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14年07月31日(木)

青古墳群

「ひろしま昔探検ネット」(遺跡分布地図)の

遺跡分布地図 F-10 遺跡分布地図 F-10 遺跡分布地図 F-10

の範囲がちょうど「可部古墳群」を構成する各古墳群を収めている。東から「九品寺北・南古墳(旧称:九品寺古墳群)」「城ヶ平古墳群」「上ヶ原古墳群」「原迫古墳群」「青古墳群」「給人原古墳群」。

「くほんじ」が「くひんじ」だったり、「じょう」が「しろ」だったりと、分布地図内の地名の読みに多少正確でない部分があるので、他地域の遺跡の読みも実際と異なるものがあるかもしれない。

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かつて百基近くの古墳が存在したとされる可部古墳群のうち、青古墳群の4基が広島市指定の史跡として保存されている(昭和48年指定)。合併前の可部町時代にすでに消滅が進行しており、宅地計画から外して可部町指定の史跡となることで現在の範囲が残ることになった。*1

*1:福谷昭二「可部古墳群をめぐる若干の問題について」『芸備地方史研究』83・84号,1970

14年07月30日(水)

上ケ原の斜面

上ヶ原砂防堰堤*1から南へ流れる帆待川を境に、東に上ケ原古墳群、西に原迫古墳群が分布する。大毛寺と中野の大まかな境でもある。

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上ヶ原で近年発掘されたのは標高134mあたりの第34号古墳。過去に確認された三十数基の大半は現在の可部6丁目の住宅地に含まれる。

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明治38年の『考古界』5−3に重田定一「安藝安佐郡上ヶ原の古墳」が掲載されている。その時の調査では18基の古墳の存在が確認されていて、南側の3基が「畠地」に、他が「雑木林」の中にあった。18号と名付けられた最南端の石室が開口していたほか、崩壊の程度は様々で、

渓流時々溢るゝと見え、新成の畑地も至つて薄味なり。〓(イ+倉)夫の話に、右の古墳が、かくも破壊されたるも、山水の仕業にて、誰一人鋤を加へたるにはあらざるよし。

過去の土石流によって壊れたもので、開墾のために改変したものではないとの言が収められている。修復は出来ないにしても、畠の中に取り込まれる形で残るのはあえて破壊しないという接し方で、畝観音免と似たようなものだろう。

14年07月29日(火)

上ケ原の人穴

学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館 学芸員のひとこと - ひろしまWEB博物館

の、

江戸時代の人が見た可部古墳群」(2011.5.13)という記事に「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(大毛寺村)の「上ケ原神代人穴」が紹介されている。発掘調査によって寛永通宝が見つかった石室もあることに触れ、「神世の昔の人へ向けての賽銭感覚で供えたものかもしれません」と解している。

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「上ケ原」は、近世の村でいうと水落・上中野・大毛寺にわたる帆待川上流の傾斜地。大毛寺村に現在で言う「上ヶ原古墳群」は含まれないけれど、連続する「原迫古墳群」や「青古墳群」を含めて「人穴」が集中しているとしたものか。

「上ヶ原A-1号古墳」は古墳群の中でも標高の低い位置にあり、規模が大きく明瞭な形で開口していたので、人目につきやすかっただろう。ここで寛永通宝23枚が出土している。

人骨片は開口していた閉鎖石付近に撹乱された形で寛永通宝とともに発見された。江戸時代のある時期に開口されて玄室部へあった人骨が持ち出されて埋葬されたのであろう。

可部町史』第二章 歴史のあけぼの p43

との推測もある。

開口した時を目の当たりにした人と、神代の住居跡だと考えた人が重ならないかもしれないし、人骨が出ても墓とは思わないという認識であれば、(近世的に)ちゃんと埋葬して供養しようという対応になるか。

14年07月28日(月)

古墳のお供え

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古墳の石室が露出しているところに賽銭が撒いてある例というのはあまり目にしたことがないけれど、西谷1号古墳(海田町)の花や、御年代古墳*1の石棺上の小皿など、墓所への接し方の現れとしてお供え物が見られることはままある。

中国新聞アルファ 中国新聞アルファ 中国新聞アルファ


古墳と知った上で現代人がそう接するとすると、「籠り塚」*2や「火の釜」*3と呼ばれていたような頃、墓ではなく別の「古跡」と思われていたときの接し方は、意味付けによって異なる。

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可部トンネルのすぐ北、九品寺古墳群の1号古墳は「穴観音」が祀られている。拝む対象が他から持ち込まれることで礼拝の対象になったと見るか、はたまた観音導入以前から拝まれる場所だったと見るか。

