まずはファッションから

えっと、初めましての人初めまして。
そうじゃないひとどうも、柑橘です 。

あまり長文は打たないのでトレーニングがてらブログ開設しました。

よろしくお願いします


では、以下本編


@takashipom ファッションシーンでビジネスの絡みを悪と言い切れる時代は30年前に終わってるだろうにと言った問いかけをスマート編集長にしたら、今もまだ残ってると言ってました。ファッションシーンも面白いので、一度公開放送の座談会とかやりたいと思います。


という村上隆氏の一文を見てまぁいいタイミングだったのでファッションの事でも。

現在のモード服、特にメンズの話ですがは実際のところスターデザイナー不在と言われはや3年以上たちますね。

Dior hommeのエディスリマンの退任以降リーマンショックやマックイーンの死去等、目に見えてパワーを失っています。

で、僕はいま改めてエディの仕事を再評価するべきではないのかと思う。



おっと、つい端折ってしまいそうだがブログなのでどこまでも書くか。。



まずはファッションの役割について考えなければいけないか。
この役割は社会学とか文化人類学民俗学等のアプローチによって変わります。(というか求められる結果が違うので当然なんですけど。)

その詳細については本で勉強して頂くとして、僕がよく使うファッションの役割とは自己認識の作用。

簡単に言えば「この黒い服は私に似合う」「あの服は私らしくない」など服を第二の皮膚として捉えることですね。

これはモード服だけじゃなくて、古着、仕立等全ての被服にまつわるもの


んで、じゃあさらに限定してモード服の役割について考えたいと思う。

端的に言えばモード服の役割(存在意義?)は否定にある。

一日前の自分を否定/更新するために存在している。(たぶんこれは個人のモード服との付き合い方。)

じゃあコレクションという発表形態をもったモード服の役割とは何か?
僕は「服とは何か?」「美しい身体とは何か?」という問題を提起するものでなくてはならないと思う。

コム・デ・ギャルソンを例にすると、ぼろニットとかこぶドレスがわかりやすいかな。
あれらの評価されている点は西洋ファッションや身体に対する批判でしょ

そこでエディスリマンの仕事とはなんだったのかというと、着れないリアルクローズを作ったことだと思うんですよ

これはとても難しい。

着れないリアルクローズに価値はあるのか?

サイズが合わないユニクロに価値はあるのか?ない。
サイズが合わないLanvinに価値はあるのか?ない。

サイズが合わないDior hommeに価値はあるのか?ある。



そのロジックの回答はあえて変化球で答えるならDior hommeが消費者に科した難題(あるいは無茶振りの選民思想)にあると僕は思う。

その難題とは、「筋トレすんな、でも痩せろ」である。

僕から言わせてもらえばそれお前のヴィーガン押し付けてるだけじゃねえかなんだけど、実際この押しは結構重要で、NYのサラリーマンとかを例にとると、デブは自分の管理もできない人間だから仕事も管理できないというロジックがありますね。

それを更に押し進めた精神性をファッションヴィクティム/キッズに約束したわけですよ。

究極の身体を手にするには痩せなければいけない。
ビルドアップしてはならない。


この身体性が世界服飾史に存在しただろうか。

ないよねー。

エディの仕事とは簡単に言えばビルドアップすら否定する、飽食の時代に最もストイックでマイノリティな思想と身体をプロデュースしたことではないだろうか。

その仕事はある意味狡猾で、ワイドパンツを出した次のシーズンにスキニーを出すという一度甘えたものには過酷なトレーニングだったと思う。


彼の一連の発表は何度も甘えを許しながら何度も身体を否定し続ける活動であったと言える。




うん、こんなもんでどうすか?

ちょっと書くつもりが疲れたよ...



で、再評価して現在の批判にたちゆくならば...


そうだね、まず現在のブランドにエディほどわがままなクリエイションがあるかと言われれば無い。

どうにかして着てやろうとかあれは僕には着れないなーってのがない。

単に高いだけ。

着ているだけで何か特別な価値観を約束するアドバンテージを有しているものがあるかっていうとなんもない。
バーバリーに至っては東京ガールズコレクションと同じことやってるし...
まぁそれがいいか悪いかは置いておいて、危険な方向にシフトしているのは間違いない。


エディ以降、特にストリートが話題にならなくなってから店に人が並ばなくなっていきブランドの商品の価値というのは大きく変わってきた。

もう限定品で飛びつくヴィクティムはいない


個人的にはnikeairで強盗が起きたりエイプの限定商品の列に転バイヤーがいた時代ってのは面白かったと思う。

いまやお得意様には店から電話のかかってくる時代だからね。
有り難いが、お金があれば誰でも着れる服は誰も着ないんじゃないかなと思う
必ずあるのが前提の世界で誰も着れない服(自分の生活圏で着ている人のいない服)が求められているのではないか

これからのモード服に求められているのはある意味思想的なものだと思う。

というよりも脱構築的にマジでダサイ服を作るしかこの状況はないんじゃないかってくらい。