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2013-06-03

[]森岡正博『まんが 哲学入門』(講談社現代新書)

7月18日に講談社現代新書から、

森岡正博(原画・文章)/寺田にゃんこふ(作画)

『まんが 哲学入門 ―― 生きるって何だろう?』(講談社現代新書)

が発売されます!!

この本の画期的なところは、

哲学者(=森岡)自身が、220ページのコマ割りのあるマンガ全編の絵を描き下ろしたこと。

・過去の哲学者の思想の紹介や、哲学史の紹介をマンガでしたのではなく、「時間」「存在」「私」「生命」の4テーマについての著者自身の思索が描かれていること

・左開きで、吹き出し文字が横書きであること。これは、日本のマンガの伝統破壊なのである。

というあたりです。マンガの版下は、プロの漫画家の寺田にゃんこふさんに作成していただきました。すばらしい線です。

原画(森岡正博)

f:id:kanjinai:20130603212143p:image

作画(寺田にゃんこふ)

f:id:kanjinai:20130603212142p:image

その他のいくつかの原画と版下は、

http://www.lifestudies.org/jp/manga/

で見ることができます。

本の目次は、こんな感じです。

目次

第1章 時間論

第2章 存在論

第3章 「私」とは何か

第4章 生命論

読書案内

まんがで描かれているので、どこまでもどんどん読んでいけますが、内容はかなり濃いですよ。存在物を存在せしめる「存在させるはたらき」や、この私を突き詰めていったときに垣間見える「独在者」などもテーマになっています。哲学のハードプロブレムを扱っているのです。

では、本のあとがきの一部を紹介します。

あとがき

「マンガで哲学入門を書いてみたい!」

そう思った私は、コピー用紙に20頁ほどマンガの下書きをして、講談社現代新書の編集部に持ち込んだのでした。それがもう3年ほど前のことです。それ以来、時間があるたびに、少しずつマンガを描いてきました。最初はぎこちなかったマンガのキャラクターも、しだいに滑らかに動くようになり、最後には自己主張すら始めました。

私は鉛筆を使って、約220頁分の原画を細部まで描き込みました。漫画家の寺田にゃんこふさんは、この原画にプロの線を与えてくださいました。今回、講談社現代新書の形で出版ができるようになったのは、ひとえに寺田さんのおかげです。

これまで、過去の偉大な哲学者たちの思想を解説するマンガ本はたくさん出版されてきました。哲学者がストーリーを考えたり、解説文を書いたりしたマンガ本もありました。しかしながら、哲学者自身が、みずからの哲学的な思考を、全頁マンガで描き下ろした本は存在しなかったように思われます。マンガやイラストを描ける哲学者はたくさんいるでしょうから、いままでこのような本が出版されなかったのは不思議なことです。

タイトルにあるとおり、この本は哲学入門です。「哲学とは何か」「哲学的に考えるとはどういうことか」について、一般読者を対象に書いてみました。この本は、有名な哲学者の学説をわかりやすく解説するというスタイルをとっていません。そのかわりに、「時間」「存在」「私」「生命」という4つの大テーマについて、私自身がどういうふうに考えるのかを、できるだけわかりやすく表現してみました。この道をたどることで、読者のみなさんは、一気に哲学的思考の核心部分へと導かれることになります。そのスピード感と密度をたっぷりと楽しんでみてください。

過去の哲学者を引き合いに出して、「誰々はこう言った、それを図にするとこうなる」というような解説文をひたすら読んでいくよりも、哲学的な思考のダイナミックな進み方を視覚的に追体験していったほうが、哲学の本質にすばやく迫ることができます。哲学とマンガは、ほんとうは相性がいいのです。また、この本では、まんまるくんと先生が対話する形で話が進んでいきます。プラトンの書いた哲学書も、ソクラテスとその弟子たちを主人公とする対話で進んでいく物語でした。この、哲学の王道である対話を効果的に表現するための技法として、マンガはぴったりなのです。私は物心ついたころから、マンガで育ちました。マンガ的な表現方法は身に染みついています。マンガだからと言って軽蔑する人は、もうほとんどいないでしょう。

