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09年01月31日(土)

下小原

甲田町

その小田村と甲立村が合併するのが昭和31年*1

小田村の大字は「高田原」「上小原」「下小原」、甲立村の大字は「糘地」「浅塚」「深瀬」「秋町」「上甲立」「下甲立」。

新町名の調整がつかず、「小田」と「甲立」から一字とってしまうというのはよくある話で。

それだけでなく、吉田口駅を擁する上・下小原地区の強い反対があり、吉田町との合併を求める運動が甲田町の発足後も続き、いろいろあって*2、和解がなったのが昭和33年のこと。

09年01月30日(金)

記念碑

小田村

明治22年の町村合併で、「高田原*1」「下小原*2」「上小原*3」の三ヶ村が「小田村」となった。

甲立駅のある「大土川」筋が高田原で、古代の高田郡の中心であったことに由来するとかしないとか。

吉田口駅のある「戸島川」筋が小原で、『和名抄』の「麻原郷」がここであったろうというだけあって、古墳が集中している。

「を」は「苧*4」で、「麻績村」の「麻」と同じ読み。(蛇足)

県道212号の途中に記念碑があり、台座には大きく「小」「田」「村」と。

村内の「明治廿七八年役*5」「明治三十二年役*6」「明治三十七八年役*7」の従軍者の名が刻まれている。

f:id:kanototori:20090130213409j:image

*1:たかだばら

*2:しもおばら

*3:かみおばら

*4:麻の繊維から作った糸

*5日清戦争

*6北清事変

*7日露戦争

09年01月29日(木)

吉田口駅

芸備鉄道

三次と広島を鉄道で結ぶとなると(明治の話)、昔からの街道「出雲街道*1」に沿って通せば主要な町を経由できてよろしい。のではあるが、途中の「上根峠*2」があまりにも難所なので、東にずらして「三田街道*3」を通ることに。

そういう路線になる予定ということから、明治45年4月、吉田町に「芸備鉄道線路変更期成同盟会」がつくられた。

迂回して吉田町を通る経路

  • (井原村*4-志屋村古屋*5-郷野村入江*6-吉田町-小田村*7 )

に変更してほしいと要求。(線で結ぶとこういう地図に。)

線路用地は安く提供するし停車場の土地は寄附すると条件を出す。

そして実地踏査をしたところ、志屋村と郷野村の間の「横山峠」を通るにはトンネルにしなければならないということで、線路変更はならなかった。

そのかわり、小田村内の二つの駅名は、近隣の線路の通らない町村名をつけ「吉田口」「甲立」となった。

f:id:kanototori:20090130005316j:image


参考

『高田郡史 下巻』高田郡町村会 1974

*1:今の国道54号のへん

*2広島市安芸高田市の境

*3:三篠川の筋

*4:現「井原市駅」安佐北区白木町

*5:安佐北区白木町

*6:安芸高田市吉田町

*7:現「吉田口駅」安芸高田市甲田町

09年01月28日(水)

吉田口駅

駅前は37号と212号の両県道と通じるロータリーが整備されている。

f:id:kanototori:20090128204528j:image

ホームから西を見ると駅舎とロータリーがあって、さらに「三矢の駅」の看板も見える。

f:id:kanototori:20090128205745j:image

ここに「鉄の駅」、県道の向こうに流れる戸島川に「川の駅」、そして特産品の梨で「道の駅」を、という構想。

駅の写真は以前、

駅の写真でひとこと - はてなハイク

に3点載せている。

09年01月27日(火)

戸島川西岸から

吉田口駅に至る県道

wikipedia:広島県道212号吉田口停車場線を見ると、

# 起点:安芸高田市田町下小原・JR芸備線吉田口駅前広場

# 終点:安芸高田市甲田町下小原・吉田大橋北詰交差点(国道54号交点)

と、停車場線はたいてい短いのであっという間に歩き終える。

途中、江の川の支流「戸島川*1」を渡ることになる。

上の写真の標識を見てから橋を渡り終えると県道37号と交差する。

wikipedia:広島県道37号広島三次線は対照的に長大な路線で、

* 起点:広島市南区比治山本町・平野橋東詰交差点(国道2号・国道487号交点)

