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13年01月31日(木)

参道脇の原爆慰霊碑

広島東照宮参道脇には石灯籠が連なっていて、その外側に駐車場が石垣下まで占めている。

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階段下近くの石灯籠の間に「昭和四十一年八月五日」建立の「原爆慰霊碑」がある。衆議院議員(当時)の砂原格(砂原組創業者)による字。

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株式会社 砂原組 - [砂原組のあゆみ] 株式会社 砂原組 - [砂原組のあゆみ] 株式会社 砂原組 - [砂原組のあゆみ]

の年表によると、被爆当時は広島工業(現砂原組)の代表取締役で、「原子爆弾被災により破滅的な打撃をうけ、役職員に多数の被害が出る。」。

碑の裏面に宮司による碑文があり「境内に湧井在りこの清水を飲みて幽明異にする者多し」と、当時のこの場所に逃れた人々を偲ぶ。

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碑の両側には手すり、ではなく防護柵のようなパイプが立てられている。

13年01月30日(水)

駐車場への坂

広島東照宮の石段の下には鳥居との間に長い参道がまっすぐ続いている。

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参道の両隣は駐車場に使われている。東側の駐車場には注連柱をくぐって入る形で、西側の場合、鳥居の手前にはもともと三段ほどの階段が広い幅をとっていたのが、その一部を割いて坂道が付けられている。

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その坂道のさらに西隣には、階段の端っこがわずかに残っている。すぐ前には石碑がふさいでいる形。

13年01月29日(火)

両対応の手すり

階段の中央に付いている手すりの中には、手すりの右側を行く人と左側を行く人とで別々の握り棒が用意されているものもある。

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千光寺山ロープウェイの乗り場に通じる階段であったり、

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宮島の大聖院の奉納物を載せた階段であったり、

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広島東照宮の長い階段であったり。

沢山の人があちらこちらにごったがえしそうな観光地ともなると、てすりの握りが一本では追いつかないという感じか。

13年01月28日(月)

手すりが区切り

本町通りの北端近く、真宗の照蓮寺は比較的低い位置の境内なので、階段の距離も短い。

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階段の幅が広く、周りに迫る建物もない。手すりは両側には無く、中央向かって右側寄りに付いている。南側の階段も同じ。前項の長生寺も一部同じ。

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他の寺院、例えば尾道市内の西国寺・浄土寺光明寺など*1見ると、何れもど真ん中に手すりが設けられている。

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どちらにしても、幅の広い階段は両側に手すりがあるだけでは心許ないものがあるので、手すりで区切られることで丁度良い幅の階段が二つ出来たことと同じになる。

神社の場合は神輿が登りにくくならんかなという気がしたりすることもあったり、駅のホームへの階段だと、上り専用通路の確保に使われたりで、大量の人の動きにいろいろと影響を与える障壁のような防護柵。

*1:宝土寺も持光寺も

13年01月27日(日)

長生寺の階段

真言宗の長生寺は寺山の南端にあり、本町一丁目に属する。*1

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遠くからも目立つ大きな鐘楼門に「不老山」の額がある*2。門の下の階段は麓まで真っ直ぐではないので、上っていくうちに次第に門の全体が見える。案内図中のアイコンにも階段のズレは描写されている。

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ここの階段の手すりは下では両側に、門前では片側に、門の奥では中間の右よりに設けられている。白く太い鉄パイプとその根元を支えるコンクリートの出っ張りが、堅固な印象を与える。

13年01月26日(土)

普明閣への階段

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普明閣は西方寺本堂のある段よりさらに高い所にあるので、本堂から南へ登る階段がある。

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それとは別に普明閣の下の段の鐘撞堂の下にも階段の道がある。こちらは最下段に「明治四十三年四月建之」とあり、向かって右側に比較的新しい二段構えの手すりが設けられている。