すでに哲学に親しんでいる方は、この本のあちこちに、過去の哲学者たちの有名なテーゼをたくさん見いだすことでしょう。しかしそれらはしだいに、私自身の思索へと結びつけられていきます。この本は入門書ではありますが、しかし同時に、私自身の思考を展開した本でもあるのです。私がいま構想している「生命の哲学」のおおまかな全体像を、マンガ哲学入門という形で先取りして示すことになりました。

もちろん入門書という制限があるので、ひとつのテーマに立ち止まって深く穴を掘っていくことはできませんでした。もっと突っ込んで考えてみたかった箇所が、ほんとうにたくさんあります。言及できていない説も山ほどありますし、きわめて独断的な主張もあります。「どうしてこの点を論じていないのか!」と思われることがあるかもしれません。しかしそれらについては、今後の著作できちんと考察しますので、いまは許しておいてください。

(中略)

 最後に、私がこのマンガをどうやって描いたかを紹介しておきましょう。

 まず、A4のコピー用紙に、黒鉛筆のフリーハンドでコマ割りをして、そのままキャラクターと吹き出し文字を書いていきます。全体を描き終わったら、背景に線を入れたり塗ったりして出来上がります。描き直すときには、消しゴムでひたすら消して、やり直します。ワープロとは違って消去ボタンもないし、カットアンドペーストもできないので、非常に効率の悪い作業となりました。丸一日かけても、だいたい7頁くらいしか進みませんでした。しかし、ほんとうに楽しい時間を過ごすことができました。

(中略)

 私にとって、この本は大きな実験であり冒険でした。それが終わったいま、すがすがしい気持ちに満たされています。なお、本書の第二部に本格的な読書案内を付けました。堅苦しくなく、面白く読めるように書いてみましたので、ぜひ楽しんでください。

というわけで、今度の新刊は、まんが哲学入門です! 「感じない男」→「草食系男子」→「まんが」、こういう展開を想像した読者はほとんどいなかったのでは? 

また、巻末に、古今東西の哲学書を取り上げた、長大な「読書案内」を付けました。これは単独の読み物としても、かなり面白いのではないかと思います。

本書についての追加情報は、twitter

https://twitter.com/Sukuitohananika

にて書いていきますので、フォローしてみてください。

2013-03-29

[]『決定版 感じない男』(ちくま文庫)


感じない男 (ちくま新書)

感じない男 (ちくま新書)

2005年に、ちくま新書から刊行された『感じない男』は、ネットを中心に圧倒的な反響があり、その後読み継がれて男性学の古典の一つとなりました。そしてちくま新書版が品切れになったのを機に、このたび、ちくま文庫で再刊されることとなりました。

発売は4月10日ですので、ぜひ書店で手にとってみてください。この本のうわさは聞いていたけれども書店にないので見たことがないという方も、4月中は書店の文庫棚にありますので。

文庫版には、「感じない男はその後どうなったのか」という長めの補章が付け加えられています。その中から一部を紹介します。

補章 第2節より

 ・・・・・

 そもそも私がこの本を書こうと思ったのは、男性のセクシュアリティについて、客観的な事実を解明したいと考えたからではありません。私がこの本を書こうと思ったのは、セクシュアリティについての自分のつらさや悩みがどこから来ているのかを、どうしても知りたかったからです。

 自分自身のセクシュアリティを掘り下げていくことは、どうしようもない痛みを伴います。なぜなら、それは自分自身の内面に秘めてきた「弱い部分」を、自分自身に対してあからさまにすることでもあるからです。そもそも、弱い部分であるからこそ、それを他人からも自分からも隠しているわけなのですが、しかしその部分に光を当てることをしなければ、自分のセクシュアリティのもっとも本質的な箇所を鷲掴みにすることはできません。

 そしてさらに言えば、もし他人の目に見える形でその作業をやり切ることができれば、それはきっと同じような弱さや痛みを抱えている人たちに、何かの力を与えることができるだろうし、そうやって「弱さ」を接続面としてつながっていくことによって、何か新しい世界が開けてくるのではないかと私には思えたのです。私はこの本で、自分の「弱い部分」を他人の目の前にさらけ出しました。刊行後に私が精神状態を崩した原因のひとつは、まさにここにありました。私のいちばん「弱い部分」を、誰でも、いつでも容易に刃物で刺しに来ることができるという状態に置いたのですから。

