Hatena::ブログ(Diary)

「ほらここ、破かれた、ばかちーがやった!」

2017-07-06

「性暴力はいけない」←それはよくわかっているんだってば!

ジャンプの扉絵の件だけど、あれで問題になってるのは単なるわいせつ性ではなく、性暴力を連想させ肯定するような表現がされている、それもあの少年ジャンプで!ということなんだと理解しています。少年ジャンプという場で肯定的評価されているという文脈も含めての、批判なんだと思う。んで、たぶん、公権力による法規制を!とかそういうことではなく、それこそ表現の自由が予想しているような、思想の自由市場論的な土俵の上での社会的なレベルでの批判をしたいという話なんでしょうね。

でもねえ、それってどうなんでしょうね、という気がしてならないんですよね。批判批判対象がうまく噛みあっているんだろうか、という。たとえば、レイプもののエロマンガが、「性暴力を肯定する表現」だとして、それに対する批判は「性暴力はいけない」になるんでしょうかねえ。ただ、そのエロマンガはたぶん、「性暴力は正当である」という主張をしているわけではないんですよ。「性暴力に興奮する」という一部の男性の欲望にただ応えているだけであって、何かしらの規範的な主張をしているとはどうにも思えない。実際、ぼくがレイプもののエロマンガを読んでるとき、「性暴力は正当である」だなんて思っていません。

これはまあ最終的にはぼくに近しい人間に評価してもらうしかない事柄ではあるんですが、自己認識としては女性の性的自由に関してはかなり厳密に尊重されるべきだという考えを持っているつもりです。度々話題になる「同意」に関する議論とか、いやー世の中の男性はアクロバティックな解釈するなあって思う。「女性の性的自由は最大限尊重されるべきだ」「性暴力はいけない」、これはぼくの「規範的な判断」です。ですが、それはそうとして、「性暴力に興奮する」という「欲望」の次元の事象がまたあるのです。理性による規範的な判断とはまた別口で、欲望の回路がある。その回路があるからといって、理性による価値判断が覆るわけではないのですが、両立して、あってしまうのです。「人は酒を飲むべきではない」という規範的な判断がありつつ、「酒が飲みたい」という欲望はあり得ます。そして、その上で、規範の壁を乗り越えて、酒を飲むのかはまた別の話です。

こういう問題に遭遇する度に思うのは、批判されているのはある特定の欲望なのだろうか、ということ。欲望だとしたら、その批判に「応える」とは具体的に何を指すのだろう、ということ。「規範」に反した「欲望」を抱いたとして、その欲望を創作物に向けることは、それこそある意味「規範の壁を乗り越えて」いるということなのかなあとか、そういうことを考えてしまいます。

ああでも、今回の件は、少年誌という場での未成年(=道徳的自律がなされていない存在)への影響という話なので、上記には当てはまらない話でしたね。すみません。

それはそうと、全然違う話だけど、「非実在青少年」という観念は、実のところかなりいいところを突いていたものだったんじゃないかと真面目に思っていたりします。

2015-07-27

ラブライブ!って何だったんだろうね、とか。

タイトルに!つけたのでもういいでしょう。こっから先はラブライブで通します。ごめんなさい。

ラブライブ、好きになるのにはずいぶん時間がかかったのだけれど、まあ、今の気持ちとしては、ぼくはラブライブが好きだと、ある程度堂々と言えるようになったのかな、と思ったので、こんなエントリを書こうと思いました。堂々と、というか、開き直り、というか、ああ、そうだ、もう降参、認めざるを得ない、そういう表現こそが適切かもしれない。ああ、そうだよ俺はラブライブが好きだ。それはおそらく間違いがないんだ。

でも、しかし、たとえば屈託、そうしたものはやはりあるのだ。そうしたものは、紛れもなくぼくの一部であったし、それどころかぼくそのものであったような気さえしてくる。いくらもう好きだと言えるようになったからって、それをなかったことにはできないし、したくない。後期の谷川史子は若さゆえの過ちとでも言うべき何かを、取り返しがつかないものとして描きつつ、しかし同時に優しい目線で見つめていたりするけれど、そういうマンガが好きなぼくなのだから、昔の「ぼく」のことだって大切にしたいのだ。ごめん、これはあんまり関係がないかも。

何はともあれそういうことだから、ちょっとぼくにとってのラブライブがどういうものだったのか、という話をしたい。これはぼく自身への私信として書くけれども、ぼくと古くから親しくしてくれている人たちや、ラブライブを通じて仲良くなった人たちに読んでほしいな、と淡い気持ちを抱いてもいる。よろしくお願いします。