* 終点:三次市秋町・錦橋東詰交差点(国道54号〔国道183号重複〕交点)

* 総延長:65.061km

だいたいは芸備線に沿っている。吉田口駅近辺で言うと、37号が太いバイパスで、212号が狭い旧道。

f:id:kanototori:20090128010007j:image

こちらが、同じ交差点を37号の南側から見た標識。

どちらも「吉田口駅」が隠してあるようで。無人駅だから?

*1分水嶺「泣き別れ」に至る。

09年01月26日(月) 八百日目

橋名板

吉田大橋

そこから国道54号を江の川に沿って三次方面へ。

吉田町四軒屋を過ぎると甲田町下小原。合併前の境界線。

f:id:kanototori:20090126201048j:image

f:id:kanototori:20090126201047j:image

そして右手に見えてきたのが「吉田大橋」。橋の両端には「高屋大橋」バス停がある。

これが県道212号「吉田口・停車場線」で、橋も「JR吉田口駅」も旧甲田町にある。

09年01月25日(日)

変化か併存

その外堀地区で見かけた二つの急傾斜地区の図、の一部。

「吉田」の「吉」が2種類見られる。

f:id:kanototori:20090126002610j:image:right

f:id:kanototori:20090126002952j:image:right


色あせてるほう*1が古そうではあるけれど、

どちらの字体が先とか後とか、そういう厳密なものでもない、と。

*1:そっちには昭和54年と書いてあった

09年01月24日(土)

工事のお知らせ

外堀川の砂防工事

広島市は、どこだ、無いか*1

では、安芸高田市ハザードマップPDFここから見られる。

広島の地質・地形だと、土砂災害の危険な箇所があちこちにあるので、*2前項に見たような崩壊危険区域の地図があったり、砂防工事がほうぼうの小河川で行われたりするのを目にする。

例えば写真は吉田町の外堀川。「外堀」は郡山の北東にあって江の川の西岸の地区。北にそびえる甲山からの水が外堀川となって流れてくる。

f:id:kanototori:20090124231329j:image

*1:ネット上で

*2広島県に「土砂災害」が多いのはなぜ? http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/sand/west/page1/page1_04.html

09年01月23日(金)

看板

行森川の支流

可部町勝木、国道191号の北にそびえる「火の見山」。

この山の南麓に流れる小川が行森川に集まってくる。

山の中腹に作られた火の見山墓苑は「北山口川」のそばにある。

国道脇から500mのぼることになるが、山林を分け入って行くわけでなく、

f:id:kanototori:20090124000637j:image

北山口川と東隣の松原川には、砂防ダムが整備されていてちゃんと道がある。

実際に足を運んだわけではないけれども。

09年01月22日(木)

yukimori

県道の変貌

北上した県道268号は国道191号に合流して終点。

それまでずっと右手にあった行森川を一回は渡ることになる。

近隣に掲示してある案内図の一部から。

南北に通る一番太い道が、少し西寄りになったバイパス。「鍛冶屋橋」を渡る。

そのすぐ右にある細い橋は「行森橋」だが、その下流にある橋も「行森橋」で、こちらが元々の県道。(「簡単地図作成サイト」にて対比。)

f:id:kanototori:20090122211935j:image

その旧道の曲折するさまは、上の写真の標識によくあらわれている。なぜか「191」の「9」だけが消えかかっているが。

09年01月21日(水)