補章では、感じない男のその後、生命学との関係、ロリコン社会の進展などについていろいろと書きました。ABK48についてもちらりと触れました。

2013-03-12

[]磯村健太郎・山口栄二『原発と裁判官』

これまでの日本の原発訴訟において、裁判官はどう考え、どう判断してきたのかを(元)当事者たちへのインタビューによって浮かび上がらせた本である。福島の原発事故の前と後では、原発訴訟に対する市民の意識もがらりと変わったであろう。なによりも、これまでの原発訴訟を裁いてきた裁判官たちがいちばん困惑していることだろうと想像するが実際はどうなのだろうか。

これは東京電力柏崎刈羽原発第一号機訴訟(新潟地裁)裁判官であった西野喜一さんの言葉である。

行政事件や労働事件、国家賠償事件、公安事件などで、国家の意思にそぐわない判決を出すと、自分の処遇にどういうかたちで返ってくるだろうか。そのように考えるのは組織人として自然なことです。原発は国策そのものである、という事実が裁判官の意識に反映することは避けられないと思います。無難な結論ですませておいたほうがいいかな、と思うことは、可能性としては十分にありえます。(84頁)

国策の推進という方針に沿った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります。(85頁)

もんじゅ訴訟高裁判決では国が敗訴した。そのときの裁判長であった川崎和夫さんはこのように言う。

国を負かすことへの抵抗は、そんなにはなかった。国策に反する判決をするから重圧を感じたかというと、そんなことは感じませんでした。しかし、『変な判決を書いたヤツだと思われるだろうなあ』という思いはありました。『川崎、ばかだなあ』と言われる気がして・・・。それがプレッシャーといえばプレッシャー。だって、それまで原発訴訟で国や電力会社側を負かした判決を出した裁判官はいなかったわけですから。(145頁)

しかしながら、その後の最高裁ではこの判決が控訴棄却となり、くつがえされたのだった。その背景にある「調査官」の実態など、なかなか興味深い。高裁の裁判長である川崎さんが、判決文を書くときに、最高裁判事に向けたメッセージ(ちゃんと勉強してほしい!という)を忍び込ませていたということには軽い衝撃を受けた。

2013-02-28

[]橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司『おどろきの中国』

おどろきの中国 (講談社現代新書)

おどろきの中国 (講談社現代新書)

3人のソシオロゴス組(?)の社会学者が、中国をテーマに鼎談をした記録。パートナーが中国人である橋爪さんに、二人が質問するという形を取っている。全381頁ということで、新書にしてはすごいボリュームである。さすがに講談社現代新書だけあって、最初から面白く読めるようによくまとめて編集してある。全体の印象としては、中国が実際にどうか、というよりも、社会学者たちが中国をどう見ているか、中国をネタにどう盛り上がろうとしているのかを知ることができる刺激的な本という感じである。これは大澤・宮台の語りに顕著で、それに比して、橋爪は自分の見聞きしたことや調査研究したことをもとに情報提供をしており、面白いことがたくさん書かれている(専門家や通の人には常識なのだろうが)。

橋爪 (かつての中国での格差を生んでいた現物給付について)現物給付で大きいのは、住宅。自動車の提供。クッキングや掃除などの労務サービス。医療などサービスの特別待遇。骨壺を収める場所まで、ランク(級別)によって差がある。その格差は、名目上のジニ係数には反映されないけれど、かなりのものだった。(332頁)

