社台SS供用種牡馬編纂(中編)
正直前編書いてから次を書くのにここまで時間掛かるとは思わなんだ
◆社台SSが導入した主な種牡馬〜90年代◆
年 | in | out |
---|---|---|
1990 | サッカーボーイ | |
1991 | キャロルハウス | |
サンデーサイレンス | ||
ジェイドロバリー | ||
フレンチグローリー | ||
1992 | ヘクタープロテクター | |
1993 | ドクターデヴィアス | |
1994 | リファーズウィッシュ | ジャッジアンジェルーチ(→レックススタッド) |
メジロマックイーン | ||
1995 | グルームダンサー | |
サクラバクシンオー | ||
トウカイテイオー | ||
フジキセキ | ||
ホワイトマズル | ||
1996 | カーネギー | ミスターシービー(→レックススタッド) |
タヤスツヨシ | ||
ティンバーカントリー | ||
ワージブ | ||
1997 | ダンスインザダーク | フレンチグローリー(→社台SS荻伏) |
ハートレイク | ||
ペンタイア | ||
1998 | エリシオ | キャロルハウス(→愛) |
ジェニュイン | ドクターデヴィアス(→愛) | |
バブルガムフェロー | ヘクタープロテクター(→英) | |
フサイチコンコルド | リファーズウィッシュ(→仏) | |
1999 | グルームダンサー(→英) | |
ハートレイク(死亡) | ||
ワージブ(死亡) |
93年8月13日、社台ファームを名実ともに日本一の牧場に導いた吉田善哉氏が死去した。その後、社台ファームは長男照哉氏が率いる社台ファーム、次男勝己氏が率いるノーザンファーム、そして3兄弟による共同経営というスタイルを採用した白老ファームの3牧場にそれぞれが分割されることになった(その後、96年に3男晴哉氏が中心となって追分ファームを設立)。それと同時に社台SSも3兄弟による共同経営にシフトしていくことになる。
大黒柱であった善哉氏の死去後も、基本的に“社台グループ"の種牡馬戦略が大きく変化することはなかった。「生産者は預言者でなくてはならない」、この言葉に示されている善哉氏の理念を常に念頭に置き、社台グループ種牡馬事業の中心的役割を果たした照哉氏はサンデーサイレンス、トニービンと大当たりを引いた後でさえもそれに安住することなく、ペンタイア、エリシオなどまさに休むこと無く次の弾を打ち続けたのである。
さて、今回のエントリーでは「社台SS供用種牡馬編纂(中編)」ということで90年代の社台SSの流れを簡単に上の表にまとめさせていただいた。その中で、今回は90年代の社台SSの特徴として2つの事象を取り上げさせていただきたいと思う。
まず、1つ目に挙げるのは日本で現役生活を送った競走馬の本格的な社台SSでの種牡馬供用開始である。前回のエントリーで述べたとおり、80年代の社台SSにおいては善哉氏の方針からか自身の牧場で生産された活躍馬でさえも供用することはなかった(言及が遅れたが、ここで言う社台SSとは早来の社台SSを指す。社台SS荻伏ではそれこそ80年代から内国産種牡馬も供用されている。ex.ギャロップダイナ、ニチドウアラシなど)。その唯一の例外ともいえる存在が三冠馬ミスターシービーであり、その導入が発表された時は他牧場はおろかミスターシービーの生産者・馬主である千明牧場、そしてあまつさえ身内からもその決定は驚きを持って受け止められたのだ。だが90年代、特にサンデーサイレンス産駒が引退、種牡馬入りを始めた95年以降になるとスタリオン内における内国産種牡馬の割合が徐々に高まり始める。
上の表は93年(本当は90年のデータが欲しかったのですが見つからず。サーセン)・00年・10年の社台SSにおいて供用されている種牡馬の一覧である(赤字が日本で競走生活を送った種牡馬)。93年時点において社台SSで供用されている種牡馬はミスターシービーとサッカーボーイの僅か2頭のみ、割合にして2/16。それに対してサンデーサイレンス産駒の種牡馬入りが続々と進んだ90年代後半を経た00年になると13/22と半数を超える。そして、10年には24/29とほぼ9割に達するに至る。ちなみに24頭の中でサンデーサイレンス直仔種牡馬は11頭。この動きについては後編で扱いたいと思うのでこの辺りで勘弁して頂戴。
90年代の社台SSの2つ目の特徴は種牡馬入替の積極化である。国内の他スタリオンへの移動ももちろんだが、ここでは主に他国への輸出を取り上げたい。
種牡馬輸出積極化の一因としてシャトル種牡馬の実施、そして種牡馬のリース供用の開始がまずは挙げられる。上記の表では頭数が多くなってしまうため「in」「out」の項目ではシャトル種牡馬をあえて省いているが、社台SSも97年にヘクタープロテクター・グルームダンサー・ワージブをオーストラリアに、ペンタイア・カーネギーはニュージーランドにそれぞれシャトル一期生として送り出している。