おそらく、ラブライブのどこがニガテだったのか、という話からしなければならないのだろう。自らの記憶の糸を辿っていくと、やはり、アニメ1期9話に行きついてしまう感がある。秋葉原、というのはオタクであるぼくもよく行くところなのだけれども、そこでライブをするということに、とてつもないアレルギーがあったことを覚えている。これはぼくの自己嫌悪に由来するものだけれども、「オタク」というものの前で歌って踊るμ’sというものを、ぼくはどうしても認めたくなかった。なんでそんなやつらの前で(ぼくらの前で)歌ってしまうのだと、そんなものに支持されることで、彼女らが「輝く」こと、そのことを直視できなかった。手塚治虫を読んで育ったというのに、ごみ溜めから白いゾウが生まれるとは思えないのだ。しかし、これはおそらくぼく特有のアレルギーにすぎない。

ただ、ここからラブライブという作品のある特徴を少し掬い取ることができるのかもしれない。つまり、秋葉原でのライブは何のためのものだったのか、という話であって、ひいてはμ’sとは何のためのものだったのか、という話に他ならない。というのも、廃校を阻止するためにμ’sがあるのであって、それは出発点においてどこまでも手段でしかなかったという事実が厳然とある。もちろん、そういった性質は物語が進むにつれて失われていくわけだけれども、ここで述べたいのはそうしたμ’sの手段性そのものではなく、そうした手段性は、ある特定のスクールアイドルとファンの関係性を前提にしている、ということである。何が言いたいかといえば、スクールアイドルとして成功することが廃校の阻止につながるということは、スクールアイドルというものが相当に多くの人間を動員することができるということを意味する。そして、そうである以上、スクールアイドルとファンの関係は、ある種合理的な性質を持つようになってしまうだろう。μ’sを応援するのは、彼女らのパフォーマンスがすばらしいものであって、支持するに値するからである。合理的な判断の結果として、ファンが存在する。こうした部分において、おそらく、「スクールアイドル」とプロの「アイドル」の間にさほど径庭はない。スクールアイドルの人気は、そのまま貨幣的な価値へと変換され得るように思われる。

なぜこんなことを延々と書くのかといえば、たとえばぼくは『がくえんゆーとぴあ まなびストレート』というアニメの終盤を理解できない人間だったりするからである。まなびたちがいっしょに同じことに取り組んでたくさんお話をして、仲間になる過程までは納得ができるのに(たとえば、みかんと芽生)、その後、まったく縁もゆかりもない学園の生徒たちが、まなびたちに協力し始めることに理解ができない。人間はそう簡単に動かないだろうと思うのである。もちろん、それ自体として圧倒的な魅力(それは、たとえば市場に溢れる娯楽に勝るか伍するクオリティのものである必要がある)をまなびたちが提示できるのなら別であるが。

テンニースをきちんと読んでいないので用いるのがちょっと怖いのだけれども、ぼくは、つまるところ、ラブライブにおけるスクールアイドルや終盤のまなびストレートにおける生徒会は、いわゆるゲマインシャフト的なものではあり得ないのではないのかと思っているのである。ゲマインシャフト的な関係の延長として描くにはやっぱり無理があると思うのだ。ゲゼルシャフト的な、すなわち、「利害に従って打算的に行為する」(山川倫理用語集より)人間が動員されなければそうはならないと考えるしかないのではないか。μ’sのランキング順位を押し上げるのは、まさにそうした人たちであり、それはまたまさにぼくらラブライブのファンであるのだということに疑いはない。あの世界の無名のファンたち(=「みんな」と言って差し支えないのだろうか)は、ぼくらに容れモノとして開かれているのである。

ラブライブの2期11話が、まさにその意味での「ぼくら」を置き去りにしてしまうものだったというのは言うまでもないだろうと思う。真姫ちゃんは泣きながら「μ’sは私たちだけのものにしたい!」「私が嫌なの!」と叫ぶわけだけれども、これはまさにその通りワガママ以外の何物でもない。そもそも、廃校を阻止するという目的によって結成され、多くの人びとの支持や応援をもらいながらラブライブに出場したμ’sは彼女らだけのものではあり得ないのである。すでに「みんな」のものであるのだから、「私たちだけのもの」にはできるはずもない。こうした無責任は許されるはずもなく、きちんと責任を取る必要が出てくる。だからこそ、映画ラブライブは必要だったし、その内容も真っ当なものであったのだ。ぼくは、映画ラブライブは素直で順当な評価を受けるべきであると考えている。ただし、それはぼくが好むところのものではなかった。

