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09年08月31日(月)

梅川清水

天水(あまず)

同じく東区。

牛田新町四丁目の住宅地の中に清水があり、皇子神社が隣接する。背後の丘陵も団地になっている。

平成8年に屋根が奉納されており、「天水の名水」の名が掲げられている。

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『藝藩通志』に「梅川清水」の名で、安藝郡の「古蹟名勝」に挙げられている。

新山村*1にあり、泉上の丘を御水山、又天水山と稱す、天水は、甘水の義にて、此水あるよりの名といへり、昔は此水を、公厨の用とせられしとなり、今も山井てふ酒を醸する*2には、此水を用ふといふ

「公」というと、安藝の国府か安藝の守護武田氏か、それか浅野氏以前の広島城主か。*3

「天水」の名は、北隣の「戸坂くるめ木」にバス停があるほか、「天水団地」やマンション名にも使われる。

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*1:現牛田新町

*2:かもする

*3:とりあえず羅列

09年08月30日(日)

kanototori2009-08-30

二葉山の井戸

東区の二葉の里東照宮奥の金光稲荷に御神井があり四角い蓋に覆われている。

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古書に曰く。東照宮山の東わきを俗に風呂の谷山といい、常に水が湧き、旱魃にも絶えなかった。これは大阪の「亀井の水」によく似ているところから人は「亀井の水」と呼んだ。

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山を登って稲荷をめぐる道から、「玉秀稲荷」から脇道にそれて「御神井」。

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円い井筒に、蝶番つきの円い蓋。「のみみず 飲料水 汚さないで下さい」。それとも「のみみず」は振り仮名か。

09年08月29日(土)

kanototori2009-08-29

誓真釣井

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誓真はもと伊豫の人で、天明のころ厳島に来て神泉寺の番僧となり、竹林庵に住んでいた。種々の公益事業を行ったことで知られている。飲料水の不足に苦しむ島民のため、各所に井戸を掘った。それらは今日誓真釣井とよばれている。また石段を築き、道路を石だたみにした。宮島名産の「飯杓子」も、島民に生業を与えるため、誓真が弁財天の琵琶の形から着想して島民に教えたものという。

という立て札とともに御影石の井桁が民家の間にある。10ヶ所掘り当てたとされる内の、4ヶ所が現存し、ほか2カ所は筒だけが残る。

『藝藩通志』には「孝義」の項目に「誓信」の名で載っている。

道心者誓信 口に佛名を唱へつゝ、手にさま〴〵*1の調度を作りて人にあたふ、又島中古き井をほりさらへ、通路をなをし、石壇などきづき、人の爲に力を盡して、その身の事は少しもはからず、寛政三年*2六月、賞あり

*1:さまざま

*2:1791年

09年08月28日(金)

東広島市西条

酒蔵の水

酒造用の水というと、身近なのは西条の町。

西條鶴のページにあるように、創業以来の井戸「天保井水」の碑が蔵の前の道端に立っていて、汲み上げた水が竹筒から注いでいる。

貼紙には「当社営業日・(平日) 午前8持から午後6時まで」という汲み上げる時間と、車で来た人へのマナーの呼びかけ。

09年08月27日(木)

尾崎神社麓

八幡水

表参道の手水鉢の向かいには屋根付きの井戸もある。

白い円筒は密閉されて手押しポンプ式になっている。

さらに尾崎神社裏参道の入口そばにもポンプがあり、ともに「八幡水*1」と呼ばれる。

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表参道入口の井戸と表裏する古い井戸。水道が敷設されるまではこの良水は大浜地区の人々の飲み水だった。またかき船にも酒造用にも用いられた。この水飲み場オアシスのような存在であった。なお、この辺を最近まで八幡*2町といった。 発喜会

ポンプを覆う屋根には、説明板とともになぜか住居表示板もはさまっている。

*1:はちまんみず

*2:やわた

09年08月26日(水)

尾崎神社表参道鳥居

尾崎神社石鳥居(表参道)

