ガイドになれない、何者にもなりたくない

アルコール漬けで脳萎縮進行中らしいのだが、いつもけだるく、なにもやる気がしない。本を一行読むたびに眠くなり、その一行から展開されるぼんやりした夢がはじまり、目が覚めるとまた新たな未知ではあるがどこか懐かしい一行がはじまり、なにやら物語らしくなる気配である。目蓋を保有しているために、開閉作業なども無意識的に行われるようだが、構わず活字はその活発な静止の模様を連ねるようにして進んでゆくようである。「ガイドになれない/街の名前だって言いたくない」(川田絢音「ガイドになれない」)。なるほど、相互参照的な役割期待とその実践のやりとり、ミラーボールのように多面的な仮面と言動とを駆使したロールプレイが出来なければ、社会でのコミュニケーションは取れない。だが、必然性に欠ける。社会に出れば当然行わなければならないことが、まるで自分とは無関係にある。必然性など、この世に生を受けることからしてないのであるから、当然その必然性のなさを引き摺るはめになる。脚が生えているので歩く、手があるので何かを掴んでみる、いろいろやってみることはするが、途方に暮れるばかりである。この世の全事象は眩しい闇に覆われていて、思わず眼を見開いてしまうほどに真っ暗に輝いている。今もなお、深海の底にいるような気持ちでいる。「深海魚は目の前のご飯を食べようと口を開けるとき溺れないのでしょうか?」(31才無職、消滅希望さんより)。しらじらしい。街の名前、おそらくなんらかの歴史があり、名前の由来が不明であれ明らかであれ、あるのだろう。ただ、そんなことを聞いたり答えたり、人と人との関係と関与、そのことになんの意味があるのか。詩人はこの時、なにも言いたくないし、与えられた台詞を読み上げることもしたくない。ガイドになれない。ただ一切は過ぎてゆく。何者にもなりたくない。

まどみちおの「リンゴ」という詩と、パスカルのパンセにある断章の一つは、同じ事を違う側面から語っている。


「リンゴを ひとつ/ここに おくと
 リンゴの/この 大きさは/この リンゴだけでいっぱいだ//
リンゴが ひとつ/ここに ある/ほかには/なんにもない//
 ああ ここで/あることと/ないこととが/まぶしいように/ぴったりだ」


「私の一生の短い期間が、その前後の永遠の中に呑み込まれ、私の占めているところばかりか、私の見る限りのところでもこの小さな空間が、私の知らない、そして私を知らない無限に広い空間のなかに沈められているのを考えめぐらすと、私があそこでなくてここにいることに恐れと驚きとを感じる。なぜなら、あそこでなくてここ、あの時でなく現在の時に、なぜいなくてはならないのかという理由はまったくないからである。だれが私をこの点に置いたのだろう。誰の命令と誰の処置とによって、この所とこの時とが私にあてがわれたのだろう。」(パンセ、断章205番)