とどのつまり、ぼくが好きなのは2期11話なのだ。西木野真姫の「ワガママ」が愛おしくてたまらないし、またそうであるべきだと思うのだ。ぼくらは置き去りにされるべきだし、たくさんのファンがいなくたって、ラブライブに出なくたって、彼女らはあそこで別れを惜しんで子ども丸出しで泣きべそをかけたはずなのだ。アニメけいおんの2期20話で、彼女らを見守ってきた人たち、あるいは、彼女らが関わってきた人たちとのコミュニケーションとしてしか価値を持たないライブの後で、唯たちはどうしようもなく大泣きをするのである。

ぼくがラブライブを好きなのは、彼女らの過ごした時間が、そこで育んだ関係が尊いものだからだ。いろいろなものを抱えた彼女たちが、大切な友達に出会えて一歩を踏み出したり、その踏み出す一歩を大切な友達に見守られたりする。そういう、そういうかけがえのない関係がぼくは好きだし、彼女たちが過ごしてきた青春の時間がどうしようもなく輝いていることに打ちのめされるのだ。

彼女らに、μ’sがあって、そういう仲間がいて、本当によかったねと、そう言いたくってたまらないから、ぼくはもう「ラブライブを嫌い」とは言えない。ぼくはラブライブが好きだ。彼女たちの、これからの人生にどうか幸福がたくさん訪れますようにと、そう願わずにはいられない。あるいは、大人になった彼女たちが仕事から帰る電車の中で、ふとこうした青春の時間を思い出して、くすりとほほ笑むそんな瞬間が、あってくれればいいと、そう思うのである。


P.S.
最後のほうの話、具体的にどういうことが言いたいのかということを前書いたtogetterで補足しておきます。まきりんぱなについてです。

ライブ前後でまきりんぱなについて考えたこと。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/777647