大野・宮野

跡を横目に

さて、そこから県道を北に進んで行森へ向う。

太田川を右に見ながら細い道。川の手前の畑の中に少し見える土の帯。川の向こうには宮野の集落。

少し進むと山に阻まれて太田川は見えなくなる。

f:id:kanototori:20090121200054j:image

上の写真の谷間の底を行森川が流れる。土の帯は可部線の跡。

このへんから道幅が広くなって、右手に行森川を見ながら北上。

f:id:kanototori:20090121200938j:image

f:id:kanototori:20090121200937j:image

もし、写真の「勝木橋」よりも南が開通していたら、前項のような細い踏切を通らずに太田川を渡れたのでしょう。

そういえば、この橋は見覚えがある。



中国痴呆建設局」さんの記事で豊富な写真を見ることができまする。

09年01月20日(火)

可部町勝木

大野バス停付近の道

前項のGoogle地図を拡大してみると、まだ可部線の鉄路が残っているころの画像のようで、今ではもう大野の辺りは県道に置きかわっている。

この県道267号を可部線後の代替バスが可部〜飯室間を通っており*1

その路線の途中にあるのが大野バス停。安芸亀山駅跡はそこから西へまっすぐ。

f:id:kanototori:20090120233824j:image

上の写真の奥が東、可部方面への道。右の塞がれている道が西へ向う元々の県道。手前の道が新たに県道となったルート。その名残が青い標識に見える。北から下りてきた車は、踏切を渡った後、ここで「可部」と「安佐動物公園」への案内表示を見ることになっていた。

f:id:kanototori:20090120233823j:image

次の写真は大野バス停のすぐそば、旧「猿猴河内踏切」。対向車を確認しつつ、くの字の坂を一気に渡るような、そんな踏切。

右から上ってくる県道267号が、ここで旧鉄路に重なる。正面の立入禁止の先も鉄路の跡。

左から下りてくるのが県道268号。北の「勝木」と南の「安古市」を結ぶ道で、途中に安佐動物公園がある。ここから少し先の橋を渡るまでのあいだ、県道が重複する。

09年01月19日(月)

大野神社

「大野」の「野」

その大野神社の石鳥居は昭和三年の建立。

扁額のどの字も黒々していて、軽快な動きで心地良い。

「野」の部分は現行の形とすこし違って、「田」「予」「土」の順に書かれた崩し字。

google:野 異体字で検索したりすると大体は「埜」のことを言っていたりするものの、

こちらのブログの記事に見える看板の「野」の字がこれにあたる。

「野(の)」は山裾の緩傾斜地に名付けられる語。

この「大野」と「中河内」は水越山の南麓。

太田川を挟んで対岸下手、川の湾曲部には「宮野」。

周りの集落と比べて「大野」が大きいわけでもないが、奥行きはあるほう。それか「小野」の転じたものか。

09年01月18日(日)

大野神社のタブノキ

安佐北区可部町勝木の大野神社。

大野の場所を一般に通用しやすく言うと、もと可部線安芸亀山駅のあった地区のこと。

f:id:kanototori:20090118181434j:image

奥に本殿があってそれを囲む玉垣の内側にタブノキの巨樹がはちきれんばかり。

手前の段に下りたところに拝殿が建っていて、

f:id:kanototori:20090118183043j:image

屋根の上にすこし枝が見えている。

09年01月17日(土)

灯籠と貼り紙

海蔵寺のタブノキ

階段から見上げると灯籠の先には山林。無数の枝がくねくねと伸びていて、一本でも鬱蒼とした雰囲気をつくる。

灯籠の隣の街灯に紙がくくりつけてあり、「椨(タブ)の木」と題して説明している。

末尾に「ここにタブノキが自生しているのは、かつて瀬戸内海がすぐ側であった事を示している」と、草津の町の地形の変化と絡めている。

f:id:kanototori:20090118000737j:image

一般的な説明はwikipedia:タブノキ等を参照のこと。

09年01月16日(金)

