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10年04月30日(金)

千光寺公園

文学碑の白黒

尾道の千光寺山を登る道のひとつとして、「文学のこみち」が海を望む斜面にあって、その道標は白い矢印と黒塗りの文字。隣の碑の「石鎚山ヲ圣*1テ山頂ヘ」よりも目立つ存在。

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普通の記念碑よりも言葉が読みやすいように、または書として捉えやすいように、ある俳句は白字だったり、ある小説の一文は黒字だったり。

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*1:経

10年04月29日(木)

kanototori2010-04-29

色つきの狛犬

八千代町上根*1の龍山神社。

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向かって右の台座に「大正五年」、左の台座に「十月廿日」というふうに分けて刻まれていて、裏面の願主の名もそれぞれ一名ずつ。

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目玉の黒、口の赤、台座の牡丹かなにかがくっきりと塗られている。

10年04月28日(水)

kanototori2010-04-28

安政の石灯籠と狛犬

中区の広瀬神社には、安政三年辰と刻まれた台座の上に石灯籠。安政六年未と刻まれた台座の上に狛犬。

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特に狛犬は被爆石像物として目立つ。

10年04月27日(火)

東広島市

石清水八幡宮(西条町吉行)の石灯籠

安芸国分寺跡の史跡公園に隣接するのが石清水八幡宮。

文政二年提出の「賀茂郡吉行村国郡志御用書上帳」*1に「生土神*2」として掲出されている。当地の「吉行村」だけでなく、「土與丸村」と「四日市次郎丸村」の生土神でもある。

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拝殿正面の一対の石灯籠にも「吉行村 四日市村 土与丸村 氏子」とある。

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境内の東脇の「安政二年乙卯八月吉日」寄進のものも「願主氏子中」とある。

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そのほか「四日市橘屋」「願主白市住木原保備」と刻まれた個人の寄進によるものもある。

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*1:『西条町誌』所収

*2:うぶすながみ

10年04月26日(月)

kanototori2010-04-26

新宮胡子神社の石灯籠

呉線川原石駅の西方の山麓、呉市新宮町に恵美須神社が鎮座。

鳥居の向こうで対になって立っている石灯籠はシンプルな形で正面に「献燈」。

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文政二年己卯*1十月二十日の寄進。

*1:西暦1819年

10年04月25日(日)

kanototori2010-04-25

寺迫東橋の常夜灯

唐谷川が東広島バイパスと交わるあたりにある石灯籠。

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文政六年癸未 八月十五日 東谷 稲葉 西谷 寺迫 汁免 産子中

昭和十二年丁丑 十月十五日 再建

これらの集落が祀る出崎森八幡宮が東の丘陵上にあり、「奥海田村国郡志御用ニ付下調べ書出帳」*1に、

(略)尚又御鎮座以来毎年八月十四日夜丑刻産子共炬ヲ灯火祭り与唱神事執行仕候、其故ハ御鎮座之砌産子共炬ヲ灯四・五町沖迄迎ニ罷出候由、(略)

という。創建については霊亀元年に宗像大社から迎えたものとしている。

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*1:『海田町史資料編』

10年04月24日(土)

三迫川

稲葉道標

川を境に西の三迫と東の稲葉。三迫川に車道がぴったりと連なる中、郵便局の前がやや幅広で、正面に「東三迫橋」とバス停がある。

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町の巡回バスはこの橋を経由して唐谷川上流方面に通じる。

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橋のたもとの道標は元の位置を保ってはいないけれども、「右 くまの 三ツ口  左 あと よし川」という、海田市方面から峠に向かう際の分岐点をあらわしてきた。

三迫川上流の先の赤穂道を越えると「ゆるぎ岩への道」を経て熊野へ。「三ツ口」はどこ?

