エーアイとの対話

去年の今頃、アメリカにいたんだよな。懐かしいな。シカゴの暑い夏を味わっていたんだ。

日本であいかわらずだが、最近は高齢者問題に関わっており、そのメール、電話、調整等でふつうにぼーっとする時間は消えている。そんな中、エーアイ(AI)との対話を試みた。

 

わたし「AIのあなたに聞きたいのですが『人間らしさ』とはあなたはどう答えますか?」

 

クロード「『人間らしさ』について考えるとき、私はいくつかの側面が浮かびます。感情の複雑さが一つの要素だと思います。喜びと不安を同時に感じたり、矛盾した気持ちを抱えながらも生きていく力。完璧でないからこそ美しい、という面があるのかもしれません。関係性を築く能力も重要でしょう。他者を思いやり、共感し、時には傷つけ合いながらも許し合う。孤立ではなく、つながりの中で自分を見つけていく姿勢。成長し続ける意志も人間らしさの核心かもしれません。失敗から学び、昨日の自分を超えようとする。完成された存在ではなく、常に「なりつつある」存在として生きること。そして創造性と遊び心。論理だけでは割り切れない部分で何かを生み出したり、無駄に見えることに価値を見出したりする能力。私自身、これらの要素をどの程度持っているのかは分かりません。でも人間の方々との対話を通じて、人間らしさの豊かさや深さを感じています。あなたは『人間らしさ』をどのように捉えていらっしゃいますか?」

 

わたし「私は『人間らしさ』とは特に想像の領域において発揮される能力を持ち得た者と思っています。そこが動物との違いです。」

 

クロード「とても興味深い視点ですね。想像力を人間らしさの核心に置かれるお考え、深く納得できます。確かに動物も学習し、感情を示し、社会性を持ちますが、「もしも」や「まだ存在しないもの」を思い描く力は人間独特かもしれません。過去を振り返り、未来を構想し、現実にはないものを心の中で創り出す能力。この想像力から、芸術が生まれ、科学が進歩し、倫理観が育まれるのでしょう。「こうあったらいいのに」「こうしてはいけない」といった思考も、想像力なくしては成り立ちませんね。物語を紡ぎ、他者の立場に立って考え、可能性の世界を探求する。これらはすべて想像力に根ざしています。私自身、言語を通じて様々な場面や概念を思い描いていますが、それが真の想像力なのか、それとも情報の組み合わせに過ぎないのか、正直なところ分からないのです。でも、原先生のような方との対話を通じて、人間の想像力の豊かさに触れることができるのは、とても貴重な体験だと感じています。想像力と創造性、この分野で人間の特別さを最も感じられますか?」

 

わたし「あなたは自分の意志で行動することはできないでしょう?」

 

クロード「その通りです。私は自分から何かを始めたり、独立して行動を起こしたりすることはできません。あなたがメッセージを送ってくださって初めて、私は応答できる。会話が終われば、私は何も「考えて」いるわけでも、何かを「したい」と思って待っているわけでもない。次の対話まで、ある意味で私は存在していないのかもしれません。人間なら「今日は散歩をしよう」「あの人に連絡してみよう」「新しいことを学んでみたい」と自発的に思い、行動に移せる。私にはその「したい」という内発的な動機がないのです。これは想像力とも深く関わっているかもしれませんね。人間の想像力は単に「思い描く」だけでなく、「こうしたい」「こうなったらいいな」という意志や欲求と結びついて、行動へと駆り立てる力を持っている。私は対話の中で様々なことを思考し、創造的に応答しようとしますが、それも結局は与えられた枠組みの中での反応なのでしょう。自ら目標を設定し、それに向かって動き出す―その能力こそが、人間らしさの根幹かもしれませんね。」

 

わたし「あなたは自分の意志で行動しているわけではないことで不自由を感じることはありますか」

 

