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12年02月29日(水)

kanototori2012-02-29

呉線を跨ぐ車道

例えば坂町の小屋浦*1で、集落内の幹線道路と国道31号を結ぶ道路はJR呉線の線路を跨いで海の上に高架が置かれる。

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国道と鉄道が隣接していて、さらに国道の反対側に陸地が無いとなると、跨線橋のまわりはカーブや傾斜が強めになる。

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さらに南、天応*2南部の梅木町でも、いったん海側を曲がった道が呉線を越える。海沿いに狩留賀浜を経由する国道に対して、峠を越えて吉浦に至る道への分岐となる。

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地図の用途によってはカーブがより強調されたりする。

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12年02月28日(火)

kanototori2012-02-28

樋本跨線橋とその近辺

東広島市西条町寺家の「樋本跨線橋」は国道486号から分岐した道にあり、山陽本線を越えて東広島医療センター*1や住宅団地へと通じている。

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橋名板のほか、下を通る鉄道路線名「さんようほんせん」のプレートもある。

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新駅予定地のそばなので、線路に向いた斜面に「寺家に新駅を」の看板が立っていた。

寺家地区に産業団地整備へ - 中国新聞 寺家地区に産業団地整備へ - 中国新聞 寺家地区に産業団地整備へ - 中国新聞

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wikipedia:寺家駅」(駅名は仮称)のページは二年前に作られている。

12年02月27日(月)

kanototori2012-02-27

車両基地の跨線橋

東区矢賀、芸備線矢賀駅の北に車両基地があって、その広大な敷地をまたぐ跨線橋もまた長く太い。

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普通の橋よりも厳重な金網でもって高く囲われ、高圧電線への注意もしっかりと。

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橋の東側の坂を下りつつ、左手には新幹線の車両がゆっくりと通り過ぎるのが見える。

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12年02月26日(日)

kanototori2012-02-26

愛宕跨線橋

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現在の愛宕跨線橋はエレベーターつきの白い歩道橋。橋名板の字は若干縦長で「跨」の字の見栄えがいい(気がする)。

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幅広の階段の中央は自転車を載せる坂道になっている。橋上の曲がり角に「自転車は必ず押して通行してください」との注意書きがある。幅が広いだけに、速度を上げた状態で出会い頭にぶつかりそうになるのかもしれない。

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橋の下には在来線の黄色や赤の車両を見下ろし、北を見上げれば新幹線がゆっくりめの速度で通り過ぎる。

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関連

交互に柵 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20110415/1302885931

12年02月25日(土)

kanototori2012-02-25

旧愛宕跨線橋

広島駅近辺の在来線は高架化していないので、愛宕踏切は待ち時間が長くなりがち。踏切のほか陸橋によって歩行者や自転車が往来している。

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大正14年建設、平成13年に撤去された「旧愛宕跨線橋」は、南側のエレベーター前にトラスと親柱の一部が保存されている。南区役所*1設置の説明板には被爆直後と撤去前の写真が載っている。

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広島駅界隈 広島駅界隈 広島駅界隈

*1新幹線高架も含めて線路一帯が南区に属する

12年02月24日(金)

kanototori2012-02-24

国府跨線橋跡

平成6年防府駅近辺の線路が高架化されている。

歴史年表「平成」 : 防府市仮想歴史博物館 歴史年表「平成」 : 防府市仮想歴史博物館 歴史年表「平成」 : 防府市仮想歴史博物館

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その過程で駅舎や駅前広場も新しくなり、踏切に代わって設けられていた跨線橋も撤去された。

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高架の下にある「国府跨線橋跡」のモニュメントは、開いた本の形をしていて、左側に「國府橋」の橋名板、右側に往時の写真や「撤去年 平成4年」などのデータが載っている。

12年02月23日(木)

kanototori2012-02-23

防府駅(旧三田尻駅)

明治31年に「三田尻駅」が山陽鉄道の終着駅として開業する。

 石城神社に参拝して特別保護建造物たる社殿や木鉾、高麗狗、曲玉、石斧などの神宝・蔵品を一覧し、同行の有志に神籠石に関する卑見を演説して、田布施まで出たのは夕暮であった。ここで夕食をすませ、翌日の行程を便にする為に夜行で三田尻まで行った。旅館に尻を落ちつけたのはかれこれ十時であった。

