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09年09月30日(水)

鞆町

舟唄の碑

唄の碑というと、鞆町の原漁港には舟唄の碑が。歌詞を見ると「燗」だけ振り仮名がついている。

鞆の浦バス停のすぐ手前の「安国寺下」バス停があり、まっすぐ西の安国寺に通じる。

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09年09月29日(火)

江の川と三江線

三次小唄の碑

平成19年発行のみよし街並み歴史散歩 (三次・十日市・八次・酒屋編)の「尾関山」の項には、「尾関山の由来」「浅野家下屋敷跡」「中村憲吉歌碑」「展望台と発蒙閣」「伝キリシタン灯籠と「三次小唄」碑」が紹介されている。これまでのところ一つはかすっていた。

その中の「キリシタン灯籠」は山の西麓にある石灯籠で、隠れキリシタンにまつわる話だけでなく、「きりしたん文化」という別項を設けて、信仰とは無縁のファッションとしての異文化風俗の面をも解説している。

そのキリシタン灯籠のすぐそばに「三次小唄碑」があると書かれているが、平成20年5月に写真のような石碑が山上に移転新築している、という変化があった。

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09年09月28日(月)

kanototori2009-09-28

昭和9年の明治節

高松宮日記〈第2巻〉
高松宮日記〈第2巻〉
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高松宮 宣仁
中央公論社
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昭和9年の11月01日、29歳の宣仁親王海軍大学校に入学。その直前に広島・島根鳥取京都を巡っている。

2日広島大本営跡・泉邸・宮島
3日宮島・三次・志学村・三瓶山
4日物部神社・太田農学校・出雲大社・日ノ御碕神社
5日松江・美保ヶ関・米子・瓊子内親王墓・洞明院
6日名和神社・船上山・鳥取・二条駅
7日桃山両陵等陵墓・有栖川宮家歴代墓所

11月3日(明治節)は厳島神社参拝からはじまり、対岸に渡って9時5分発。

(略)一行は小林と清水、石川、とみ。

可部一〇一〇(宮島より  )、吉田一一一三(宮島より三八哩)、一二〇〇三次着、町離れの尾関山公園で弁当をたべた。一三一二仝所発(宮島より五四・四哩)、(略)

『高松宮日記 第二巻』

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展望台のそばに石碑があり、前面に「高松宮殿下 同妃殿下 御成所」、裏面に「昭和九年十一月三日 高松宮附別當石川岩吉*1謹書」とある。

その後島根に入るが、島根県知事*2は三次まで出迎えに来ていて、「四時から三瓶山へ登る。かなり急な道で石川も福邑知事もフーフー*3云ふ」という場面に名前が出ている。

*1wikipedia:石川岩吉1875-1960

*2wikipedia:福邑正樹1887-1974

*3:踊り字「〳〵」

09年09月27日(日)

kanototori2009-09-27

尾関山の展望台

二層の白い展望台から望む景色は、

南は江の川と祝橋、

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南東に広がる市街地は、馬洗川の向こうの十日市町に三次駅があり、

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東の麓の三次町はもと三次支藩の中心地。

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09年09月26日(土)

石見台

展望台の麓

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石見台からも遠景は見えるけれども、桜の枝の合間に川が流れるような位置なので、やはりさらに上の展望台から見る方がよろしいらしい。

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展望台に登る前に斜面に見えるのは中村憲吉(明治22年*1-昭和9年*2)の歌碑。

この山の

桜にむかひ流れくる

川ひろくして

水のひかれる

憲吉

09年09月25日(金)

尾関山公園

石見台の方の植樹記念碑

尾関山を登り、展望台の周囲に「石見台」と名づけられた広場がある。

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ここの南縁にも同じ大正13年*1の「皇太子殿下御成婚記念樹」の碑がある。こちらは尖頭の角柱型。

一面に「明治卅二年*2三次尋常小学校卒業生組織」による「又親會」の名前が刻まれている。「文+子」の字体の「学」が見える。

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*11924年

*2:1899年

09年09月24日(木)

尾関山駅から

大正の尾関山

三江線尾関山駅からすぐのところに聳える尾関山は、標高202m*1の丘陵全体が都市公園で、桜の名所として知られる。

現地の案内図に「大正初期、昔の城郭残塁の段を生かして広場、遊歩道をつくり、さくら、もみじなどを植えて現在に至っております。」とある。

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山腹に立っている石碑にあるように、大正13年には「皇太子殿下御成婚記念樹」が何種類も植えられて一段と整備された。