トウカイ

一、穴観音 一宇 岩穴ノ内 百姓 平吉抱

九品寺村「国郡志御用に付下調べ書出帳」

14年07月27日(日)

散らばる銭

それらの石材が白黒の模様を見せる中に、点々と小銭が散らばって反射している。(平成22年の実見)

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古墳に対しての供養の意味か、それとも別の信仰の対象として捉えられたのか。

石室の中を覗きこんでも小銭がたまっている様子も無いし、開口部にも散らばっていない。石の上を置き場にすることが選択されたようで。

もし賽銭箱を置いたりしたら、後から仏像が置かれるという展開もありそうだ。

14年07月26日(土)

岩の模様

自然観察とかアウトドアの文脈では古墳は取り上げられないだろうなと思ったら、そうでもなく。

龍王山の自然と遺跡 -  東広島市自然研究会 龍王山の自然と遺跡 -  東広島市自然研究会 龍王山の自然と遺跡 -  東広島市自然研究会

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憩いの森を「地形と地質を中心に」見た時に、古墳に使われた岩石に注目が集まることになる。とくに新立1号古墳は「“捕獲岩”をもつ花崗岩」が集められて特徴ある模様を呈する。現存の天井部の岩は暗色の部分を包む白地の面がとくに広範囲に見られる。

14年07月25日(金)

新立1号古墳

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公園内を巡る林道から2本の道が分かれていて、一つは竜王山登山道の続きになり、一つは「新立1号古墳」への道。入口に古墳の説明板がある。ほかの古墳は標柱が立ててあるだけだが、古墳群の中で最大なだけある。

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現状の石室は、天井石の一部を欠いて上から覗き込める隙間があったり、残っている巨石も中に落ちかかっていたりで、狭い空間(と入口)になっている。

「書出帖」にいう「火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗」と説明板の「長さ8.1m、幅が中央で1.6m、高さは1.5mを測り」とでは、同じ対象ではないにしても「入」と「長さ」の測る位置がかけ離れているのだろうと思える。

14年07月24日(木)

花が迫古墳群

寺家村の山裾に散在した「火の釜」のうち、現状を確認しやすいのが「憩いの森公園」内の「花が迫古墳群」。

半尾川*1上流に広がる公園で、近世の村では寺家村と吉行村が接して入り組んでいる谷間。

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公園の案内図では開口した石室が記号になっている。砂防ダムの隣で整備された緑地「日だまりの庭」から見やすい外観になっている古墳もあれば、林道脇で石材が散乱している現状のものもあり。

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14年07月23日(水)

賀茂郡の火ノ釜(ニ)

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賀茂郡寺家村の書出帖の記述は以下のとおり。

火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗廻り石垣にして上に大石のひらなるを置く上古木巣穴居の遺跡なるか或ハ落人の隠家ともいひ或ハ人皇廿六代武烈天皇の御宇苛虐の政行ハれける故かやうにては後ハ火も降るべしと人〃いひけるを其時は民淳質にしてさもありなんと火を防がんために所〃に構ふともいひつとふ火の釜の跡當村ニも六ヶ所程御座候○又昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日本國へ觸サセ給ふゟ今も鹿嶌ゟこと觸の出ルよし申ものも御座候

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「火之釜」の由来に三つの説が挙がっている。「上古木巣穴居の遺跡」「落人の隠家」「火を防がんために所〃に構ふ」。そのうちの三番目の説について詳細であり、末尾にはそれを補強するかのように「昔火の降るとて鹿島大明神の命ニて日本國へ觸サセ給ふ」という「鹿島の事触」が持ちだされている。

「火の釜」という呼び名自体が特殊な由来を連想させやすいのか、「こもり塚」を説明する場合よりも考察に費やす文字が多くなる。

地元にある遺跡について、「なるべく古いもの」「なるべくありきたりでないもの」「なるべく全国的な話題に繋がるもの」であってほしいと思うのは今も昔も変わりない。

14年07月22日(火)

賀茂郡の火ノ釜(一)

賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。

『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋庄之内に数々有之由」と、記載していない村々にもあると補足されている。

賀茂郡の火の釜の事

火の釜と唱候もの西條庄寺家村熊野跡村書上帖ニ相見其外書出者不仕候得共西條庄高屋庄之内に数々有之由相聞申候方大石積上ケ上へも大石を覆ひ其上へ土を置戸口有之内広サ大概三四畳敷五六畳敷位ニ仕立候ものと相見申候此儀往古穴居之跡或者先年火雨降なとゝ申事ニて拵候ものニも可有之抔と申出如何様往古蒙(モウ)古火器を以攻来を火雨降と云触候由ニて為要害拵候ものにも可有御座哉と申値候

