長崎原爆の日67に震災学

今日は67回目の長崎原爆の日

朽ちていった命:被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)
「大内が死亡した際の記者会見で、最後に(治療を担当した)前川は、こういった。(事故について)「人命軽視が甚だしい。責任ある立場の方々の猛省を促したい」」※この本では人名敬称を略しています。
東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェー・シー・オーりんかいじこ)は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(以下「JCO」)が起こした原子力事故(臨界事故)である。日本国内で初めて、事故被曝による死亡者を出した。」
wiki.)
この本を、読んでいなかったことを恥じて注文する。
2011-05-14
読んでよかった。今だからこそ多くの人に読んでほしい(120816)。

(ウラン燃料の加工作業中)
「大内はパシッという音とともに青白い光を見た。」
「ところが、事故を起こした今回の作業では、この裏マニュアルでさえ無視された。」(大内は)「臨界に達する可能性は、まったく知らされていなかった。」

(東大病院に転院して、横たわった大内)「よろしくお願いします」
(細川看護婦は)「あれっと思った」「外見だけでは、一体どこが悪いんだろうとしか思えない」

(大内の)「染色体は、どれが何番の染色体なのか、まったくわからず、並べることもできなかった。」
「新しい細胞が生み出されることはなく、古くなった皮膚がはがれ落ちていった。(中略)表皮が徐々になくなり、激痛が・・」
絶望的、しかし
(担当の)「前川は妹の造血幹細胞が大内の骨髄に根付いたことを確信し」た。
「すっかり失われたはずの粘膜が再生していた。」
一筋の光明であったが・・・
「ボロボロになった体がある。(自分たち看護婦は)「一体なんのためにやっているんだろう」」という状況に。
「停止と再開をくり返した大内の心臓は(中略)再び自らの力で鼓動を始めた。」
「声は奪われても、顔の表情や体全体で気持ちを伝えてきた大内は、心停止を境に、家族のよびかけにも応えなくなった。」
1999年12月21日 大内久 死亡 享年35 被曝から83日目

(大内さんの遺体の解剖の結果)
「人間の体を内側から壊していく放射線被曝。
放射線の影響は、体のすみずみにまでおよんでいた。」
が「心臓の筋肉だけは、破壊されていなかった」
(解剖を担当した三澤は、いう)
「心臓からは「生き続けたい」という大内さんのメッセージを聞いた氣がしました。」
「大内の家族が折った一万羽近い鶴の一部は病院の待機室にずっと残されていた。」

大内のロウトにウラン溶液を流し込む作業をしていた篠原も211目に死去 享年40
「解説」の柳田邦男はいう
大内氏の八十三日間の凄絶な戦いのディテールを知った上で、(広島・長崎の)原爆被爆の重症者たちの症状の記述(悪心 嘔吐 発熱 出血 下痢 脱毛 口内炎 倦怠感 白血球・血小板の急激な減少 粘膜の壊死などが進行し..
 )を読み返したとき(中略)
一人一人の死に至るまでの、むごいとしか言いようのないプロセスが、突如物凄いリアリティをもって見えてきた。」
被曝治療83日間の記録
被曝したら!? - 詳細表示 - 光江の裁判記録(再生可能エネルギーの普及・脱原子力) - Yahoo!ブログ

震災遺構─南三陸町防災対策庁舎保存


東北学院大学がこのような活動をしていたのは迂闊にも知らなかった(アマゾンには未だ載っていないが、地元紙「河北新報」に紹介されて購入)。
まず、深いのはやっぱり川島秀一さんの「津波と海の民俗─宮城県気仙沼市唐桑町の伝承文化から」
おしまいの文「民俗として捉えられた三陸沿岸の社会と生活とを、まずは前提にして進めないかぎり、物理的な復興は成し得ても、住民に具体的な仕事と夢を与えるような復興はできないだろうと思われる。」

短文ながら本質を衝くのは、熊谷達也氏の「大震災があらわにしたもの」
「たとえば、広島の原爆ドームを思い起こせばいい。見るたびにどんなに心が痛んでも広島の人々は広島ドームを記念碑として残すことを選んだ。そして今では。誰もが知っている平和の象徴となっている。それと同様の選択を東北の人々もすべきだと、私は思う。」
同感。

【付記 河北新報2012.8.26
「◎原爆ドーム経緯と意義/広島女学院理事長黒瀬真一郎氏に聞く
 震災や戦争の記憶を後世に伝える遺構をめぐっては、住民から賛否の声が出る例が多い。原爆の爆心地に近く、戦争の悲惨さを伝える「原爆ドーム」(広島市)も、当初は保存に消極的な意見が地元では大半を占めたという。どのようにして合意がなされたのか。経緯を知る学校法人広島女学院(同)の黒瀬真一郎理事長(71)に聞いた。
 −戦後間もないころ、保存の考えはあったか。
 「原爆投下の惨劇を思い出すとの理由で、保存を望む声は少なかった。周辺の建物の多くは復興とともに取り壊された。広島市も維持管理の費用がかかることもあり、保存に消極的だった。結論が出ないまま、10年以上も置き去りにされた」
 −保存のきっかけは。
 「16歳で亡くなった被爆少女の日記がきっかけだった。亡くなる1年前の1959年夏、『あの痛々しい産業奨励館(原爆ドーム)だけが、いつまでも、恐るべき原爆を世に訴えてくれる』とつづった。日記に心打たれた市民運動家が『原爆の恐ろしさを伝えるために残すべきだ』と保存を求める署名活動を始めた」
 「初めは反対意見も多かったが、平和のシンボルとしてドームの保存を求める機運が高まった。66年、市議会が保存を求める決議をしたことで、保存に道筋が付いた」
 −遺構を残すことについてどう考えるか。
 「多くの人たちが無念の死を遂げたことを語り継ぎ、悲惨な出来事を二度と繰り返さないことが最も大切なことだ。広島はドームがあることで世界に平和を発信できる」
 「気仙沼も災害の遺構があれば、説得力を持って防災の必要性を訴えることができるのではないか。人は時間がたつと過去の出来事を忘れてしまう。現状からの復興と同時に、将来も見据えて保存を考える必要がある」
<くろせ・しんいちろう> 1941年、広島県三次市生まれ。教師として広島女学院中・高に44年間勤務。現在は法人理事長・院長。」】

