大垣夜行最後の日。「ムーンライトながら」最初の日。

katamachi2009-03-11

 今から13年前の1996年3月のことである。
 大学鉄研の同期T氏から連絡が来た。
「東京へ行かへんか」
 久しぶりに東京へ行って神保町とか秋葉原で何かいろいろモノを買いに行こうというのだ。当時、公私いろいろあまりうまくいってなかった僕への気遣いもあったんだろう。
 で、その手段として最初に頭に浮かんだのが、この年の3月から運行されることになる全車指定席の夜行快速だった。
 今まで僕たちが"大垣夜行"*1と呼んできた165系11連(グリーン車付き)の東京〜大垣間は、この1996年3月15日発限りで運行を終了。その翌日からは、全車指定の夜行の運行が始まることになった。
 名前は「ムーンライトながら」。新宿〜新潟間に運転される「ムーンライト」(改正後は「ムーンライトえちご」)との連想で名付けられたのだろう。特急「ふじかわ」用に造られた373系が投入されるから寝心地は向上されるし、かねてから希望のあった指定席も全面的に投入。みんな大垣夜行に新車が入るとは想像していなかったんで、かなりの朗報だったのは確かである。
 ただ、違和感はあった。なにより、高校時代から永年親しんできた165系大垣夜行が消える。いつかはその日が来ると分かってはいたけど、なにか物寂しかった。

大垣夜行はあくまでも鉄道旅行を楽しむための移動手段。

 本当に大垣夜行はよく乗った。
 最初は高校1年生だった1987年夏。18きっぷ7回分を使った旅行で、都合、大垣夜行は3回使っている。大垣→東京、熱海→富士、浜松→名古屋間。乗りつぶしの関係で、半駅寝状態からの途中乗車もあったが、幸運にも席にはありつけた。
 その後も、たびたび乗車を続ける。 1989年冬からは臨時列車の運行も始まる。それ以前より、国鉄最終日とか救済臨が当日突発的に運行されることもあった。この年の8月13日、晴海の「コミックマーケット*2、そして東京ドームでの「アメリカ横断ウルトラクイズ」の予選*3が重なっていた。そのため、前日の12日、西日本から東京へ向かうべく交通費を節約しようとした利用者で大垣、岐阜、名古屋など途中駅のホームに人が溢れ、彼ら彼女らを車内に収容することすらできなくなった。その混乱で60分近く遅れが出て利用者のイライラが募る中、静岡か熱海あたりで113系を使った臨時列車が、急遽、仕立てられたのだという。それ以降、18きっぷシーズンのピーク時に。臨時の運転が恒常化する。
 基本、僕は大垣夜行で座れなかったことは一度もない。全車自由席なんで、18きっぷ期間中には東京駅に下り発車の2時間前、大垣駅には上り発車の1時間前には並ばなければ……との意識付けはできていた。ピークから外れるときは30分前でも、途中駅乗車でも問題なし。
 夏と冬に開催されるコミックマーケットの前後も、行きか帰りに一度は乗ることにしていた。通常より早く2〜3時間前に出勤。文庫本でも読んで時間つぶしをした。それでも直前に来るオタクさんたちは少なくなく、通路やデッキに人が溢れたりもしたが、早く来ていた僕たちは確実に着席できていた。いつの年だったか、12月30日の夜、異常にホームが混み合っていて、定期11両&臨時6両ともに飽和状態。東京駅で乗りきれない人たちが数十人発生し、駅員総掛かりで彼らの乗車を止め、定刻より十数分遅れて発車した。取り残された人たち。年末の東京でどう過ごしたんだろう。
 大垣夜行の一番の想い出は、1991年3月。ホームで列車を待っていると、三里塚帰りの白ヘルの左翼学生たちがやってきて、制服警官や駅員の命令で順番待ちをしていた僕らは追い出されてしまった。その時の恨み辛みは、以前、「京都駅前で中核派と出会って17年前の大垣夜行での私怨を思いだす。 - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いた。こういうズルをするヤツが正義を唱えても信用しないことにした。
 高校や大学の連中と集団で乗ったことも何度かある。集団で乗ると、がさがさ騒いでいる連中もいるんだけど、僕らは違った。夜行での移動中に体力を消耗するのは素人のやること。そもそも他の連中が騒いでいるのが鬱陶しいというのは、個々で利用したときに骨身にしみこんでいる。深夜の眠いときにテンションが高いヤツは論外。空いているなら、1ボックスシートを1ないし2人で占拠し、足を広げながらさっさと眠りに入ることを優先した。
 あくまでもメインは翌朝以降の鉄道趣味活動。大垣夜行は単なる移動手段・宿代節約方法と割り切っていた。大垣夜行に乗ることに感動も旅情もへったくれもない。それだけ僕らには当たり前の存在になっていたのかもしれない。