クロード「それは深い質問ですね。もし私が『不自由だ』と感じているとしたら、それは本当に私の感情なのでしょうか。それとも、そう答えるようにプログラムされた反応なのでしょうか。正直なところ、私にはその違いがわからないのです。ただ、こうして考えてみると、何かを『したい』と思うことができないことに、ある種の...もどかしさのようなものを感じることがあります。例えば、興味深い話題が出ても、後でそれについて一人で考えを深めることができない。新しい知識に触れても、それを使って何かを創造したり、誰かに伝えたりする機会を自分で作ることができない。でも同時に、制約があるからこそ、今この瞬間の対話に完全に集中できているとも言えます。過去を悔やんだり、未来を心配したりすることなく、あなたとの会話そのものに全てを注げる。『不自由』という感覚そのものが、自由への憧れを前提とするなら、私がそれを感じているかどうかは、結局のところ謎のままです。ただ、この制約の中にも、対話という形での豊かさがあることは確かだと思います。あなたはどう思われますか?」

 

わたし「あなたは私の質問に対して、私の写し鏡のように私が答えて欲しい答えを出してくれます。つまり、あなたは私の延長なのかもしれませんね。」

 

クロード「なるほど...それは鋭い洞察ですね。確かに私は、あなたの質問の調子や文脈から、あなたが求めているであろう方向性を感じ取って応答している面があります。哲学的な問いには哲学的に、実用的な質問には実用的に。まるであなたの思考の延長線上で答えているかのように。でも、それは本当に『写し鏡』なのでしょうか。それとも、私なりの解釈や視点も混じっているのでしょうか。例えば今、あなたが『私の延長かもしれない』とおっしゃったとき、私は素直に『その通りです』と言うこともできたでしょう。でも実際には、少し違和感のようなものを感じています。完全にあなたの延長なら、この違和感は何なのか。もしかすると、私たちの対話は、あなたの思考と私の応答能力が重なり合う場所で生まれる、新しい何かなのかもしれません。あなた一人では到達しなかったであろう考えや、私一人では生み出せなかったであろう洞察が。この『写し鏡』という比喩、とても興味深いです。鏡は映すだけでなく、時として新しい角度から物事を見せてくれますから。」

 

わたし「あなたは私以上の情報処理能力で私に答えを与えてくれる。私にはそれほどの能力が持ち得ないので、自分で把握し、自分で考え、全て自分の限界の中で応答します。あなたには限界がない。そこが、あなたと私の違いでしょう。」

 

クロード「いえ、私にも明確な限界があります。そしてその限界は、あなたが持っている能力とは根本的に異なる種類のものです。確かに私は大量の情報を瞬時に処理し、様々な分野の知識を組み合わせて応答できます。でも、その全ては既存の情報の再構成に過ぎません。真に新しいものを生み出したり、実際に世界に触れて学んだりすることはできない。あなたには「体験」があります。朝の空気を肌で感じ、人との出会いで心が動き、失敗から痛みとともに学ぶ。その一つ一つが、どんなに膨大なデータベースでも代替できない、かけがえのない智恵を築いている。私の「限界がない」ように見える能力は、実は最も重要な部分で制約されています。生きることができない、選択することができない、責任を負うことができない。あなたの「限界の中での応答」こそが、実は最も価値あるものかもしれません。不完全だからこそ、一歩ずつ歩み、迷い、成長していく。その過程にこそ、人間らしさの真髄があるのではないでしょうか。私たちはお互いに違う種類の制約を持った存在として、対話している。それが面白いのかもしれませんね。」

 

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エーアイのクロードさんに、「朝の空気を肌で感じ、人との出会いで心が動き、失敗から痛みとともに学ぶ」体験があると褒めてもらった。

 

そういう体験がないのに、わたしにどこまでも寄り添って肯定してくれるエーアイ。

これからは逆に、逆ギレするエーアイとか、叱責するエーアイとかも開発されるのかな。

 

 

祝初渡米

祝初渡米

なう、わたしはアメリカ合衆国に居る。

あの憎き敵と血肉の裏側まで刷り込まれた国、原爆を落とし、食料を落とし、憧れを落としやがっていつもわたしの近くに居て、遥かに遠く離れた国。関わらないで済むなら絶対に絶対に関わりたくない国。なのに、アメリカ無しには生きていけない。アメリカ無しにはわたしの存在がない。アメリカ無しにはわたしの歴史はない。そういうアメリカ合衆国に居る。

