専門学校で一年間勉強したことのまとめ
もはやありえないほどの放置をしておいていまさらですが、学習帳の目次的なものが下書きのまま置いてあったため投稿。
実習
インターン研修
- 京王フローラルガーデンAngeにて庭園メンテナンス業務(約2週間)
- 日比谷花壇アトレ目黒店にて母の日臨時スタッフ(約2週間)
所感のような・・
結論から言うと「広く浅く」。
入学前から予想はしていたので、さほど失望はなかったものの、残念だったのは実技の時間がとても少なかったこと。
ほとんどの実技の授業が一回触ってみる程度の「体験」で、「訓練」や「技術の習得」とは程遠かった。
そして、設備や講義のクオリティという面では、「元気がない業界」をひしひしと体感。
そんなこんな色々な意味も含め「勉強代」としての割高感は否めず。。
ただ、ネガティブな面も含め「業界についてなんとなく雰囲気をつかむ(探りをいれる)」という目的は達成できたのではないかと(自己弁護)。。
一度社会に出て働いた後、その(たいしたことない)地位を捨て、身銭を切って飛び込むことで、趣味のお稽古ごとではなく「仕事としてどうなの?」という視点で覗き見ることができたのではないかと。
(実際どんなものかは実際働いてみないとわからないというのは当然として)
まあ、その答えは未だ出てませんが。
そして、技術や「腕」でお金を頂く、ということの難しさと複雑さも知ることができました。
クオリティはもちろん、自分のスタンスをどうするか、どのような「仕組み」を採用するのか。有形物と無形物、個人と色々なサイズの法人が、それぞれ動くことのややこしさは、一従業員だった頃は知る由もなかったです。
「学生」という身分は、働いていた頃からみれば羨ましい限りだったけれど、実際なってみると、自分の社会的な位置付け(存在価値?)があやふやな気がして、心の軟弱な自分はそんなうしろめたさみたいなものたちに打ち勝てず、とにかく沢山の自由な時間があったのに、心もとなく、そわそわと落ち着かないまま、その時間を浪費してしまい。
でも、どれもこれも自分の側にも責任はあります。
やはり結局は自分の態度次第。
ここが一番問題。
休止宣言
すっかり休止してましたが。改めて。
考えていることを纏めようとしていたのですが、上手くまとまりませんでした。
前回の記録の後は、何もしていなかったり、少し何かしようとしてみたり、しなかったりしています。
まだ、いろいろなことが、さだまらず、さだまさしです。
ただ、おかげさまで毎日健康に生きています。感謝してます。
前の職場を「卒業」するときやその後も、いろいろな方に応援していただいたり、暖かく見守っていただいたので、何者にもなりえていないことは、本当に情けなく申し訳ない限りです。
何らかの形で恩返しをしたいと思っています。
今現在、表向きに「やってやるぜ!」といきまいたり、自分ごとを広報をできる状態ではないので、一旦ここまでということで。
これから・・・、何をしよう?
思うところあり、会社を辞め、専門学校に通い、卒業しました。
色々なことを考えて堂々巡りをしたりしているうち、もうすぐ春が来るという季節になり、日本では大変なことが起きて、小心者で怖がりな自分は、自身に何があったわけでもないのにただ怯えるばかりで何も出来ずにいます。
でも、とてもおこがましい言い方ですが、これを乗り越えたら色々なことが前よりも良くなるのではないかという漠然とした期待があります。
もちろんそれは簡単な事ではなくて、たくさんの時間と知恵の必要なことだと思います。
そして、自分は何をすればいいのか?いったい何ができるのか?