橋を渡って唐谷川をのぼり「礫越」を越えると熊野東部から安芸区阿戸(旧熊野跡村)へ。さらに峠を越えて吉川(東広島市八本松)へ。

10年04月23日(金)

kanototori2010-04-23

明飛川

三迫川を上っていくと、三迫二丁目で西からの支流「明飛*1川」と合流する。

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上流の林道と交わるところで砂防ダムが設置されている。

*1:あけび

10年04月22日(木)

海田町ウォーキングマップ

三迫川・唐谷川

海田町内を巡るウォーキングマップを見ると、瀬野川沿いの遊歩道から石原橋を渡って「三迫*1川」沿いを通るルートが示されている。または、近道として川筋を通らないルート(点線)も示される。

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瀬野川との合流点附近は遊歩道が整備されていて、いくつかの学校に挟まれて桜や菜の花を眺めながら歩く風景。

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国道2号(東広島バイパス)の高架下のあたりで、東から流れる「唐谷*2川」との合流点となる。

前掲「奥海田村国郡志御用ニ付下弾書出帳」では、この水系をまとめて「小川」として載せる。

右当村東川上蟻ヶ原ゟ流出落合迄拾三丁弐拾三間

右同断西川上森実ゟ流出落合迄拾六丁拾八間

右落合ゟ両川一緒ニ流出三町五拾五間、川下も*3竹貞ニ而大川流入申候

なので、『藝藩通志』の奥海田村絵図も「小川」とのみ記されている。

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*1:みさこ

*2:からたに

*3:「かわしも」

10年04月21日(水)

瀬野川

海田の瀬野川

現在の瀬野川河口は、安芸区船越南と海田町明神町という埋立地に挟まれて、南区と安芸区に挟まれた海田湾に注ぐ。

江戸時代後期、宿場町と新開を抱える「海田市(海田村)」が河口部にあたり、その上流域に「奥海田村」がある。あわせて後の海田町となる。

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『藝藩通志』では「瀬野川」の呼称を用いる。村々の絵図も同様。

町村からの報告では「大川」とあり、「小川」「溝川」といったその他の小河川に対して大きな川として示される。それでも普段の水量は多くない。


川上熊野村ヨリ賀茂郡跡村、瀬野筋より川下当所沖江流出申候、此里程凡五里程、浅深之儀平水ニ而者少々ツゝ流水御座候故、所ニより片渕*1之所も御座候、深サ弐尺位之処も御座候

「海田市国郡志御編修ニ付下弾*2書出帳*3

川上熊野村ゟ賀茂郡跡村、瀬野筋ゟ川下も海田沖ニ而海へ流出申候、此里程凡四里半、浅深之儀平水ニ而ハ纔敷流水ニ御座候故、所ニ寄片渕之所ハ深サ三四尺之場所も当村内弐ヶ所御座候

「奥海田村国郡志御編修ニ付下弾書出帳*4


どちらも、安芸郡御用掛による「文政七年の最終的訂正以後のもの」*5であるためか、「大川」の記述は同じ様式になっている。

村の立地からくる相違点が三つある。

    • 海へ出るのが「当所沖」か「海田沖」という自他の違い。
    • 域内を流れる距離が「五里」と「四里半」。
    • 水深が概ね浅い中に所々ある深い地点が「弐尺位之処」と「深サ三四尺之場所も当村内弐ヶ所」。

川幅は自然と上流に向かう程狭くなっており、

海田市川下60間
海田市川上56間
奥海田川下40間
奥海田川上28間

と記されている。


引用

『海田町史 資料編』

*1:「川の片側にできた深い淵」『岩波古語辞典』

*2:したしらべ

*3:「文化度国郡志」と同内容

*4:文化度国郡志

*5:『海田町史 資料編』319頁

10年04月20日(火)

kanototori2010-04-20

瀬野川の上の新幹線

新幹線は府中町八幡四丁目から海田町の畝二丁目まで「府中トンネル」を通る。

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日浦山の東端に出たところは、瀬野川に畑賀川が合流するあたり。その上を「瀬野川橋りょう(梁)」が越える。

