自分に指をさす「僕」と、『フラニーとゾーイー』と

最近は引き続き、サカナクションの新譜をよく聴いています。

この現代という時代に、ひとの言動や作品を批判すること、
さらに批評を批判するということついて、
聴き手の心に鋭く問いかけてくる力作 "エンドレス"
そして、現代に生きる人々の中に時に見えてしまう薄っぺらさやスノッブな様子を歌う
”仮面の街”。

両作品とも、作品の語り手かつ主人公である「僕」の批判の目は、
自分に対しても厳しく向けられている。
"エンドレス" では「僕」は自分で自分を指差しているし、
”仮面の街”では、「僕」は周りの人々を批判しながらも同時に
自分も他者の前で仮面をつけて振る舞っていることを明らかにしているし、
汚れていないのに手を洗いたくなってしまったと語っている。

自分を省みることなしに何かを批判すると、上から目線になりがちだと思うけれど、
では自分はどうなんだ?自分もそうではないのか、という視点があると、
聴き手も、自分はどうなんだろう?と自然に自分を振り返って、
その作品に描かれた物語と自分のそれとをつなげ、
その作品を、作者や他のリスナー達と共有できるような気がする。


私は、この二つの作品を聴いて
サリンジャーの小説『フラニーとゾーイー』を連想してしまった。

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

大学生のフラニーは、自分の周りにいる人達のエゴや自意識の過剰さ、
スノッブな様子に嫌気がさし、体調を崩してしまう。
ラニーは、自分も周りの皆と同様だと感じ、苦しんでしまうのだが、
兄のゾーイーの言葉によって、彼女の心は救われる。

かつて、子供の頃にラジオのクイズ番組に出演していたゾーイーに対して
長兄のシーモア(短編「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公でもある)が、
ある言葉をかけたのだという。

それは、『太っちょのオバサマ』(原文では ”fat lady”)のために靴を磨いていけ、
というものだった。

最初、ゾーイーにはその意味がわからず、
靴はみんなから見えないのだし、
低能な観客やアナウンサー、スポンサーの為に靴を磨く必要はない、
と怒るのだが、結局兄の言う通りにし、その後も靴を磨いて番組に出演するようになったという。
ゾーイーの頭の中でイメージができあがったというそのオバサマは、
一日中ベランダにいて、ラジオをかけっぱなしにしたまま蠅を叩いたりしていて、
多分癌にかかっているという。

このお話の最後の部分で、ゾーイーがフラニーに
実はあらゆる人々が『太っちょのオバサマ』であり、
この『太っちょのオバサマ』こそがキリストなんだ、と語るくだりを読むと、そのたびに、人のこころの中には俗悪な部分もあるけれど、
聖なる部分もあるよなぁ、と改めて感じさせられる。
そして、どうしても、私の頭の中には三波春夫の姿が
「お客さまは神様です」というあの台詞と共に出てきてしまう。
ハルオさん...どんな人生を送った人だったのだろうか。