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途中土塀のある道を曲がりつつ、普明閣のある段への階段にも同様の手すり。堂内の木の階段が入り口となり、そこから先は「土足禁止」。

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13年01月25日(金)

西方寺の階段

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本町通りの真ん中辺り(中町)で、寺山に向かって細い道が分かれていて、すぐ階段となる。

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中間に段を挟んで真っ直ぐの石段は、浄土宗の西方寺に至る。途中右手に「石梯修築 發起 念佛講中」の碑がある。麓の安全のためにも斜面の石垣や階段は改築改修が重ねられる。*1

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両側の手すりは石柱の間に鉄パイプが繋いである。十分に錆が染みわたって年季を感じさせる。最下段の石柱には「大正十二●二月」「施主田●鶴吉」というふうに、建立後の変化の痕跡となっている。

13年01月24日(木)

本町通り

町並み保存地区の中心となる通りが「本町通り」で、北は胡堂から南は旧笠井邸まである。本川西部の「新町」に対する「本町」。

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享保の地図をもとにした「ふるさと公園惣絵図」では、一本の通りとしてではなく、町割りごとに距離を表示している(「上市町長七十八間」「中町長三十七間」「下市町長四十三間半」「下市町長四十二間」)。前項の場合も「板屋小路町」となって通りの名前そのものではなく、その筋の町名を指す。

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ところどころで交わる東西の道は、板屋小路・大小路などの本川との間の街区をつくる道であったり、寺山の上にある諸寺院の石段に通じる道であったりする。

猫も横切ったりする。*1

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13年01月23日(水)

板屋小路の橋

その町並み保存地区への案内図で、楠神社から本町通りへと赤く塗られている通りが「板屋小路」。

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「瀬戸内の公園都市・竹原 ふるさと公園惣絵図(町並保存地区」は「享保三年(一七一八)の古絵図に現在の様子を(桃色)載せたものです」とあり、「楠神社」はそれより後の創祀なので桃色で現在地が示されている。

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「板屋小路町長五十九間半」とある通りの先には板橋が描かれていて、「伊せばし」の名が見える。橋のたもとには「御高札場」があった。『竹原下市一邑志』(元禄6年)にも載っていて、「市中ノ板橋ヲ伊勢橋ト号ス*1初渡伊勢神職故名也」との由来を示す。

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現在の橋は「渡逢橋」。流れるような縦書きの橋名板が西からの観光客を迎えるような位置。

*1:以下割注

13年01月22日(火)

玉垣と看板

その楠神社の周囲は、昭和7年の玉垣が取り巻いている。そのときは社号碑を置くことは想定外だったのだろうか。

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区画の角にあたる部分は、面取りされて外にスペースが空いていて、電柱・カーブミラー・ごみ回収所に使われている。

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白い看板で町並み保存地区への案内図もある。「ここから100m」と青い矢印で示してあるので、本川を渡ってすぐのところはまだ通常の市街地であるという意味合いになるか。

13年01月21日(月)

楠神社社号碑

同じく本川沿いに位置するのが楠神社。こちらは竹原下市の町並み保存地区の入り口のような一画で、小さな面積の境内ながら、クスノキの巨樹が社殿の上を覆っている。

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クスノキの隣にある巨石には「楠神社」の社号が刻まれている。「湊川神社宮司 藤巻正之謹書」とあり、裏面には村上英*1による由来の文がある。漢字カタカナ混じりの読みやすい字。

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楠公を崇敬する唐崎常陸介によってこの神社は創祀され、昭和十年の楠公の六百年祭にあたって碑を建てて宣揚したものという。

*1:初代竹原書院図書館

13年01月20日(日)

礒宮の「社殿再建之碑」

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竹原市内の本川東側に鎮海山がそびえ、川に面した麓に鎮座するのが磯野宮八幡神社。最上段に本殿拝殿があり、中段に水神社など七社が並び、階段下の庭園に「忠孝岩」がある*1。池に取り巻かれるように天神社が参道を向いている。