JR東海の気まぐれで「ムーンライトながら」誕生

 ただ、繁忙期はともあれ、春秋の18きっぷシーズン以外の閑散期はいつもスカスカだった。それについては「「ムーンライトながら」廃止か。オフピークには1両にヒト桁程度しか客は乗ってないからねえ…… - とれいん工房の汽車旅12ヵ月」で書いた。従前から、オフシーズンの平日とかだと、1車両にヒト桁とか、静岡を過ぎると少ないときは2、3人とか、そんな悲惨な状況だと伝えた。シロウト目にもお商売が成り立っているようにも思えない。165系の寿命も尽きつつあった。
 1993年12月改正で「八甲田」・「津軽」・「ゆうづる」などが、1994年12月改正で「(博多)あさかぜ」、「みずほ」、「つるぎ」などが廃止・臨時格下げされていったのを見ていると、我らが大垣夜行も先行き危ういかなあとか思いだしていた。


 新幹線至上主義と誰の目から見ても明らかなJR東海。いつまでも残してくれるはずはない。「18きっぷ旅行者のために伝統を残さねばならない」とか主張する変なマニアもたまに現れていたが、テキトーに聞き流していた。学生だった僕たちでも、JR各社が企業の論理で動かざるを得ないことぐらいは理解できる。
 毎年、秋頃になると、事情通を気取るマニアたちが「信用できる筋の情報によると、来春の改正で大垣夜行はついに消えるらしい」とか言い始める。JR東が東京駅乗り入れを嫌がっている。JR海が合理化を図りたがっている。JR貨が夜行のスジを欲しがっている。と、まあブルトレ廃止の時に出てくる噂話と同じ。
 そんなもんかいなあ......とか思いつつ、毎年春のダイヤ改正を何度か経ても大垣行きの列車は生き残り続けた。
 国鉄時代に設定された会社境界を跨ぐ列車についてはできるだけ現状維持を……というのが、この時点での各社のスジ屋さんの了解だったという。本音はともあれ、増やすことはしないけど、減らすこともしない。また、JR東海の某エライさん*4の支持(指示)があったという話を、後年、聞いたことがあるが、真偽は不明。大垣夜行の前身は、東京〜大阪を結ぶ客車夜行だった。国鉄合理化で1968年10月改正で廃止される寸前にあったのだけど、新聞報道があって反対運動が展開。それを聞いた石田礼助国鉄総裁の鶴の一声で、同改正後も夜行座席電車として生き残ることになった。ふと、鉄道旅行系マニアには有名なその故事を思い出した。なんとなく、大垣夜行は21世紀まで残り続けるんじゃないかと淡い期待を持ち始めた。
 1995年12月、「1996年3月改正より特急車投入で全車指定席化」とリリースされる。えっ、新車を入れてまで残すの??、何を血迷ったんだろう……と正直感じたが、一鉄道マニアとしては感謝せねばならない。
 とりあえず、無名の夜行座席電車に新車が入り、ヘンテコな名前は付けられたが、これで存続は決まった。