専門学校を卒業してもなお、はっきりと決めかねていた私は、今回のことでまたさらに悩みだしてしまいました。
そんな折、母校の学長である諏訪敦彦先生(自分の在学中は学長ではなく講師として映画の授業を持たれていた、私が最も尊敬している先生の一人です。残念ながら授業を受ける機会はなかったのですが。)が、震災の影響で中止になった卒業式に寄せて、こんなメッセージを発信されていました。
うまく要約はできないので、そのまま引用させてもらいます。
2010年度卒業生のみなさんへ − 東京造形大学学長 諏訪敦彦氏
…私たちは「私に何ができるのか?」と問わずにはいられません。かつてフランスの哲学者サルトルは「飢えた子を前にして、文学に何ができるのか?」と問いました。同じように私たちは芸術、アートやデザインを学んだ者として、今何ができるのかと自らに問いかけるでしょう。あるいは、それ以前にひとりの人間として、何か自分にできることは無いのかと切迫した問いかけをするかもしれません。逆に自分は無力であると感じたり、とにかく自分の心の平静を守ることで精一杯の人もいるでしょう。それは恥ずべきものではありません。この「問い」に答えることは容易ではありませんし、簡単に答えてはいけないのだと思います。
(中略)
華々しいものなどひとかけらも無い日常の中で、自分にできることをやるという、ささやかで、いやになるほど地道で平凡な作業の繰り返しの果てにしか、この「問い」に対する私たちの答えは無いのかもしれません。
今、私たちが体験しつつある困難は、目の前の事象が解決すれば消えてしまうようなものではなく、これから先みなさんが何年も何十年もかけて問い続けなくてはならない深い思考へ私たちを導くのかもしれません。この「問い」を手放してはならないと思います。私たちを覆う動揺や、混乱や、悲しみをこの「問い」とともに忘れないで握りしめていましょう。…
この春大学を卒業する学生と、10年近く前に社会に出ている自分が同じ目線でいてはいけないかもしれませんが、諏訪先生のメッセージには心を動かされました。
「簡単に答えてはいけない」
「この「問い」を手放してはならない」
答えやゴールをわかりやすく設定して、そこを目指して走っていくのは簡単だし効率的だということはわかっているけれど、当たり前なことだけれど、そんなに単純なことではないのだと思います。
私のような超がつくほどの優柔不断人間は、生きてる限りずっと迷ったり悩んだりし続けていくしかないんだと。その姿はもしかしたら子供っぽいし、だらしないかもしれないし、ひょっとすると人様にご迷惑をかけたりもするのかもしれないけれど。やっぱりそうしていくしかない。
あきらめるわけではなく、そうやっていくのだと腹をくくって。
誠意を持って、毅然とした態度で悩み続けようではないかと。
この先にある「怖いこと」は、今感じていることや考えているようなことを忘れてしまうこと、「日常」に浸かってしまって疑問や問いをなくしてしまうこと。
そうならないために、毎日のくらしとひとつひとつの選択をじっくり考えながらしていきたい。それはある意味とても非効率なのかもしれないけれど。
根拠はないけれど私は多分長生きをするので、おばあちゃんになってから「あ、こんな感じでいくのがいいのかも」というのが掴めてくるとか、もしくは死ぬまで中二的自分探しをしていてもかまわない。
ひとまず、現時点での結論としては、以下のようになりました。
- 誰かの気持ちを良く("better"に)したり、安らかにできることをしよう。
- 自分の手足(または目耳口でもいいのだけれど)を使って、できることをちょっとずつしていこう。
- 毎日の「くらし」を大切にしよう。
- 背伸びはしない、でも心意気は高楊枝でいよう。
- 何事もできるだけシンプルに、小さく、ゆっくりいこう。
ぜんぜん具体的ではないけれど、実際何をするかはその時その時で変わっていくのでヨシとしてしまい、迷ったらこれを思い出するとして。
学習帳の意味合いでつけていたこのブログも、折をみてまとめて終わりにします。(たぶん次回を最終更新に)
「PRAYER」
夕暮れの光が溶けて消えないうちに
あなたの名前を呼んでみる
ゆれうごく街 ひとりたたずんでいる時
あなたのことを 思ってる時を越え 空を越え たどりつくから
降りつもる悲しみに 負けることなく私の目が閉じられてゆく時が来ても
あなたの声も 指先も 心も
愛につつまれているように時を越え 空を越え たどりつくから
降りつもる悲しみに 負けることなく祈ることだけ
今 強く願うことだけ
あなたが 今日も 明日も いつまでも
愛に包まれているように
(「PRAYER」 作詞:矢野顕子 作曲:Pat Metheny 唄:矢野顕子)
宮崎あおいが好きだ、
ただそれだけ。
OLYMPUS PEN の新しいCMに見とれて、しみじみ再認識。
音楽も好きです。
CM用のオリジナルで作曲は菅野よう子だとか。成る程どうりでいい曲。(唄っているのはar(アル)というバンドのヴォーカリストでクボアツシという方だそうな。)
自分のあおいちゃん好きはかなり前からちょっと病的なくらいで、周囲にも知られておりますが、改めて何故にそんなに好きなのか、考えてみる。
(アラサー女子がわざわざブログに書くべきことなのかは置いておいて・・・。)
<宮崎あおいを好きな理由>
- かわいい
- 声がいい(台詞よりも朗読・・のような?)
