ヘンテコな原作、優れた映画化『砂の器』

実はちょっとした機会があって『砂の器』を10年ぶりに再読した。

砂の器』は世間的に松本清張の代表作と言われているが、ぼくはヘンテコリンな小説だと思っていて、よくぞここまでのものにしたなと逆に映画版の評価がグンと上がったくらいだった。

今回読み返しても「ぶっちぎりでおもしろいけどやっぱり変な小説だ」という思いはかわらず、より強固なものとして心に残った。

となると、映画のほうも見返したくなるわけだが、奇跡的なタイミングで午前十時の映画祭の大トリを飾るのが『砂の器』だと教えてもらい、どうせだったらとTジョイに足を運んだ。

過剰に泣かせる要素はあるものの、すごく重層的で語るべきポイントが多い名作であることに変わりはなく、単純に映画版の方が優れているなと以前と同じように感じた。むしろ読後感のそれよりも感動の度合いは大きかったのはスクリーンで観たせいもあったのかもしれない。

しかも今回改めて映画を観て、再読したときに「ん?」って思ってた個所が全部改変されてることに気づいた。橋本忍山田洋次は優秀なスクリプトドクターなんじゃないかと思ったほどだ。以下、小説を読んでて違和感を覚えたところや映画版でどう改変されたかについて、細かいところを書いていく。すでに内容を知ってるていで話すし、ネタバレもあるので『砂の器』について何も知らない方はそっとウインドウを閉じることをおすすめしたい。


・今西の勘が鋭すぎる。

原作ではひとつのグループがたまたま起こしてしまった別々の事件を同時進行で追っていくという構成なため(ひとりの男がミスリードとなり、最後の最後で実はまったく関係なかったのよーんっていうのがオチ)、ひとつの手がかりをつかむのに勘に頼ることが多く、それがいささか強引。これは映画にもあったが、新聞に書かれたエッセイから証拠隠滅したんじゃないか?と気づくのはあまりにもだし、ベレー帽をかぶって口笛を吹いていた男を「なんか怪しいな」と思ったり、あげく、大家である妹のアパートにどうやら水商売の人が引っ越してきたらしいと聞きつければピンと来て「その人に会わせてくれ」というなど、何でそう思ったのか?をたずねたいくらいの鋭さ。しかし、映画版ではそれをひとつの事件にしたことで相関図が整理され、しかも若手刑事吉村のパートナー感が強まり、こちらが紙吹雪の女を追うなど、ひとりで突き進んでいく刑事今西という印象がやわらいだ。あくまで今西は20時間かけて被害者の関係者から話を聞きにいき、そこからヒントを得るなど、地道に足をつかって捜査する刑事なのである。ただ、そのかわり、何人かの登場人物を削った結果、冒頭で秋田の亀田にいって聞き出した「染め物を30分近くウロウロしながら見ていた男」が誰で何のためにそんなことをしたのかわからなくなってしまった(原作では「カメダ」という言葉をたよりに捜査をすすめてると知った和賀があえて亀田に怪しい人物がいけば警察はそちらを追って時間が稼げると踏み、アリバイ作りもかねて宮田という俳優に頼んで秋田にいかせるというくだりがある)。


・無駄がない原作と無駄が多い映画

今回映画版を改めて観て思ったことはストーリーに直接関係ない描写がけっこうあったこと。文庫本の上下巻で800ページ以上という超大作であるが、それのほとんどが捜査をするシーンに費やされており、逆にいえば原作は一切の無駄がないといえるのだが、これではリアリティや人間味にかけると思ったのか、原作にはない猛暑の中、スーツで歩き回って水分補給するのに瓜を食べるとか、駅に着いて早々どんぶりもんをかっ喰らうとか、電車でマナーの悪いチンピラに注意するとか、ストーリーに直接関係のない細かい描写が多々見られた。時代もあったのか松本清張のセリフ回しは「今そんな風にしゃべりますかねぇ」という感じのものも多いが、映画ではそれがほとんど変えられているのも特徴。