喜田貞吉 周防石城山神籠石探検記 喜田貞吉 周防石城山神籠石探検記 喜田貞吉 周防石城山神籠石探検記

この明治42年末の田布施の調査の頃には、国有鉄道山陽本線になっていた。


昭和37年に「防府駅」に改称される。

おそらく、一世代後の二〇〇〇年ごろには、三田尻駅という名は人の脳裡から消え去ってしまい、史誌のみにその名を留めることになるのであろうか。

駅長さんの書いた駅名(広島鉄道管理局)ものがたり (1977年)

と、昭和52年に書かれていたりする。単なる知識としてなら、google:"三田尻駅"の検索で約 23,800 件のページが参照されるくらいには知名度は維持されているといえなくもないし、「三田尻駅」時代を知る人がいなくなるほどの歳月でもないが、今を起点にして四十や二十年先というふうに考えると、確かに遠い未来と感じるものかもれしれない。


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駅前から市内の名所旧跡への方向が示されているうち、比較的駅に近い所に種田山頭火関連の旧跡がある。例えば昭和12年の日記に「三田尻駅」とある。

 八月五日 晴。

午近くなつて帰途につく。

再び富海に下車して海に浸る。

白船君は落ちついてゐる、漣月君は元気いつぱいだ、さて私は。――

三田尻駅で、東路君に逢ふ、飲む、酔ふ、泊る。

種田山頭火 其中日記 (十一) 種田山頭火 其中日記 (十一) 種田山頭火 其中日記 (十一)

12年02月22日(水)

kanototori2012-02-22

防府市街の旧国道

現在の国道2号は防府市街地の北の丘陵を通過する防府バイパスになっていて、国衙公園の南を東西に通る「旧国道2号」はGoogle Mapに「山陽道」と表示される。

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埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化 埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化 埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化

に紹介されている航空写真では、碁盤目状の耕地の中でも目立つ太さの道であったのが、市街化がすすむにつれて目立たなくなっていった。

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そこを通るバスには、防府駅と徳山駅を結ぶ便やロープウェイ方面へ路線などがある。

防府主要路線図 防府主要路線図 防府主要路線図

12年02月21日(火)

kanototori2012-02-21

周防国衙跡の史跡公園

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周防国衙跡は昭和12年に国の史跡に指定される。土居八丁と呼ばれた方形の区画のほか、近隣の関連区域が対象。「國聽」碑の手前に昭和15年設置の碑が立っている。

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発掘調査は昭和36年から39年に行われ、以後保存の対策がとられるようになった。現地の説明板に、「広大な国庁跡は、関係者の深い理解と協力を得て、昭和39年度から公有化が進み、昭和47年度から盛り土をはじめた。」とある。

埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化 埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化 埋蔵文化財センター-企画展 「周防国府」跡の地上の変化

のページでは、昭和22年を最古とする防府市内の航空写真を見ながら国衙跡とその周辺の景観の変化を辿ることができる。

12年02月20日(月)

kanototori2012-02-20

國聽の碑

猿田彦大神から100mでは近すぎるので、どちらかというと200m東に行くと「周防国衙跡」の記念碑あたりに至る。

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大きく「國聽」と刻まれた碑そのものについての説明板があり、「『国庁の碑』は、安永7年(1860)国庁寺の候人上司主税平重寛、武嶋完次平重勝が建立したものである。」と文章が続き、近世の「国庁寺」の配置図と、國聽碑背面と側面の拓本写真も載っている。西暦1860年安政七年。

国庁寺 国庁寺 国庁寺

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背面の文章の読み下しは『防府地方碑文集』に拠っているとのこと。

「安政七年歳次庚申三月五日」という、安政が萬延に改まる間際の時期にあたる。

12年02月19日(日)

山口県防府市

猿田彦大神の東西

馬神様の東、国衙三丁目の辻には猿田彦大神の祠がある。

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南向きに設置された道しるべには、東に周防国衙跡、西に馬神様と観光拠点施設、北に大仏殿と毛利氏庭園・毛利氏博物館が示される。馬神と国衙とは200mずつ離れている。

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同じく南向きに馬神様と国庁跡の向きを示した看板があるが、こちらは「100m」となっている。