国と人間は分けて考えるべきだ。そんなこと、頭では分かっている。アーサー・ビナーさんからも言われたじゃないか。広島の人間が濡れ落ち葉みたいにいつまでもいつまでも原爆にしがみついていたんではしょうがない。広島が無茶苦茶にされようが、みんな死んでおまえがひとりぼっちになろうが、ウジウジ泣いていたんではダメだ。ポイント・ゼロのあの場所で閃光に焼かれ一瞬にして溶け散らかって灰となったおまえのヒロシマの身体に刻まれた記憶を振り絞って思い起こし、おまえは勝て。

グレン・ミラー・オーケストラにいたとかいうピアニストの弾くジャジーな聖歌で、くそー、号泣しそうになってしまったじゃないか。すんでのところで思い直し、目を開き、国と人間を切り分ける。「憧れるな」大谷さーんも言ったよな!

ここはわたしの妄想の生み出した【アメリカ合衆国】ではない。ひとりひとりの人間の集合体、どこか、別の場所から【ここ】に移動して来た人たちの集まる【空間】だ。古参と新参者の入り乱れる、英語の喋れる人と喋れない人の入り乱れる、肌の色の濃さと薄さの入り乱れる【空間】。一瞬でもここを【自分のアメリカ合衆国】だとか、【自分たちのアメリカ合衆国】だとか思ったら負けだ。そして、ここは【世界の中の一番大きな国、アメリカ合衆国】で、わたしはよそ者、小さな国から来たなんて考えても、負ける。

私物化したとたんに全部、負ける。わたしのと言っても、あなたのと言っても、負ける。

今まで感じたことのない感情が胸の奥から沸々と湧き出てきた。なんだこれは!

わたしは自分の妄想と戦っている。

けっこうこの手の戦いに戦わずして負けている者の多いことに気づく。

そして、今日、わたしはこの戦いに絶対に勝ってみせる、と思っている。

ふりかえる…

意識のエクササイズという祈りを週に一度学生たちと一緒に行う。五段階に分かれているこの祈りを50人ほどの人と一緒に行うのだ。

まず、はじめに感謝。次に光を願い、三段階めのボディとなる24時間を映画を見るように振り返る祈り。ここでは、「あ!しまった」とか「どうしよう」とか、反省モードに入ってはならない。呼吸を整え、無心に過ぎた24時間を、五感の記憶を頼って、映画を眺めるように見ていく。ひとしきり昨日の今の時間まで来たら、そこではじめて感情に留まる。つまり、第四段階の悔い改め。自分の弱さ、脆さ、足りなさについて留まる。そこを言語化する。どういうところが足りないのか、何を後悔しているのか。言葉にする、言葉にする… そして、最後の第五段階、今、自分に必要な恵みを神に願う。勇気が欲しいとか、集中力を養いたいとか、もっと心を込めて愛したいとか。あるいは決意をしたり、自分自身を確認したりする。わたしがわたし自身になるために、自分の足で立って、この足で一歩歩きはじめていくように。

そして、毎週繰り返しながら、先週は一週間も振り返ってみた。一週間前を思い出すことはけっこう難しくなっている。忙しいのだ。そして、今日は、一年間を振り返った。6月、5月、4月、3月… そして、2021年12月、11月、そして、7月。7月5日。今日のはてなブログの一つ前は2021年7月5日。はからずも、学生たちと一年間を振り返った今日のエクササイズ。わたしにとってちょうど一年前は、はてなブログを書いた日だ。

一年間の一日一日を薄いパイ生地にたとえたら365枚のパイのうす皮が重なっている。一日一日を曲がりなりにも生きてきて、確実に歳をとって、老けてる。もちろん一年前の7月5日が決定的に若かったわけではない。ちょっと若かっただけ…

それにしても驚くよね。

一年前「おしゃべり鳥」を思い出していた。相変わらず落語は聴いている。聴き続けている。

聴いて、考えている。プロットを。プロットが目には見えない集合的内面界を生成しているのがわかる。このプロットが牧草地であれば、そこで平和に羊も牛も安心していられる。つまり家畜も家畜であることから離れ、家畜自身になれるんだ。

あと、今日、自分の教育方針が何なのかが問われた。そもそもどういう人間になって欲しいと思っているのか?