その内の一ヶ所、熊野跡村は後に安芸郡に変わり、現在は広島市安芸区。

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熊野川の湾曲部に「香路山」があり、その麓にある「火の釜」が「熊野跡村書上帖ニ」挙がっている遺跡にあたる。

現状や同地区内の「下切山火の釜」などは、宮脇時夫著『阿戸町郷土史 原始古代〜明治維新』に詳しく記されている。

14年07月21日(月)

安芸郡の籠塚

矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。

奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内ニ七ヶ所御座候」とある。

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船越村では現「新宮古墳」が開口した外観が触れられているが、中には入れず寸法などは分からない状態。貫通した現状とは大違い。

籠塚一ヶ所 当村楠木ト申森之内深ク、大石横渡し尤近年追々土草ニ埋リ口穴狭く相成深サ知レ不申候

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畑賀村の賀下(影)の「籠塚」は後に「こもり塚古墳群」の呼称に使われる。

入三間一尺 幅三尺五寸 高さ七尺 賀下ト申処ニ有之、山ヲ掘、天井石ニ而御座候、往古人籠之由申伝候

石室の様子から「往古人籠之由」と由来が予想されて「こもり塚」の名が定着したのだろう。とくに畑賀村のこもり塚は『蒲刈志』の「大浦藤波頭山名中峰ニ大ナル穴アリ」という「石洞」*1を説明する際に引き合いに出されるという影響力がある。

*1上蒲刈島のそれが古墳かどうかは不明

14年07月20日(日)

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。

何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方

それらの西崎山や近隣の古墳が古墳であるとの認識のもとで記録されるようになるのは明治の半ば。重田定一「安藝國矢野村の古墳」(考古界第四篇第六號)で調査報告されているのが「西尾古墳」「北尾古墳」「千古古墳」などと後に呼ばれることになる古墳。とくに「字西崎といふ山林にて村人某々等、庭石を取らんとて、偶然石室を見出したるよし聞き込みたる」というきっかけで調査された千古古墳は石室内の図も掲載されている。

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北尾古墳については、既に以前から暴露開口していたもののようで、

字を北尾とて、これも同じようなる丘陵の半腹に、南面に石槨の暴露せるものあり。入口の天井石は厚さ一尺八寸、幅七尺餘もあるべく、四邊は鋤きかへされて、畠となり居れば、前面甚だ崩壊して土砂これをふさぎ、辛く内部を窺ふことを得べし

周りが耕地になっていたというのは海田の畝観音免古墳と似ている。現在は団地と耕地の間にかろうじて残っている。


前者の「千古古墳」のように、近代になってはじめて開口したとみられる古墳は、それ単体では「火の釜」と呼ばれたことは無い、ということになる。

同報告では、千古古墳と同じ山の尾や東北方に三箇所の石槨(ママ)跡が確認されているのでそれらの崩壊の程度の大きい古墳がかつて「火の釜」として伝承された「古跡」だったのだろう。*1

*1:逆の言い方だと「そのうち三個は前述の如く文化年間に「火の釜」として注意されているから、早くから開口していたものであろう。」『広島県矢野町史 上巻』

14年07月19日(土)

矢野東の古墳

矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。

此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ御座候、古ハ何之為メニ相調候物歟申伝ハ無御座候得共、童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候

「火ノ釜」も「こもり塚」も県内他地域でも見られる名で、横穴式石室が開口した状態に対しての近世の人の呼び習わし。北隣の奥海田村では「籠塚」として記載されている。*1

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西崎山の古墳は団地造成で消滅しているが*2、円墳が点々と存在していた頃の様子は『広島県矢野町史 上巻』(昭和33年)に見られる。

矢野の古墳は町をめぐる北と南の丘陵に存在する。北尾・西尾・丸古・ゆずり城・三つ城・九つ城・狐ヶ城等丘陵の上に点々と饅頭形の封土が見られるが、今の人々はこうした円丘を「城」と云う名で呼んでいる。九つ城とは九つの円墳が並んでいたのであって、この呼び方は安芸地方に広く行われている。

墳丘の盛り土が残っていれば「じょう」と呼ばれ、石室が露出して開口すれば「火の釜」や「籠り塚」と呼ばれた、ということになるが、どちらの名前も当時の人が古墳と知った上での呼称ではないことに注意。似たような形の土盛りや洞穴があっても呼び分けるとは限らない。

*1:畝観音免古墳群 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20100409/1270826870

*2:西崎東古墳・西崎西古墳・西崎古墳いずれも消滅

14年07月18日(金)

