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10年01月31日(日)

尾道市

踏切で斜め上

電車が通る線路の踏切脇に、いくつもの表示が見える。

右上だったり左上だったりを示すのは、高電圧線注意の高さ制限標識。

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10年01月30日(土)

県道沿い

矢印変換

いつの選挙の、どこの投票所かは、とりあえず無関係な話。

その日、投票所になっている施設へ誘導するための看板に、もともと右手を指していた矢印があったのが、両端に布テープかなにかを貼り、左手に頭を書き足してある。

おそらく置き場所が水路の上で安定しにくいからか、二本の足は横断旗入れにそれぞれ差し込んである。

10年01月29日(金)

kanototori2010-01-29

十日市南の案内板

三次駅の南に広がる丘陵を登る道の途中、

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交差点の角にいくつもの看板が見え、駅方面から見て右折するか左折するかを案内している。左端の三次人形窯元は左折して200mを示す。

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その先はいくつかの遺跡が集中しているので、教育委員会設置の案内板もあり、若宮古墳まで150m、花園遺跡まで350m、日光寺住居跡まで450mというふうに、上から近い順。それぞれに絵がついていて、前方後円墳・方形台状墓・竪穴式住居の遺跡であることを示す。

みよし街並み歴史散歩 (三次・十日市・八次・酒屋編)に、「発掘された直後には、古代住居が再現されていましたが、ずいぶん前に焼失して今では鉄の柵に囲まれた窪みに雑草が一面に茂っています。」とあるので、以前は再現住居を意味する絵であり、今は遺跡の復元想像図を意味することに。

10年01月28日(木)

安芸区船越

岩滝観音入口

安芸区船越の岩滝山に岩滝公園があり、園内中央に岩滝神社、公園をさらに登った先に観音堂(奥の院)がある。

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電柱にくくられた看板に大きく「船越観音豊稔寺」とある。地の色はもとは赤か。下に白い矢印があり「300米」と距離を示す。

電柱の根元には岩滝神社の看板が草に埋もれている。

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公園に入ったところでさらに大きな看板がある。「船越観音*1」と「豊稔寺*2」の間に「第34番」(広島新四国88箇所)を横書き。

距離は200米に。

*1:「ふなこしかんのん」の振り仮名つき

*2:「ほうねんじ」の振り仮名つき

10年01月27日(水)

kanototori2010-01-27

休山登山道入口

呉市宮原から休山に登る入口に、絵地図に矢印がついた看板がある。

矢印は一色になり、縁はくっきり錆びているけれども、案内図は色落ちしている程度。

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特に絵の上に書き込まれた黒い文字は消えやすく、各地点名は読み取りにくい。ともかくも「神原坂」を登る道であると示している。

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その下にはさらに錆の多い看板が立て掛けてあり、「高天原神社」「三照宮」の方向を示している。今の矢印の向きではなさそう。

10年01月26日(火)

木

電柱まわり

電柱の錆、というよりも、それにとりつけられた看板に錆がつく。

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とくに錆びやすいのが角だったり、鋲とかバンドとかとの接触面だったり、下のほうだったり(大ざっぱに)。

五日市町広島市とは別の局番だったりとかで、看板の文字からその古さを実感したり。

10年01月25日(月)

kanototori2010-01-25

湯戸橋

佐伯区五日市町石内。

石内川の支流「西宝寺川」にかかる「湯戸橋」は、県道原田五日市線が通る。

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ここのガードレールも錆びてはいるけれども、目立つのは上端のみ。

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傾斜のついた面と垂直な面とでくっきり違いが出る。

10年01月24日(日)

岡の下川

三宅橋と側道橋

佐伯区三宅で、三宅川が岡の下川に注ぐ所。県道41号が通る「三宅橋」。

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車道側はガードレールが囲み、川沿いの側道橋は黒いフェンスと無色の鉄骨。

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左右のガードレールで錆の付き具合が違う。

10年01月23日(土)

呉市吉浦

吉浦大川の河口部

吉浦の北隣の大屋・天応に大屋大川が流れているように、吉浦の町の中央を流れるのは「吉浦大川」。

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吉浦橋のすぐ下手に呉線の鉄橋があり、

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河口近くには「本川橋」が架かっている。ガードレールの欄干は錆が目立つが、橋名板は読める。

10年01月22日(金)

国道31号

吉浦橋

神賀橋を西へ向かうとすぐ、吉浦駅との中間くらいのところに「吉浦橋」が架かっている。

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欄干の細部が異なるほかは神賀橋と同じタイプ。竣工は昭和16年3月。