石碑前面下部に樹種などが列挙されていて、読み取りにくいものもあるけれど「沙羅双樹」「千年木」「金盃樹」「素心臘梅」などの名が見える。

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*1:案内図に。角川地名大辞典には198mと。

09年09月23日(水)

安国寺庭園

備後安国寺御成り記念植樹

同じく安国寺の境内。

楷の木の石碑の向かいに茂る枇杷の木。

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手前に石碑があり、「昭和五十六年七月九日 安国寺 浩宮徳仁親王殿下御成記念樹」とある。

熊谷氏菩提所観音寺跡」の石碑と同じ旅程のもの。

自分はまだ生まれてない(蛇足)。

09年09月22日(火)

楷の木

備後安国寺の楷の木

城山の北の安国寺にも、鞆の浦ロータリークラブによる植樹の碑があり、

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平成10年に足利市から贈られた二本の楷の木が枝を広げている。

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09年09月21日(月)

鞆町

城山の歌碑

同じく大伴旅人の歌碑が鞆城跡に建っている。

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鞆之浦

磯のむろ乃木

見むごとに

相見し妹は

忘らえめやも

碑の隣にまっすぐのびる「むろの木*1」。

鞆の浦ロータリークラブによって昭和62年*2に植えられたもの。

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*1:歌に詠まれた樹種かどうかは不分明ながら

*2:1987年

09年09月20日(日)

対潮楼

むろの木歌碑

対潮楼の麓には、ライオンズクラブの記念碑とともに灯籠や木石を配置して道路脇を彩る。

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天平2年*1の大伴旅人の歌を刻んだ石碑もあり(こちらがメインか)。

吾妹子之見師

鞆浦之天木香樹*2

常代有跡

見之人曽奈吉

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*1:730年

*2:天木香樹:むろのき

09年09月19日(土)

鞆港バス停前

文字抜粋「鞆」くっつかない革

結局は「鞆」に限らず、「革」の部首の字全体に見られることではあるけれども、地名ならではの併存状態かなと。

漢字字体規範データベースで、部首「革」の字を見ると、

http://www.joao-roiz.jp/HNG/search/word=R%25E9%259D%25A9&ratio=0.020

さきに挙げた字形の他に、「草冠+口+十」状の「革」が多く見える。

現在の鞆の町中で、そういった形は見当たらないけれども、近い形に崩されたものがライオンズクラブの「姉妹縁組締結記念碑」。

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その他、縦画が短くて上につながっていない字形がいくつか。石碑に刻まれたものはこれからも長く残りそう。

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09年09月18日(金)

瀬戸内海国立公園

文字抜粋「鞆」旧慣用

対して、「廿」の横画二本が同程度の長さに突き抜ける字形は、比較的年季の入った看板に多い。

バス停・学校・交番等の、施設そのものの表示の場合は更新されていって、現行の「革」にあらたまるかもしれないけれど、その近隣の簡単な標示ならそのままで使い続けられる。

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求人看板では「問はず」の仮名遣いもセットで見えたり。

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単なる新旧の違いだけでなく、この字体が現代の手書きでも見られるのは、

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書風の好みというか、長短の按配が自在になるといった書きやすさもあるだろうか。画面の上端にカーソルを持っていけば必ずメニューバーに達するというふうな*1

*1:強引なたとえ

09年09月17日(木)

鞆港

文字抜粋「鞆」現行字体

町並みのあちこちに掲示物が多いので、それだけ「鞆」の文字を目にする機会も増し、ならば字形の種類もいくつかあるんじゃなかろうか。

ということで、まずは一般的な「革」の字形による印刷物。

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比較的新しい幟やポスターはほとんどがこの形。わざわざ他の字形で出力したりはしていない。

多少古そうな説明板にも使われている。

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では、手書きだとどうだろうかと眺めると、

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やはり大方は「革」の形で書く。「鞆」を学校で習わないとしても、「革」の形は教わったものをあてはめることになる。

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中には、「廿」の下の横画がはみだしているようなそうでもないような例も見受けられるが、どちらにしても誤字になることはない。

09年09月16日(水)

山中鹿之介首塚の前

街路の注意

そんなふうに「ささやき橋」は細い道の曲り口に位置するので、

「注意!!石橋に段差あり」と標識がある。

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山沿いの鞆小学校に近いということもあって、

電柱に大きく「学童に注意」とも。

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このへんの交通の不便さで架橋アピールありつつの、

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トンネル提言もあり、と。

09年09月15日(火)

鞆城跡の

ささやき橋

隣接しているので「山中鹿之介首塚」と「ささやき橋」は同じ石に示されている。

舗装された道路が静観寺の門前で折れ曲がる所。小さな欄干に「さゝやき橋」。

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そこの説明板に「ささやき橋伝説」として

応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語の橋と語りつがれています。

を載せる。

茶山編の『福山志料』には「耳語橋」の表記で人身売買の話や遊行上人の歌を紹介している。

09年09月14日(月)

