間がそれらをさらに発展させて、自己制御能力や、未来についての目標設定能力を開発していったのである。その結果として、人間は、目的、自由意志、道徳といった高度な抽象物を使いこなせるようになった。その道筋を哲学的に論究した箇所が本書の白眉である。

だが、自由意志や責任などの抽象物は、いつか使い勝手が悪くなるかもしれない。脳科学の進展によって、人間の自由意志と思われていたものが、実は、脳内物質のはたらきによって生み出された虚像であることが分かるかもしれないからだ。

しかし、たとえ自由意志や責任という概念が人間から奪われたとしても、それによってディストピアが到来するわけではない。むしろそこは他人から理不尽な責任を押しつけられることのない魅力的な社会かもしれないと著者は言うのである。哲学者からのこの挑戦状をどう受け止めればいいのだろうか。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

[]若松英輔『池田晶子 不滅の哲学』

池田晶子 不滅の哲学

池田晶子 不滅の哲学

2013年11月24日日経新聞掲載

本書で取り上げられる池田晶子は、『14歳からの哲学』などのベストセラーで知られる哲学エッセイストである。池田の文章は、自分の直観的な結論を読者の前にポンと投げ出すというスタイルであり、非常に独特である。

池田自身が敬愛しているプラトンやデカルトやヘーゲルは、なぜそのような結論が導かれるのかについて渾身のロジカルな議論を重ねるのであり、評者はそこにこそ哲学の醍醐味があると考えているので、池田のスタイルには不全感を禁じ得ない。

しかしながら、本書の著者である若松は、池田のそのようなスタイルによってこそ光を当てることのできる思索があるのだという。そして池田のテキストをたんねんに読み解いて、そこから繊細な果実を抽出してくるのである。

若松が池田に読み取るのは、「言葉はいったいどこから来るのか」という問いである。ある言葉が、書き手を通路として貫いて彼方から降臨してくることがある。そのとき、その言葉を発したのは書き手なのか、それとも彼方の存在なのか。

読み手のほうにおいても、同じことが言える。私がある文章に、いかづちのように撃たれるとき、私が出会っているのはその書き手なのか、それとも書き手という通路を伝ってこちらまでやってきた彼方の存在なのか。

池田はこのあたりの消息を、「私が言葉を語っているのではなく、言葉が私を語っているのだ」と書く。若松はこれを、さらに存在の深みに向けて掘り下げていく。するとそこには、池田という書き手を「場所」としてそこでさえずる鳥、芽吹く植物、流れる風が立ち現われ、そこにおいてちょうどつぼみが開花するように、言葉が、魂の交わりのコトバへと変じていくというのである。

若松は、自身が敬愛する哲学者、井筒俊彦を読むようにして、池田を読んでいるのであろう。たしかに池田は、存在がコトバとしてみずからを顕現する瞬間のことを繰り返し語っている。そして若松のまなざしもまた、この一点に注がれているのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2013-09-23

[]中村桂子『科学者が人間であること』

科学者が人間であること (岩波新書)

科学者が人間であること (岩波新書)

2013年9月22日日経新聞掲載

 中村桂子による渾身のエッセイであり、科学を志す次世代の若者たちへの熱いメッセージである。地球の中で生き物の一員として生きていることを真に大切にするような人間たちによって、これからの科学は担われなければならないと中村は語る。

 中村にそれを再認識させたのは、2011年の東日本大震災であった。日本の原子力技術は優秀なので大事故は起きないだろうと思っていた科学者はたくさんいたが、「実は私もその一人でした」と中村は告白する。その反省から、中村は再度みずからの原点に立ち返り、「人間は生き物であり、自然の中にある」という地点から、将来の科学のありかたを根底から再考しようとするのである。

 しかしそのときに、西洋の方法論はもうダメだから、これからは東洋の方法論で行こうというような発想を、中村は拒否する。真に必要なのは、西洋由来の科学を生命論的世界観によって生まれ変わらせることである。

 哲学者大森荘蔵によれば、物理学に代表される近代科学は、世界をいのちのない死物のかたまりとみなし、それを数字で描写し尽くそうとする。

 中村はこの死物的なアプローチを全否定するわけではない。むしろ、そのような世界観の上にぴったりと重なるようにして、「川は生きている、雲も生きている、風も生きている」という生命論的世界観を描き込んでいくことが必要だと中村は言う(大森荘蔵はこれを「重ね描き」と呼んだ)。

 そうすることによって、科学的な「機械論的世界観」と日常的な「生命論的世界観」の両方にいのちを吹き込むことができ、その両支柱の基盤の上に次世代の科学を作り上げることができるというのである。そして日本の理科教育には、そのようなことを可能にするポテンシャルがあるという。

 中村が目指しているのは、「生きているってどういうこと?」「人間ってなんだろう?」という原初の問いへとありのままに迫っていくことのできる科学だ。まだ生まれ来ぬ将来の人間たちにまでこの問いを届けたいという著者の祈りが、この本には籠められている。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2013-04-11