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橋名「吉浦橋」の字は少し崩してある。

10年01月21日(木)

呉市吉浦東本町

吉浦横断歩道橋とその付属

その神賀橋を跨ぐ形で歩道橋が川の上にある。

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橋名板は外から見える位置にあり、

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支柱には二枚の看板が取り付けられ、車道に向けて注意を促す。短い橋の両端が交差点になるので。

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ここから東へ国道を進むと、三原まで76km、竹原まで48km。

10年01月20日(水)

kanototori2010-01-20

神賀橋

ひらがな「し」に「志」を使う。いや、「志路原」の「志」だけが漢字だ、などと迷ってみたりしつつ。

他の例として、呉市吉浦の「神賀橋」(昭和14年12月竣工)がある。

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ひらがなには「志」と「゛」を使用。すでに

呉市吉浦 呉市吉浦

にも紹介されている。濁点付きは注目を集めやすいのかも。

10年01月19日(火)

kanototori2010-01-19

新大橋

千代田町中心部。

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志路原川の下流、江の川に合流する前になると川幅も広い。

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国道261号「八重バイパス」*1の「新大橋」は、千代田町の「古保利」と「有田」の境。

石に刻まれた河川名には「志じはらかわ」の字。

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*1:西岸の旧道に対して「バイパス

10年01月18日(月)

kanototori2010-01-18

志路原

橋名板を見ると、「しじはらかわ」であったり、

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「しじわらがわ」であったり。前出のように「しちはら」もあったろうし、「シヂハラ」*1もある。発音のことだったり仮名遣いのことっだったり。

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大正10年の『廣島縣史』は原村の大字「志路原」について、「志路原は、厳島文書に、志道原に作る、志は石の急呼なり」と、その語源を示す。それに続いて「石は、上・下もと一村、文亀四年の薬師堂棟札には、石之郷とあり。」とあるので、「志」が「石」の縮まったものであれば志路原川上流一帯の特徴が「石」にまとまる。「海応寺」*2はそれらよりはるかに新しい地名として登場する。

*1:『角川日本地名大辞典』小字一覧のルビ

*2http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20090507/1241713659

10年01月17日(日)

北広島町

都谷地区(山県郡都谷村)

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原村と同じ時期に、南隣には「都谷*1村」があり、都志見*2・戸谷

*3・長笹*4の旧村名を大字としていた。戸谷は『藝藩通志』に「舊*5十谷に作る、今の長笹を併せて、谷數十なりしよし、今は九區に分る」*6とある。なので都志見の「都」と十谷の「谷」の合成となる。

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原村の中原*7・西宗と同じく、太田川支流の西宗川流域。

*1:つだに

*2:つしみ

*3:とだに

*4:ながささ

*5:もと

*6:『廣島縣史』は「俚説に谷筋十箇あるよりの名とす、之に依れば、戸は十の假字なるか、」と紹介

*7:中原と志路原の境が陰陽分水嶺

10年01月16日(土)

下石

原地区(山県郡原村)

下石を流れる志路原川の岸に青い看板が見える。

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「可愛川漁業協同組合 原支部」による河川の保護の呼びかけ。

国道沿いで見かけた古びた看板にも「山県東部交通安全協会 原地区」と。

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「原村」は明治22年から昭和31年に存在した自治体名。中原・西宗・志路原・上石・下石・海応寺の六箇村の合併により誕生。

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旧豊平町の北部・東部にあたる。大正10年発行の『廣島縣史 第一編 地誌』に、村内の大字(旧村名)の由来に触れていて、

「中原は、郡内他に同名あり、仍てこゝを、もとは柒原*1の中原といへりと云ふ、陰徳太平記には、志路原の中原と書けり。」

という。強いて既存の村名を使おうとすれば志路原が規模が大きいようではあるけれども、新たに示す範囲は「原」でもって示すことに。そのぶん、旧村名の示す範囲は変更なく、豊平町の大字に継承されることに。

*1:しちはら

10年01月15日(金)

北広島町

千代田と豊平の境

3町の境で見たように*1

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下石大橋の直後で旧町境となり、千代田町舞綱と接する。

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旧豊平町側から向こうには神楽面をあしらった「文化財の里」の看板が見え、

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旧千代田町側から向こうにはソバと吉川氏館の石垣をあしらった「ソバの里」の看板が見える。

直接旧町名が見えるわけでもないので、

はてなハイク

に載せられないのが惜しいところである。

*1:過去記事を忘れているわけではないというポーズ

10年01月14日(木)

