感じない男ブログ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-02-25

[]ニクラス・ルーマン『社会の法』1・2

ルーマンの大著である。ルーマンは第2部の最後のほうで「免疫システム」について書いている。

法システムを、開かれた未来を全体社会のなかへと導き入れるとともに、それを拘束しもする流儀と様式であると見なすとしよう。そのとき法システムは、全体社会の<免疫システム>として把握されうることになる。・・・・免疫システムは、環境についての知見なしでやっていく。それが記録するのは、内的なコンフリクトのみである。そして折に触れて生じてくるコンフリクトに対して、一般化されうる解決策を組み立てていく。つまり、未来の諸事業のための剰余能力を備えることになるわけだ。免疫システムは、環境を探索する代わりに、自分自身に関する経験を一般化するのである。その経験が、攪乱の徴として働いてくれる。攪乱源自体は未知であり続けるにもかかわらず、である。・・・・免疫システムの働きは、攪乱を修正することにではなく、構造的リスクを緩和することにある。・・・・むしろ免疫システムを通して全体社会が、コンフリクトの恒常的再生産という、構造的に条件づけられたリスクと折り合っていけるようになるということのほうが重要である。免疫システムが(機能していくために)必要とするのは、単に環境に適応するということではない。むしろそうした適応を放棄したことから生じる帰結こそが、必要なのである。(715−718頁)

こういう世界観というか社会観を持っているというのは、ルーマンはかなりの変態ですな。

2013-02-21

[]『フーコー・コレクション3 言説・表象』

この巻も、松浦寿輝による解説が優れているので、引用する。

個人などというものが、はたしてあるのか。書物などというものが、はたしてあるのか。主題などというものが、はたしてあるのか。そして何よりも、作品などというものが、はたしてあるのか。・・・『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』や『資本論』を明確な輪郭と堅固な実体を持つ言説単位として読むには及ばない。ましてそれらを「無神論」なり「資本主義批判」なりといった硬直した主題枠の中に囲い込んで何かをわかったつもりになる必要などさらさらない。名前を持たない無数の言説断片たちのレギオンが絶えざる闘争と和解を繰り返す灰色の不確実の空間の中に、ひとたびすべてを返してしまうこと。そして、そこに斜めに走り抜けてゆく意味も方向も欠いた無数の逃走線の絡み合いを丁寧に解きほぐし、個人とも書物とも、作品とも主題とも無縁の非人称の力動システムが徐々に姿を現わしてくるさまを記述し尽くすこと。そうした試みにフーコーは、「思想史」からは断乎として身を引き離す「思考の考古学」の名を与えた。(448頁)

未来に向かって投企する人間主体の自由などもはや問題化されえない言説空間で、フーコーが視線を注ぐのは泡粒のように沸き立っては散ってゆくこれら非人称的な「言表」の予想しがたい戯れなのである。・・・その編成のプロセスを通じて出現する「言表」のシステムを「史料体」と呼ぶことを提案したいと論を進めるとき、・・・・みずからの「考古学」とはこの「史料体」の探査にほかならず、起源へと向けて時間軸を遡行してゆく復元の学ではないのだといっているのである。(452−453頁)

フーコーの考古学が答えようとするのは、それら「言表」のレギオンがいかなる力によって衝き動かされ、いかなる規則によって律せられ、いかなる様態において編成され、システムへと生成し遂げてゆくのかという問いに対してである。それら大小無数の出来事の波動は、最終的に、或る時代の知のありかたを特徴づける思考の枠組みとしての「エピステーメー」を構成するが、それは当然のように、静かな堆積作用によって形成される「知の地層」のイメージをはるかに逸脱する力動性を孕み、不安定に揺らぎつづけている。・・・・フーコーの「エピステーメー転換」の概念はときおりトマス・クーンの「パラダイム・シフト」のそれに比べられることがあるが、言表それ自体を出来事と捉えるこの視点に立つかぎり、フーコーの考古学がクーンの科学史の問題基制から一線を画すものであることは言うまでもない。・・・・クーンは、・・・・既成の鋳型に無理やり自然を押しこめてゆく「通常科学」が一方にあり、その機能が限界に達した時点で開始される「異常な」探求と、その結果として生じる「科学革命」が他方にあるというわけだが、こうした正常/異常の二元論ほどフーコーから遠いものはない。恒常態としての「正常」な観察や認識の働きに或るとき「異常」が出来し、かくして「革命」が惹起されるといった事態がこれまでの科学史上に少なからず生起してきたことはなるほど事実だろう。だがフーコーにとって、歴史における不連続性とは、そうした「大偶発事」の一つであるばかりでなく、「言表という単純な一時のうちにすでに現前している」のであり、言い換えれば、「史料体」を構成する「言表」という「言表」は、どれもこれも、日常時と非常時を問わずことごとくextraordinaryなのである。(455−456頁)