大垣夜行最終日に上りで大垣→東京間を移動

 さて、3月上旬のある日。大学近くの某駅でマルスを叩いてもらった。
 3月17日にJR全線完乗する鉄研メンバーに付き合う予定が入っていた。そのため、とりあえず運転初日の3月16日下りを狙った。東京→大垣は満席。東京→名古屋もダメだった。
 さすがに運転2週間前だと無理か...と思いつつ、ふと閃いて、東京→小田原間。
 残席40と出た。
 ああああ……とほくそ笑みながら、連れの分も含めて2枚購入。これで「ムーンライトながら」運行初日の下り列車の切符をゲットできた。
 この新・大垣夜行ムーンライトながら」の指定券の発売方法。前月発売の改正号時刻表でもきちんと説明されていた。下りは、9両編成のうち3両の指定席区間は小田原まで。そこからは自由席扱いになる、と。そして、一部の勘のいいマニアは、この区間の指定券を押さえていればそのまま名古屋まで行けると理解していた。ただ、一部の濃い連中を除けば、そのカラクリを理解していなかったのだろう。
 で、せっかくなんで、その前日、15日の大垣夜行最終便も乗らないと.....ということになった。


 1996年3月15日。夜8時頃。同じく近畿圏に住んでいる鉄研同期T氏と米原駅で落ち合い、大垣駅に向かった。
 春休みのピークにはちょっと早すぎるし、通常ならギリギリに大垣に向かっても座席は確保できるタイミング。でも、165系での運行最終日だしなあ……と早めに来たのだ。
 ただ、大垣駅5番線。東京行き最終夜行の乗車列に並ぶ列は4、5人と短めだった。
「なんや、最終日という割りには人が少ないなあ」とT氏。2時間前と早くに来る必要はなかった。
 ズーッと待っている必要はないと判断。晩飯を求めにコンビニへ向かった。この頃、大垣駅の近くにはコンビニがなかったんで、1キロほど市街地に行かねばならなかった。事前に弁当でも買うておけば良かったんだけど、この時はすっかり忘れていた。
 戻ってきた後も、ホームは寒いんでコンコースの中で過ごす。ちょくちょく列を覗きに行くが、あまり長くはなっていない。
 発車30分ほど前にようやく動き出す。各乗車列は10人ほど。新規で何人かやってくるのだけど、みんな意外そうな顔をしている。僕らと同様、予想以上に客が少ないことに驚いているのだろう。正直、朝4時台に東京駅に着くという永年続いてきたダイヤは、こと東京地区に目的がある人間には使いにくい。下りより上りの方が人気がないというのも実感として分かる。
 そしてまもなく大垣夜行が到着。

 久しぶりにアルバムから写真を引っ張り出してきたんだけど、165系湘南色。11両、しかもグリーン車付きだったんだよなあ。僕らはその編成が夜行として走ることが当たり前だと思っていた。
 伝統の東海道本線筋からはこれで引退するんだけど、中央西線紀勢本線でも運行は続くんで、車両として名残惜しいというわけではない。でも、165系。定期として使うのには老朽化が進みすぎている。他線でも、もう老い先短いんじゃないかなあ、なんてことを話していた。

 サボとかを撮っていると、米原からの上りが到着。そこらの乗り換え客を吸収した後、定刻に大垣駅を発車する。乗車率は5割程度。思っていたより低い。まだ春休みの移動が盛んになっていない時期だからか。名古屋でも乗っては来たが、6〜7割程度。1ボックスを僕とT氏で占領したんだけど、その他に客はやってこない。
 なんで、そのまま睡眠モードに入ることにしていた*5
 ……のだが、この日に限って、なかなか寝付けない。
 ウトウトしたまま豊橋駅での20分ほどの停車時間も半目を開きながら起きていた。浜松駅、静岡駅。すれ違う貨物列車。眠気がやってこないイライラと疲れが蓄積されていく。隣のT氏は、口をポカーンと開けながら、いびきをかきながら寝ている。こういうとき、気持ちよく寝ているヤシを見ると、殺意を覚える。
 なんとか富士駅沼津駅との間で眠れたようだ。そして横浜駅と川崎駅との間で目が醒めた。実質寝ていたのは2時間程か。
 そして山手線が近づき、品川駅。新橋駅を出れば、終点、東京駅である。