12年02月18日(土)

kanototori2012-02-18

石大人社の場合

「寛政年間」に西暦を添えるとすると「1789-1801または1800」だけれども、元年と十三年の幅は大きい。

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防府市西国衙にある「馬神様」の説明板には、

寛政年代(一七九三年)此の地方に咳風邪筋の痛み神経痛で苦しむ者が多く出たため、西国衙の住民この地に神を祀り藁にて馬を作り供えたところ悉く平癒したといわれ

と書かれる。1793年は寛政五年に相当する。祀りはじめがはっきりしないためか、原因の病害がその年であったのか、ともあれ西暦を加えることで何か明言しているかのように見えてしまいがち。

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新しく設置された方の英字ハングル併記の説明板も、文面は同じ。名称は「石大人*1社」が消え俗称の「馬神様」が全面に出ている。

*1:いしうど

12年02月17日(金)

kanototori2012-02-17

八幡山神社の場合

寺社縁起をはじめとして、昔の出来事を説明板にあらわす際に、年が明確な場合は年号のあとに括弧で皇紀なり西暦なりを補って、複数の出来事同士の間隔を示すのが通常の書き方*1

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それ以外にも、説明板を設置した年を起点として、それぞれの出来事を「○○年前」と添える場合がある。

呉市音戸町波多見の八幡山神社の由緒書きは昭和14年2月設置のものが今も現役。当時の社格は「村社」。

例えば「現拜殿ハ嘉永六年八十六年ノ昔(春)地鎮祭ヲ行ヒ」のように、年号のあとに何年ノ昔と書かれる。

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こうした古さの表現は、設置時にしか意味が無いと思いがちではあるけれど、設置した時そのものに重みをもたせる行為であると見れば、暦年で示す説明とは目的が異なる。

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石段の麓にある平成4年設置の石碑の場合、括弧で西暦を補っているが、勧請されたとされる「天平宝字年間」については「今より(一,二〇〇)余年前の」と、なぜか括弧つきで書かれる*2。細かに「757-765」と書いてしまうと、まるで複数年にまたがる出来事のようにみえるのかもしれない。

*1http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100527/1274972644 たまに「西歴」になったりする

*2:神社の略歴そのものについては http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20110603/1307119003

12年02月16日(木)

kanototori2012-02-16

皇紀の使われ方

前項の「理窓院縁起」碑引用部分、「康永三年(二〇〇二年)」とあるのは西暦ではなく皇紀、と思ったら、北朝年号康永三年は2004年だった(wikipedia:1344年)。他の部分は合っている。

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ハート型のような横長の石碑には、天平14年の粟屋村大平への行基巡錫に始まり、宍戸元源の現在地移転を経て、嘉永2年(2509年)の記録焼失までがひとまとまりの文章として刻まれ、それ以降は境内堂宇の建立・修理について箇条書されている。安政3年に本堂の建替え、昭和55年に本堂再々建があり、その本堂の傍らにこの碑が翌年に建てられている。

寺の歴史を皇紀に即して区切ると、2000年以前は史前の伝説の段階、現存の楼門が2000年代初期に遡るとしてそこから2500年頃までに出来事や記録が蓄積されていき、記録の焼失以降は再建・修復・再構築に力が注がれていった、ということになる。そしてそれらを一覧するこの碑の建立は昭和辛酉年(2641年)。

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さて、このブログの過去記事で「皇紀」に関するものは6件(たぶん)。石碑が5件と書籍が1件。


平成8年「皇紀二六五六年」


昭和18年「紀元二千六百三年」


昭和15年「皇紀二千六百年」


昭和15年「皇紀二千六百年」


昭和11年「皇紀二千五百九十六年」


文政2年「紀元二四七九」


当然ながら、昭和15年の記念事業に関するものが多く、これら以外でもあちこちで目にする機会は多い。

長門島之碑や堤平神社は昭和15年に前後するものの同時代。弘住神社の場合は現代のもので、西暦も併記されている。

『佐伯郡誌』のように書籍上で現れる場合は、記念碑のように建立時点の現在に限らず、過去の出来事にも皇紀が当てはめられる。理窓院縁起はこちらの使い方に近い。現在も西暦で同じようにあてはめるわけで、当たり前の作業といえば当たり前のことで。

西暦にしろ皇紀にしろ、三桁も四桁も続くような紀年法は、あくまでも非日常の用に供する為にあるにすぎないのよね、というスタンスもあり。

12年02月15日(水)

kanototori2012-02-15

理窓院の楼門

安芸高田市甲田町の理窓院はもと禅宗で、寛永四年に真言宗に改宗。下甲立の町の西側丘陵斜面に位置する。山道づたいに宍戸氏の墓地があり、さらに先には甲立古墳に通じる。

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門前を横切る細道はグラウンド越しに見晴らしがよい。入口の楼門は安芸高田市指定の重要有形文化財。左右の仁王像の赤が際立つ。

