青くささと、恋愛を想像する楽しさと ―『ティファニーで朝食を』 2/2

 カポーティの人間観も文章のなかから垣間見られる。ただ、若い頃の作品のせいか、その人間観からは少し青くささも感じられる。もしかしたら、その青さこそが魅力的なのかもしれないけれど。

 我々の大方はしょっちゅう人格を作り直す。身体だって数年ごとに完全なオーバーホールをくぐり抜けることになる。望むにせよ望まないにせよ、我々が変化を遂げていくのは自然なことなのだ。ところがここに、何があろうと断じて変化しようとはしない二人の人物がいる。ミルドレッド・グロスマンとホリー・ゴライトリーの二人だ。彼女たちが変化しようとしないのは、彼女たちの人格があまりにも早い時期に定められてしまったためだ。ちょうど何かの拍子に金持ちになってしまった人間と同じように、あるところで人を支える均衡のようなものが失われてしまったのだ。(92-93)

 次に引用するのは物語も佳境に入ってきたところ。颯爽とした雰囲気はもちつつも、ベースは悲しいお話なんだと思う。そして、こんな出会いがあれば素敵だっただろうなと思える。カポーティだってそんなことを妄想しながら書いたのかもしれない。

「何年かあとに、何年も何年もあとに、あの船のどれかが私をここに連れ戻してくれるはずよ。私と、九人のブラジル人の子供たちをね。どうしてかといえば、そう、子供たちはこれを目にしなくてはならないからよ。この光と、この川を。私はニューヨークが大好きなの。私の街とは言えないし、そんなことはとても無理だと思うけど、それでも樹木や通りや家や、少なくともそんな何かしらは私の一部になっているはずよ。だって、私自身もそういうものの一部になっているんだもの」。そこで僕は「頼むから黙ってくれないか」と言った。自分が仲間外れにされたような、腹立たしい気持ちになったからだ。(131-132)

 僕は彼女に約束した。後でここに戻ってきて、猫を必ず見つけるから、と。「猫の面倒は僕が見るから、心配しなくていい」
 彼女は微笑んだ。喜びを欠いた、はかない微笑みだった。これまで目にしたことになかった微笑み。「でも、私はどうなるの?」と彼女は言った。囁くような小さな声で。そしてまた身震いした。「私は怖くてしかたないのよ。ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ。」(168)

ティファニーで朝食を (新潮文庫)

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