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階段脇に立つ「社殿再建之碑」によって、大水害によって旧社殿を失ったことと、「爾来十星霜神域が全く荒廃に任せられた」状態をのりこえて再建の醵出がなされたことが伝えられている。題字も碑文もゆったりした配置。

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昭和四十二年七月九日近郷を襲った豪雨のため本殿拝殿はじめ随身門諸末社に至るまで悉く倒壊流失した(略)今新たに宮柱太敷き千木高知ります神の宮居が永世を期して造営せられたのである

昭和五十四年(一九七九)三月吉日調之

 題字 豊前宇佐神宮宮司 到津公斉書

  碑文 頼桃三郎撰 石川義毅書

wikipedia:頼桃三郎のページに「頼春水の高孫として広島県竹原に生まれる」とあるのは「春風」の誤りか。*2

*1http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20081224/1230136682

*2:気づいたなら直せばいい、かもしれませんがね。

13年01月19日(土)

腰掛石と水神社

コンクリートで水路を固められた天神川は、砂防施設も整えられて境内を目立たず通過して、市街地では暗渠を通る。

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さらに奥、菅公腰掛石とそれを示す碑のあるあたりは土の上を通るままの自然の細流。そういう源流域の方が好まれやすい風景、ではありつつも、

参道入口そばの案内図にある、

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上記の絵図は、明治34年(1901年)に作成されたものです。惜しくも大正15年(1926年)9月の豪雨によって社殿のほとんどが倒壊流出しましたが、当時の境内全体の様子がよくわかります

という旧状を失わせるほどの経緯からすると、用水路のように整備された渓流というのが、「水神社」の周りの風景としてはあるべき(平穏な)状態ということになる。

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谷に入るや清水あり、これを汲みて献る。公之を飲み、随意泉なりと名付け給う。この地に水神を勧請す。


関連

天神宮の水害記念碑 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20120617/1339908915

13年01月18日(金)

天神の細い川

登竜門のそばを横切る細い水路が「天神川」で、さらに奥の谷からコンクリート川床から流れてくる。

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川の脇の細道には「安永十年辛丑季春吉祥日」の石鳥居が立っている。同年*1四月二日に天明改元しているので、「安永十年」はほぼ春しか無い。

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その鳥居のたもとに「天神川源流 菅原道真公腰掛石」を案内する道しるべが括りつけられている。駅名の由来であるということで川そのものが案内の対象に加わっている。

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*1:1781年

13年01月17日(木)

天満宮の登竜門

失意・失脚の後の名誉回復や再チャレンジという、紆余曲折の前の段階として、立身出世であるとか物心両面の成功・成長が果たされることがまずは求められる。鯉の乞いは辰として立つこと、という感じで。

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天満宮社殿の東の脇には寿老人・水神社・龍神社などが連なっていて、龍神社(と荒神社の祠)の手前に絵馬の奉納所と「登竜門」が設けられている。

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絵馬を持って門をくぐり祠の中で龍神石に願をかけて絵馬を奉納するという道筋。通過点を示すことで境内の中での参拝者の動線そのものに願掛けの意味が加わる。

13年01月16日(水)

天満宮の言葉

神社の由緒に関連のあるような詩文や古典の一幕などがあれば、注連柱に刻む成句も選びやすいのかもしれない。

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尾長天満宮(東区)の階段をのぼりつめた見晴らしの良い場所に注連柱があり、「厳島神社宮司淺野忠純」の揮毫による「昨爲北闕被悲士」「今須望足護皇基」が左右に立っている。

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菅公の作ではないけれども、祟りを鎮めるために位階を追贈した際に天から聞こえてきた漢詩(の一部)、という文脈であらわれる。『太平記』では巻十二「大内裏造営事付聖廟御事」にあり、