クーンのパラダイムシフトと、フーコーのエピステーメーの違いについての指摘は、重要なところだと思う。

[]ベーコン『学問の進歩』シェリング『学問論』

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)

岩波文庫の重版本。フランシス・ベーコンが1605年に書いた『The Advancement of Learning』の日本語訳で、この本は「英語で書かれた最初の哲学書といわれる」らしい。内容はと言えば、哲学概説で、新書本みたいな感じ。ベーコンはおしゃべりである。のちに書かれる主著ノヴム・オルガヌムへの序章のような感じなのだろう。再度品切れになる前に持っておいてよい本かもしれない。

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

学問論 (岩波文庫 青 631-1)

こちらも岩波文庫の重版本。こちらは初版が1957年である。1802年イエナ大学における講義録。

それは真の観念的なもののみがそのまま媒介なしにまた真の実在的なものであり、そういう観念的なものの外には他のものは何も存在しないといういっそう高い前提なしには、一般的にもまた或る特殊な場合においても、考えられないのである。われわれはこういう本質的統一を哲学のうちにおいてさえも実際は証明することはできない。それはむしろ一切の学問が学問たるための通路なのだから。しかしそれなくしては、一般に学問はないということだけは証明されるし、またともかく学問たらんとする要求をもつすべてのものにおいては、本来この同一、言いかえれば観念的なものへの実在的なもののこういう全的な同化が・・・意図されるということは立証される。(16頁)

ドイツ観念論ですなあ。

2013-02-07

[]ミシェル・フーコー『生政治の誕生』

フーコーのコレージュ・ド・フランスの講義録の一冊である。

こうしたすべての企図に賭けられていること、すなわち、狂気、病、非行性、セクシュアリティ、そして私が今お話ししているものに関するすべての企図に賭けられていること、それは、一連の実践と真理の体制との連結が、実際に現実のなかで存在していないものをしるしづけてそれを真と偽の分割に正当に従わせるようなものとしての知と権力の装置をどのようにして形成するのかを示すことです。現実としては存在しないもの、真と偽の正当な体制に属すようなかたちでは存在しないものを、現実のなかでしるしつづけて真と偽の正当な体制に従わせるという、この契機こそ、私が現在扱っている事柄において、政治と経済とから成る非対称的両極性の誕生をしるしづけるものです。政治と経済、これらは、存在する事物でもなければ、錯誤でもなく、錯覚でもなく、イデオロギーでもありません。それらは、存在しない何かであるけれども、しかし、真と偽とを分割する真理の体制に属するものとして現実のなかに組み入れられている何かなのです。(26頁)

存在しない何ものかが、真と偽を供給する真理の体制に組み込まれることによって現実となる、というようなことであるが、しゃべりなのでさほどクリアーではないように感じられる。

よい遺伝学的装備は−−つまり、低いリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備、自分自身や周囲の人々や社会にとって有害とはならない程度のリスクを背負う個人を生み出すことのできるような遺伝学的装備は、−−たしかに希少な何かとなり、それが希少な何かである限りにおいて、それは完全に、全く当然のこととして、経済的流通ないし経済学的計算の内部、つまり二者択一的選択の内部に入ることができる、と。(281頁)

フーコーは遺伝学について語っているが、これに関してはいまいち鋭くはない。この巻では、現実の現代政治についてたくさん語られているのがきっと読みどころで、関心ある人にとってはきっと面白いのだろうと思われる。

2013-02-01

[]ミシェル・フーコー『主体の解釈学』

フーコーの講義録である。1982年の講義から:

(セネカについて)人生をはっきりとした段階や生活様式に区切ったりせずに、一気に駆け抜けることだ。一気に駆け抜け、理想的な老いという理想的な地点にたどり着かなければならない。・・・それでは、老齢のゆえ、浪費された時間のゆえに急いでおこなわなければならない労苦とは何なのでしょうか。所有地から、所有財産から遠く離れたものに心を遣っていてはならない。近い所有地を気づかい、それにすべての注意を注がなければならない。この近い所有地とは私自身ではないだろうか。彼は言います。「精神全体が自分自身をきづかう」「自分自身にかかりきりになる」ことが必要である。・・・たとえば第17の書簡では「もし君が自分の魂animusを気づかおうと思うなら」という表現があります。遠い所有地ではなく、もっとも近い所有地の世話をしなければなりません。この近い所有地とは自分自身のことです。彼は言います。この逃げ去る動きにおいては、自分を観照することに目を向けるべきなのだ、と。「逃げ去る動き」とは賢者としての逃走や退却のことではなく、時間の流出のことです。人生の最後の地点に私たちを導くこの時間の運動において、私たちは視線を向け直し、みずからを観照の対象としなければなりません(306頁)