海蔵寺参道

見はるかす灯籠

御幸川を遡っていくと草津の町古い町並みがあって、その北の行者山には国泰寺や草津八幡海蔵寺

海蔵寺の参道山陽本線を跨いでまっすぐ階段をのぼる。

つきあたりに明治時代建立の石灯籠が立っていて「一畑薬師如来 沽輝*1」と。

「輝」きを「沽(う)*2」る?それとも「沾(うるお)*3」す?

f:id:kanototori:20090117003645j:image

*1:「光」+「冖」+「斗」

*2:売買

*3:潤

09年01月15日(木)

警告書

風前の灯籠

西区庚午南。

御幸川の河口付近に広がる埋立地で、西区スポーツセンターや草津公園などがある。

寺社の境内ではなく*1道端に立つ石灯籠。

草がからみついていたり斜めになっていたり、「奉寄進」と刻んである横にセメントで修繕したあとがあるなど、くたびれたようす。

f:id:kanototori:20090115224338j:image

立てかけてある看板は(貼り紙があって全文読めないものの)、危険なので近よらないように注意している。

さらに貼ってある警告書は

ここの水域は河川の水域です。

河川の水域へみだりに物件を放置することは、河川法上禁止されています。

放置されている下記写真物件の所有者は速やかに撤去してください。

撤去しない場合は、河川法の規定により、罰せられることがあります。

また、物件の所有者等を知っておられる方は、下記の事務所まで連絡をお願いします。

なお、この警告書を設置してから2週間を経過し、何らかの対応がない場合は、当局にて撤去します。

平成20年3月26日

河川管理者広島県広島地域事務所長

というもので、その後どうなったやら。

この写真をとったのが平成20年10月のこと。すぐそばの御幸川では重機が川床を動き回っていた。

f:id:kanototori:20090115224709j:image

*1:関連はあるにしても

09年01月14日(水)

祇園四丁目

豪快に献備

つけたしになるが、

広島市文化財団文化科学部文化財課の遺跡分布地図を見ると、

http://www.mogurin.or.jp/maibun/L/L-8.htm

この境内と山林は「南御所(みなみごしょ)跡」という山城跡。リンク先に略測図もある。

その歓喜寺と大歳神社の境内を下りたところに大きな石燈篭があって、

面いっぱいに「獻*1備」の二字。

そんなにすり減っていないからか、読めなさそうでいて一画一画くっきりと伝わる。

*1:献

09年01月13日(火)

祇園四丁目

祇園の歓喜寺

大歳神社の隣に歓喜寺。鐘突台もある。

伝承 元慶8年、真言宗僧宥尊が武田山麓松尾山に開基し、松尾山徳達寺と号し、祇園坊とも称した。嘉元年間、安神社南側に移転、感神院と名のる。明治4年、神仏分離令により、現在地に移転。歓喜寺と改め現在に至る。

『石仏石神等民間信仰調査報告』広島市教育委員会

松尾山はここから少し北の、現在の祇園中学校のあるあたりの山林。安*1神社というのは、

古くは祇園天王社・祇園社・須美津社などともよばれたが、明治六年(一八七三)現社号に改称。(略)勧請の詳細は不詳であるが、元慶五年(八八一)別当感神院の祖僧宥尊が大和長谷寺より南下安*2村松尾山へ勧請したという。正安元年(一二九九)兵火に遭い焼失したが、嘉元年中(一三〇三-〇六)武田氏がかつての御旅所であった現在地へ再建。

『日本歴史地名大系35 広島県の地名』平凡社

とのことで、この一組の寺社で祇園社を長いこと続けていた。

現在の安神社の位置は旧街道ぞいで、この歓喜寺の真東1キロほどの所にある。(「電子国土」の地図作成サイトへ)

*1:やす

*2:みなみしもやす

09年01月12日(月)