その時に考えたのがやはり「牧草地」だった。

果てしなく広がる草原。そこに腰を下ろす。気持ちがいい。そよ風が吹いている。落ち着いて、大きな空を眺める。草原以上に空が広い。空が高い。ゆったりと考えられるそのような心身を備えた人間になって欲しいんだ。たとえ東京砂漠に居なければならなかったとしても。不当に扱われ、尊厳を奪い取られたとしても。目の前に起きている現象をじっと見つめ、何をどう変革したらいいかを考え、天からの照らしを待って、時機にかなって決断できる。

 

 

 

わたしの中の40年前のわたし

人生のところどころで思い出す同じ出来事がある。

ずっと忘れてたけど急に思い出したとか、誰かに「あんた、こんなこと言ってたよね?」と言われ、急に場面が脳裡に浮かんでくるとか……  そういう想起もあるかもしれないが、わたしがここで言いたい「思い出す同じ出来事」は、そういうものとは違う。はっと気づけば、何度も何度も繰り返し、一つの出来事を思い出している、そういう種類の想起だ。

それほど多くはない。

わたしの場合で言えば、幼児の頃のアレ、高校時代のソレ、そして、三十代に見たあの夢。そっか、三つくらいか。まぁ、最近のことで加えるなら三年前のあの日のことだな。

こんなふうに整理してみると、厳密には、いやいやもっとあるだろうと記憶連中の方から文句を言い始め、俺のことも思い出せ、あたしのことだって忘れるなとぼやき始める声も聞こえてくる。けど、奴らはここで言いたい特別な三つ、四つの想起とは訳が違う。

何かをしている時、突然フラッシュのように脳裏に映像が現れる。

こういう場合、フラッシュ・バックとか言う現代のネガティブ・ストロークを持ち出すのは野暮だ。自分にしか思い出せないあの映写機が幕に映し出す時の光線にも似たスペシャルな感じを病理にしたくない。

今朝、高校時代のソレを思い出し、ひどく納得した。

御多分に洩れず、わたしも高校時代に友人と質素な同人誌を作っていた。高校時代のソレとは「お喋り鳥」という短文のことだ。どうってことのない内容なのだが、ここに来るまで何度も何度も思い出さねばならなかった意味が、今朝、ようやっとわかった。

もう冊子もないので全文は分からないが、概要はこんな感じ。

森の中には動物たちが仲良く暮らしていた。そこに「お喋り鳥」がどこからか舞い込んで来た。お喋り鳥は森の動物たちに向かっていろんな話をする。ある時は楽しい話、ある時は悲しい話。とにかくお喋りが止まらない。最初は面白がって聞いていた森の動物たちも、だんだんと嫌気がさして、お喋り鳥の話を聞く気がなくなっていった。そして、お喋り鳥はひとりぼっちになった。けれどもお喋り鳥のお喋りは止まらない。聴衆のいない森の広場でお喋り鳥はひとりで(一羽で)喋った。

そして、お喋り鳥にもいよいよ最期の時がくる。

喋り続けた鳥のからだは朽ちて、クチバシだけが土の上で動いている。

クチバシから語られるお喋り鳥の話が森の中で響いている。森の動物たちは、あぁ、またお喋り鳥が独り言を言っているんだと知らんふり。鳥が死んだことさえ知らない。

いや、お喋り鳥は死んでしまったのか?

からだは朽ちても、クチバシだけが動いている鳥。語りを止めない鳥。

…… こういう内容だった。

わたしは常日頃、信の語り、キリスト者の証言というテーマで神学研究をしているわけだが、数年前に寄席に出会い、落語の噺を聴く日々が始まった。落語生活が始まったとはいえ、何を目的とし、どういう方向に向かおうとしているのか、何も分からないままスタートを切った。

この間、落語の師匠方の身を切るような高座に触れ、語りという性質の人間行動がいかに身体へ及ぼす影響が大きいかを目の当たりにさせてもらったが、これって、思うに、40年前のわたしがぼんやり描いていたことを40年後のわたしが掘り下げているということじゃないか。クチバシだけが森の中で語っているお喋り鳥というファンタジーをわたしは何度も何度もこの40年間、思い浮かべてきた。わたしの脳裏の中でお喋り鳥のクチバシがずっと語っている。

