今日のマクグラスさん


The Omnipotence of God

「力」という観念に対してしだいに疑い深くなった時代にあって晴れやかな思いになれるのは、
おそらく「全能の神」について語ることは、
必ずしも神が暴君であるという意味ではなくて、
むしろ神が力のない人々の傍らに立つのを選んだ
ということであるのを思い出すときであろう。
これはキリストの十字架の解釈における主要主題である。
キリスト教神学入門 p390

あっというまに8月


8月になってブログぜんぜん書いてなかった・・・
夕方、歩いてます、ちょっと涼しくなったかな。
コツコツやってるんだけどなかなか進まない・・・進まない、進まない。
オリンピックで一生懸命やっている人たちを見てると、
元気がもらえていいんだけど、
あんまり見すぎると、
あっというまに3、40分過ぎて、
あぁーってことになり、夜だけちょこっと見ることにする。
◆◆
あるブログを読んでて、
いわゆる「聖書の読み方」ってことなんだけど、
なんか伝え方、伝わり方って難しいなぁ〜って思ってしまった。
そんなことをうちで話していると、
うちの長老は、
「やっぱり新説をずばっと言うよりも解きほぐしだわよね」と言った。
神学においては新しい説がどんどん出る、それは終わらない。
そもそも、真理は覆い隠されていて言ってみればすべてが明らかにされたわけじゃないから、
常に、新しい考え方っていうのは出てくる。
そして、時代時代に合わせて、それは、時代の言葉で語られる。
中世に語られた言葉と、現代に語られている言葉とでは到底違うだろう、違って当然だ。
だから、新しい説が出て、それを知ることになる使命を持つ人びとは、
その責任をもって、いまだ知らない人に「ちゃんと」伝えなければならない。
その場合、知らない人にも「分かるように」「ちゃんと」「解きほぐして」あげなきゃならない。
そして、そのとき、
たとえ自分が新しく知った新しい説を持っていたとしても、
それを優先するのではなく、
聖書や神学研究の進み方の「進み」自体を解きほぐし、それを伝えるのが優先だ、
と言った。
長老は、加えて、
「やっぱり愛だと思うわよ」
「イエスさまは、ちゃんと分かるような言葉を使って分かるように伝えた」
と言った。
・・・そうしてみると、
分かるように伝えていない神学者は、その役割を十分に果たしていないということになる。
役割だけじゃない、愛がないってことになる。
・・・わたしはちゃんと伝えているか?と考えさせられる。
昔の考え方は古い、というのは簡単だ。
でも、昔の考え方と今の考え方が「なぜ」「どんなふうに」変わって、
それは「どういう意味」があるのか?っていうのは、けっこう難しいものだ。
そのためには、変化だけ言うんではなくて、
どういう次元の事柄が変化したかを言わなきゃならなくなるから。
思うに、そういう次元の話しを積み重ねることが、
「深み」というものを生んでいくんだろな。