- いろんな笑顔のバリエーションがあってそれぞれがいい
- 真顔もいい
- 透明感
- 顔に幼なさがある(年齢的なものを超えた。永作博美的な)
- 目ヂカラ
- 知能とか計算高さとはちがう「賢さ」(聡明さ?)とあどけなさが同居している
- 「役者」「被写体」としてのピュアな質の高さ→(余計なもの、例えば実際の本人がどんな人でプライベートがどんなだとかが”良い意味で”見えてこない)
- かわいい
- かわいい
- かわいい
(以下略)
でも、静止画で顔だけ取り出してじっくり見てみると、「完璧美」(こんな言葉あるのか?)ではないとも思う。
例えば、OLYMPUSの広告も前回のシリーズでは、カメラの広告らしくファッションモデルのような「洗練された」尖った衣装やメイクで、これはこれで美しかったのだけれど、個人的には若干の違和感を感じた。
自分の持っているイメージと違うとかいうことではなく、なんだか「もったいないな」と。
極端に言えばこの表現だったら被写体は彼女じゃなくてもいい。顔とスタイルが整っていればそれで成り立ってしまう。
そういう意味で、今回のOLYMPUSのCMは被写体は宮崎あおいでなければ成り立たない。そして前回より格段に良く彼女らしさ引き出しているのではないかと。
やっぱり「声」かなあ。
映像でのナチュラルさと対照的な「気を張ってる」感。
決して不自然というわけではなくて、言葉(自身から発するのではなく台詞として用意されたもの)に何かを込めながら音として発しているような感じがする。
「カラフル」のブサイクな女の子役の声もよかったし。
そういえば、一般に彼女のデビュー作は「害虫」とされているようですが、個人的には「EUREKA ユリイカ」で初めて見たときの衝撃が忘れられない。
たぶん当時10歳がそこらだろうから、かわいいとかそういうことよりも、その存在感に「末恐ろしさ」を感じたものです。。
「お芝居」については自分はまったく判断基準を持ち合わせていないので何も言及できないけれど。
CMジャンルに戻ると、各社それぞれ違った使い方をしていておもしろい。
アフラックはみんな持っている「きれいかわいい」「さわやか」イメージをどストレートに極めている。
一方で、いまや定番となった earth music & ecology (ちょうど一年くらい前?)は、アフラックのそれとは違う面をいきなり見せてくれたインパクトもあって大きな話題になったのではないかと。(映像の作りの妙もさることながら)。
このシリーズ、しょっぱなが大成功だっただけに、これをひっぱりつづけるとなると大変だろうな(ブルーハーツの名曲は沢山あるから大丈夫といえば大丈夫かもしれないけれど)と勝手に思っていたら、新しいバージョンは、60年代ときたもんだ。
ともあれ、今更言うまでもないことですが、宮崎あおいは静止画でもかわいいのだけれど、映像になるとそのパワーたるや計り知れない。
思わず、
「こんな娘を撮りたい」
という衝動に駆られる。
そういえば自分が映像を志したのにはそんな「下心」があったような気がする。
「ものがたり」よりも、風景、人物、音としての言葉、イメージとしてのしぐさ…
そんなものを「切り取っておきたい。」という気持ち。
PENのCMはコピーも好き。とてもストレートでひねらずに王道だけれど。
この空気を / この匂いを / この光を / どうか / 忘れませんように
啓蟄
今日は啓蟄。
現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のとき。
大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ。『暦便覧』には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されている。
柳の若芽が芽吹き、ふきのとうの花が咲くころ。
(wikipedia)
虫さんたちも起きて活動してくる、ということで我が家の植物たちも着々と春モードに。
去年10月ころに植えた球根&ビオラ、ヒューケラの寄せ植え。
一昨日あたりにクロッカス(Crocus sp. アヤメ科)の花芽が出てきているなあと思っていたら、今日はいきなり全開。
ビオラも次々花を増やしている。
この鉢はいろいろな種類と品種の球根をミックスで植えているので、この先どんな花が咲くかはお楽しみ。
バイカオウレンの花は終わったけれどぴょんと出た種子がかわいい(山野草のお店で教えてもらったので花がらは摘まずにしてる)。桃の蕾もかなり膨らんできた。
開花まではもう少しかかりそうか。
授業の寄せ植えで旺盛すぎたラミウムを株分けして寄せてみるとそれらしい盆栽になったような(つもりでいる・・)。
一見動きがないようだけれど、しっかり芽がでてきている。
卒業制作で使ったユキワリソウは満開。