22章4 理性と間違いの形態

Reason and the Forms of Error
Now must you choose between yourself and an illusion of yourself.
いまこそあなたは自分自身と、自分自身だと錯覚しているものと、そのどちらかを選ばなければならない。
Not both, but one.
両方ではなくて、片方だけだ。
There is no point in trying to avoid this one decision.It must be made.
この決断を避けようとしても何の意味もない。決心する必要がある。

上記は前の節ですが、私たちに自分が何者であるのか、それを決めなさいと言われています。
自分を錯覚と誤解の世界の中に生きる存在であるのか、実相の存在であるのか、ということです。

この世界は誤解や錯覚に満ちています。
人との違いを探すことで、自分を確認するように仕向けられています。
批判や批評することがよいこと、賢いことだと教えられています。
また、様々な文化的、社会的な価値観は私たちの思考や感情に染み込んでいて、
それがあたかも正しいと、あるいは自分がそう考えていると受け入れています。
そんなふうに生きていることに、理性で気づきなさいと、奇跡のコースでは教えています。

宗教的な何かを闇雲に信じなさいと教えているわけではないのです。
私たちの思考や感情、そしてこの肉体は、いったいなんなのか、なんのために生きているのか、理性を使ってよくみなさいと教えています。けれど、私たちは日常の中に埋没して、思考や感情を精査することもなく、ただ肉体を保つことが生きることと信じているのです。

For reason sees through errors, telling you what you thought was real is not.
理性は間違いを見抜けるので、あなたが本当だと思っていたことも、本当ではないと知らせようとする。
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Reason is not salvation in itself, but it makes way for peace and brings you to a state of mind in which salvation can be given you.
理性そのものが救いではないが、それが平安への道をひらき、あなたは救いを与えてもらえる心の状態になれる。

私たちは外側しか見ていないので、真実の姿は見えていないのです。
たとえば人間関係においても、それは自分という歪んだフィルターを通して人をみて、そこから関係を作っているにすぎません。本質的な存在として出会えることは稀です。

Let not the form of his mistakes keep you from him whose holiness is yours.
ある人の犯した過ちの形によって、その人から遠ざかることのないように、その人の神聖さはあなたの神聖さでもあるのだから。

So be it