2015-01-27

なぜ俺は観鈴ちんそのものと向き合うことができないのか。

コンシューマ版のAIRをやった。納得できない。俺は観鈴ちんという女の子の在り方が、そのものが好きだった。彼女のありのままの人生が好きなはずだった。「だった」というのは、そうであることは不可能だからである。
神尾観鈴という女の子の在り方が、尊いと思った。すてきだと思った。気高いと思った。彼女が、物語の冒頭、堤防に立ち、ぼくらに語りかけるとき、その彼女の地面に着いた足は震えていただろうか、あるいは、彼女の心の水面は、不安なさざ波が立っていただろうか。彼女は、人とともに生きることが禁じられていた。しかし、彼女はそれでもなお、ぼくらの前に現れたときのようにあろうとする。そうするときの彼女は精一杯である、一生懸命である。しかし、彼女自身はそのことについて何か思うこともない。むしろ、彼女が気にするのは、相手と共にいようとする「私」が、目の前の相手に対して、迷惑な存在でないか、これである。そう考える彼女がすてきでなくて、気高くなくて、尊くなくて何なのであろうか。というのも、彼女が人とともに生きられないのは、彼女の意思に由来するものではないのである。彼女に世界は味方をしない。しかし、それでも彼女が世界に悪態をつくことはない。それが彼女の矜持であると同時に、まさに彼女の魂のすぐれた点でもあるのだ。
人が人と共にいるときの作法を教わるのが、両親をはじめとする家族によるとするならば、観鈴ちんはそのような経験を与えられなかった子である。そのような人間が、よくてもどうなってしまうのか、ということを確認するならば竹宮ゆゆこの『とらドラ!』を読めばよくわかるのだが(その逢坂大河も、しかし、クリスマスにおいて誰に教えられたわけでもなく、人に「贈ろう」とするのだからやはり、彼女も尊く、そして痛々しいと言わざるを得ない)、観鈴ちんがしかし、常に原因を自分に求めようとすること(=その結果がゲーム内での振る舞いであること)に、ぼくは涙を禁じ得ない。
このような彼女の在り様を、ぼくらはこのゲームを始めてすぐに、認識する。彼女の、極めて立派な存在の仕方はすぐに我々の前に夏影とともに表される。ぼくらの前に現れる立ち絵の彼女は尋常ではない。彼女は、何か、痛々しい存在として我々に映る。しかし、その痛々しさそれ自体が彼女の尊さであることに気づくのにそれほど時間はかからないはずだ(少なくとも、AIR編にまで行けばすべての人がわかる)。
AIRというゲームが、「家族」という存在の重要性、「家族」における安らぎ、幸福の至上性、すなわち、愛する人に囲まれたありふれた日常こそが幸福であることを説いていることは、ぼくのようなボンクラにも理解できる(ライターの前作Kanonを参照するとその確信はなお強くなる)。しかし、注目しなければならない大切なことは、ぼくらの前に現れたその観鈴ちんが、まさに、物語が始まると同時に現れる観鈴ちんが、そのようなメッセージ、この作品が「真理」であると伝えようとする主張を、きちんと理解し、そして、それに向かって努力しようとしていることなのである。
観鈴ちんがそうした物語の主題を最初期において理解し、体現しているのであれば、観鈴ちんがそのような物語の主軸に据えられているのはなぜだろうか。それは彼女の前世だかなんだか(翼人?)の物語による。そもそも彼女が人と共に生きられないことを宿命づけているのもそうした設定である。
観鈴ちんは、そうした悠久の過去からの流れを、切断する。それは、たしかに人々に何かしら感動を呼び起こすものなのかもしれない。しかし、そのような課題は彼女に由来するものではない。彼女自身の人生にとっての何かではない。彼女は、彼女自身の人生において、この作品の主題に一致するような、気高い生をすでに生きている。しかし、それは彼女に付随する、彼女の意思以外の何か(翼人とかいう外在的な歴史みたいなもの)によって実現不可能である。
ぼくが、本当に口惜しく思うのは、観鈴ちんが、観鈴ちん自身の人生以上のものを背負わされているからである。翼人の記憶は、彼女の意思によってどうにもならない。彼女を苦しめる痛みは、彼女の身体にないはずの部分から発せられるのである。それは、制御不可能である。
蛇足として述べれば、そのような翼人の因縁は、主人公との関係が唯一無二であり、重要なものであるとの主張の一助とはなるのだが、そのことが何かしらよいものだとも私には思えない。人と人の関係に価値を与えるのは、人が人を自分の意思において思う心に他ならず、彼の意思と関係ないところですでに「決定されている」何かが何らかの価値を持つようには思えない。そのようなとき、人と人の関係における両当事者の中身はいわば「空」であり、何でも入ることができる。なぜなら、その容器、属性に付着するものこそが大事なのであるから、その内部に何が要るかと言うことは関係がない。実質的な内部について無頓着であるときに、その関係に価値があるとは思えない。ある人間を人間たらしめるのは、そうした「形式」ではなく、「実質」的な何かであると私は確信しているからである。
彼女が死なねばならぬのは、彼女が自らの生において何かしらそれに値することをしたからではない。それは、彼女の意思とはまったく別のところで「すでに決定されている」設定があるからである。なるほど、すべての創作物において、常にキャラクターは設定の産物である。先に述べた逢坂大河は非常な過酷な人生に生み落とされ、その過酷さは彼女の意思に由来するものではない。しかし、彼女には、彼女自身によって過酷さに打ち勝つ「余地」が留保されているのである。だがしかし、観鈴ちんについてそのようなものがないのは先に述べた通りである。彼女が痛みを感じるのは、「ないはずの部分」においてであるのだから。
論旨がとっ散らかってしまったが、私の(作者への)憤りはこの一点に尽きる。すなわち、「なぜ、神尾観鈴という少女は、彼女自身に由来するもの以外のものを背負って生きなければならなかったのか」。よりわかりやすい言葉に置き換えれば、「なぜ神尾観鈴は、彼女自身の人生のみを生きることを許されなかったのか」。これである。『AIR』において、彼女は常に、作者による設定から自由な、「彼女自身」であることはできない。したがって、私は、観鈴ちんそのものと向き合うことはできない。本エントリのタイトルの意味は、そういうものである。


観鈴ちん自身が物語のアクターではなく、むしろ、主役は主人公と晴子であり、彼らが観鈴ちんを通して作品のメッセージを確認していく、そういう解釈が妥当である可能性はある。しかし、その場合、観鈴ちんの扱われ方はさらにひどいということに留意が必要である。というのも、この場合、観鈴ちんは、まさにただの手段的な価値しか認められない道具に成り果てることになりかねないのであるから(というのはさすがに言い過ぎだなあ…(追記))。

2014-09-07

ラブライブのライブについて考えると胃が痛いという話。(追記あり)(さらに追記)


これは私信です。酔ってます。うだうだとした自分語りです、あと、ラブライブが純粋に好きな方を結果的にdisってしまっているかもしれないので、注意してください。ここ数か月で関わり合いを持ったすてきなラブライブファンのみなさんとこれで縁が切れてしまったりしたら悲しくて悲しいです。