              (南三陸町防災対策庁舎 2012.7)
河北新報「震災遺構」保存を提言 有識者ら研究会「防災教育の場に」
 東日本大震災で被災した「震災遺構」や教訓を後世に伝えようと、宮城県内外の有識者らでつくる「3.11震災伝承研究会」のメンバーが9日、宮城県南三陸町役場を訪問し、佐藤仁町長に町防災対策庁舎の保存を提言した。
 研究会の座長を務める減災・復興支援機構(東京)の木村拓郎理事長らが、佐藤町長に提言の趣旨を説明。木村理事長は「津波の恐ろしさを伝える遺構を一つでも多く残してほしい。防災対策庁舎は象徴的な建物だ」と訴えた。国内外からの支援にも触れ、「防災教育の場として保存することも恩返しの一つではないか」と話した。佐藤町長は取材に対し、「震災遺構を残す意義や趣旨は一つの考えとして承った」と述べた。
 研究会のメンバーは9日、気仙沼市なども訪れ、震災遺構の保存の必要性などを訴えた。これまで岩沼市塩釜市などにも提言しており、今後も宮城県内の沿岸自治体に説明する。2012年08月10日金曜日」

3.11震災伝承研究会

                (南三陸町防災対策庁舎 2012.7)
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0005284486.shtml
河北新報 防災庁舎解体は広く議論を 南三陸町 職員遺族が町長に陳情
 町職員ら42人が死亡・行方不明となった宮城県南三陸町の町防災対策庁舎について、町職員の遺族が9日、保存や解体の議論を幅広く行うよう求める陳情書を佐藤仁町長に提出した。町は10月末までに解体する方針を示しているが、遺族は解体時期を延期し、時間をかけた議論を求めている。
 陳情書は、遺族間でも庁舎の取り壊しや保存をめぐり、さまざまな立場や意見があるとして、遺族以外の声も聴く機会が必要だと訴えた。趣旨に賛同する遺族10人以上が署名した。
 庁舎で父親を亡くした及川渉さん(30)ら遺族6人が町役場を訪問。及川さんは「震災から1年以上が経過し、遺族間でもさまざまな考え方が出ている。時間をかけて考えたい人もいる。議論を尽くし、その上で再考してほしい」と述べた。
 報道機関の取材に、佐藤町長は「遺族の方々の思いはしっかりと受け止めさせていただいた。内部で検討したい」と語った。及川さんは「亡くなられた町民の方々に祈りをささげる場所になっていて、遺族だけで考えていいものなのかと考えた。一度立ち止まって考えたい」と話した。
 佐藤町長は昨年9月、遺族の心情に配慮して庁舎解体の意向を表明。現在、10月末をめどに町内の被災施設36棟の解体作業が進んでいるが、庁舎の解体工事の着工時期は未定だ。2012年08月10日金曜日」


                         (南三陸町防災対策庁舎 2012.7)
東日本大震災から500日に - JIEN記


http://www.asahi.com/national/intro/TKY201206300397.html

熊谷達也氏の結びの文
「つまるところ、この国の最大の問題は、多様な価値観を共有できない社会の仕組みを、盲目的に作り上げてきたところにあるのかもしれない。しかも、それは、皆が互いの幸福を願い、皆で一緒にやってきた結果であるところが、実に根深い。」
これは、「この国」というか人間の業の問題と思うのだが、東北にとっても震災前よりよいものにするという強い意志の持続が求められており、だからこそ「震災遺構」の保存や伝統(民俗)芸能の活性化といった具体が評価されていると思う。
【関連リンク】
7/27 東北学院大学創刊「震災学」が河北新報の朝刊に掲載されました - 東北学院大学災害ボランティアステーション
2011-09-24 - JIEN記
津波湾・中浜小・ジオパーク─地球との共生へ - JIEN記
忘れまい2011年─大晦日三陸行・紅白 - JIEN記
震災遺構の保存について 3.11震災伝承研究会第1次提言
災害遺構と地域と防災―それぞれの「時間」と感情、モノのちから― - Togetter

「【『震災学』の発行にあたって】
 震災から1年が経過し、これまでの対応を顧みる反省の時期にさしかかっている。
 震災が問いに付したことは数知れないし、測り知れない。エネルギーの問題、ジャーナリズムの問題、福島第一原子力発電所事故、津波、どれをとっても問題の及ぼす範囲は幅広くてどこから切り込むべきかの糸口すらよく見えない。・・この本が、問いを共有する者たちにとって、互いに意見を交換し合う場となることを望んでいる。」
                       (上記 東北学院大学HPより)
↓その前に読むべき震災後の新しい教養

柳田国男と今和次郎 (平凡社新書)

◎注目記事
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/120807/20120807045.html