橋爪 南京事件の意味は、逆の立場で考えてみると、よくわかると思うんです。

神奈川県や長崎県が、イギリス、フランスの植民地にされてしまった。日本がかわいそうだ、助けてあげると、中国軍がやってきた。でイギリスやフランスと戦争するのかと思ったら、なんと日本軍と戦争を始めた。「中国軍の言うことを聞け。これは日本のためなんだ」。日本政府が「いやです」と言うと、「これだけ日本のためを思ってやってるのに、まだわからんのか」と、首都の東京を占領しに攻めてきた。途中の村々は厚木でも八王子でも、物資を奪われて、火をつけられて、日本人の女性がおおぜい暴行されたり殺されたりした。東京では、逃げ出した人びとも多かったけれど、逃げおくれた民間人や東京を防衛していた兵士たちが5万人か何十万人か殺されてしまった。こんな無茶を黙っていられるか、断固戦うぞ!と、誰だって思うでしょう。そこで首都を、甲府に、そして松代に移して、国をあげて徹底抗戦する。

この怒りの核心がなにかと言うと、具体的な被害もさることながら、言ってることとやってることがちがうじゃないか、ということじゃないのか。(267−268頁)

こういうタイプの中国本というのは、たしかに、これまであまりなかったかもしれない。

2013-02-21

[]『<生命>とは何だろうか』岩崎秀雄

いまや人工的に細胞の中身を作ることができるような時代になっている。そのような時代において、生命とは何なのかを、学際的に捉えようとしている著者の書いた概観書である。とくにこの本では、生物学と美術(美学)の接点が大きく取り上げられており、非常に現代的な内容となっている。その名も「生命美学」というのであるが、カント美学を現代によみがえらせるかのようなその試みは成功するのだろうか。実際に、細胞をもちいた美術作品はかなり注目を浴びるようになっていて、そのインパクトをどう考えればいいかは今日的なテーマだろう。著者は2006年から「細胞を創る」という手弁当の学際研究会をはじめているとのことで、こういう形で始まるものは将来性があるように思う。

ひとつ思うのは、著者の言う「生命」に、「人間の生命」が、明示的な形では入っていないように思われる点である。これはすごく難しい問題で、たとえば哲学のジャンルである「生物学の哲学」には、「人間の生命」というものはそれ自体としてはテーマにはならない。(生物学の哲学ではハイデガーの存在論は扱わない等)。生物学からのアプローチと、実存主義・生の哲学的アプローチが、乖離しているのがこの分野での大問題である。それをつなげようとしたのがハンス・ヨーナスらであり、私たちはそれを念頭に置きながら「生命の哲学」というジャンルを構想しようとしている。しかしこの二つのアプローチをつなげていくのはすごく難しいという気がする。が、やらなければならない。

2013-02-14

[]『マンガで学ぶ生命倫理』児玉聡・なつたか

児玉聡が監修した、マンガによる生命倫理への入門書である。定価1000円だし、この分野の概観をざっと眺めたい人や、学生にとってはよい導入となると思う。全部で10章あり、生殖医療、インフォームドコンセント、中絶、エンハンスメント、終末期医療、生体臓器移植、クローン、ES細胞、永遠の命、脳死臓器移植、となっている。「エンハンスメント」「ES細胞・iPS細胞」「永遠の命」というテーマが入っているあたりが、21世紀的といえる。

表紙は制服ミニスカ女子高生が大きくフィーチャーされており、「もしドラ?」的効果を狙っているようにも見える。個人的にはいまいち感がただよう。

ミニストーリーと児玉による解説が交互に並んでいて、その内容はバランス取れているといえる。立場的には中立を守ったと書かれているが、脳死臓器移植の解説の末尾には、

今後も引き続き、よりよい移植医療のために、法制度の整備や脳死判定技術の向上、市民への啓発活動などの取り組みが必要とされるでしょう。(129頁)

と書かれており、これは脳死移植慎重派の私などからみればあきらかに脳死移植推進の立場であり、中立とは言えない。このあたりは、化学同人からの出版で医歯薬看護系大学等での教科書採用を期待しているという点からの配慮なのかもしれないし、医学部で長らく教員をしていた著者のスタンスなのかもしれないし、著者の個人的な価値表明なのかもしれない。

全体としては良い本である。

[]『ニーチェ』中島義道

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

ニーチェ ---ニヒリズムを生きる (河出ブックス)