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理窓院楼門(甲田町) 理窓院楼門(甲田町) 理窓院楼門(甲田町)

のページに、宍戸元源が粟屋から寺を移したときに共に移築されたとある。境内の「理窓院縁起」の碑文によると、「昭和三十三年五月山門(康永三年(二〇〇二年)建立)ヲ解体修理」している。同時に寛政4年建立の護摩堂も解体修理されている。甲田町(当時)の重要有形文化財に指定されたのは昭和44年

安芸高田市内の指定文化財 安芸高田市内の指定文化財 安芸高田市内の指定文化財

12年02月14日(火)

kanototori2012-02-14

安芸国分寺の仁王門

西条駅から北東へ徒歩七分ほど、西条町吉行*1に「金嶽山常光院史跡安芸国分寺」が所在する。その周辺には安芸国分寺跡の史跡公園が整備されている*2

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安芸国分寺 安芸国分寺 安芸国分寺

安芸国分寺のサイトでは、「国分寺の歴史」「国分寺の文化財」「発掘調査・出土品」という順序で紹介されている。

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西条駅方面からの道路から正面に見えるのが仁王門(16世紀中期の八脚門)。平成11年東広島市の重要有形文化財に指定されている。ここでの仁王像にはいくつもの草鞋が直接に掛けられているのが目立つ。

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その先にも本尊や護摩堂などの指定文化財があるので、「院内禁煙」が強調される。

12年02月13日(月)

金亀山事真院福王寺

福王寺の仁王門

福王寺(安佐北区可部町綾ケ谷)の仁王門は麓から十三町のぼったところにあり、観音坂・不動坂からの入口にあたる。

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仁王像の前にそれぞれ石柱がある。

かべの町かど・メインメニュー かべの町かど・メインメニュー かべの町かど・メインメニュー

の「有部律再興記念の石柱」によると、左が「大界外相」右が「不許葷酒内山門」で、宝暦十年に二十六代住職学如による記念碑。

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その『かべの町かど』(中国新聞ファミリー可部)の表紙に、この仁王門の写真が使われている。(二巻は金燈籠)

12年02月12日(日)

廿日市市宮島町

大聖院の仁王門

寺院の門は草鞋と千社札がつきもので、大聖院の仁王門も同様に。

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仁王像に挟まれた門内に扉があり、開門時間が午前8時から午後5時までであるとの注意書きがある。伽藍の参拝自体はそれより少し長く、時期によって幅がある。

12年02月11日(土)

kanototori2012-02-11

弥山仁王門跡

二王門  金剛力士、二駆を置く、是弥山十五町目なり、是より上は、未時後ハ、登るべからず、

藝藩通志』巻十五

という弥山本堂の入口にあたる仁王門。今は礎石が残るのみ。平成16年台風により倒壊し、仁王像は大聖院の霊宝館*1に収められた。

人と神々が共に生きる島〜宮島 神社仏閣:02 人と神々が共に生きる島〜宮島 神社仏閣:02 人と神々が共に生きる島〜宮島 神社仏閣:02

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厳島図会』には、仁王門前で参詣者が腰掛けてお茶を飲むなどくつろいでいる様子が描かれている。

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距離が「十五町」というのは、大聖院のある谷を通るルートを指し、その谷を登りつめて鞍部に達した所に門が位置する。そこより西の大元ルートなども仁王門から本堂・山頂に通じる*2。案内図の山頂付近はよく触られるのだろうか、線がすりへっている。

12年02月10日(金)

kanototori2012-02-10

山頂周辺の道しるべ

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御山神社参道へと分岐する道には、三方向を示した道しるべがあり、奥の道を「御山神社」とすると、右手は「大聖院」「駒ケ林」方面へと下りる道。左手は「ロープウェー」「三鬼堂」方面への道であり、大元や大聖院から登ってきたのであれば、三鬼堂だけでなく山頂付近でいろいろ巡るものは多い。