標柱の次に控えている石鳥居は大正六年*1のもの。

両面に額がとりつけてあり、どちらも同じく「尾崎神社」とある*2。内側の太めの字は「常吉謹書」とあり、願主のうちの一人が筆を執ったらしい。

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石工の名が刻まれるのはよく目にするが、ここでは鳶の名も。

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09年08月25日(火)

尾崎神社表参道

橋のたもとのしめばしら

宮下川に架かる参道は「神橋」という名の石橋で、昭和十五年の紀元節の奉納。

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境内側に渡ってすぐの所に標柱が建っていて、右が「治國之要」、左が「在敬神祇」。「治国の要は神祇を敬うに在り」と。

右裏面に「出雲宿祢千家尊愛*1書」左の裏に「大正八年七月建之」と。

*1:せんげたかちか

09年08月24日(月)

表参道

尾崎神社表参道入口

なので石段を下りた所にも「縣社」の石柱がある。

表参道ということで、「先哲香川将監翁生誕地」碑や、ほかにもいろいろと記念物が所狭しと並んでいる。

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神社のある山の名が「雲近山」で、こちらがわの麓が「宮下*1」。

山に沿って流れる「宮下川」は、南の「発喜山」から流れて北の矢野の市街地で広島湾に注ぐ。

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*1:みやげ

09年08月23日(日)

尾崎神社表参道

縣社陞格記念碑

昭和五十六年建立の由緒書に「明治初年郷社に列し大正五年将監の勲績を録し贈正五位のご沙汰を拜し次いで縣社に昇格す 神徳無窮に輝き併て世界の平和と万民の幸福を祈念するものなり」とある。

表参道の石段を登ってすぐの所に大きな石碑があり、表には「縣社尾崎神社」、裏には「昭和八年八月十五日陞格記念之碑 従一位勲一等侯爵淺野長勲閣下題字 正五位天野雨石*1識」とある。

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台座には氏子総代16人の名が並び、この石碑を昭和十年*2四月に建てたと記す。

*1:あまの うせき 1860−1948

*21935年

09年08月22日(土)

安芸区矢野

社倉總鎮守の顕彰碑

記念碑の記念碑だけでなく、尾崎神社が「藝備諸郡中社倉總鎮守」とされたことを顕彰する石碑もあり*1表参道からまっすぐ続く道に多くの石造物が並ぶ中に、ひときわ大きな石が立っている。

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裏面に由緒が刻まれ、「浅野家は安永十年(一七八一)三月十四日、家紋の鷹の羽を献納し、社格を芸備両国社倉総鎮守に進めるなどの厚遇を与えた。」などとあるように、表の上部に鷹の羽紋が見える。

*1:顕彰されたことを後世になって顕彰するという意味では同じか

09年08月21日(金)

kanototori2009-08-21

石灯籠寄進の記念碑

百度石の隣の四角柱は、さらに隣にある石灯籠の寄進を顕彰する「芸備十六郡代官一同寄進の石灯籠」の碑。

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普通、説明板かなにかで済ませるような所を、左右の面に「由緒(一)」「由緒(二)」として文を連ねていて、もとの石灯籠より目立っている。

句読点がないので適宜改行。

由緒(一)

延享四年(一七四七)尾崎八幡宮香川将監が創始した備荒貯穀の社倉法は浅野藩全領域に普及し大きく民生に寄与した

藩主は尾崎八幡宮を芸備両國社倉総鎮守とした

藩内官民の尊崇厚く参詣者は永く後を絶たなかった

由緒(二)

天明二年(一七八二)芸備十六郡代官は社前にこの石灯籠二基を寄進して神威畏敬の念を表した

神徳を仰ぎ社倉の要義を解説した頼山陽の父浅野藩学教授頼春水の銘文は已に風化損傷したが

社倉救世の精神は不滅である。

とあるように燈篭に刻まれた銘文は字が小さいこともあって、黒く塗り込んでいない状態ではまず読めない。

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写真は末尾の面で、「立石嵌燈 乃照無疆 憫農吾志 孔因孔影」*1で終わり、最後に「孫太郎惟完撰」の名。