さて、ラブライブのライブが来年の冬ありますね。5thです。ぼくは、控えめに1枚買って外れて、あとは友人との話し合いで行けるかどうか、友人たちもぼくには行ってほしいと言ってくれているので、もしかしたら行けるのかもしれません。

ただですね、ラブライブのライブに関しては本当に、なんというか、考える度に胃が痛くなるような思いがありまして、これは単純にぼく個人の問題なのですけれども、このもやもやを吐き出さないと物理的に吐いてしまいそうな思いがありまして、ここにぶちまけたいと思います。


あのですね、ぼく、μ'sが好きなんですよ。すっごく好きなんです。6本のPVアニメ内のPVを見ていて、いつも、ああ、なんてすてきなものが、なんてすてきなものがあるんだろうなあって思うんです。
ぼくはたぶん、アイドルというものが好きなんですけれども、ハロプロAKBにはハマれなかった。唯一、広末涼子という例外はいたんですけれども、それでもなんとなく無理だったんですね。実際生身の10代とかもいるような若い女の子に、自分の思いやら何やらを仮託して、声を上げることが暴力的に思えて仕方がなかった。いや、もちろんそれはお金を払うビジネスなんですけれども、それでもなんだか嫌だったんですね。
ラブライブを最初1話だけ見たんですけど、まあ、アニメとして合わない。どうにも演出が過剰で、あまりにも脚本が透けて見えるようできつかった。一人の、それ相応の人生を歩んできた人間にはどうにも見えなかった。これは今も変わっていない感想なんですけれども、ただ、それはそうとしても、『ススメ→トゥモロウ』がよかった。OPが、『僕らは今のなかで』がよかった。この二つの曲とPV(?)だけは心に残って仕方がなかったんですね。
より具体的に言えば、『ススメ→トゥモロウ』の「だって変わんない世界じゃない」という歌詞を聴いたときに、「ああ、世界って変えられるよな」って思ってしまったんですよ。そんなことまったく普段思わないのに。穂乃果さんの、あのどうしようもない輝きに、圧倒的な説得力を感じた。ぼくにとってやっぱりアイドルって、そういう、歌詞をただ文字で読んだだけじゃあ心まで届かないようなメッセージを、その質量のあるパフォーマンスで届けてくれる存在で。あの穂乃果さん、まあもちろん海未ちゃんやことりちゃんもなんですけれども、彼女はそうだったんですね。
そのあとは、一応10話くらいまで見たけれども9話が圧倒的にだめで(オタクの前で歌ってる9人を想像するとどうにも気持ち悪く感じて未だにアレルギーです)、『ススメ→トゥモロウ』と『僕らは今のなかで』をひたすらyoutubeで見るっていう生活を続けて、ある日ベストを手に入れて、今度はPVを何度も見てました。そんな中ある日、ラブライブ二次創作にハマって百合厨になったりもして。


けっきょく、ぼくはμ'sを「ふつうのアイドル」として見ていたんですよ。先述のアニメラブライブ評価の話ともつながりますけれども、あの「ワザとらしさ」あるいは「ミュージカル的な演出」を根拠に、ぼくはアニメラブライブを「μ's結成秘話的な再現ドキュメンタリードラマ」として解釈していたりします。これは別に主観的な納得の話ですのであれですが。
だからですね、ライブに行くのきついんですよ。だって、SSAで歌って踊るのはμ'sじゃないんですもん。たしかに、声は同じかもしれませんが、ちがうんですよ。穂乃果さんじゃなくて新田さんなんですよ。新田さんはぼくはとてもすばらしい声優さんだと思っていますが、でも、穂乃果さんじゃないんですよ。なんでそれを見に行かなくちゃいけないのか。なんで、μ'sが存在しないことの証明を見に行かなければいかないのか。
ラブライブというコンテンツは、パラレル的だということがよく言われます。設定は一貫してないし、それぞれの媒体にそれぞれのキャラがいる。ぼくはそれを、「オリジナルのμ's」が存在して、それぞれはそのオリジナルのμ'sが出演しているもの、作っているものだと(=そういう設定であると)考えています。アニメは先に言ったように本人出演のドキュメンタリードラマですし、SIDは彼女らが実際に書いた日記、G'sの記事は彼女らが取材を受けた結果であり、PVは彼女らがリリースしたものというわけです。
そう考えていったときに、どう考えても、無理なんですよ。ライブだけは。生身の人間が出ている以上、そういう理屈はこねられないんですよ。彼女らは、その意味でμ'sではない、何か他のユニットでしかないんです。少なくとも、ぼくはぼくを納得させることができない。彼女らが「μ'sとして」μ'sの曲を歌ってる以上、そのこと自体がμ'sの存在を否定する。ぼくはそれに耐えられない。