大年神社

ゆらゆら大歳

安佐南区祇園四丁目の大年神社。

広い平坦面の上で歓喜寺と隣り合っている。背後に小さな森を控えて北面する小祠。

安芸武田氏の古城(銀山城)の南の山裾に位置する。

往古、この社地は武田氏在城時、兵糧庫のあった所で農業祖神である大年神を奉斎したとの言い伝えがある。

広島市歴史科学教育事業団『石仏石神等民間信仰調査報告』1991

石段をあがって平坦面入口には石鳥居。そこには「大年神社」の文字。だいたいの地図はこの表記。

f:id:kanototori:20090112214050j:image

その石段をあがる前に注意書きがあって、

お願い

大利神社歓喜寺行事以外夜間の出入は遠慮して下さい

なお

神社佛閣に参詣して焚火をしないで下さい。

氏子総代

f:id:kanototori:20090112214217j:image

と、ここでは「大利」。

上掲『石仏石神等民間信仰調査報告』の、「大歳神・大年神・歳徳神」には37箇所*1載っていて、多数を占める表記は「大歳」。「歳徳」は1例。

熊野町の「大年原」のように、「歳」と「年」にはっきりした区別はないでしょうが、

中には落合南九丁目の「大歳神社・大刀自神社」の併記があったり、

「おおとし・おとっさん・おおとっさん」などよみかたが少しづつ違ったりする。

このほか、「大歳」の音読みによって「だあさいさん*2」もあり、

「太宰社(ださーさん)」と載っているのは大毛寺の大歳神社で、「虹山の大歳神社」のこと。

*1:広島市内の調査

*2:口田南二丁目

09年01月11日(日)

井口大歳神社

火の粉はらはら十二神祇

神社の前、道路に面して町内会の掲示板があって、ちょうど見かけた時は「平成20年大歳神社秋祭り」のお知らせが貼られている。カミキリムシもくっついているが。

昨年の日付は前夜祭が10月18日、神楽・煙火が午後5時30分、例大祭・子供神輿がその翌日、とある。

『いのくちばなし』(平成2年)にも、

いのくちの神楽は、ようつづいたもんじゃ。

わしらのおじいさんの、その前のおじいさんも舞いよったから三百年からの伝統がある神楽でのう。

また、煙硝のものすごいこと。昔はたのまれて草津の港祭りや、五日市にも行ったりしたもんじゃ。

花火に入れる炭は、桐の木の炭でないとだめで、これに混ぜ合わせる硫黄、硝石、鉄の粉など、その調合がそれぞれの家伝として秘密にしていたもんじゃ。たまに煙硝がはじけて手足をやけどした時などには、小便つぼにつっこんだら、早うなおるとかいうたりしとった。

と、この地域で特徴的な火薬の使用が語られる。「草津」は井口村の東隣、「五日市」は西隣。

拝殿の横に鉄骨(昔は木)で建てた舞殿で舞う。この神楽は大変動きの激しい舞で、舞殿にムシロを敷き水を打つ。その上で白足袋で演じる。夜頃から明け方まで篝火が焚かれ、神楽の演目の切れ目ごとに花火による美の芸術が展開する。二〇〇年くらい前から続いていたが、戦中・戦後一時中断した。昭和五十年(一九七五)ごろ復興した。用具には昔のものも含まれている。

広島市『井口村史』平成四年


まあ、実際に見ずに委細は尽くせないわけで、

井口地区民芸保存会による「井口十二神祇神楽 〜吹き火と十二神祇の神祭り〜 」のページを見るのが一番てっとりばやいのでした。

09年01月10日(土)

いす

椋もむくむく

鳥居をくぐってすぐ、左手にあるのが椋の巨樹。根元には台があって「お休みください」と。

前項と同じく『いのくちばなし』から、「大歳神社の社叢」より。

 三百年をこす、あおぎ(くろがねもち)が三本、どれも秋になると、真っ赤に実がなります。

 古老の話では、鳥が実を食べて、付近にふんをしたのが自生して大きくなったものらしい。(略)