国道433号

舞綱大橋

志路原川を右に見ながら国道を東に進む*1み、300mほどで「舞綱大橋*2」。川が北へ向きを変える。

橋の付近で幾つかの支流が集まっている。

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ここのデザインは下石大橋と同じ。

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上手(上の画像)と下手(下の画像)

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*1:そうやって歩いたわけではないが

*2:もうつなおおはし

10年01月13日(水)

北広島町

下石大橋

古市橋のすぐ下手で、志路原川は国道と交差する。

そこに架かるのが下石大橋*1。豊平町下石の区間でここだけが志路原川を渡り、他はその支流を通過する。

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橋名板は平たい親柱に埋め込まれていて、斜め下には花のプレート。

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橋から上手(上)と下手(下)

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*1:しもいしおおはし

10年01月12日(火)

北広島町下石

古市橋(北広島町)

青銅転売?橋名板200枚盗難 : 中国新聞 地域ニュース 青銅転売?橋名板200枚盗難 : 中国新聞 地域ニュース

という話には無縁なようなコンクリート製の、前の親柱と同じ形の物が、

そこから川を下って、海応寺を通過し、下石の端近くにも。

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「古市橋」「ふるいちはし」の橋名が南北ともにある。

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だから保存するとしたら仮名と漢字で一本ずつということに。

10年01月11日(月)

豊平町

森原橋

志路原との合流点」に挙げた船峠川と志路原川との合流点は、国道433号から見た様子で、船峠川に架かる「森原橋」を通っている。

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橋の下手は白いガードレールで、上手は緑色のフェンス。どちらにも橋の名と川の名が見える。

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西のたもとに細長い石柱があり、橋の名と「昭和六拾弐年拾弐月竣工」と刻まれている。

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それに並んで、欄干から取り外された古い親柱が二つ。「森原橋*1」「もりは*2らはし」。

*1:「橋」はよく見えないが

*2:「者」のくずし

10年01月10日(日)

草津浜町

思案橋石標

草津橋の西詰に高札型の説明板が見える。草津の案内図に示された各所に同様の説明板がある。

そのそばに「思案橋」「しあんはし」と刻まれた小ぶりな石柱と、先代の「草津橋」橋名板がある。

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その説明板後半が思案橋について。

 草津橋は昭和10年までは「思案橋」といわれていた。

 昔の草津橋ともいうべき思案橋は、現在の草津橋より少し上流の位置にあった。

 城下より宮島、月見の浜、草津梅林、井口の小己斐明神へ参詣しての帰り、人々がこの思案橋あたりにさしかかると、「このまま広島城下に帰ろうか、鍛冶屋町(鷺森神社から慈光寺あたり)で一杯呑んで帰ろうか」と思案したので「思案橋」と名付けたようだ。何とも粋な命名である。

 その石標が橋本家によって保管され残っていたので、橋本氏のご好意によりここに設置した。

草津まちづくりの会

草津まちづくりの会に国土交通大臣表彰 :西広島タイムス

という平成18年の記事中に「今年三月には、老朽化した草津橋の改修に伴い、住民の思いを託した欄干設置や絵の張付けを行政に働き掛けて実現させている。」とある。

10年01月09日(土)

御幸川

草津橋

その御幸川を国道2号が横切り、昭和50年に架け替えられた草津橋を通る。

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欄干の下は白く塗られ、魚・牡蠣・蒲鉾を配置。

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橋の内側も同様(内側の絵も撮ろうとか考えていなかったことが見て取れる構図)。

欄干と塗装について、「草津まちづくりの会」設置の説明板に、「歴史ある草津町、駅伝の最終中継地にふさわしい橋にしたいとの住民の願いにより、平成18年(2006年)に趣のある現在の橋になった。」とある。

10年01月08日(金)

kanototori2010-01-08

草津八幡から御幸川

北に聳える行者山の中腹、草津八幡から町を見下ろすと、草津駅付近から御幸川がまっすぐ流れているのが見える。遠く似島の見える方向。

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両岸を車道に挟まれながら小さな橋が連なる。埋立地を流れた先は太田川放水路となるが、下流の庚午から見た様子は「風前の燈篭」を参照。

反対に、源流の位置は「草津まちづくり学校、御幸川源流碑を訪問 :西広島タイムス」の記事を見ると、西区田方の北隣・佐伯区石内の山中*1になる。

*1:記事中に「メンバーが名付けた「御幸山」の山道に分け行った」という、地名の拡張が見られる。

10年01月07日(木)

kanototori2010-01-07

御幸川の御幸橋

なのでその手前を流れる川は「御幸川」となり、県道の通る橋は「御幸橋」。

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上流の「金毘羅橋」から見るとこう*1で、

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下流の広電宮島線の「御幸踏切」からみるとこう。

川の水量は少ない。

*1:橋の端にトラックが止まれる幅がある

10年01月06日(水)