さらに東へは、対岸の国信二丁目から黒瀬町乃美尾(東広島市)まで「安芸トンネル」が続く。

10年04月19日(月)

kanototori2010-04-19

高架下の公園

バス停の隣には児童公園がある。

「外出は鍵かけ隣に声をかけ」といった標語が入口付近に見え、顔つきのすべり台がいろいろな色を見せている。

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柞木公園 - 看藝累記」と同じく、三体の動物像が向き合っているが、間に砂場が挟まっているので、リスっぽい方の守りがやや固い(多分)。

10年04月18日(日)

kanototori2010-04-18

府中大橋バス停

府中大川*1の東、県道84号が山陽新幹線と隣り合うあたりに「府中大橋」バス停がある。

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車道にはバスの停車スペースが確保され、歩道にも奥まったスペースがあるのでいくつかの椅子が置かれている。

10年04月17日(土)

kanototori2010-04-17

バス停のベンチ

広島市の県病院前*1もそんな形のバス停で、

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パネルの下に細いベンチが設置されている。道路を背にして座る感じ。

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10年04月16日(金)

kanototori2010-04-16

屋根付きバス停の下

福山市の中央図書館*1前のバス停、

という場所はともかく、屋根と広告スペースつきの形態が普及しつつあり、

支柱とパネルの間があいていて道路に通じているので、点字ブロックもそこへ誘導される。

バスが来るときの状況によってはその位置で停まらないかもしれないけれども。

*1:ローズコム

10年04月15日(木)

kanototori2010-04-15

歩道橋の点字ブロック

海軍工廠を見下ろす呉市の「歴史の見える丘」から「いせな歩道橋」がのびている。

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大和建造ドック跡が見える場所。

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国道487号を跨いで両側の歩道に下りる階段があるので、階段手前の床に黄色い点字ブロックがついている。

10年04月14日(水)

kanototori2010-04-14

点字ブロックが白い

要は雪景色ですが。

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祇園新橋の広めの歩道に黄色い点字ブロック。その材質によってはすべりやすかったり、凹凸があるので安全かもしれなかったり。

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10年04月13日(火)

日浦山

交差点の色

瀬野川沿いの道路は山陽本線と隣り合っていて、

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踏切をわたってすぐの交差点がつまっていては困ることになりそうなので、青く塗って「ゆずりゾーン」となっている。

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九十九橋*1との交差点は赤で目立たせている。

10年04月12日(月)

kanototori2010-04-12

白い坂の蓋

春日神社へ登る坂道は白いので、そこにある汚水栓の蓋も白い。模様が目立たないかと思ったら、砂ぼこりまじりで意外とくっきり。

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ひまわりの図案は細かい格子模様があって、上手い具合にすべりにくそう。

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10年04月11日(日)

kanototori2010-04-11

楠木谷川と春日神社

赤羽根川の東隣の谷には「楠木谷川」が流れる。

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川に隣接する春日神社は大正12年7月11日の水害で土石流の被害を受けた。このとき海田・矢野・坂を中心に広く浸水の被害が及び、瀬野川にかかる「九十九橋」「樋の下橋」「日下橋」が流失した。(『海田町史』)

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昭和6年に現在地に社殿が再興された。

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10年04月10日(土)

県道

榊免第3踏切

観音免から下へおりて旧山陽道を過ると山陽道の踏切へ。

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踏切のすぐ隣に赤羽根川が流れていて、道幅が狭くなっている。

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鉄橋の名は「榊免橋りょう(梁)」

「免(面)」は貢租の免除の意。上につく語はその名目・用途。町内には他に「汁免」「堂面」といった地名がある*1

汁…じゅう>十>X免(違

*1:「文化度国郡志」奥海田村の村内小名の項。「榊免」は載っていないが観音免は「観音面」の表記

10年04月09日(金)

kanototori2010-04-09

畝観音免古墳群の石室

そういう立地の観音免に、7世紀前半〜中頃の横穴式石室が二基。

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現存長8.1m玄室幅1.9-2.1mの1号墳は海田町ふるさと館の裏手に位置し、館内から開口部を見ることができる。背後にも説明板があり、天井石を失った石室内が見える。