城山

方位を示す石

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圓鍔勝三制作の宮城道雄像が広場中央の高まりにあり、東を向いて坐している。

その脇に配置された石には周囲の史跡の名が方向とともに刻まれている。

北に備後安国寺、北西に沼名前神社と法宣寺と山中鹿之介首塚、南西に医王寺、南東に対潮楼と円福寺、東に仙酔島

どの方位にもまんべんなく、というわけでもない。

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09年09月13日(日)

鞆町

オブジェとしての刻印石垣

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本丸跡広場の北縁に稲荷神社と石垣が並ぶ。

鞆城跡の説明板の背後に配置された石のうち、最前面にとくに刻印が見える。

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09年09月12日(土)

鞆の浦歴史民俗資料館

城山東南隅

東南の麓から眺めると、斜面は現代の石垣でがっちり固められている。

その上の折れ曲がった階段を通って頂上の歴史民俗資料館に至る。

途中で白い説明板があり、その周りの石垣は近世初期(福島正則の時代に破却)の鞆城跡のものであり、昭和61年の発掘調査で「この石垣の基底部が確認され、歴史民俗資料館の建設にともない復元整備したものである」と示す。

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石垣の角の部分を見ると、一番上に「△」三段目に「大」、四段目と六段目に「回」状の線が刻まれている。

09年09月11日(金)

福山市鞆町

城山の西

鞆の町並に囲まれた城山は、西側が緩やかで残りは急傾斜地となっている。

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西側の平坦面が公園になっており、町の奥に連なる山並みと向かい合う。

南西に医王寺・北西に沼名前神社が見える。

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09年09月10日(木)

鞦韆

公園のブランコ

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三入第三公園のブランコは、左右に槍を持つ腕から四つ垂れている人型の柱。

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例えば鞆城跡の公園も四つ並んだブランコの真ん中に支柱が必要。

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使わせないときにはブランコ同士を絡ませたりするが、三つくらいならひと括りにできるっぽい(例:宮島町)。

09年09月09日(水)

南原川下流

横川

横川橋から南原川の川下を見ると、目の前が高松山の麓で、根の谷川との合流地点となっている。

「横」のつく地名は、対象となる地形の向きが特徴的であると判断されるときに名づけられる。

ヨコイ 横堰(川をとめて水位を高くした所)[横井・横井戸]

ヨコスカ 「海岸に直角の砂丘」*スカ、「洲処」。知多半島霞ヶ浦の海岸湖岸に分布。[横渚・横須賀]一説に「横のスカ」ではなく「スカの横」の意。

ヨコハマ 「海岸に直角になった砂丘」または「そこだけが、付近の海岸と方向をことにする海岸」。[横浜]一説に「横の浜」ではなく、「浜の横」の意。

地名の語源 (1977年) (角川小辞典〈13〉)

ここでは縦の根の谷川・石州街道に対して横から流れてくる南原川があり、合流点までの南原川両岸一帯を「横川」と称する。土居屋敷等の並ぶ高松山城大手*1の守りを固める堀となる。

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両河川にはさまれた土地には「三入第三公園」がある。

横川の地が熊谷氏と武田氏の古戦場であったことから「下町屋横川歴史清流公園」と名づけられた。

*1:搦手は南東

09年09月08日(火)

広島市安佐北区三入・可部

横川橋

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旧国道54号(石州街道)が南原川を渡る橋が「横川橋」。

北側に漢字の、南側に平仮名の橋名が記されている。

古めかしい欄干とは対照的に(だからこそというか)、路上の赤が目立つ。

橋脚のコンクリートに新旧の色が見え、鉄板にも包まれて強度を高める。

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09年09月07日(月)

土居歩道橋から北を望む

土居に渡る橋

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土居屋敷跡と観音寺跡を結ぶ橋が「本土居橋*1」。車は通れない幅。

「本」というからにはその南の「土居橋」よりも土居に近い位置にあるということか。

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「土居橋」のほうは車がすれ違える車道橋と、下流側に「土居歩道橋」もある。

土居橋をまっすぐ西に進むと国道54号の「土居橋西詰」交差点となる。道路交通情報でおなじみの交差点で、wikipedia:土居橋西詰交差点にも項目が見える。附近のバス停は「土居橋」。山の麓の中世の屋敷の名が、川の向こうへと現役の地名を派生させていった。

*1:ほんどいはし

09年09月06日(日)