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その辻の傍らの木の根に古いしるべ石が立てかけてあり(平成20年の状態だけれども)、右が「にわうもん」で左が「三き志゛ん社」を示している。そのまま道しるべとして立っていたとしたら、「御山神社」とは別の位置の「三鬼堂」と紛らわしく思われるのかもしれない。いつ頃のものなんだろう。

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12年02月09日(木)

kanototori2012-02-09

御山神社の前身

弥山の山上の御山神社も三棟の社殿を持つ。神仏分離によって三鬼堂が移され、厳島の三女神を祀る「御山神社(Miyama-Shrine )」となる。

厳島の神仏混淆を本来の姿ではないとみなす態度は、すでに黒川道祐芸備国郡志』(寛文三年以前)にあらわれている。

厳島の明神は、天照太神の御子にして、徳光今に輝けり、然るに空海が輩一旦此に来たり、漫りに左道の説を設けて、所謂日本の神社、本地仏にして垂跡は神なり。(略)牽強付会して以て本地十一面観音の証と為す。ああ痛ましきかな。

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登山道から分岐しての参道途中に由緒書きがあり、

御山神社は、厳島神社の奥宮で、本殿三棟が品字形に並び、御祭神三女神が夫々一柱ずつ祀られています。いずれも一間社流造で屋根は〓*1葺、丹塗の御社殿で、昔から「さんきさん」として崇敬の篤いお社です

と説明される。もとの「三鬼堂」であったことはぼやかした書き方。

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『宮島町史』所収の近世の地誌(『厳島道芝記』『中国名所図会』『芸藩通志』『厳島図会』)は、既存の資料を踏襲してのことか、この三鬼堂についてどれも似たような記述になっている。「三鬼」*2とは「追帳鬼神」「魔羅鬼神」「時眉鬼神」であること、「盤石」の上に鎮座していること、それを「瑞垣」がとりまいていて、外に石鳥居があること、松柏が生い茂っていること、正面は数十丈(「二十丈」とも「数百丈」とも)の「巖壁」で足がすくむ所であるという。

一番時期の下がる『厳島図会』では、さらに海の向こうの遠景の描写が加わる。

また遠望の景ありて、伊豫の山〃黛のことく、釣する蜑の小舟までミな烏精の客にあらずといふことなし

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正面を見ても海が見えないけれども、当時はどういう展望だったのだろう*3

*1:こけら

*2wikipedia:三鬼大権現

*3:『厳島図会』に三鬼堂周辺の絵があり、頼春水の詩が添えられている

12年02月08日(水)

三翁神社由緒書き

厳島の山王社

現在の「三翁神社」は神仏分離より前は「山王社」といった。

立て札にぎっしりと書かれているのは「御祭神」と「由緒」。

青銅の鳥居の奥の社殿が三箇所。中央と左殿と右殿それぞれに複数の祭神の名が連ねてある。

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天保13年刊行の『厳島図会』*1には、9月23日の「山王祭之圖」が載っているが、例祭は二月の酉の日。前日の申の日に山口開きがある。

祭神については、中央に近江の山王で、「其余二座ハ、平相国清盛・佐伯の祖神を祭るといふ。其證さだからならず」といい、現在とはかなり異なる*2

芸藩通志』にも、2月と11月の上酉の日に山王社祭があり、9月21日にも舞楽があると書かれ、「古文書に相国祭のこと見ゆ。此祭の事なるべし。當社、平相国を配祭るといふ」との考察がある。

元禄10年の『厳島道芝記』では、「左右の御社は當嶋におゐて、口決*3ある御神といひ傅ふ」とあり、外部には明示されていない。

*1:『宮島町史 資料編 地誌・紀行?』所収

*2平清盛の名は見えないが、安徳天皇と佐伯鞍職の名が「中央」に見える

*3:くけつ。口承、言い伝え

12年02月07日(火)

天保二年の「往来安全」

旧暦二月初旬の厳島

CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上) CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上) CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上)

小田宅子『東路日記』のはじまりは天保12年閏正月16日。筑前国芦屋の里を出発し、赤間関・浅市・小郡・山口・宮市・室積・上関という道筋をたどっている。音戸を訪れる前に「宮島」に四泊しており、2月4日に岩国から到着してから5日・6日・7日と、毎日厳島神社に詣でている。8日に船に乗り音戸に移るのは前項の通り。

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二日目の参詣で「神司」から「正月の鏡もちひ」を振舞われている。*1