 樹齢四百年をこえるこけむした椋の木があります。十五メートルぐらい上の枝のほら穴に昭和二十年ごろまではフクロウが巣をつくり、七・八月ごろになると、五・六匹の雛が、かえっておりました。

 それから、何十本と生えている杉の木は、今から九十年くらい前に、十八・九になる娘さんが植えたものです。そのさいに、銀杏(ギンナン)の雄木と雌木も植えたそうですが、雌木の方は、実がなるからなかなか大きくなりません。

その他、樫・松・藤・ヤブツバキ・ヤブニッケイなどなど、いろいろな種類の木がいろいろな時期に育ってきた。

f:id:kanototori:20090111002726j:image

09年01月09日(金)

井口大歳神社

井口大歳神社とその周辺

西区井口二丁目の大歳神社は万寿元年*1創建と伝える。*2

神武天皇が井口に立ち寄られた際、船を繋いだと伝える場所を社地として創建したと伝えられている」と説明板にある。昔の海岸から大歳川をさかのぼって500mとかからないものだから、そういう話もついてくる。

住宅の造成で移転といったこともなく、樹齢数百年の木々に囲まれてながら鎮座を続ける。

一方で周囲の変化は激しくて、大正二年*3には井口村内の「岩神明神」「浜胡祠」「小己斐明神」を合祀。昭和39年〜57年には広島市の西部開発事業によって、埋立地(商工センター等)と住宅団地にぐるりと囲まれるような形になった。

地図はこちら

そんな古くからの集落は大きく「浜」(海岸)と「揚*4」(内陸)に分かれる。井口一丁目と二丁目くらいの規模。

毎年、十月十九日に近い日曜日には、井口二丁目(揚地区)にある大歳神社のお祭りが行われ、よごろ(祭りの前夜)には、神楽が奉納されます。

(略)

つぎに、この神楽が奉納される大歳神社は、新宮さま、あるいは活疱明神などと呼ばれていました。浜の子どもたちとけんかした時など、「揚のかっぽうが」とはやしたてられたものでした。

井口の昔を歩く会『いのくちばなし』1990

小学校の学区をさらに縮めたような距離感が、大正の合祀以前の神社の分布に対応する。

『芸藩通志』にも大歳神社の別名を活疱明神といい、疱瘡の神として信仰を集めたと記す。大歳神といっても性格はいろいろある。稲荷のような祇園のような便利な存在か。

*1:1024年

*2:確実に遡るのは貞享二年の棟札

*31913年

*4:あげ

09年01月08日(木)

高松山方面

あけわたる東

螺山の東端、大歳神社から真東を眺めると、向いに聳えるのが熊谷氏の城跡「高松山」。「説明板諸相 登山道入口」のあたりを参照のこと。

高松山の麓、街道筋の「可部町」は、

朝日遅ク照シ西ハ両中野村郷中広ク両四日市村歴先ニハ大毛寺村今井田村山遠ク夕日遅ク没シ申候故中分ニ相当リ申候

『国郡志御用につき下調べ書出帳』文政二年*1

盆地の中ほどは「上中野村」と「下中野村」*2

東西山遠ク日受宜ク土地上分ニ相當リ申候

その手前にポツンと浮かぶのが山中氏の城跡「船山」。神武東征に絡めてのなんやかんやがある*3

船山以西が「大毛寺村」。

日受ノ事東方山高ク朝日早シ西山近ク昼後陰多ク夕日早ク隠レ中分

やはり朝夕ともに長時間照らさないと日当たりが良いとされてない。

*1:以下引用同じ

*2:両村入交り

*3惣社とその周辺関連

09年01月07日(水)

大歳神社

虹山の大歳神社

安佐北区亀山四丁目の大歳神社。

螺山北麓の虹山団地*1の造成*2に伴い現在地の団地東端に移転。

国道191号から団地に入る道路の左手に境内が見える。梅の季節に紅白の目立つところ。

f:id:kanototori:20090107235121j:image

f:id:kanototori:20090107235119j:image

09年01月06日(火)