中島義道の新刊である。今度はニーチェを主題にしている。「ニーチェの言葉」みたいな本が一般受けしていることに中島は腹を立てている。

ニーチェの言葉から「人生の意味」を汲み取ることなどできない。それは、あまりにも異様であり、あまりにも「力」を必要とするからである。(5頁)

じゃあニーチェは無意味かというとそうではない。ニヒリズムの徹底によって次のような結論に至るからである。

私は世界のうち」で死ぬのではない(世界が私の「うち」で死ぬのではないように)。私は、世界に対立するいかなる視点も持たない存在へと反転するのだが、これは、私が「無」になるということであり、しかも世界に対立する「無」(それは「無」という名の「有」である)になることではない。私は世界と「一致」したままで無に至るのだ。そのとき、「無」を「無」とみなす視点さえ消失するのであり、しかもこれこそがまさに真実の姿であるのだから、そこに「ヤー(然り)!」という声が響き渡るのだ。こうしてニヒリズムは完成されるのである。(194頁)

全体としてニーチェを再読する際のよいヒントがいろいろ埋まっているように感じる。

2013-02-13

[]ミシェル・フーコー『知の考古学』

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学(新装版)

知の考古学(新装版)

下のものが「知の考古学」の旧版でながらくこれしかなかったが、今回、文庫で新訳が出た。旧版の訳者は中村雄二郎、新版は慎改康之である。中村訳のころから比べてずいぶんとフーコー研究も進み、資料の出版もなされ、フーコーの文脈が理解できるようになったから、新訳はうれしいところである。

本書では「考古学」という方法が、思想史に代わって強調される。

考古学が明らかにしようとするのは、諸言説のなかに隠されていたり表明されていたりする思考や表象やイメージやテーマや強迫観念ではなく、諸言説そのものであり、諸規則に従う実践としての諸言説そのものである。・・・

諸言説によって実現される諸規則の作用が他のいかなる作用にも還元不可能であるのはどうしてなのかを示すことであり、・・・・考古学は、言説の諸様態の差異をめぐる分析なのである。・・・

考古学は、人間が言説を発したまさにその瞬間に、人間によって思考されたり、望まれたり、指向されたり、感じ取られたり、欲望されたりしたかもしれないことを、復元しようとするものではない。・・・それは、起源の秘密そのものへの回帰ではない。そうではなくて、それは、対象としての言説のシステマティックな記述なのである。(263〜265頁)

この引用部分の前後全体を読むと、考古学およびディスクールというものをフーコーがどう捉えていたかがよく分かる。

フーコーの新訳としては、あと「狂気の歴史」と「監獄の誕生」をぜひ文庫でお願いしたいものである。


フーコーの論文講演などを集めたものだが、手元に置いておくと便利。小林康夫による解説が分かりやすい。

歴史家たちが考える歴史は、本質的には、人間が「為したもの」にある。・・・だが、フーコーが考えようとしていることは、そうした人間の行為がいったいどのような規定・条件づけに従っているか、ということなのである。・・・行為はかならずある種の場の規制にそって行なわれるが、しかし本質上、事前的であるこの場はかならずしも行為主体によってつねに明確に意識されているわけではない。・・・(429頁)

日本語で「知」と訳される「savoir」・・・の動詞は単に「知る」ことだけではなく、能力として「できる」ことを指し示す。・・・フーコーは、われわれの生、われわれの行為の可能性をあらかじめ書き込んでいるような歴史的な認識の条件付けや規制としての「知」を研究しようとしているのである。それは、それに従って社会的な制度が生み出されたり、また消えたりするような「知」なのであり、それ故にほとんど「権力」・・・と隣り合い、浸透しあっている「知」なのである。(430頁)

[フーコーは]むしろ中心性をその最大の特徴とする従来の権力観とはまったく異なる、分散マトリックス的な権力の考え方を導入していくのだが、その権力論とかれの実存的な政治参加はおそらく通底しており、支え合っているのだとしても、しかしかれはそれをそのまま「思想化」しはしなかったように思われる。むしろ「実存」は、フーコーにおいては、個々の主体の選択に委ねられ、任されていたようにわたしには思われるのだ。(433頁)