傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

お利口な子猫ちゃんのお仕事

 うちに来ればいい。彼は何度も何度も、従弟に向かってそう言った。まだ社会人三年目のワンルーム住まいだけれども、子どものころから知っている従弟ならそこいらにいたってとくに気にはならないし、自分と同じものを食わせるくらいの収入はある。従弟の高校にも通えない距離ではない。
 そういう話をすると従弟はいつも笑ってはぐらかした。どうせなら女の人の家がいいなあ、とか。でも今日ばかりは、彼がそれを許さなかった。従弟が真顔になると額の上部にある新しい青痣がより青く見えた。脳に異常もなかったし、この痣は治るだろうと彼は思った。
 でも、と彼は思う。従弟の鼻筋がすこし曲がっているのはもう治らない。これは従弟が中学生の終わりごろに殴られた痕跡のひとつだ。それが最初の大きな怪我で、彼が従弟の現状を認識する契機になった。彼の母の弟がこの従弟の父であって、いつの間にかしょっちゅう酒を飲んでものを投げるようになっていた。拳で人を殴ることはない。だから殴っているのではないという言い分らしく、けれどもそんな話は通用しないので、その妻が出て行くのは当然ともいえた。彼女は完全に身を隠したままだ。離婚届は置いていったが、提出されるはずもない。だから従弟にはいまだ、書類上は「両親がそろっている」。
 従弟は掃除をし、洗濯をし、簡単な食事を作った。大丈夫かと訊くと「お仕事ですから」と戯けた敬語でこたえた。家事担当の大人が消えたからってそれが子どもの仕事になるわけじゃないと彼は言って聞かせ、それから週末に一緒に掃除をしたり、受験勉強を見てやったりした。従弟の父、彼の叔父は、彼がいると自室から出てこなかった。話しかけても無駄だった。しかるべき機関にも連絡をとった。その後、従弟から止められた。悪いんだけど、そういうことされると、あとがきついから、やめてもらえないかな。
 親戚は誰も従弟を引き取るとは言わなかった。従弟の家庭にそれなりの収入があること、それに従弟がもう高校生であることも影響していたのだろう。法事の席で、もうすぐ自立するからと親戚の誰かが言っていたのを、彼は耳にした。でも何年ものあいだ殴られつづけた人間が健全に円滑に自立なんかできるわけがないのだ。だいたい人が殴られつづけるのを止めないなんてまともな大人のすることか。彼はそう思った。俺が引き取る、と、自分の両親に宣言した。両親は気まずそうに顔を見合わせ、それから、責任取れないでしょう、というようなことを、なぜか彼の目を見ずに言うのだった。
 俺はもう大人で、自立しているので、好きにします。彼はそのように両親に告げて実家を出た。それから何度も従弟に提案して、今日はとうとう、明白な回答を迫っているのだった。
 リューちゃん。従弟は小さいころと変わらない口調で彼の名を呼んだ。リューちゃんは知らないかもしれないけど、リューちゃんにも世間体というものがある。僕を家に置いて、いい影響なんかひとつもない。得をすることもない。僕が可愛い女の子で家事をこなしてリューちゃんに言い寄ったりするならまだしも、僕は男で、リューちゃんは女好きだ。だから何ひとついいことはない。
 いいことはある、と彼は言った。俺の気が楽になる。リューちゃんはいい人だねと従弟は言って、それまで見せたことのない、強烈な悪意を剥きだしにした声で笑った。彼は不意をつかれて口をつぐんだ。従弟はべらべらと話した。あのさあ、どんなに好意があって同情してたって毎日毎日一緒にいたらイヤになるんだよ、なにしろ不幸な環境で育った少年だからさ、ほら情緒とか不安定なわけ、殴られなくなったら今度は自分で自分を殴るか他人を殴るかみたいな、本とか読むとだいたいそういうことになってる、死にたい死にたいって言い続けるとかね、そういうガキといて限界が来ないわけがない。僕を住まわせたらリューちゃんは僕を嫌いになるんだよ。今のリューちゃんは河原で拾った子猫を「うちじゃ飼えません」って親にしかられて猫と一緒に家出しようとしてる小学生と変わらない。他人の感情に賭けるくらいなら親のサンドバックでいるほうがよほど生存率が上がるというものだよ。それにリューちゃんより親のほうが金はあるし。
 彼は黙った。従弟はへらへらと話をつづけた。大丈夫大丈夫、僕はもうこのお仕事、手慣れたもんだから。「お仕事」が家事を指しているのではないことは明白だった。彼は有効な回答を見つけることができなかった。従弟は軽やかに席を立った。今日はごちそうさま、でもあんまりうちの家庭を刺激しないでね、僕のお仕事が余計たいへんになっちゃうから。