[]西垣通『集合知とは何か』

2013年4月7日日経新聞掲載

インターネットを通じて、多くの人たちが、自分の感じ方や考え方を公開している。それら無数の声を自動的に集めてきて、人々の集合的な意見を吸い上げ、政策に生かしたり、ビジネスに役立てることができるという話が世間に出回っている。

しかしながら、そのような楽観論には乗らないほうがいいと西垣は言うのである。

もちろんインターネット上の「集合知」がすばらしい働きをすることはある。たとえば、次の選挙で誰が当選するかを、大勢の人たちに実際に賭けさせて予測するシステムは、かなりの確率で正解を出してしまうのだ。

だが、それがうまくいくのは、あくまで条件が整備された課題に限られる。たとえば、これからの政治をどのように運営していけばいいかをネット上の集合知にまかせたとしても、混乱をまねくだけであろう。

「集合知」の考え方は、社会の中の人間たちを、信号の出し入れをする単に多様なだけの無数の他律的な処理マシンのようにとらえるのである。西垣によれば、そんな浅い人間観では社会を正しく見ることなどできない。

西垣は、これからの社会を見ていくときのキーとなるのは「オートポイエーシス」の考え方であると言う。社会の中の人間は、まずは自分だけのリアルな内面世界を生きているのであるが、そこへ新たな情報が到来したときに、それを取り込んで、みずからのこれまでの記憶と照らし合わせ、自分の全体を内側から一気に作り直して新しい姿にしていくはたらきを持っているのである。

そして内面世界を新しくした人間は、対話によって現実へと関与し、コミュニケーションの作動の中にふたたび織り込まれていく。そのダイナミズムを正確に捉えないかぎり、社会の行き先など読めるはずがないのである。

その視点からシミュレーションすれば、社会にはある程度の不透明性があったほうが安定するなどの知見が得られる。ビッグデータを集めればなんとかなると言ったバカげた主張にうんざりしている人が手に取るべき哲学書である。



評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博のLIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2012-11-20

[]不妊治療がもたらすもの:技術の進歩と圧迫感

精子提供―父親を知らない子どもたち

精子提供―父親を知らない子どもたち

2012年11月4日日経新聞掲載

 不妊治療の進展が、社会に様々な影響を与え始めている。不妊治療という言葉を聞くと、どこか遠い世界の話のように感じる人がいるかもしれないが、実際には、かなり多くのカップルが人工的な生殖技術を用いた不妊治療を行なっているのである。一昔前までは、女性の身体に原因があると思われたものだが、最近では、男性の身体に原因のあるケースも相当多いことが分かってきた。

 しかしながら、ほとんどの男性は、自分の精子に問題があるかもしれないなんて、想像すらしたことがないだろう。『「ヒキタさん!ご懐妊ですよ」』という手記を書いたヒキタもそうだった。彼は、精子の運動率が低いと告げられ、とまどいながらも人工授精、さらに顕微授精へと進んでいく。

 原因は夫にあり、妻の身体は健康そのものなのに、妻に排卵誘発剤を投与し、麻酔をして卵を採取するのだ。不妊治療がいかに女性に負担をかける医療なのかを、ヒキタは身をもって知るのであった。この本は男性の目から見た不妊治療のリアルを描いており、一読に値する。

 柘植あづみの『生殖技術』を読むと、不妊治療を行なう女性たちが、どのような圧迫感を抱えながら生きているのか、ありありと伝わってくる。まず女性たちは、結婚したら子どもを生むのが当たり前という外圧にさらされる。

 さらには、夫を父親にしてあげたい、親に孫の顔を見せてあげたいという家族愛が自分の内側から湧きあがってきて、女性たちを圧迫するのである。

 そして治療が長引くにつれ、不妊治療が自分のためなのか、それとも医師のためなのかが分からなくなってくる。「先生、すいません、今度もだめだったんです」と医師に謝ってしまうくらい追い詰められる女性もいると柘植は指摘する。

 かくして、生殖技術が進歩すればするほど、カップルは治療を「あきらめる」タイミングをどんどん見失っていくのである。柘植はここに、この技術の根本的な問題点を見ている。

 この指摘はきわめて重要なものである。テクノロジーの進歩によって選択肢が増えること自体は歓迎すべきことかもしれないが、人間の文明社会はそれを統御できるほど成熟してないように私には思えるからだ。生殖技術だけでなく、社会監視技術や、原子力技術を考えても同じことが言えるはずだ。

 ところで、不妊治療のひとつとして、第三者からの提供精子を用いて子どもを作る方法(AID)がある。しかしほとんどの場合、その精子が誰のものなのかを親は知ることができないし、また生まれてきた子どももまた、自分の生物学的な父親が育ての父親の他にいることを知らされずに育つ。

 ところが、その子が大きくなってから事実に気づくケースが少なからずある。その子は、いままで真実が隠されてきたことに大きなショックを受け、自分の本当の父親は誰なのかを探し始めるのだ。

 歌代幸子の『精子提供』は、みずからの生物学的な出自を探し求める人々の心のひだを、たんねんな取材によって浮かび上がらせた、優れたルポルタージュである。

 まず第一に、自分の出自を親がひた隠しにしてきたということが、彼らの心を深くえぐるのである。隠されてきたわけだから、どうしても「本当はどうなのか」を知りたくなるのだ。