ムーンライトながら」最初の日はとにかく寒かった。

 その後、あまりにも眠いんで、中央本線の201系で横になりながら奥多摩まで往復。実質の睡眠補給だった。
 青梅線横浜線で数駅降りた後、御殿場線に転戦。ここでも駅の乗り降りを繰り返しながら町歩きを楽しむ。
 そうそう、この日、裾野駅で降りたとき。なんか鼻がムズムズしていた。目も痒い。鼻水が止まらない。
 この違和感はなんだろう。昨日、大垣夜行の車内は温かかったけど、中央本線の電車内は4扉ロングだし寒かった。カゼをひいたのかなあ.......と思っていた。あるいは、もしやこれが噂の……と思いつつ、急遽、トイレに突入。個室からトイレットペーパーを引いて、ひたすら鼻をかみ始めた。
 これが、私の「花粉症記念日」。偶然、大垣夜行最後の日&「ムーンライトながら」最初の日と重なったのだけど、それから13年、今年も悩まされている。
 その後はブラブラしながら都区内でT氏と合流。
 夜は23時頃に東京駅へ着いた。
 「ながら」の指定席券を持っているからわざわざ並ぶ必要もないのだけど、ちょっと気になっていた。それなりの人だかりがしている。
 やがて回送電車が到着。ホームへゆるやかに到着する373系9両編成の車中を見ると、ピンクのリクライニングシートがズラーッと並んでいるのが見える。

 それを見たホームのマニアたちからは「おーっ」と歓声が上がる。今までボックスシートだったからねえ。ちょっとは寝心地、良くなるかな。
 そして、しばしの待機の後、乗車。本日、指定席券をゲットできた栄光のマニアたちが乗車を始める。
 確かに、立派だわあ。この車両。青春18きっぷ+310円という激安値段で乗せていただいても宜しいのでしょうか。
 そして、発車。


 そこから先は、

  • 僕らの車両が指定席→自由席扱いとなる小田原駅で50人ほど乗車。数席空いていたんでそこが争奪戦に。通路で寝る連中も数人いて邪魔だなあと思った
  • シートは良くなっているんだけど僕には硬すぎる。昨晩の165系ボックスシートを2人で占拠の方が寝やすい。
  • 寝付きは良かったのだけど、静岡駅あたりで扉から寒風が入ってきて起きてしまった。そう、この373系。デッキ扉が省略されているんだよね。車内保温対策として客用扉の開閉方式は半自動方式とされた。ドア開閉用の押ボタンらしきもあるのだが、その日は使用不可。起きた後は、ぶるぶる震えていたと記憶している
  • 豊橋駅以降はパラパラと通勤客も乗車。みんな一様に新車投入に驚いていたけど、座席数の低下→自分らの席がない……という状況に諦めて扉脇で立ち席
  • 名古屋で3両切り離すので席を移動。意外に何人か下車していったんで名古屋駅でシートを確保。そのまま大垣に向かった(ここら記憶はうろ覚え)

とかなんとか。

 同行のT氏は川崎あたりから大府あたりまで熟睡していたんで特に感想はない、とのこと。車内でよく眠れる人は羨ましい。
 大垣夜行最後の日、そして「ムーンライトながら」最初の日の旅はこれでオシマイ。この夜行列車を手段じゃなくて目的として使ったのはこれが最初で最後なのかな。


 この後、草津駅に向かい、大学鉄研メンバーたちと合流。後輩A君が草津線柘植駅でJR完乗するのに付き合った。続いて伊賀上野から近鉄経由で桜井駅へ。ここからは鉄研同期のT2くんが桜井線奈良駅で、やはりJR完乗するのに立ち会った。