西崎

海田毘沙門堂から矢野方面を眺めると、東から西へ突き出た西崎山の形がよく見える。矢野中学校の校舎も見えて造成で均された変化も分かりやすい。

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「さいざき」は「幸崎」または「西崎」。矢野村の「下しらべ書出帖」では「御建西崎山」や「西崎川」と書かれる。その表記が定着すると「にしざき」の読みも現れるようになる。「にしざき」の読みの出現が使い分けのための「幸崎」表記を促す。

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一方、境を接する奥海田村では同じ山を「道祖崎山」と表記する。この表記なら「さいざき」の読みは継続しやすいかもしれないが、「どうそざき」になる展開もないこともない。

藝藩通志掲載の絵図上でもそれぞれの村で「道祖崎山」「西崎山」と書かれる。

14年07月17日(木)

観音谷観音堂の入口

山の麓、矢野安浦線の起点近くは矢野の中心部で、呉線をくぐった先には役所の出張所がある。

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すぐ北に迫る丘陵には住宅団地があるので、街路を詳細に示した地図では丘や谷の形がよくわからない。

絵地図状の史跡地図では、山林部との高低差が強調されていて造成による地形の変化は目立たない。

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「西崎」と「北尾」という丘陵端部の間が「観音谷」で、その奥に観音堂がある。

という案内図の看板があった。「参道」の「入口」は街路の開発によって位置が変わる。

載っている道からすると、北尾や矢野中などへ逸れてしまいそうな分岐点の部分で間違えないように抜き出してある。

14年07月16日(水)

「入口」の遠近

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熊野方面への峠にさしかかる手前が呉市方面への分岐点になるので、バス停は「昭和入口」。矢野と接するのが呉市の昭和地区(旧昭和村*1)のためだが、「焼山」の方が通じやすいかも。

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現県道にたいして「旧県道」、さらに以前の「古道」がその痕跡をとどめている場所として「「樫木茶屋」入口」の説明板が置かれている。茶屋跡そのものの場所ではなく現在の道路の脇に設置して「入口」を示している。

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*1:焼山村と本庄村の一部で構成

14年07月15日(火)

矢野の主要地方道

その谷筋から熊野方面へ通じる道が県道34号「矢野安浦線」。バイパスとして熊野トンネルを通る広島熊野道路がある。

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広島熊野道路|広島県道路公社 広島熊野道路|広島県道路公社 広島熊野道路|広島県道路公社

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谷川は細いが道路は幅広。

一 平谷村境ヨリ海田市境迄矢野村之内里程

  壱里壱丁四拾四間三歩之内

    矢野村峠登り麓ヨリ六丁三間四歩  嶮キ方

 但、熊野・黒瀬・三津・竹原筋江之往来路御座候

文化12年の「国郡志御編集ニ付下しらべ書出帖」(安芸郡矢野村)での往還の記述は上のようにあり、現在の矢野安浦線に相当する。

14年07月14日(月)

矢野の谷筋

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安芸区の中では矢野地区は飛び地になっている。

他地区*1瀬野川流域で、矢野は矢野川・宮下川の作る谷を中心とした区域。

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絵下山・発喜山の東から北西へ向けて流れる小さな川が作る谷が、熊野呉市方面への主要道でもある。

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*1:船越・畑賀・中野・瀬野・阿戸

14年07月13日(日)

矢野の渓流

安芸郡矢野の地形を山と海の方向で言い表すのは「国郡志御編集ニ付下しらべ書出帖」*1も同じ。


形勢気候民戸産業之事

一 当村西北ハ海、東南ハ山高ク連リ、一村限り川二筋流出、井手・雨池数々有之候(略)

村の中を流れる二筋の主流は「東川」「西川」と書かれていた。

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これが明治42年の「水害之碑」*2では「本川」と「西川」となる。それぞれ現在の「矢野川」と「宮下川」*3


矢野村在于岡阜之間溪流二派貫通南北曰本川曰西川最爲害者爲本川

14年07月12日(土)

矢野の位置

矢野駅前は尾崎神社裏参道の麓、多数の石碑が並ぶ中にある「髢之碑」は大正四年の建立。矢野町になる直前の頃。

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全文は「髢之碑のだいたい」*1を参照。

冒頭では矢野村の地誌を述べてあるが、位置については他所の人がよく知る場所(広島城と呉軍港)を使って大づかみに説明されている。「廣嶋城東三里有村曰矢野屬安藝郡丘陵圍三面隔陵南有吳軍港」

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14年07月11日(金)