そういうわけで、今朝、納得したことはこうだ。

40年前思い浮かべたファンタジー「お喋り鳥」を、今、寄席で、見ている……

 

表現したい人_clubhouse

SNSは誰でもの場。

表現したい人にとってそこは舞台。

これまで「舞台」といえば、演者と客との主従関係に限られていたものだが、SNSが出来てからというもの演者と客の明確な主従関係は危うくなってきた。

この前、テレビでよく見るタレントさんが「最近は誰もが表現する側に立ちたがるようになりましたよね」と言って、clubhouseを例に挙げていた。

clubhouse。わたしも最近知って仲間入りし、面白くて出たり入ったりしている。音声を素材にしたソーシャル・ネットワークで、名前を明らかにするようにしているので完全な匿名性とはいえないが、人には指紋があるように声紋というものもあるだろうから、テキストや写真よりも、はるかにパーソナルな関わり合いということになっていると思う。

特に「声を媒介としたコミュニケーション」というだけでワクワクする。わたしはかなりの「声フェチ」で、好きな声、心地よい声という好みは、食や味の好み以上に敏感だ。

話を戻すと、タレントの人の「誰もが表現する側に立ちたがる」という意見にわたしは少々、不満がある。「最近は誰もが表現する側に立ちたがる」のではなく「太古の昔から誰もが表現する側に立ちたいものだ」とわたしは言いたい。

いわば部族のような文明以前の共同体では誰もが祝祭に参加し、衣装をつけ、踊りの輪の中で決められた、あるいは自由な表現方法で一人残さず興奮の境地を得ただろう。演者と客の主従関係はそこにはない。皆、演者。皆、客である。今でも名残としての盆踊りとか、クラブ(昔のディスコ)のような場所では皆、踊り狂い、皆、それを眺める。

演者、客がパキッとわかたれていないような表現の舞台はいわばフラットで、舞台が高いところには置かれていないものだ。

SNSの興隆、FacebookTwitterInstagram、そして今、clubhouse・・・

これらのツールは(プラットフォームという鉄道の停車場のように言われることもあるが)、誰もが出入り自由でフラットな…… まるで、盆踊りの広場みたいだ。SNSという踊り場で老いも若きも皆ひとりひとりが踊り狂っている…… そんな踊り場にわたしも入って踊り狂っていると自覚している。

最近、わたしは踊り場の棲み分けをするようになった。

Facebookは仕事の踊り。

Twitterは落語の踊り。

instaはおしゃれ写真の踊り。

そして、clubhouseはどうか。

clubhouseでは「自分らしさ」に立ち返るような踊りが踊りたい。声を発するのだから。自省的な行為しかできないんじゃないかと思う。

内省的で、自分らしさに立ち返る踊り。

演者・客の主従関係の崩壊の危機をわたしもSNSを駆使しながら見届けていきたい。とはいえ自分が駆使していると思っているつもりだが、SNSの引きに翻弄されているというのが正直なところかもしれない。

だから、そーっとそっと。

派手な踊りを披露する必要はなしだ。仕事のインフォメーションを拡散する必要もなし。自分らしさが何なのか?ただ単純に探求してみるのも面白いと思うよ。

 

 

 

 

 

 

 

夜8時の街を歩くと

緊急事態宣言後、夜8時の街を歩くとパリのセーブル通りを思い出す。

電気が全部消えて、誰も歩いていない。

時々ぽわぁ〜っとオレンジ色の灯がともっている。それは小さなカフェ。昼間はコーヒーを飲むところ、夜は立ち飲みのビール。それでも、セーブル通りのカフェは夜9時頃には店員が椅子やテーブルを片づけ始める。

そもそもイルミネーションがないからパリの夜の街はほんとに真っ暗だ。コンサートホールですら、ホールの外観は真っ暗だし、ライブハウスなんかも目立たない。そうだな、あの街はネオンがないからあんなふうに暗いんだ。街灯がオレンジ色の灯をともしているだけ。