さらに言えばですね、これは、本当に情けないことなんですが、「声優さんたちはμ'sじゃないから楽しめない」ということが、ライブにネガティブな感情を抱いている理由じゃないのです。むしろ、「μ'sじゃないけど絶対に楽しめる」だろうことこそがぼくの胃を痛くするのです。本当に、恥ずかしい。
というのも、ぼくはサッカーが好きで地元のアルビレックス新潟を、加えて最近プロ野球広島東洋カープを応援しているのですけれども、ああいうスタンドの一体感、みたいなものが、どれだけ人間を楽しませるかということをぼくは知っているし、また、そういうものを大好物な自分も知っているわけです。ぼくはライブというものにおそらく2回しか行ったことはないですが、おそらくライブはもっと楽しいだろうことを確信しています。
実際、行きたいんです。5th、死ぬほど行きたいです。先のような経緯から、2期1話で『ススメ→トゥモロウ』を8人が歌いだしたところでぼくはみっともなく泣きましたし、2期12話の『僕らは今のなかで』でも、予想していたにも関わらず号泣しました。あとは、『どんなときもずっと』のサビでも静かに泣きました。『LONELIEST BABY』を1期12話13話を見た後に聞いたときは、「ああこれは穂乃果さんへのラブソングなんだ」と一瞬で気づいて、さめざめと泣きました。
つまり、行ったら楽しむんですよ。確実に、心動かされるんですよ。感動するんです。きっと体が震えてなすすべもなく泣くんですよ。でもどうですか。それで泣いてどうするんですか。歌ってるのはμ'sじゃないのに。俺が好きだった、好きなはずだったμ'sじゃないのに。俺はμ'sが好きだったわけじゃなくて、大きな規模の会場で、同じものが好きな人とペンライトを一緒に振ればそうじゃない人たちの歌でも泣いてしまうのか。泣いてしまうとしたら、それは何なんだ、何のための涙なんだ。俺は何に感動をしているんだ。俺は、俺は別に、μ'sの歌に感動していたわけじゃなかったのか。


俺はμ'sが好きだったはずなんだ。そう、確信を持って言えるはずなんだ。でも、でも、来年の春、ぼくがどうなっているのかは、なんともわかりません。そういう話でした。つらい。



【追記】
そのあとさらにフォロワさんたちと話しながらうだうだつぶやいたので一応置いておきます。本文に書き忘れた補足ということで。






まあ、けっきょくこういうことなんですよ。百パー無理ですけどね。



【追記2】
ライブイリュージョン!そういうのもあるのか! たしかにこれはすごくよいかもしれないなあ。


【追記3】
もう見てる人もいないと思うんですけど、一応置いておきます。








(※断っておきますが、それでも「行く気はない。魅力を感じない」とつっぱねることができないぼくの弱さの問題だということは間違いないです。)




まあ、ぼくはりんまきとほのまきとほのにこを読めればいいというラブライブ!(散々「!」付け忘れてごめんなさい)オタとして生きていこうと思います。

2014-07-29 『アニバタ vol9』に寄稿しました

『アニバタvol.9』に寄稿しました。

標題の通りです。たつざわさんのところに「かんなはなぜ木に登ったのか あるいは、みどりとの関係について」という文章を寄稿しましたので、お知らせいたします。

あの映画においてかんなとはいかなる存在だったのかということを、ぼくなりに丁寧に説き起こしたつもりです。それに伴ってストーリーの解説もだいたいにおいてしています。

かんなの在り方を理解することは、当然みどりの理解につながるでしょうし、『たまこまーけっと』『たまこラブストーリー』の本質的な枠組みの理解の第一歩にもなると思っています。

『たまこラ』論なのに、『とらドラ!』9巻の引用から始まるというアレな文章ですが、もしよろしければぜひ。
(そういえば、『たまこラ』論に関してはまったく満足しているのに、説明のために持ち出してきた『とらドラ!』論のほうに納得がいっていないという転倒ぶりだ…)


アニバタ Vol.9 [特集]けいおん! & たまこラブストーリー | アニメ・マンガ評論刊行会
http://www.hyoron.org/anibata9