こういう講義を行なうための準備時間が十分に与えられ、こういう講義を集中して聞く聴衆にめぐまれたフーコーはなんと幸福だったことよ。この点はひたすらうらやましい。フーコー晩年は、こういう人生の哲学、そしてギリシア以来の汝自身を知れという命題、そしてそれが社会権力性へと織り込まれるというところから何かを開こうとしている。興味深い。

デカルトが思考したのは、世界において疑いうるものについてではありません。また、疑いえないものについてでもありません。これは普通の懐疑的な訓練にすぎないと言ってよいでしょう。デカルトはすべてを疑う主体の状況に身を置きますが、疑いうるもの、その存在を疑いうるものについて問いたずねることはありません。そしてデカルトは、疑いえぬものを探求する者の状況に身を置くのです。したがってこれは思考やその内容についての訓練ではありません。主体が思考によってある状況に身を置く訓練なのですここには、思考の効果の関係における主体の位置の移動があります。(406頁)

講義のよいところは、こういう思考の流れを記録できるところだろう。

2012-03-05

[]『穴と境界:存在論的探求』加地大介

穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)

穴と境界―存在論的探究 (現代哲学への招待)

中国哲学では、椀の中の空間などの「穴」は無用の用とされることがある。しかし穴とは存在論的にいったい何であろうか。養老孟司は、解剖学的には「口」という存在は存在しないとどこかで書いていた。たしかに口は解剖によって取り出せないから、解剖学的には存在者ではないということになるのだろう。でも一般には口は存在するというふうに我々は思っている。では、ドーナツの穴は、存在者なのだろうか。というようなことが分析哲学ではまじめに議論されていて、それをレビューしながら考察を進めていくというなかなか刺激的な本である。分析哲学の味の濃い本。トイレットペーパーロールが回転するときに、その中空の穴もまた一緒に回転するのか、それとも穴は回転せずにとどまったままなのか。同一性をどのように捉えるかによって答えも違ってくるだろう。穴のメタファーとして、最適なのは、やはり他我である。本書では他我については触れていないが、適用したらどうなるかにたいへん興味が湧く。

2011-08-15

[]わたしのとくべつな場所

わたしのとくべつな場所

わたしのとくべつな場所

1950年代米国南部の、まだ黒人差別まっただなかに生きたアフリカ系アメリカ人少女を主人公とした物語絵本。ラストで思わず感動が迫ってくる。ここには何かの真実が描かれている。なぜか分からないけれど、これは琴線に触れる傑作であるように思える。

2010-12-31

[]森一郎「死と誕生」

死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント

死と誕生―ハイデガー・九鬼周造・アーレント

ハイデガー、アーレント、九鬼の独自の解釈にもとづいて、被投性、出生、偶然の連関が議論される。というとなんだかめんどくさそうだが、アーレントの「出生」「誕生」の概念をキーにして、ハイデガーとアーレントが言おうとしていたことを大胆に解釈するという試みとしてたいへんおもしろく読めた。

ハイデガーは、人間はこの世界に投げ出されていて、死へと先駆的に向かう存在であるという方向のことを「存在と時間」でしつこく強調した。しかしそこには、人間がこの世界に誕生した存在であるというもうひとつの突っ込みどころがあったにもかかわらず、ハイデガーはそれを意図的に軽視しているのである。森は、もしハイデガーがこの後者を突き詰めたとしたらどうなるかと問うて、そこに「出生性」と「始まりへの存在」という実存カテゴリーが発見されるはずであったと言う。ここはたいへんおもしろい指摘である。

それで、実はハイデガーの弟子のアーレントこそ、そこを発展させたということになる。アーレントは、自分がこの世界に生まれ落ちた「第1の始まり」と、いまここで複数性に裏付けられて活動を始める「第2の始まり」ということを言う。このふたつはつながっているというのだが、しかしそれはどうつながっているのかよくわからない、とされてきた。森はそれをつなげて考える思考実験をしている。そして共同で第1の始まりへと帰ることがいまここで未来に向けて進むあらたな始まり(第2の始まり)をもたらすというようなふうになっているのではないかと考える。

というわけで、ハイデガー、アーレントがそれぞれ内在的には内蔵していたものの言語化できてなかった部分まであえて言ってみる、という試みとして貴重だと思った。ところで私自身は、第1の始まりと、第2の始まりについて、もっと違うように考えている。第1の始まりがずっと過去にあった、ということ自体がひとつの思いなしであるがゆえに、第1の始まりと第2の始まりを分けて考えることが間違っていると思うのである。そのうえで、このふたつが密接に関わっているということを、森とは違うふうに言おうと思う。そういう論文をいま書こうとしております。