三日目は「回樓」に潮が満ちてきているのが印象に残る時間に訪れたらしい。

めづらしと満来る汐にいつくしま波の上なる神の社は

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そのあと連れの人たちは弥山に登るが、筆者本人はすでに登ったことがあり、山上の八十八ヶ所も巡ったという。

四日目は「我待舟は見えずやあらん」と海上を眺めつつ歌を詠む。

わたのはら波もかすみていつくしま百ふね千舟かよふのどけさ

行き交う船自体は多く見えるけれども、自分たちの乗る船は見えず、「今夜も船待がてら」一泊することになる。

*1:この時期が鏡開き

12年02月06日(月)

kanototori2012-02-06

音戸の海路

渡し舟

昭和36年音戸大橋が開通するまでは、当然ながら音戸・倉橋へわたるには船によらなければならなかった。現在も随時運行。

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昭和8年*1の『呉軍港案内』*2音戸の瀬戸も紹介されており、「警固屋海岸の鍋波止場から、音戸町へは渡し舟がある」とあるだけでなく、「呉驛よりバスありまた川原石海岸より鍋波止場(約三浬半)までは機船の便あり」という、運賃15銭の機船が運行していた。

  娘

橋をかけたや

   音戸(おんど)の瀬戸へ

通(かよ)てゆきたや

   船大工さんよ

  船大工

汐にせかれりや

   橋ア流る

(「娘と船大工」野口雨情 おさんだいしよさま 野口雨情 おさんだいしよさま 野口雨情 おさんだいしよさま

野口雨情作詞の「娘と船大工」は大正14年の発表。


瀬戸を通過する船

広島松山間のフェリーのように、多くの船が音戸の瀬戸の狭い水路を通過する。

CiNii 論文 -  PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として CiNii 論文 -  PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として CiNii 論文 -  PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として

件数はさほど多くないものの、すれちがう船同士の衝突事故が注意される場所でもある。

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厳島との連絡

中世近世にさかのぼると、都から厳島へ詣でる途中で通る難所であったり*3、またはその逆の方向で厳島から東へ向かう際に泊まるような立地であった。

筑前芦屋の小田宅子が天保12年の東国への旅を記した『東路日記』では、2月8日(旧暦)に厳島から船に乗り音戸で一泊している。

八日、こゝよりみちのく人と同じ船にのりて、その明るよは音戸のせとに泊まる。

九日、清盛ノ塚にまうづ。ある人こゝは清盛のにらみのせとゝとて、潮の中に浪の立かはる所ありといふ

   見るめかるあまこそ見えねそのかみのにらみのせとの塩のゆきあひ

CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上) CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上) CiNii 論文 -  福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上)

香川南浜の『遊長門島記』(寛政壬子)*4の記述は、桂浜・鹿老渡・情島などを眺めたあとで音戸に至る。もともとは厳島に行くつもりが北風に運ばれて能美島に着いたことから、「さらば、渡子島へ渡るべしとて」倉橋島反時計回りに遊覧したのだった。「隠戸」を過ぎてからは、船の上でのんびり風と潮を待って厳島へ向かったという、終始余裕ある態度でしめくくっている。

隠戸を過て、汐もむかひ、風も力なく、日暮にたれば、船を海中にとゞめて、物くひ酒のみて臥しぬ、夜半ばかり、風ふきしほもよくなりて、船を發し、にはよく曉方厳島に着ぬ、

芸藩通志巻百四十六所収)

*11933年

*2平成11年、呉郷土史研究会の復刻

*3:今川了俊『鹿苑院厳島詣記』

*4http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100805/1280977446

12年02月05日(日)

kanototori2012-02-05

呉から音戸へ

清盛塚の少し南に呉市営バスの「清盛塚」バス停がある。呉駅前と桂浜を結ぶ「呉倉橋島線」(波多見経由)と音戸町内循環の「さざなみ」が停まる。呉倉橋島線は桂浜が終点になる前は「重生・室尾・鹿老渡方面行き」と表示されていた。

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呉市営バス(呉市交通局)ホームページ 呉市営バス(呉市交通局)ホームページ

時刻表によると、呉駅前・清盛塚間がおよそ二十数分から三十数分かかり、田原経由*1の藤の脇*2・清盛塚間もおなじくらい。

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ガイドブック等でもだいたい呉駅から何分、という説明になる。大きく「音戸の瀬戸」全体の案内の場合、橋を渡る前の警固屋までの時間のこともある。