*1:『芸藩通志』巻百四十六 藝文 安藝國安藝郡 から

09年08月20日(木)

尾崎神社拝殿

尾崎神社百度石

安芸区矢野の尾崎神社の場合、参道の脇に他の石碑と並んで建っている。特定の御利益をうたうお堂と違って複数ある用途の一つといった感じ。

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そういう設置位置だからか、手前の面に四角い穴があるだけなので破損も無い。

横の面に「大正九年一月 敷石 施主 交友會」とあって、百度石と記念碑を兼ねる。

09年08月19日(水)

楊柳観音と冬木神社

楊柳観音百度石

こちらの場合、観音堂のすぐそばに穴あきの石柱があり、手前の少し離れた所(切り株のそば)に大きく「百度」と刻まれた石柱がある。

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「百度」の面があるほうがお堂を向いている。

石柱自体は明治時代の設置だけれども、江戸時代の『知新集』の頃にすでに安産の観音として信仰を集めた。

09年08月18日(火)

安佐南区東原

天龍坊子安観音

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瑞穂神社の境内には観音堂もあり、手水鉢の隣に梵鐘もある。

百度石は昭和四年に寄進されたもの。

隣の西原の冬木神社も同じような構成。

関連

09年08月17日(月)

kanototori2009-08-17

瑞穂神社

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東原一丁目、堤防に向かって建っている瑞穂神社。永正11年*1川向こうの狐瓜木神社から分社を勧請して東原村の地主神となった。

慶長12年*2の洪水以後、戸坂と太田川で分断されるが、秋祭りには狐瓜木神社からの神輿渡御が行われた。

慶安二年*3に境内の樹木伐採とイナゴの大発生が結びついて祈祷が行われる。以後、「畔大明神」「ぐろさん」と呼ばれる農耕の神として崇敬を集めた。なので祭神は埴安姫神と大国主神。

参考

廣島縣神社誌』

*1:1514年

*2:1607年

*3:1649年

09年08月16日(日)

安芸大橋北詰

県道152号

県道府中祇園線をgoogleマップで見ると、安芸大橋北詰で分岐している。

それぞれ南は大正橋、北は平成橋で古川を越えて西へ延び、国道54号を越えたところで交差し、国道183号で終点となる。

広島市道路路線情報提供サービスをもとに県道部分を抜き出すと、下の画像の黄色い線のようになる。並行する二本の終点同士を繋いだ区間も県道扱いの様子。

f:id:kanototori:20090816221246p:image

色の濃い部分は、wikipedia:広島県道152号府中祇園線の「備考」に

重複区間は、広島市道を使ったほうがショートカットになる。(ただ、交通量はものすごく多く(近くにスーパーなどがあるため)、よく渋滞する)

とあるような「広島市道安佐南3区8号線・1号線」にあたる。

赤い細線を引いた方が、幅員の狭い昔からの県道で、

昭和16年祇園町の安神社前から太田川の千足渡し場に至る間の道路を県道に編入、同渡し場は県営となった。

「東原」『角川日本地名大辞典34広島県

安芸大橋ができる前からの県道を源流とする。

09年08月15日(土)

安芸大橋南詰

安芸大橋

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戸坂千足で県道37号と152号が交差する。

152号は安芸大橋によって対岸の安佐南区東原に通じる。

昭和20年代に渡し舟が終わり、昭和27年に板張りの釣橋が架けられたことに始まる。

昭和43年に現在の自動車専用のアーチ橋となる。後に下流側に歩道橋を設置。

当時としては太田川最長の橋であるのでその名も大きく「安芸大橋」。


参考

09年08月14日(金) 千日目

戸坂千足二丁目

千足(せんぞく)