畑地に隣接していたので、西側の壁に石垣が連なる。入口付近には赤羽根川からの土砂流入があるなど、後世の各種の改変が加わる。

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2号墳は観音免公園の広場の上にあり、公園造成の際に破壊されて奥壁部分を残すのみ。

1号墳と同規模と推定され、8mを超す石室は海田湾周辺(海田・船越・瀬野川・矢野)で最大規模となる。

(参考:河瀬正利「畝観音免古墳群」『芸備 第26集』)


また、『文化度国郡志*1』「奥海田村」*2の古跡として、

籠塚迚大石ニ而積上ケ、天井も大石ヲ渡、広サ中ニ者大キ成分ハ凡弐間四方、或九尺四方、中ニも*3狭クして長キ分も御座候、戸口ハ凡三尺四方位も御座候、百姓腰林之内ニ七ヶ所御座候

と記されている。

村内に七ヶ所「籠塚(こもりづか)」というものがあり、そのうち大きいものは広さ「二間四方」や「九尺四方」もある。中には(幅が)狭くて(細)長いものもある。入口の広さは「三尺四方」位のものである、という。といった感じか。

現在、海田町域の横穴式石室は「畝観音免古墳群」の2基と「西谷*4古墳群」の2基が知られるのみで、「七ヶ所」の内訳は不明。

二間四方(八畳敷?)というのはまるっきり正方形の石室というよりは、細長い石室に比べて幅広の謂か。それにしても広い。

1号墳の入口幅は1.7mで高さ2.1-2.3m。土砂流入で当時はもう少し低かったろうか。

*1:「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」

*2:『海田町史資料編』第三章近世史料[9]

*3:「者(は)」かとある

*4:にしのたに

10年04月08日(木)

畝二丁目

赤羽川の下流

観音免公園の西隣には赤羽川という谷川が流れ、wikipedia:広島県道274号瀬野船越線(西国街道)と山陽本線をくぐって瀬野川に注ぐ。

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砂防指定地を示す古びた地図が設置されていて、字赤羽から字五匹田までを範囲としている。

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鉄道の線が東西(上下)に描かれているところで、「至大阪」「至広島」という目的地表示が逆になっていたり、

「久芳船越線」は以前の県道の名称*1であるものの、まるで鉄道の名前のような位置にあったり、

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「為」の字の横画が二本ほど普通よりはみ出していたりで、見ごたえのある地図。

10年04月07日(水)

畝二丁目

第11空廠のトーチカ

同じくふるさと館裏手には小型のトーチカが移されている。

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元位置の第11空廠跡は瀬野川の南、現在の西浜と幸町の区画で、長方形の道路を東広島バイパスが突き抜けている。*1

海田町史通史編』653頁の「第11空廠跡に残る小型のトーチカ」の写真は生け垣越しに民家と接する旧状を示す。

海田町の配布している(出版物案内pdf)「かいたの歴史さんぽみちマップ」にイラストつきで紹介されており、「※現在はふるさと館裏に移設されています」と注記がある。

*1:ウォーキングマップから

10年04月06日(火)

観音免

上安井古墳移築石室

海田町畝二丁目のふるさと館裏手の斜面。

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畝観音免古墳の1号墳と2号墳の間のあたりに、コンクリートに覆われた竪穴式石室が一基。

もとの位置(大字東海田字上安井)は、瀬野川を挟んだ東南の丘陵上で、平成11年*1に東広島バイパスの改築に伴って発掘された。

前期古墳の石室内に土器が副葬された珍しい例、といった解説が、

財団法人広島県教育事業団事務局 埋蔵文化財調査室 財団法人広島県教育事業団事務局 埋蔵文化財調査室

「ひろしまの遺跡」84号・85号で見られる。

*1:西暦1999年

10年04月05日(月)

kanototori2010-04-05

三入八幡神社西参道口

安佐北区三入南二丁目に参道入口があり、鳥居や狛犬の手前に説明板などが並んでいる。

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山の上の三入八幡神社*1にある銅鐘*2と崇道神社跡*3を案内するものがあり、