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置鳳輦止處

阿品上陸後、広島に向かう途中で廿日市草津で休憩しており、草津に「置鳳輦止處」碑がある。

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旧街道、今の県道71号沿いにあり、木にかこまれている。

御上り場とともに『廣島縣史蹟名勝天然記念物調査報告 第四輯』(昭和12年)に載る。

10年01月05日(火)

御上り場

西幸記念碑と

道路側からはあまり目立たないような位置に西幸記念碑が聳える。

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昭和12年の「地御前村経済更生計画書」*1に「明治天皇御上陸所」の説明があり、大正11年にコンクリートで復旧した後、昭和6年に記念碑を建立したことを載せる。「瀬戸内海ノ島々ヲ背景ニ大帝ノ偉徳ヲ偲ブ一端トシテ聳セリ」とあるように、記念碑正面の題字*2は道路側を向く。

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手前には大正11年の「東宮殿下御成婚記念」の碑。

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背後の遠くの島々は能美島江田島方面で、

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右側には厳島(と住宅)が目の前に。

*1:『廿日市町史 資料編4』

*2:側面に「従一位勲一等侯爵浅野長勲閣下題字」

10年01月04日(月)

廿日市市阿品

御上り場

国道2号広電宮島線を跨ぐ阿品歩道橋の上に立つと、

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北東に阿品東駅が見え、歩道橋下の突き出た海岸は「おあがり場公園」。

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草っぱらの中に構えている幾本かの松が目立つけれども、地元の方の記事http://hirosankim.exblog.jp/9808185/を見ると、かつては広い敷地の公園に松並木が鬱蒼と茂っていた様子。

大正十四年の「地御前村基本調査」*1の「名勝 旧蹟」の項に、

御上り場(御駐輦の処)

当村字阿品にある。此所は明治十八年八月一日明治大帝厳島御巡覧の際御駐輦御船に召され、御渡御あらせられた地である。俗にお上り場と称し当村の誇となってゐる。

とある。

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桟橋のすぐ右手にはナタリーマリナタウン*2

*1:『廿日市町史 資料編4』

*2wikipedia:広島ナタリー参照

10年01月03日(日)

五日市中央

岡ノ下緑地の松並木

佐伯区の五日市は八幡川と岡ノ下川に東西を挟まれている。

広島県ホームページ

二級河川岡ノ下川水系河川整備計画内に「1.岡ノ下川水系の概要」がある。

(3)景観

岡ノ下川には,河川景観を背景とした史跡,名勝,観光地等は無く,主に都心部を中心と

した市街地景観です。河川沿いは密集市街地で高層住宅や道路があり,河川を横断する橋梁

上より日常的に河川を目にすることが多いのが特徴です。

なお,河道内の景観は,全川コンクリート二面張りの護岸形態となっており,植生も乏し

いことから,人工的で単調な景観となっており,動植物の生息・生育環境の改善を図る中で

併せて良好な河川景観の形成についても配慮していく必要があります。

こうした中,岡ノ下緑地周辺はクロマツ並木が落ち着いた景観を形成しています。また,

河口付近は,川幅が広く,市街地にあって広々とした景観となっています。

という、街中のまっすぐな川という景観。

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「岡ノ下川緑地」は、山陽本線の鉄橋から五観橋の間に位置し、川沿いの松並木が西岸からも望める。

江戸時代の松・昭和の松 - 西広島タイムスWEB|ローカルニュース

という記事に「日露戦争戦勝記念の松」として紹介されている。

10年01月02日(土)

安芸高田市

記念碑に添える松

甲田町の江の川沿いの農地は圃場整備がすすんで整然としている。

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記念碑の題字は「甲立農村振興事業記念」で「広島県知事 藤田雄山書」。

下に概要が記されていて、事業名は「県営甲立地区農村振興組合整備事業」、平成10年から平成17年の間に「圃場整備51.3ha」「住宅用地創設」「農業集落道路二路線」「集落防災安全施設」が整備された。

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石碑の背後には記念植樹。石碑と同じくらいの高さで緑際立つ。

10年01月01日(金)

東区二葉の里

明星院の松

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境内の「慈光之松」は周囲に配された石を覆うように枝を水平に広げる。


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幼稚園がわの広い空間にぽつんと立つのは被爆樹木の松。