太平記・国民文庫本・全巻 太平記・国民文庫本・全巻 太平記・国民文庫本・全巻

造とも又も焼なん菅原や棟の板間の合ん限りは

此歌に神慮尚も御納受なかりけりと驚思食て、一条院より正一位太政大臣官位を賜らせ玉ふ。

勅使安楽寺に下て詔書を読上ける時天に声有て一首の詩聞へたり。

http://www.j-texts.com/taihei/tk012.html

として七言絶句が続き、「其後よりは、神の嗔も静り国土も穏也」と一変する。

注連柱にある句の間に「今作西都雪恥尸。生恨死歓其我奈。」が入るので、左右の柱でこの詩全体を表しているともに、死して後の名誉回復という事情を端折っておくことで、再起を誓う数多の参詣者に広く当てはめることができる。

13年01月15日(火)

椎尾八幡の貞永式目

岩国市の椎尾八幡では刻字の部分に朱を入れた注連柱が見られる、というのは既に見た通り*1

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参道の途中にある注連柱に前項と同じ字が刻まれている。武士にゆかりの深い神社にとって使い勝手の良い*2章句。

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シャープな筆画が柱そのものをも細長く見せて、階段の両脇に威圧感なく納まる。

*1http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20120903/1346696175

*2:出典を説明しやすい・それとなく奉賛を求めやすい?

13年01月14日(月)

貞永式目の注連柱

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ほとんどの場合、注連柱に刻まれた語句の出典が明記されていることは無いけれども、広島東照宮の東口にある注連柱には『貞永式目』(御成敗式目)の「神は人の敬に依り威を増し 人は神の徳に依り運を添ふ」からの揮毫であると示されている。

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語句そのものは他所の神社でもよく見かけるものだけれど、出典の明記であるとか、書家による独特な書きぶりといった様式が、後の世には「平成辛巳」(平成13年)時期の特徴として捉えられるのだろうか。

13年01月13日(日)

敬信の注連柱

鳥居のすぐ後ろにある注連柱は昭和4年11月の建立とある。*1

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「敬者道之根」「信者徳之蒂」という対句。一字一字が石の幅いっぱいに大書されつつ、字間が広くて読みやすい。

司馬承禎の『坐忘論』「敬信」の冒頭に、「夫信者道之根,敬者紱之蔕,根深則道可長,蒂固則紱可茂。」とある。

坐忘論 - 维基文库,自由的图书馆 坐忘論 - 维基文库,自由的图书馆 坐忘論 - 维基文库,自由的图书馆

根にあたる敬心を深めれば道という幹が伸び、蒂(へた)をにあたる信心を固めれば徳という果実となって顕われる、という感じ。どちらも目立たない部分。

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右の注連柱の手前にはイチョウが茂る。

*1:?

13年01月12日(土)

昭和五年の玉垣

同じく「ふないり今昔」によると、もと「地チンさん」とよばれていた舟入神社は昭和5年に河原町からこの地に遷された。

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社殿にぴったりとくっついて取り巻く玉垣に「昭和五年」とある。右後ろの角には「因島 桑原十六謹書」とある。「桑」は異体字

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当時のこの地は「広島市舟入町*1。昭和8年に舟入を冠した中町・本町・幸町・川口町に分割されるまでの広大な地域名。

*1:大正8年までは広島市舟入村

13年01月11日(金)

舟入神社の公園

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舟入神社のある区域は周囲よりも少し高い段になっていて、石垣の合間合間に四カ所ほど階段が設けられている。

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『舟入学区おやこ新聞』第86号の平岡才一郎氏「ふないり今昔」によると、下の段の広場「舟入第五公園」は昭和51年にはじまるが、さらに遡ると昭和二十年代後半の溜池埋立のときから陸地としての子供の遊び場があらわれる。

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「神社下南角の(略)腰掛状の石が当時の面影」であるという。

13年01月10日(木)