位置

戸坂千足一丁目は安芸大橋を境に下流、二丁目は上流にあたる。そのうちの一丁目の川沿いの一部が小字名「千足」で、安芸大橋が架かる前は、対岸の東原への渡し舟があった所。

由来としては

天文一〇年毛利元就が銀山城(跡地は現安佐南区)の武田氏を攻めた際、太田川に流した火の付いた草鞋で武田軍を欺いて城を落としたと伝え、千足はこの草鞋が千足も渦を巻いた所という。史実とは認められないが、この地が銀山城の正面にあたり、しかも街道の渡河地であるところから、軍事的にも重要な地であったことを反映する伝承といえよう。

広島県 (角川日本地名大辞典)

という、戦国時代の出来事と結びついて伝えられた。洪水時に上流から物が流れ着きやすい場所という意味で分からなくもないので、戦争よりも災害に関連するのかも。

他の「センゾク」地名

「センゾク」という地名から「草鞋」を連想しやすいようで、

の、「千足沢・千足尾根」では、同様に戦国時代のこととして平山氏重の祈りによって天から千足の草鞋が降ってきたと伝え、

の、「千足ダム」の場合は、草鞋を千足履き替えてようやくたどりついた土地であると伝える。


では、伝説を伴わない「センゾク」の語源としては、

センゾク (1)山頂で千束の柴を焚く雨乞い。[千足山・仙足、(千咲〈センザク〉原)](2)「山麓などの傾斜地」にみられる地名。(3)千束分の稲田。[洗足・千足・千作](4)千僧供養をした所。[千僧供]

地名の語源 (1977年) (角川小辞典〈13〉)

が挙げられる。

戸坂が水不足に悩まされた地域ということで、雨乞いが必要ではあった。

雨乞い (略)西山(山積さん)の古墳がある辺りで、神主祝詞をあげてお祭りしてもらった後火を焚いたとの記憶がある。

『戸坂村史』広島市 1991

山の上でなくて川岸なので、ここで雨乞いをすることはなさそう。それともここで雨乞いのための柴を刈ったか、はたまたよく稲の実る水田であったか((1)から(3)へ)。

09年08月13日(木)

東区戸坂くるめ木

狐瓜木・狐爪木・くるめ木

神社周辺

末社のうち、八坂神社はくるめ木にあり、大矢神社は千足にある。さらに江戸時代には太田川の向こうの瑞穂神社*1と冬木神社*2をも管掌した。

狐瓜木神社のある宮野山(宮山・宮の山)とその南西部が「くるめ木一丁目」で、南の茶臼山ヘ延びる尾根筋が「くるめ木二丁目」。

地形

太田川の堤防ができるまでは、太田川の屈曲部もあり古川との合流点もあり、戸坂の低地一帯は洪水に見舞われやすかった。

そういう意味で、『地名の語源』にある

クルメキ「河谷や山腹のぐるぐる曲った所」。[来女木(クルメキ)・久留米木、(車木〈クルマキ〉・宮〈グー〉目木)]

という、一群の地名と同じような地形らしい。

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下流の祇園新橋からのようす。

文字

「め」の当て字に「爪」としていたものが、上の字の「狐」に引きずられてか、現在では「狐瓜木神社」になった。小字名のほうは「狐爪木」のままであろうけれど、住所表記には「くるめ木」が使われる。

天文十年の「大内義隆下文」に「安藝國佐東郡狐爪木八幡社」とあり、「佐東郡」は「安藝郡」の間違いと言うよりも、太田川の西岸に拠点を置く安芸武田氏の支配が強く及んだ所をも「佐東郡」と呼んでいた。

参考

*1:東原

*2:西原

09年08月12日(水)

東区戸坂くるめ木

狐瓜木豐穂稲生神社

狐瓜木神社の摂末社は「狐瓜木稲荷神社」と「大矢神社*1」と「八坂神社*2

本殿の段の脇に赤い鳥居が二本並んでいる。

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奥に見える「豐穂稲生神社」は本殿に背を向けて建っている。稲荷神社の場合、地名を冠しない「○○稲生神社」の言葉の選択が気になる。