 彼らが望んでいるのは、単に生物学的な父親をこの目で確かめることだけではない。自分の育ての親や生物学的な親と関係を紡ぎ直すことによって、自分が祝福されて生まれてきたのだという確信を得たいのである。

 さらに言えば、自分は生物学的な父親に「捨てられた」のではないということを心の底から確信するために、彼らは父親探しの旅に出ようとするのだろうと私は本書を読んで思った。

 自分が生まれるに至った原点を確認するこのような作業は、哲学的であり、宗教的ですらあると私には感じられた。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆LIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

2012-08-25

[]小泉義之「生と病の哲学」

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

生と病の哲学 生存のポリティカルエコノミー

2012年8月5日日経新聞掲載

 著者はこの本で、人間の生命とはいったい何なのかについて、これまでにない方法で考察しようとしている。老いること、異性と交わって子どもを持つこと、自分の身体をサイボーグのようにしていくこと、それらが人間にとってどのような意味を有するのかについて、哲学者ならではの思考実験を行なっている。その難解な文体は読者を容易には近づけないが、それでもなお強烈なインパクトを残すことに成功している。

 レズビアンの思想家であるリッチは、私たちの社会の中核に「強制的異性愛」というイデオロギーがあることを発見した。すなわち、「人間ならば異性愛であるのが当然」という強烈な洗脳がこの社会には充(み)ち満ちているのであり、その意識を前提としてこの社会のすべての仕組みが組み立てられているというのである。「異性愛」はけっして「自然」なできごとではなく、「強制」されたできごとなのだという意味で、それを「強制的異性愛」と呼ぶのである。

 ところで著者は、この社会にはもうひとつの目に見えない強制があると言う。それは、人類は生殖によって次世代を生み続けていかなくてはならないとする強制である。「人間個体のいのちは有限なのであるから、人類は子孫を再生産し、次の世代へと様々なものを引き継いでいかなければならない」という考え方こそが、この社会に現存するひとつの大いなる「強制」なのではないかと言うのである。

 さきほどの「強制的異性愛」と対比させて言えば、これを「強制的再生産」イデオロギーと呼ぶこともできるだろう(著者自身はこの用語を使わないが)。「人類は次の世代を生み続けていかなくてはならない」というのも、実は社会による巧妙な強制なのであり、男も女もその支配下から脱することによってはじめて、人類の未来に向けた哲学的思索が可能になると著者は示唆する。

 男性哲学者から出されたこの種の問題提起は、フェミニストをいらだたせること必至であるが、しかしこのような「空気を読まない」アプローチこそが、哲学者のもっとも得意とする技であることに間違いはないと私は思う。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆LIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/

[]マイケル・サンデル「それをお金で買いますか」

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界

2012年6月24日日経新聞掲載

 この世にはお金で買っていいものと、買ってはならないものがある、と私たちはなんとなく思っている。たしかに、赤ちゃんをお金で取引してはならない。しかし腎臓や卵子を売買することについてはどうだろうか。あるいは良い成績を取った生徒に、学校が報奨金を与えるのはどうだろうか。

 実際、米国の一部の州では、卵子はすでに合法的に売買されているし、生徒への報奨金についても、すでにいくつかの学校で実施されている。サンデルは、主に米国でなされている「それをお金で買いますか!」という実例を数多く紹介して、その功罪を点検していくのである。

 本書で紹介されている、あらゆるものを売り物にしようとする米国社会の実態は、まことに驚くべきである。ユニバーサルスタジオでは、二倍の料金を払えば、アトラクションに並ばずとも行列の先頭に割り込むことができる。特別料金を払うと清潔な独房に入ることのできる刑務所もある。

 このような社会の趨勢に対して、サンデルは二つの点から疑義を差し挟む。ひとつは「公正」という観点からの疑問である。たとえば腎臓を売買してよいということになると、自発的な売買という美名のもとで、実際には、他の選択肢がない貧しい境遇の人たちが腎臓というかけがえのない人体の一部を奪われていくことになる。

 もうひとつは「腐敗」という観点からの疑問である。腎臓を売買することは、人間を予備部品の集まりとみなし、人間を物質化することによって、真に大切にすべき規範(生命観)をどこまでも腐敗させていくのだ。

 サンデルは、この「腐敗」という側面にもっと注目しなければならないと主張する。この世には、お金と引き替えにすることで、必然的にその本質が失われて腐敗していくようなものがたくさんある。そのような腐敗など取るに足らないものだとして、あらゆるものを市場に取り込もうとする社会に私たちは突入しようとしているが、その魔の手を食い止めるためには、冷徹な知性によって敵の本質を見定めておく必要があるとサンデルは熱く語るのである。


評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)


-------------------------------------------------------

◆森岡正博の書評ページ(森岡執筆の書評一覧があります)

http://www.lifestudies.org/jp/shinano01.htm

◆LIFESTUDIES.ORG/JP

http://www.lifestudies.org/jp/