大正六年の鳥居

安芸郡矢野村が町制を施行して矢野町となったのが大正6年10月。

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表参道の石鳥居が「大正六年十月建立」。*1

この時から「當町」を名乗ることになったからか、とても力強い楷書。

*1:扁額と石工・鳶の部分は http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20090826/1251257991 を参照

14年07月10日(木)

矢野町と矢野村

尾崎神社の所在地は安芸区矢野西。昭和50年に広島市と合併するまでは安芸郡矢野町。

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昭和18年の狛犬の台座に「奉納者 矢野町 」とあり、

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明治34年の注連柱には「願主 矢野村 」とある。

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町制の意味でなく村の中の「町若連中」による狛犬は「文政三年庚辰」のもの。

14年07月09日(水)

「崎」の「山」

「崎」の字だけではないけれど、偏としての「山」は、あまり縦長になると不自然に余白を埋めている感じがする。

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自然な大きさで書くと上なり下なりの余白ができるので、そのぶん旁の「奇」の中の「大」と「可」の勢いも影響される。

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りっとうのように「山」の三画目を左に払うと無理なく余白が埋まる。「可」の五画目も左方向へ食い込むことがある。

14年07月08日(火)

浄土寺の尾崎町

四基の鳥居のうち、最前のものが昭和17年。

奥から二番目のものが新しくて平成5年

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どちらも奉納者の住所として浄土寺所在地の「尾崎」を載せるが、現在は「尾道市尾崎本町」で、昔の方は「當市尾崎町」。現在の「尾崎町」は浄土寺背後の山林部を指す。

14年07月07日(月)

額の中

稲守稲荷には四基の鳥居が奉納されている。

赤い鳥居は稲荷神社一般にあてはまる「正一位稲荷大明神」の額で、他三基の石鳥居が「正一位稲守稲荷大明神」。

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語と語の間隔によって「稲守稲荷」が大きくなったり「大明神」が大きくなったり。

14年07月06日(日)

立体の宝珠

丹生明神の西隣には稲守稲荷が位置し、周囲に多数の祠が並んでいる。

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祠の正面にある蝋燭立てが宝珠の形をしていたり、同じく正面の石の上に宝珠の浮き彫りがあったりと、狐と鳥居だけではない稲荷の装飾のバリエーションが見られる。

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14年07月05日(土)

光背の像

梵字や絵なら壁面に自由に配置できるけれど、立体の仏像は平面や傾斜に置かないといけないか。垂直に見せるなら棚がいるか。

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浄土寺境内の丹生明神の傍ら、石仏の並ぶ中の右端に「善光寺」の一体が見える。

多分阿弥陀・観音・勢至の三尊と、光背の上部にさらに五体が浮き彫りになっている。こういう形なら垂直に立体を配置できるか。

14年07月04日(金)

曼荼羅岩

その先の巨岩には「梵字岩」が刻まれている。

縦長の立て札が赤い矢印で示して、「東都湯島霊雲寺開基浄巌大和尚当地へ御留錫砌り書き遺されたるものなりと伝う」との由来を載せる。寛永16年から元禄15年の人。

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円形に掘り凹められた面に光明真言曼荼羅があらわされている。地水火風空の種字が中央からのの字を書くように置かれ、光明真言24字が円周を外向きに配置される。空白の中に八や十二がおさまるのだろう。

14年07月03日(木)

八体の並び

同じく千光寺境内。

平成8年奉納の「干支石仏」(八体仏)は、子歳が千手観音菩薩、午歳が勢至菩薩といった生まれ年ごとの守り本尊という意味付けで八体の仏像が安置されている。

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どう配置して見せるかが他所の八体仏との違いであるし、十二支と関連させていることの表現も説明的にならないような繋ぎ方が工夫される。

ここでは千手観音像を中心に置き、左右に三・四と分けて配置。十二支と仏像の種類は、背後の角柱に刻むか角柱から離れていたら傍らの石板に刻むようにして表示としてある。

14年07月02日(水)

延享の六地蔵

鳥居の傍らには延享元年の六地蔵。鳥居の35年後にあたる。

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三体ずつ横並びに参道を向いている。台座と台座の間に笊があるので数は4つ。

台座にそれぞれ「六地蔵」と刻まれている中で、本堂に近い方の一躰の台座には紀年と「願主 花光妙蓮尼」という名が正面にある。

14年07月01日(火)

権現の鳥居

さらに奥は石鎚権現の鎖行場へ通じる岩場。

入口の石鳥居は「寶永六己丑年 六月吉祥日」とあり、護摩堂創建と同時期。

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もっぱら「併祠」の石鎚権現の名が目立つけれど、「当山鎮守」は「熊野大権現」。神使の烏天狗が線刻されている。

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関連

宝永の鳥居 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20120113/1326465769