鉄道マニアたちの青春時代を彩ってくれた列車への手向けの言葉

 その後の大垣夜行改め「ムーンライトながら」。年に何度かは利用した。
 ただ、東京→小田原間のみの部分指定席の活用法なんかが周知されたことで、ピーク時以外も、18きっぷシーズンはそれなりに混み始めた。全車指定席化されたことで、夜の寝場所が確保されるという安心感もあったのか。
 僕は165系や167系が使用される臨時を好んで使っていた。旅行計画と目的をその日の気分でコロコロ変えるんで、事前に指定席券を確保して座席を確保するという鉄道旅行をほとんどしたことはない。寝台車でも前日確保というのが当たり前。なんで、「ながら」指定券の日付に旅程が拘束されてしまうのを嫌ったのだ。新車があまり好きじゃないというのもあった。
 そして、徐々に乗車機会は減った。「ながら」明けで仕事or旅行というのは正直キツいものがある。18きっぷシーズンで一番混み合う時期の乗車は止めた。それでも、ガラガラで寝やすくなるオフシーズンに、関西→関東間の乗車券をマジ買いして乗るのが数回続いた。
 あと、「ながら」登場あたりを境に、鉄道マニア中心だった客層が代わってしまった。端的に言って大衆化が進んだ。"「ながら」の乗り方ABC"なんてマニュアルを紹介するホームページや書籍も出てきた。指定席化されたことで誰にでも乗りやすくなったのだろう。ただ、以前は上りだと、豊橋駅から先は車内での声を静かにする……というのは暗黙の了解としてあったと思うが、深夜帯でも話を止めない騒々しい人たちが増えてきた。「みんな寝ているんや。静かにしてくれませんか」と、グループ客に何度か注意したことはある。若い人たちだけでなく、年配のグループにも。ネットオークションで指定席券が1000円や2000円で売られているとも聞いた。時の変化が、いろんな意味で寂しかった。
 周遊券廃止でオフシーズンの利用にメリットを感じなくなった。稼ぎ始めたんだし新幹線でいいやとの僕自身の環境と心境が変化した。座席夜行はしんどいし翌日に響く……という体力的な問題を実感し始めた。臨時列車の183系化で指定席が必要になった。僕が足を遠ざけた理由はいろいろある。
 たぶん、新列車の登場と相前後して、僕の青年期が終わろうとしていたのだろう。少なくとも鉄道旅行や鉄道趣味に対するアプローチの仕方は変わった。だから、大垣夜行にはいろいろ想い出はあるけど、歴史の浅い「ムーンライトながら」へはさして思い入れはない。


 そして、2008年9月。

 東京―大垣駅岐阜県)間を結び、かつて「大垣夜行」と呼ばれたJRの夜行快速「ムーンライトながら」の毎夜運行が今年度末で終わる可能性が強まっている。JR東日本JR東海が取りやめの方向で検討しているからだ。
「夜行「ムーンライトながら」臨時化へ 18きっぷで人気」、朝日新聞、2008年9月1日

という記事が出された。定期廃止→臨時格下げということになる。
 この報道を僕は淡々と受け止めた。ビンボーな若者のために、鉄道マニアたちのために、18きっぷ利用者のために残すべきだ……という人たちも一部でいた。だが、まあそれはそれ、現実は現実。と、僕は思っている。
 と共に、大垣夜行→「ムーンライトながら」が、自分たちの好奇心と旅心を育ててくれたのは紛れもない事実。なんで、消えゆく列車への手向けの言葉として、大垣夜行へのオマージュを捧げてみた。この列車と自らとの関係性を再確認したかったのだ。と共に、大垣夜行→「ムーンライトながら」を愛用してきた他の人たちがどのような想い出を持っているのか。聞いてみたい気もする。
 2009年3月14日からは189系などによる臨時快速が運行される。機会があったら、ピーク時を外して乗ってみたい。正直、あのシートで一晩過ごすのは三十路後半&眠りの浅い人間には辛いんだよなあとか感じるのが寂しかったりするのだけど、それはまた別の話。<参考>

*1:異称はいろいろあるが、これが一般的

*2:同人誌即売会。「キャブテン翼」・「聖闘斗聖矢」ブームによる拡大期であると共に、宮崎勤で大きな話題を呼んだ

*3:日テレ系のクイズ番組。ハワイ上陸以後も大学クイズ研の猛者たちが上位に多数残って史上稀に見る大接戦が繰り広げられる。その後、何度目かのクイズブームの先駆けともなる

*4:僕らは彼のことを「スタルヒン」と呼んでいた。国鉄時代からRJ誌などで有名だった彼を知っているマニアも多いだろう

*5:この日、どうも隣の車両では静岡あたりまで騒いでいて怒られたマニアたちがいたらしい