文字抜粋「奉」

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舟入神社の「被爆建物」プレートの付いている掲示板には、「当社奉斉神名」などが載っている。よく見る形は「祭神 ○○」だけれども、ここでは「奉斉」。「斎」の略字だろうか*1

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参道脇にある手水鉢には大きく「奉納」と刻まれている。彫り深く、左右対称で水平な強い筆画。昭和五年のもの。

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「舟入神社」の額を掲げる石鳥居は昭和四十年の建立。ここの「奉納」の字は、円柱に刻まれているためか、墨を入れていることもあってか、浅く軟らかい筆跡で、「奉」の最終画は次の糸偏へ向かう払いのように細く切れる。墨が流れ落ちてなくてよかった。

*1:「齋(いつ)き奉(たてまつ)る」

13年01月09日(水)

舟入神社

爆心から2キロほどの横川駅近辺では神社建物や樹木が残り続けるのは難しい。

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新庄の宮(建て替え前は被爆建物)や、己斐の旭山神社*1や、舟入南六丁目の舟入神社くらいの距離ならば全壊を免れて幾十年残り続けることができる。

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人が住む建物だとあっさり建て替えられてしまうかもしれないけれど。

13年01月08日(火)

三篠神社境内

横川駅のすぐ北、三篠小学校のすぐ南の三篠神社の地もまた、市街地の中にこんもりと木々を茂らせている。

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ガード下に近い表参道被爆礎石*1でまっすぐな道が続き、県道の生活音と境内奥の静けさとを隔てる。

北側の参道近くには比較的大きな木が根を張るその上に幾つもの大石が乗っていたりする。

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縁起を記した碑文「三篠神社略記」には旧三篠町の神社を合祀したことなど*2の変遷があり、元来の楠木大明神などの頃から規模を大きくしていったものの、「原子爆弾のため樹令三百年に及ぶ境内木と共に烏有に帰す」となる。

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爆心との距離の近さによって新庄之宮のようには残ることができなかった。碑文末尾には「境内地は都市計画のため狭隘となる」ともあり、建物や樹木の往時を惜しむ気持ちが表されている。

13年01月07日(月)

新庄の宮神社の社叢

国道に面した夫婦楠を含めて、新庄之宮神社の境内の社叢をひっくるめて県指定の天然記念物となっている。(昭和29年指定)

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社殿の正面は樹木が少なく、鳩溜まり*1になったりする日当たりの良い広場で、社殿の背後を取り囲むように木々が残っている。

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境内西側にもあふれんばかりに葉を茂らせたり、落葉させたりと、境内の場所によって時期によっても粗密がある。

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昭和55年発行の『'80広島市政令指定都市記念 ひろしま今昔』(広島市公文書館編)には、「市民による広島市の新しい美の発見」と題した写真コンクールの作品が収録されている。その「西区入選」作の中に新庄の宮の写真もあり、「小鳥も沢山集まってきます」とのコメントがついている。*2

*1http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20081123/1227452145

*2:「西区特選」には「光の曲走」と題した国道2号バイパスの夜景が選ばれている

13年01月06日(日)

新庄之宮の夫婦楠

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バス停「祇園大橋」と「大芝町」の間には「新庄之宮神社」*1があり*2、国道西側の歩道に敷地が突き出ている。

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突き出た部分には樹齢五百年以上の巨樹「夫婦楠」がそびえている。参道脇に平成16年設置の石碑があり、それぞれの根回り・目通が刻まれている。

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南隣には広島大宮郵便局があるので、地形図上では郵便局の記号が国道に飛び出している形。

広島県の文化財 - 新庄の宮の社叢 - 広島県ホームページ 広島県の文化財 - 新庄の宮の社叢 - 広島県ホームページ 広島県の文化財 - 新庄の宮の社叢 - 広島県ホームページ

県指定文化財の紹介ページにある写真は国道の向かいから見下ろすような位置からおさめられている。

13年01月05日(土)