*1:祭神:火之迦具土神

*2:『神社誌』から

09年08月11日(火)

東区戸坂くるめ木

狐瓜木神社由緒書

太田川に面した丘陵の先端は、多分、風が吹く丘。


麓にある由緒書きは日に焼けて一部読めない。

狐瓜木神社由緒

祭神

本殿 八幡神

相殿 志那

 本社は志那都彦神、事代主神を勧請し

たのは貞観二年(紀元八六〇年)〜

くにつれ上古、此の一帯の〜

ったっことが実証されると〜

縁の深いことがわかる。事代主神は大国

主神の御子で恵比須大神

村農村商家に多く祀られている。

 八幡神三柱の神の勧請は永〜

元九八四年)で当時大神の御稜威に〜

大陸から文化の移入が盛んで〜

文化神として全国的に崇敬されている

文永十一年(紀元一二七四年)武田信

時が安芸国の守護職に封ぜられ狐瓜木神

社を佐東郡の惣社とされた。その後、大

内義隆、毛利元就の領主は、〜

田を寄進されている。浅野〜

願社として祭祀料や神〜

と深い縁故があった。

 延享四年一月(紀元一七四七年)〜

回禄し宝物類を多く焼失〜

殿拝殿は文化二年(紀元一八〇五年)〜

改築され神殿は大正元年〜

である

 大正二年十月〜

〇五三年相当)が盛大に〜


これで大体わからなくもないけれど、『廣島縣神社誌』にあたるとこうなる。

貞観2年*1風伯・事代主神を宮野山に勧請
永観2年*2八幡神三柱を勧請、再建
文永11年*3武田信時が佐東郡の惣社とする
大永5年*4三建
天文11年*5「大内義隆神料田寄進状」*6
天文21年*7「毛利元就神田寄進状」
延享4年*8社殿回禄*9
文化2年*10四建
大正元年*11本殿改築
大正2年*12創建千年祭挙行

千年祭をおこなった大正2年は、貞観2年から1053年後にあたる、ということを由緒書の末尾に言っている。

何か祀られるようになってからが「宮野山」なのだろうけど。

*1:860年

*2:984年

*3:1274年

*4:1525年

*5:1542年

*6:『芸藩通志』に「天文十一年壬寅、大内義隆より、神田寄附状あり、状に佐東郡とあるは誤なり」とある。

*7:1552年

*8:1747年

*9:「回禄」火災に遭うこと

*10:1805年

*111912年

*121913年

09年08月10日(月)

狐瓜木神社

傾き垣根

拝殿と本殿とは高低差があって、石垣と垣根が取り巻いている。

前方から見上げるだけでもそのうねりがわかる。

背後の垣根は、外側に向かって倒れそうだが、白いシートが瓦を巻いているので、一枚一枚落ちてくることはない様子。

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09年08月09日(日)

狐瓜木神社参道

狐瓜木神社石灯籠

東区戸坂くるめ木の山の上に狐瓜木神社があり、麓からまっすぐ石段が続く。

石段の中腹にある石灯籠に注意書きがあり、

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きけん(あぶない)

石どうろうにあがったり

つかまったりして

あそばないこと

と、「石」以外は平仮名でもって危険があぶないと呼びかけている。

部材同士は接着されていてこの石灯籠そのものが危ないというよりも、そこから落ちた時の高さが危ない。

09年08月08日(土)

五竜城址麓

石鳥居の補強

例えば甲田町の宍戸司箭神社(五竜城跡)の石鳥居。奉納は文化3年*1

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左右の足に取り付けられたステンレスの輪。その隙間に見える石の折れた跡や風化した表面。

痛々しいように見えたり、注意書きがいらないほどにしっかりサポートされてる、とも言えて。

*1:丙寅 1806年

09年08月07日(金)

