柏原教会 今週の礼拝メッセージ(要旨)

日本イエス・キリスト教団 柏原教会の礼拝メッセージ要旨

「主を待ち望む幸い」イザヤ30章18-19節

今年も最後の日となりました。一年を締めくくる感謝の礼拝ですが、クリスチャンにとっては最後の時と言うより希望の時と言った方が良いと思います。
イザヤの時代は、国が分裂した中にありしかも北イスラエルは滅ぼされ、やがて南ユダも滅びに向かっている状況にありました。その中にメシヤ預言、新天新地―天国の希望も語られたのです。


1,待ち望む幸い

イスラエルアッシリア帝国の脅威にさらされ滅ぼされますが、南ユダはどうであったかというと南の大国エジプトに頼ろうとしました。かつては力がありましたがしかし、その当時はアッシリアに対抗しうる力はありませんでした。
イザヤは預言者として、神に頼まずエジプトをあてにする不信仰を断罪したのです(1,2節)。
私たちも問題が発生したときどうでしょうか。主なる神様に祈り、御心を求め、示されたらそれに従っているでしょうか。おそらくは勝手に振る舞い、神様より人に頼ってしまうところがないでしょうか。
そのような時にこそ、信仰を働かさなければなりません。なぜなら私たちを幸いにしてくれるのは、エジプト―すなわちこの世の力ではなく、無から有を造られた全能の主なる神様が私たちを本当に幸せにして下さるのです。
信仰を働かせるとは、すなわち待つことです。主を待ち望むなら、幸い―すなわち神の永遠の幸福、祝福を得ることができるのです。また、主を待ち望むものは新たなる力が与えられ、走っても弛まず歩いても疲れない(イザヤ40:31)ようになるのです。私たちは、その力を与えて頂きたいと思います。


2,主が待っておられる

そして、待っているのは私たちではない、主なる神様が待っておられるのです。しかも「恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がられる」お方なのです。いわば、ルカ15章に出てくる放蕩息子の父親です。この18節の恵みとあわれみをもって放蕩息子を待っていたのです。それが父なる神の愛です。私たちがこの世のものを愛して、父なる神から離れていくのを神様は最も悲しまれます。それでも、神様は愛して止まない方です。裁きの神ではありません。「恵もうと待っておられ、憐れもうと立ち上がられる」神なのです。神の正義とは何でしょうか。自分が犠牲を払うと言うことです。自分が身代わりになって死ぬ、それが神の正義です。その正義を、神様は十字架で現して下さったのです。


3,主に立ち返る

主は、私たちに呼びかけられます。それは「あなたの叫び声に応じて、すぐ、あなたに答えて下さる」神様は私たちの叫びを聞かれる方です。私たちの悲しみや嘆きを聞いて下さる方です。そして、私たちを助け守って下さるのです。
しかし、南ユダはそうしなかった。「立ち返り、信頼するなら力を得る」ことをしなかったのです。そして彼らは滅びを刈り取ることになりました。バビロンに捕囚となったのです。しかし、神様はあわれみ深い方であり、自らの約束を反故にされる方ではありません。イスラエルの回復と、さらにそれにまさる新天新地―天国を約束されたのです。
私たちの目ざすのは、この世のエルサレムではありません。天の都のエルサレムです。イエス様は私たちの顔から涙をぬぐい去って下さり、自らが輝きとなって私たちを愛と喜びに輝かせて下さるのです。その主を待ち望みましょう。


 (宣教者:柏原教会牧師 西本耕一)