祇園大橋の南のバス停

太田川放水路に架かる「新庄橋」が県道277号で、「祇園大橋」が国道183号。国道の方を通る路線バスが複数の会社があるので、たいていバス停のてっぺんの円盤に所狭しと会社名が貼り付けてある。

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祇園大橋の南で一番近いバス停に「大芝町」と「祇園大橋」がある。広島電鉄広島交通中国JRバスの路線にとっては「大芝町」の名で、橋を渡った先に「祇園大橋北」バス停がある。

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広島バスにとっては「祇園大橋」で、市内中心部を経て広島駅・大州車庫に至る「22号線」の端点になる。その路線では南へ「祇園大橋」「大芝町」「三篠北町」という順序。

13年01月04日(金)

三篠北町中央バス停

広島市中心部から北へ、安佐南区安佐北区へと通じる路線バスのうち、国道(54号・183号)を通らずに「旧道」(県道277号)を経由する広交の路線がいくつかある。

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横川の北の三篠を経て、新庄橋太田川放水路を渡ったあとは長束や山本の団地へ向かったり、川内線が矢口へと抜けたり。

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古い地図でバス停を見ると、橋の南詰にある「新庄橋」は変わらないものの、その前後のバス停は「新庄バラ園」(現「新庄橋北」)だったり、「ニッサン前」だったりしていて、近隣の路線そのものの変化も含めて大きく様変わりしている。

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後者のバス停は現在は「三篠北町中央(旧日産前)」と表示されている。所在地両側の住所が「三篠北町」であり、こことは別に「三篠北町」バス停が国道の方にある。

13年01月03日(木)

まわローズのバス停

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博物館とか小学校といった公共施設は、バス停の置かれやすい場所であるからその名がそのまま停留所名になったり「○○前」になったりする。

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市街地の中の巡回バスのルート内となると、広い町名だけでなく施設名のバス停が多くなる。

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福山城天守から線路を挟んで南西の方に、福山ロッツの建物が目立つ。向かいには県立歴史博物館。

百貨店とか工場とか、バス停が置かれるくらい規模の大きな施設も停留所名や駅名になって定着すれば、そこが目的地ではない人達にとっても目印・経由地として認知度が高まる。

けれどそれら施設名は、行政区画名・自然地名と比べるとどうしても寿命が短い。その施設が無くなったあとも呼びつづけるのはそれの記憶がある人に限られる*1

*1史跡にでもなれば意味を変えて定着する

13年01月02日(水)

191号別れ周辺

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大きめの小売店舗の集まる191号別れ交差点*1周辺。その交差点の南東部にある総合福祉センターは高層の建物なのでそれら店舗を眼下におさめる近さにある。

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さらに南東に離れた寺山の上から眺めた場合も、それら店舗の建物は幅の広さが目立ち、近隣のマンション等の高さと対照的。

交差点の北側にある2店舗やその他の建造物と比べても、サンリブの建物の白さは際立っている。

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普通、いくら目立つとは云っても、展望台から見える目標物の説明に企業名が載ることは少ない。

*1:道路交通情報でおなじみの

13年01月01日(火)

太陽の丸

その可部上市バス停にある古い商工案内図の、設置場所近辺を見ると、今はもう無い名前もちらほらある中、ショッピングセンターの「サンリブ」はそのまま。

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他の看板の中に旧称「サンマルコ」を目にすることも。

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グループ沿革|サンリブ・マルショクグループ グループ沿革|サンリブ・マルショクグループ グループ沿革|サンリブ・マルショクグループ

グループ*1の沿革のページによると、「広島可部ショッピングセンター」の開店が昭和49年*2。サンマルコという名前や名称の変更については見当たらない。多分「サンリブ可部店」と呼ばれるようになってからの年数のほうが長くなっている。けれど「マルショク」でも「サンマルコ」でも通じる場合は通じるかもしれない。

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*1:広島エリアはサンリブ社の管轄

*2:西暦1974年

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