大歳神社社殿修築記念碑

有崎城址からの眺め

この山は神社あり公園あり文学碑*1あり、城跡もあり。参道の麓に「史蹟有崎城跡」の碑と、鳥居には「城山」の扁額も。

昭和六十二年*2の社殿修築記念碑にここの地勢が述べられる。亀も眺めている。

文政十二年 両城鳴石平より二河流域に至る埋立が完成 この地一帯は文政新開と 命名された明治十九年 呉軍港が制定されるや此の地に安芸郡郡役所が置かれた

大歳神社は当地域の守護神として 明治四十三年呉港を一望するここ有崎城址に 遷座され爾来この地域は 神恩豊かに繁栄した

本年恰も遷座七十八年を迎えるにあたり 広く協賛の篤志を得て境内を整え 社殿の大修築を完了した

南を望めば呉港のクレーン群、

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東を見下ろすと呉線が市内に伸びる。

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*1正岡子規

*2:西暦1987年

09年01月05日(月)

呉市海岸

狛犬と紋

そういう取り合わせの大歳神社なので、

狛犬の台座に紋が二種類。向って右には抱き稲、左には金の字。

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09年01月04日(日)

崩壊危険区域

金毘羅山の大歳神社

呉市の二河川西岸、海岸一丁目まで山塊が突き出している。

階段をのぼって最初の平坦地に金毘羅山児童公園。

さらにのぼると大歳神社が鎮座している。境内には金毘羅宮と愛宕神社も。

ここの場合は、大歳神社はあとからやってきたので地名のメインは金毘羅宮。

元 和庄村字堀に鎮座しましたるを周辺に人家次第に増え 神域陝*1隘となりたり

明治四十三年九月 当 金刀毘羅山に遷座せられたり

  境内の由緒書から

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*1:狭?

09年01月03日(土)

大年公園

Googleマップ大歳神社あたりを見ると、

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大歳神社ではなく愛宕神社のほうが目標物に採用されていたりする。メジャー感の差?

それはそれとして、神社の境内は緑に覆われていて、その北側にも緑が広がっている。

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それがこの「大年公園」。

熊野町と熊野郵便局による「簡易生命保険積立金還元融資施設」である、という看板も立っている。

09年01月02日(金)

出来庭の大歳神社

大正の平和

その大歳神社の鳥居の前にある標柱*1

表側の文言は、右「以敬神可為光」左「以如在可為禮」。いい具合に彫りの深さが影に出る。

建立は大正八年*2十月。左の碑の裏面に「平和克復記念」とある。ベルサイユ体制のはじまりはじまり。

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*1:しめばしら

*21919年

09年01月01日(木)

説明板

大歳原

熊野町の旧熊野村の字の一つ「出来」は筆の里工房の南のあたり。

その中の小字「大歳原(大年原)」のあたりは神社が集まる。

写真は教育委員会の設置した境内図。

中心にあるのが大きな拝殿をもつ「大歳神社」、穀物の神。

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東隣には「大年愛宕神社」、火伏せの神。

西隣には天然記念物のモッコク。

両社の入口に並ぶように建つ「佐太夫神社」、梶山佐太夫を祀る。

大歳・佐太夫どちらも享保六年に勧請・創建したと伝える。

『熊野町史 通史編』*1の「町域の神社・小祠」を見るだけでも、

享保五年勧請が萩原神社(萩原)・土岐神社(萩原)・厳島神社(城之堀)

享保六年勧請が胡子神社(萩原)・皇城神社(萩原)・厳島神社(城之堀)・大歳神社(城之堀)・稲荷神社(城之堀)・初神神社(初神)

が挙がっている。

*1:「熊野町立図書館-デジタル熊野」http://www2.lib.town.kumano.hiroshima.jp/doc/ 内PDF

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