熊谷氏遺跡

土居屋敷跡

観音寺跡から根の谷川をはさんで南にある、県史跡の土居屋敷跡。

指定は昭和45年1月30日で、説明板が昭和52年3月1日の設置となる。当時は「広島市可部町大字下町屋字土居」と表示される。現在の安佐北区三入南一丁目。

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屋敷跡の広さは約20アールと推定されるが、現在は、わずかにL字型に残る石垣にその跡をとどめる。なお、正面中央付近の「切りかけ」は門跡と考えられている。

とあるように、小ぶりな石の集まる南の角地に説明板があり、そこから石垣の列が延びる。石垣の下は畠で、北隣には変電所

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壇の奥は駐車場で、背後に高松山が聳える。山頂の城跡へ至るルートもある。

県史跡「熊谷氏の遺跡」の一部で、広島市文化財団のサイトから「熊谷氏の遺跡」の全体と、「県史跡 土居屋敷(どいやしき)跡」の略測図などを見ることができる。

09年09月05日(土)

安佐北区三入

観音寺跡の墓所

説明板から。

観音堂南側の墓所には40基余りの古い五輪塔・宝篋印塔がある。熊谷氏代々の墓と伝えているが、形が崩れてはっきりしない。しかし、慶長五年(1600年)熊谷氏の主流が毛利氏に従って萩へ移ってからも、度々家臣を墓参させていたという。

主流が移ったとあるように、一族の中には同地に残って帰農した者もいる。

墓所のある壇の中にさらに六つの区画があり、それぞれに墓石が密集している。壇の右端には昭和54年設置の史跡の碑があり、左端には新しめの墓。

南隣は畠で、高い壇となる。

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09年09月04日(金)

観音寺跡

観音寺の現代

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観音堂の正面に架けられている額に「まいらじと たのみは 三入の 観音寺 老いも若きも うけよ 惠みを」。昭和29年の奉納。戦後、「廣島四国八拾八箇所」*1が設定されることで、三入地域だけでなく広島市近郊からの巡拝者を対象にすることとなる。

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入口近くにある「県史跡熊谷氏菩提所観音寺跡」の石碑は、「昭和五十六年七月十一日 浩宮徳仁親王 ご来訪記念」のもの。

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堂の横に長い芳名板があり、これはwikipedia:平成11年台風第18号による損壊を翌年修復した際のもの。修復工事費用は278万円となっている。

09年09月03日(木)

国道54号

正法山観音寺跡

観音堂の正面右手に昭和52年設置の県史跡の説明板が立っている。県史跡の指定は昭和26年。

熊谷氏の一族の菩提所観音寺は、かって大内義隆が宿泊したこともある大寺であったが、天正19年(1591年)熊谷氏が広島城下に移ってからは次第にさびれ、今では巨石で築いた100mに及ぶ石垣と、熊谷氏の定紋(穂矢)を刻んだ古い須弥壇を安置した小さな観音堂に、当時の面影をわずかにとどめている。

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文政2年の『国郡志御用につき下調べ書出帳』に寛文5年*1の棟札が載っており、藩主浅野光晟を檀主に「三入之庄下町屋村正法山観音堂」が再興される。

本尊は如意輪観音で、元禄8年*2の棟札に「如意輪大士像一躯」が京都の仏師によって「再彩邑(色?)」されたとある。

*1:1665年

*2:1695年

09年09月02日(水)

観音寺跡

観音寺山の麓

安佐北区三入一丁目の熊谷氏菩提所観音寺跡。

境内に「清泉」と書かれた湧き水があり、県史跡の説明板に

また、境内の井戸は、有田合戦で討死した熊谷元直の腕を、彼の妻が洗い清めたという言い伝えがある。

とある。

菁文社の『げいびグラフ』平成21年夏号の「熊谷と毛利を結ぶ醜女の絆」という記事に紹介されている。

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09年09月01日(火)

kanototori2009-09-01

白水山勝福寺

武田山の山裾、安佐南区祇園五丁目の白水観音堂。

昔の南下安村で、北隣の大町村の境に近い。現在では北の丘陵は祇園北高校に、西隣の丘陵は広島経済大学になっている。

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山林を背後にして観音堂と鐘楼が見え、登る途中に御水堂があり、蓋のトタンは白い。

かつてこの地にあった池に湧き出た白い水が皮膚病を癒すという信仰を集め、同地に観音堂が建てられる。

文政期『藝藩通志』の絵図に「白水観音」と記される。由緒書きを見ると、その後の天保14年に白水山勝福寺を名乗ったとある。

治ったお礼にと奉納された鯰の絵が掲示されている。

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