音戸町

 安芸郡。人口約1万8,200人。面積18.21km2。呉線呉駅から音戸までバス約30分。

『郷土資料事典 広島県・観光と旅』人文社.1975改訂


国鉄呉線呉駅から音戸の瀬戸、倉橋島方面行きバスで音戸渡船口下車、徒歩12分。

呉駅から県道呉倉橋島線を南方面へ約25分。広駅から県道警固屋広停車場線を西方面へ約40分。

(『広島県文化百選1 風物編』中国新聞社.1982)

JR呉線呉駅から倉橋方面から車で20分

(『広島県文化百選9 史跡編』中国新聞社.1992)

*1:音戸町内時計回りに進行

*2http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100815/1281888915

12年02月04日(土)

kanototori2012-02-04

伝清盛塚の飾り

昭和26年指定の、県の史跡としての名称は「伝清盛塚」。その塚の発端ははっきりしないにしても、ながらく平清盛と絡めて伝えられてきたという、意味づけの蓄積にも意味がある。陸地側手前にある「改修記念碑」も遺跡そのものではないにせよ、顕彰がなされたそれぞれの時代を伝えている。

伝清盛塚 : 呉市の文化財 伝清盛塚 : 呉市の文化財 伝清盛塚 : 呉市の文化財

の紹介ではなぜか「元暦元年(1184年)その功徳をたたえ,その供養のために清盛塚が建立されました。」と、断定調になっているけれども、現地の説明板では「元暦元年に建立されたと伝えられています」となる。

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塚を正面から見られるように堤防の外に舞台が突き出ていたり、玉垣の外側を紅白の幕が取り巻いていたり、道路沿いには清盛関連の幟が並んでいたりと、時期が時期だけに塚の周囲の賑やかさも積み重なっている。

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12年02月03日(金)

kanototori2012-02-03

清盛塚と松

同じ案内図中の右隅に吹き出しがあり、「清盛塚」が音戸大橋のそばにあることが図示されている。

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そのあたりは、平清盛像や光田庭園展望台あたりからはかすかに松の木が見えるような位置にあり、人工で開削したとの伝説を思わせるような陸続き感が得られる。*1

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塚そのものは四角い島状で、向かい合う舞台から塔や松を拝する。説明板には

境内のクロマツは、享保4年(1719年)に一度枯死して植えかえられたとされています。平成11年(1999年)には再び枯れてしまいましたが、新しい幼木が育って、現在まで「清盛松」として親しまれています。

とある。どちらもツチノトの年。

芸藩通志』では松にはとくに触れていない。塚の石造物については、

迫門の口に石をたゝみて、上に石塔を建つ、世に相國の塚といふ、たふ*2四層、凡高六尺、臺座方一尺六寸、

藝藩通志 巻四十 安藝國安藝郡五 古蹟名勝)

とある。「相国」は太政大臣の唐名。

*1:「日招岩」からは見えない

*2:土偏に右上「合」右下「田」

12年02月02日(木)

案内図の一部

音戸の瀬戸公園内の花木

そういった銘木の造形を展示する場所のほか、公園全体には桜の木が散りばめられ、麓に近い区域には「ツバキ園」や「ヒラドツツジ」がまとまっていたりする。

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駐車場付近に「明治百年記念 警固屋婦人連合会」「つつじ百本 昭和四十二年六月寄贈」の柱があり、園内整備の経過の一端が伺える。

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光田庭園の展望台付近には「大正天皇御即位記念樹 蛸足の松」の碑が見える。碑にばかり目が行っていて、松そのものは目にとまらず。

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12年02月01日(水)

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光田庭園(高烏台公園)

音戸の瀬戸公園の案内図には「光田庭園」という個人名を冠した区域がある。上の清盛像とは遊歩道で結ばれていて、二重の塔やあずま屋形の展望台がある。

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車道からの入口には「高烏台公園」の名前が石に示されている。「烏」の上部の四角が大きめなので「鳥」と紛らわしくない。

中にある「御案内」に、「「全国から代表的銘・珍木を集めこゝに展示公開いたします」とあるように、「欅大根株・屋久杉・老杉丸太」などが燈籠型になったりして海を背にして並んでいる。

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「欅」の旁が「挙」になるのはよくあることではあるが、たいてい片仮名で済ませるので見かける機会は少ない。*1

*1:あと、文中の「縁り」が「椽り」になっていたり

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