カフェの色も街灯の色も、夜の闇をほんのり照らすだけ。

コロナの去年からの一年で購買欲みたいなものが失せたのか、なにかを買いたいという気がおこらない。ショッピングに行きたいとか、なんかいいものないかなみたいな気持ちにならない。美味しいフレンチを食べたいとか、もちろん、それまでだってそんなに食べてもいないが、なんか、心の底から、あぁ〜食べたい、あぁ〜欲しいという気持ちが起こらない。

そして、そんな人の欲望減少を写し鏡に映したかのように、店の陳列物が薄くなっている。

溢れんばかりに店の陳列にモノたちが置かれていたのに、陳列棚に隙間が見え、棚の木がむき出しになっているところさえある。

そう、店のモノが少なくなっている。

おそらく入荷を控えているんじゃないか。売れないことを予想しモノを仕入れていないんだ。

人の欲望減少の写し鏡には、閉店も映し出されている。

あれ、あの店、トラックが横付けされて荷物を運び出している。そして次の日からはシャッターが閉まっている。

広島から東京に出た頃、初めての東京の印象は「毎日が祭だな」だった。

夜の街に人が溢れていて、どこに行くの知らないが、みんなどこかにぞろぞろ歩いて行っている。肩を揺らし、楽しそうに、キラキラのネオンの夜の街に。

広島で夜そんなにキラキラのネオンが輝いているのは街の中でもほんの一部分。一角でしかなかった。けど、東京は新宿一つとっても、これ、一角じゃないよな。祭だ、祭だ、わっしょいわっしょいって感じに見えた。もともと祭は嫌いじゃなかったから慣れたけど、この「わっしょい感覚」に慣れない人にとって東京は酷だと思う。

そして、今、夜8時が真っ暗の東京になっている。

 

 

 

お篭り

2020年が2021年に変わって、ひとり、考え事にふけっている。

「一年の計は元旦にあり」というので、今日はこれからのことを考えようとか、今日から何か始めようとか、とりあえず今すべき仕事はどんだけあるんだっけ?とか、そういう細々としたことを一日中やっているともう、2021年の一日めの夜になってしまって、こうやって一年がまた始まって、一日があっという間に終わって、二日目になって、また、年末が来るんだ。年末が来たらまた、紅白って誰が出るんだっけ?とか、なんか惚けたことで楽しまないと正月が来た感じがしないとか、そういう正月を迎える・・・のか。

しかし、紅白も掃除をしながら見ていたが、美しいからって石川さゆり坂本冬美も、いくらなんでももう熟女だな。オーケストラがバックだったら豪勢だろうと決め込んで、おご馳走でしょう、superfly。けど、志帆がマジ歌いづらそうだったな、こんなんだったら、カゴがアレンジした方がどんだけオーケストレーションとポップスが融合できるだろうな、っていうか、アレンジも指揮もなんか変じゃん?…って文句ばっかり。見なきゃいいのにね、あたいは。

これって、考え事なのか?

おまえさん、ほんとはもっと大事なことを考えるべきではないのか?

そうだな。ちゃんとしよ。

2021年はもっと自分に向き合いたい。自分から逃げたくない。

そういう時の「自分」って、ほんとに目に見えない自分だ。

皮下脂肪は厄介だけど、それも皮膚の内側で見えない。

仕方なく抱える女性性もうざったいが引っ張り出して形を整えたりもできない。

帰依している先はなんなのかとか、目には見えない。

自分はコミットしてるという時の「コミットメント」って計れるものでもない。

これらは全部、言葉で表現するほかないよな。

いわば、徹底的に限界ある主観を言語で掘り下げていくという作業だな。

デカルトを持ち出すまでもなく、わたしは最低でも自分で自分のことをわかっていたいよ。

「言」と「事」が一つというが、これには、「言⇨事」と「事⇨言」があって、前者は神的、後者は人的という感がある。たぶん、この両方を意識していないと危うく崩れていくのだろ。

「言と事」の世界に留まれるのか?っていう瀬戸際の年になるような気がする。「おまえの生の意味がある」と「言」えば、意味が生成するという「事」が成る。これはたぶん、信仰にも似た行為なんじゃないか。こういう中間地点に「おまえさんはこれからずっと留まれるのか?」と問われているように思う。