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大きく説明文と写真を載せているのは「丸子山墳墓の遺跡」のもので、平成18年設置。

八幡神社のある尾根のさらに先端を成していた丸子山の地に数十基の石棺があった。出土遺物は広島市文化財団が保存し、可部小学校には復原石棺がある、とある。

丸子山遺跡の「貝の腕輪」 - 三入学区連合自治会も参照のこと。

*1可部町桐原

*2:延宝5年寄進の梵鐘

*3崇道天皇陵と伝える石積み

10年04月04日(日)

kanototori2010-04-04

みよし風土記の丘の移築石棺

県立歴史民俗資料館の建物から七ッ塚古墳群へ向かう道の途中に、「宗祐池西遺跡」の箱形石棺が復原されている。

「宗祐池」*1は、大規模な灌漑溜池で、マツダのテストコースと中国自動車道の間に位置する。

Google mapでは池の名が表示されていない。ので、

電子国土の簡単地図作成サイトで<そのあたり>を見てみると、「宗裕池」になっている。見慣れない地名は音読みから入る、そうゆうことかもしれない。ただ、地名検索欄では「宗祐池」でヒットする。

また、「地図を見る」のメニューから「電子国土基本図」に切り替える*2と「宗祐池」で表示される。

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二基の石棺の他、横穴式石室*3と竪穴式石室*4が移築されている。

広島県立みよし風土記の丘 広島県立みよし風土記の丘

案内図のページの「移築石室 石棺」のところに説明がある。

*1:むねすけいけ

*2http://portal.cyberjapan.jp/denshi/chushuku.html 参照

*3:篠津原第3号古墳

*4:酒屋高塚古墳

10年04月03日(土)

kanototori2010-04-03

空長2号古墳移築石棺

祇園公民館の敷地にある箱式石棺は「空長*1古墳群」から移されたもの。*2

埋蔵文化財データベース-倭国-

で詳細を見ることが出来る。『空長古墳群発掘調査報告書』(広島市教育委員会.1978)のPDFファイルもある。

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昭和52年大字西山本字空長*3の円墳4基が調査され、そのうちの2号墳の箱式石棺が翌年公民館に移された。すでに広島市域となっていたが、報告書序文で「本格的な発掘調査は、地元祇園町では初めてのこととあって町内の関心は高く」との意義が強調される。

報告書でいうと第4章。内法の全長220cm・東側*4の幅46cm・西側*5の幅35cm・高さ48cm。7枚前後あったらしい天井石は2枚が元の位置に、2枚が転落。

*1:そらなが

*2http://www.mogurin.or.jp/maibun/data/soranaga.htm

*3:現在は山本五丁目の住宅団地になっている丘陵上

*4:写真手前

*5:写真奥

10年04月02日(金)

kanototori2010-04-02

祇園公民館の前

西原胡子神社は、明治の末に冬木神社に合祀されていたが、昭和19年に仮神殿を得て還御した。昭和37年に現在地に移るまで、今の祇園公民館の地にあった。

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祇園公民館の正面には新安川が流れ、公民館前橋が架かっている。すぐ南には八日市橋

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川土手はコンクリートに覆われているものの、川床には土草があるのでいろいろと動物が潜んでいたり泳いでいたり歩いていたりする。

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10年04月01日(木)

kanototori2010-04-01

石碑の省略文字

国道沿いの三角形の土地に鎮座する西原胡子神社。

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昭和37年11月の現在地への建立にあわせて社号碑が立っている。この十年後に祇園町広島市合併する。

裏面の縁起には、太く直線的な文字が刻まれている。

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「間」「事」「来」「嘆」「霊」

などの、短い点画が密集しがちな字で省略が見られる。

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省略の程度も色々で、「撰」「繁」「機」のように仮名に似た簡素な要素に置き換わっているものや、「時」のように構成要素が省かれているものもある。

石碑よりも手書きのメモで見かけやすいかもしれない。