・自然死でなければならなかった「殺人」

多くの人がそう思ってるはずなのであえて書くことでもないだろうが、原作での和賀英良の職業は前衛音楽家で、これをピアニストに変更したことは映画化における最大の功績のひとつである。実際、映像化されたものでいえば映画化以降、和賀英良の職業はずーっとピアニストになっているので、明らかにこれは改変されたことが正しかったという証拠になるのではないだろうか。実はぼくが原作を読んでいてヘンテコだなと思った部分はハッキリいってこの部分にある。原作では四人の人間が死ぬがその内の一人は殺人で、一人は自殺で、二人は自然死。この二人が絶対に自然死じゃないといけない……つまり殺人とは気づかれてはいけないトリックが前衛音楽家でなければならない理由と結びついてくるのだが、これがどうの陳腐というか懐疑的になってしまう方法なのだ。当時そういうニュースがあったのかわからないが、もしそれがニュースやらなんやらで見つけたとしても使わないでほしかった。あれじゃあSFだよ。もしかしたらこの原作のヘンテコリン感はそのあとの橋本忍監督『幻の湖』に通ずるものが……いや、この辺でやめておく。


・初見で殺意を決意した和賀英良

もうひとつのヘンテコポイントは和賀英良が最初に被害者に会った際、突発的に殺してるというところ。もちろん過去を明かされてしまう恐怖はあっただろうが、それだけで、殺してしまうものだろうか?もし強請られたとしたならわかる。そんなことは毛頭ないのだ……そんな疑問を橋本忍も考えていたのか、ハッキリと「彼は和賀の過去を話すような人物ではございません、殺人の動機は別にあります」とセリフに書き、被害者と和賀英良は実は二度会っているという設定に変えた。原作では和賀英良の父は死亡しているが、映画版は生きているという設定になっていて、被害者と和賀英良の父はずーっと文通していたという改変が加えられている。ここは和賀英良がピアノを弾きながら空想しているというシーンになっているが、すさまじい形相で「首に縄つけてでも親父のところへ連れて行く」と言い出した被害者が映され、それが殺された動機になっている。ちなみに和賀英良が子供の頃どういう生活をしていたのか?については原作では一切出てこず、映画における最大のクライマックスは一番の改変ポイントであり、それが感動的なのはみなさんも知っての通りである。ちなみにこの二人が歩きながら日本を旅するシーンは北野武の『Dolls』の元ネタなのではないかニラんでいる。


・原作では最大のミステリーとして刑事を苦しめる「なぜ被害者である三木謙一は二度も映画館にいったのか?」

これは原作の良いところでもあるが、連載を引っ張るためだったのか、とにかくこの小説はとてつもない労力をかけて事件につながる何かが見つかった瞬間にそれがなくなり振り出しに戻るという展開が多く、謎が見つかったら見つかったで、それが何故なのか?わかるまでが異常に長い。特に最大のポイントとして「なぜ被害者である三木謙一は二度も映画館にいったのか?」がわかるまでの経緯が原作ではすさまじく長い。これは当たり前だが、映画版はその意味で事件はほぼダイジェスト扱いになっていて、それを調整するために被害者が二度行った映画館の映画は二日で違う作品を流してたという設定に変えられた(原作では同じ映画を流していたために、映画のなかに映ってる誰かが関係してるのではないか?と今西が思う)。


・浮気をしていることに気づく婚約者

映画版にしかない描写といえば、和賀英良の婚約者が浮気してることを見抜くというシーンがあり、これが結構謎。恐らく婚約者の家に向かわせるための伏線だと思うが、まぁそんなことしなくても何日に一回かは会ってたわけだし、婚約者が妊娠していてその後どうなったのか?は気になるものだからあのシーンがなくてもよかったように思うというよりも、原作ではこの婚約者は和賀英良に首ったけで、余計な詮索など一切しない純然たるキャラクターとして存在していたので、それがちょっと引っかかってしまった。


他にもいろいろあった気がするが原作を読んでたときの違和感と映画版での主な改変を抜き出すとこんな感じになる。映画版の印象は昔観たときよりもさらに良くなった。いま目の前に「いちばん好きな映画は『砂の器』です」という人が現われたら握手を求めてしまうかもしれない。むしろもう一回そのまま観たいとさえ思った。デジタルリマスター版ということで映像の方はそこまでキレイになったなとは思わなかったんだけど、セリフがハッキリと聞き取れるほど音がクリアになっていて、それに驚かされた。しかも数回観ていたにも関わらず笠智衆渥美清佐分利信が出てることなどすっかり忘れていたわけで(みんなもそうだったのか、渥美清が登場するや否やスクリーンがどよめいた。さすが寅さんである)、そういった豪華ゲストが出ていることを吹き飛ばすほど圧倒的なおもしろさを誇り、2時間20分の長尺を感じさせなかった。

いくつかやってるところもあるだろうが、新潟ではとりあえず絶賛公開中なのでこの機会に素晴らしい音響と大きな画面で体感していただきたい。おすすめである。