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2012-02-21(Tue)
林長二郎、顔切り事件の経緯と顛末
前回のエントリー:
前回の続きです。
昭和の映画スター、長谷川一夫は、もともと歌舞伎の出身で、「林長二郎」という名前で活動していた。
しかし昭和12年(1937)、松竹から東宝に移籍する際のトラブルで、左頬をカミソリで12センチも切られた上、師匠から芸名を返上するよう命じられてしまう。以後、本名の長谷川一夫と名乗るようになった。
以下、雑誌「マージナル vol.09」に所収された、『「映画界の黒幕」・アナキストやくざ笹井末三郎』(筆者・柏木隆法)より抜粋・要約して、事件の経緯と顛末を紹介する。
- 作者: 中川六平
- 出版社/メーカー: 現代書館
- 発売日: 1993/11
- メディア: 単行本
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林長二郎が松竹の「稚児の剣法」で映画デビューしたのは、昭和2年(1927)。なお、このときカメラマンとしてデビューしたのが、特撮で有名な円谷英二だった。
長二郎は、その美貌ゆえにたちまち当時の女学生たちのアイドル的存在となった。しかし彼のギャラはなかなか上がらず、約10年が過ぎても、入社時の月給200円から400円に上がっただけだった。当時、バンツマこと阪東妻三郎のギャラは3000円で、片岡千恵蔵は1500円だった。
ただし、松竹にも言い分はあったろう。長二郎は、映画デビューの段階ではまったくの無名だった。彼を一から育て上げ、宣伝費をばらまき、これまで社をあげてサポートしてきたのが松竹である。
昭和12年(1937)、長二郎は松竹の勧めで長男の初舞台を済ませた。その費用は松竹からの借金で支払った。
長二郎は、ギャラを低く抑えられているという不満もあり、その借金はゆっくりと返せばよいと考えていたが、松竹はすぐに返済を迫ってきた。
長二郎はこのことにショックを受け、移籍を決意する。
当時、映画会社を移籍するのは大変な覚悟が必要だった。会社から恫喝される上に、世間からは忘恩の徒と罵られる。そのため、長二郎はしばらく迷い続けた。
当時の松竹の最大のライバル、東宝は、そんな長二郎の状況を知り、スカウトの手を伸ばす。
最初の交渉役は、先に松竹から東宝に移籍した円谷英二だったが、これは長二郎のマネージャー、清川峯輔との交渉だけで終わった。
二番手は、東宝のプロデューサー、今井理輔という人物だった。彼は、長二郎の母に契約金を渡すなどして、強引に契約を結んだ。
今井は、松竹を追われて東宝に移った池永浩久に相談し、長二郎に身辺警護をつけてもらうことにした。京都の千本組の組長、笹井静一の子分が用心棒に選ばれた。
一方、松竹の白井信太郎(白井松次郎・大谷竹次郎兄弟の末弟)は、松竹系の新興キネマで撮影所長を務める永田雅一に1000円の現金を渡し、長二郎の引き留め工作を依頼した。
永田は、千本組の笹井静一が長二郎に用心棒をつけていたのを承知の上で、静一の腹違いの弟、笹井栄次郎に話を持ちかけた。
永田は、笹井栄次郎を使って長二郎に脅しをかけ、移籍を防ぐつもりだったのだろう。
しかし栄次郎は、永田が考えているよりも悪党だった。
彼は、
「長二郎をやったら松竹の睾丸を握れるのではないか」
と考えた。
長二郎を引き留めるのではなく、顔に一生残るような傷をつければ、松竹から金を脅し取ることができるという算段だったらしい。このあたりの論理は、正直言って僕には理解できない。
栄次郎は、一匹狼のやくざ者、増田三郎という人物に仕事を依頼し、増田は増田で、ちんぴらの金成漢という男に、長二郎の顔を切るよう命じた。
「林長二郎顔切り事件」は、このような経緯で起こった。
白井信太郎が永田雅一に渡した資金は1000円だったが、実行犯の金成漢が受け取った金は、わずか50銭だったという。
長二郎は、難手術ののち俳優として復帰した。移籍をよく思わない師匠から、芸名を返上するよう命じられてしまうが、支援者たちの勧めにより、以後は本名の「長谷川一夫」を名乗って活動することになる。
警察は、金、増田、栄次郎、永田を芋づる式に検挙した。
永田は太秦警察署の取調室で刑事たちに土下座して、
「どうか堪忍してくれ、その代わりあんたたちを一生楽をさせる」
と、泣きついた。永田には実業家として成り上がる夢があり、ここで前科を食らうことは避けなければならなかった。
そのころ、別の警察署では、会津の小鉄の流れを汲む「いろは」という組に属する松本常吉というやくざ者が、首謀者は自分だと自白していた。
これについて柏木隆法氏は詳述していないが、ふつうに考えれば、永田が「いろは」に身代わりを差し出すよう頼み込んだか、もしくは「いろは」が松竹の立場をおもんぱかって(松竹から金を脅し取れると判断して)、松本常吉に一芝居打つよう命じたのではないかと思う。
警察は困惑しつつ、永田を無罪放免し、松本常吉、笹井栄次郎、増田三郎、金成漢を検挙した。
その結果、栄次郎が懲役1年、他の面々には懲役2年の判決が下された。
この一件によって最も大きなダメージを負ったのは、永田雅一および千本組だったという。
実行犯の金成漢と、計画を立てた笹井栄次郎は、刑務所から出所した後、永田のもとを訪れて金をゆすり続けた。
永田は、金成漢に小遣い銭をせびられ、毎月「小学校の女子教員の初任給に毛が生えたくらいの」金額を一、二年ほど与え続けた。
金はその後も、永田が戦時中に設立した大映の京都撮影所に出入りしていたが、所員と悶着を起こして千本組の子分たちに袋叩きに遭い、昭和30年(1955)、韓国に強制送還される。
笹井栄次郎は「戦中戦後を通して永田をゆすり続け、宣伝費を名目に毎月5万円を受け取り、昭和30年、大阪の梅田大映が新築されると、地下の一角を補償金、家賃なしで占領し、トンカツ笹井を経営するも失敗した」とのこと。
なお、増田三郎のみは、やくざの仁義を通し、永田をゆするようなことをしなかったという。
被害者の長谷川一夫は、手術に成功して傷跡を消し、同情票も集まったことで、かえって人気が定着した。
しかし、なかなか良い作品にめぐまれず、戦後に東宝を退社し、劇団を旗揚げするも失敗。敏腕マネージャーの清川峯輔は、永田に掛け合ってその借金を肩代わりさせた上、長谷川を大映に入れさせた。
入社第一日目、大映京都撮影所の門前に永田を始め、所員全員が長谷川を出迎えた。その中には笹井栄次郎、金成漢のみならず、事件の捜査をした太秦署の元刑事たちの顔も並んでいた。
戦前戦後の映画界が、いかに混沌としていたかをあらわすエピソードだと思う。
それはともかく、長谷川一夫は、紆余曲折、毀誉褒貶はあったものの、死後に国民栄誉賞を受けるほどの存在となったのだから、この事件の関係者の中では、まずまずの「勝ち組」だったのではないかと思う。
一方、千本組の笹井静一は、弟の栄次郎の暴走によって林長二郎の警護に失敗したことで、メンツを潰された上、東宝の幹部となっている大沢家との関係も断たれ、「千本組が映画界の近代化を阻害する癌のように世間に流布」されてしまった。
そのツケを払うために苦労したのが、静一の末弟、笹井末三郎なのだが、その話はまた別の機会に書くことにしたい。