仙酔島を望む

手すり注意

それらの計測の際に、「石造物によっては、二・三百年も経過し、傾いていて不安定なものもあり、大変危険な調査であった」(前掲書)とあるように、

石灯籠だけでなく、もたれかかることの多い玉垣にも注意書きがあちこちに見える。

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「危険(消えかけ)」「さわらないでください」。たしかにさわると錆が付きそうで(ちょっと違う)。

09年08月06日(木)

本殿南側石段上北側

玉垣二例

というふうに、広い境内にある石造物を片っ端から載せていくと、きりがないくらい多いので、

『沼名前神社の石造物-石が語る鞆の津の歴史-』(福山市鞆の浦歴史民俗資料館発行)のような本も作られるほど。

境内の方々を取り巻く玉垣も、場所ごとに設置の時期や奉納者も異なり、寸法・刻字も一本一本記録されている。

玉垣の場所を区切ると、

  • 本殿北側
  • 本殿南側
  • 本殿南側石段上北側
  • 拝殿北側
  • 拝殿南側
  • 大石段北側の外側
  • 大石段南側の外側
  • 大石段北側の内側
  • 大石段南側の内側
  • 随神門北側
  • 随神門南側
  • 二の鳥居北側
  • 二の鳥居南側

となる。

赤い鳥居をあがって左右にあるのが「拝殿北側」にあたり、さらにその北と南で分かれる。

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赤鳥居北は明治29年築造で、親柱10本・子柱57本。


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赤鳥居南は文化6年*1の築造で、親柱4本・中柱11本・子柱91本。写真奥の社務所まで連なっている。

*1:1806年・己巳

09年08月05日(水)

護国神社

鞆護国神社

赤い鳥居をくぐって石段を登ると沼名前神社の境内社が南北に並んでいる(向かって右手が北)。

一番北に位置する神明造の社殿が護国神社。その隣の大きい方は渡守社。

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さらに北に隣接して砲弾の乗った石碑は、明治31年の呉鎮守府司令官らの名が刻まれている。

石段すぐの標柱は昭和14年11月の奉納で「揚忠烈」と「照萬古」の六字。そばにひっそりと小さく「忠魂殿建設紀念碑*1」もある。

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*1:昭和拾貮念四月 帝国在郷軍人鞆町分会

09年08月04日(火)

鞆町

沼名前神社石灯籠

福山市鞆の浦を見下ろす沼名前神社。

安国寺方面から登ると階段の前に赤い鳥居と石灯籠。

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向かって右が文久三年*1で、左が万延元年*2

どちらも「危険 さわらないで下さい」の注意がくくってある。特に笠が載っている線が目立つ。

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*1:1863年

*21860年

09年08月03日(月)

「艮神社」

艮神社鳥居

福山市北吉津町の艮神社。

参道の途中にある石鳥居は、注連縄と扁額に飾られて重厚に構えているが、

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鳥居 正徳六年(西暦一七一六年)*1

風化が激しく折れる危険があります

絶対に登らないで下さい

というプレートが付けてあって、確かに脚の辺りはほっそりしている。小石もあまり乗っていないし。

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*1:藩主が阿部氏に替わって間もないころ

09年08月02日(日)

八咫烏神社

本殿周りの補強

本殿のほうは玉垣に囲まれていて、倒壊しないようにとパイプと継手でしっかり固められ。

角の文字を見ると

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「百五拾圓」とあったり「壹千圓」というのもあったり。

09年08月01日(土)

呉市宮原十一丁目

八咫烏神社

境内にある鉄の説明板に、祭神と由来が記されている。

建津身命(八咫烏・建角身命)を祀っているのは、神武天皇東征の頃この里に夷が騒いでいたので「高烏山」に八咫烏が降臨したところ平穏になったため、とする。他に祭神は「大山祇神」と「玉依日賣」。山の神と神使の烏とそれを祀る巫女という形の、ひっくるめると山の神。

この地はもと荒神を祀っていたが、亀山神社の合祀されたため、同地を八咫烏神社遥拝所に、山頂の本殿を奥の院としたとする。

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