またシャトル種牡馬に関連する形で種牡馬のリース供用の機会も増加し、社台SSに供用された種牡馬でこそないがデインヒル、ラストタイクーン、サンダーガルチといった海外の一流種牡馬が日本でも単年度ながら供用されるに至っている。デインヒル、ラストタイクーンなどは日本に新しい血が導入された例だが、その反対、つまり日本から他国へリースという形で血の還元を行った例ももちろん存在する。例えば社台SSからは98年からイギリスで2シーズン供用されることになったヘクタープロテクターを初め、00年代に入るとティンバーカントリー(UAE)、アグネスワールド(英)、ファルブラヴ(英)などがリースとしてそれぞれ海を渡っている。
こうしたリース方式での種牡馬供用のケースが増加した理由としては、導入側にとっては完全買取ではないため導入に際して掛かる費用を安く抑えることができるという点がある。また種牡馬を所有する側にしても完全売却となると躊躇われるが、リース供用という形式を採用することにより種牡馬にはリース先で今までとは異なる環境・血統の繁殖を提供することができる。そして自身の種牡馬に新しい可能性を与えること、すなわちそれは種牡馬の価値をさらに高めることにも繋がるというメリットが存在するのだ。
旧来、日本の馬産界は一度日本に輸入した種牡馬を再び輸出することについて積極的であるとは決して言えなかった。ニッポーテイオーを送り出したリィフォーなどを再輸出した例こそあれど、「輸出後に産駒に走られたら見る目がなかったと思われて恥ずかしい」、「日本でさえ失敗した種牡馬なのだから海外でもどうせ失敗するに決まっている」、こうした後ろ向きな考えに縛られ気味であった生産者たちは次から次へと諸外国から新しい種牡馬の購入こそ行うが、そうした種牡馬の産駒成績が期待外れであっても再輸出などで種牡馬に新しい活躍の場を提供することはなく、廃用処分にしてしまうケースが多々見られた。また、ノーザリーのように13億円での買戻しオファーがあったにも拘らず渋ったため、売却の時宜を逃してしまうケースも存在した。
だが、こうした生産界の考え方・慣習に常々異議を唱えていたのが吉田善哉氏であった。そうしたシーンは吉川良氏の「繋」にも描かれている。
もし買戻できたら売ったほうがいいね。馬は買ったり売ったりしなければいけないんだ。先に見つけて買うのも見識なら、売るのも見識なんだから。
競馬の賞金だけでペイすると考えているのはこの産業の間違いだ。ホースマンというのは馬喰なんですよ。……馬喰なんていうとみんないやがるけれど、ぼくは無理して使っているよ。牧場屋には馬を通じてしかお金は流れてこない。馬以外に仕事をやってないんだからね。
こうした善哉氏の考えがよく現れた出来事がWajimaの売却ではないだろうか。73年、善哉氏は他の米国人3人とシンジケートを組む形(共同所有)を取り、キーンランドイヤリングセールでBold Rulerの牡馬を当時のレコードに相当する60万ドルで落札した。その後、その牡馬は日本の名横綱輪島にちなんでWajimaと名付けられ、トラヴァーズSを制するなどの活躍をしエクリプス賞の最優秀3歳馬を受賞、その価格・馬名に全く恥じない活躍をすることになる。そして、4歳になったWajimaは720万ドルというこれまた当時の世界レコードに相当する金額で種牡馬シンジケートを組まれたのだ。Wajimaのシンジケートへの売却は当時の社台ファームにとって大きな意味を持っていた。ガーサント以後核たる種牡馬の不在で苦しんでいた70年代の社台ファームにあって、その後の飛躍に繋がるより高い水準の種牡馬、繁殖牝馬の導入を可能たらしめたのは間違いなくWajimaの売却資金のおかげでもあるのだ。
善哉氏がこうして売却を行ったのはWajimaだけではない。日本に一旦は種牡馬として導入したハンターコム、レイズアボーイは他国からオファーの声がかかるとその血統的価値が損なわれないうちに早々と輸出の決定を下している。また、自身が馬主として所有していたFlirting Around、Silky BabyなどはWajima同様に高く売れるうちにあっさりと手放している。そこにあるのは自身の牧場の血統改良ももちろん大事だが、高く評価してくれる、高く買ってくれる者がいるうちに売るという、ある意味で非常にシンプルかつ馬産という特殊な産業にあってはややもすれば非常なまでにビジネスライクとも言える考え方。すなわち、“馬喰"に徹した姿でもあると言えるのではないだろうか。
こうした考え方は息子である照哉氏にもしっかりと受け継がれている。それどころか善哉氏の死去以後、社台SSは種牡馬の導入のみならずシャトル種牡馬、リース供用など種牡馬ビジネスが多様化する中で、輸出にも一層積極的になっているようにも思える。その中でも90年代に輸出された代表例として、キャロルハウスとドクターデヴィアスの輸出をここでは取り上げたい。
94年に産駒がデビュー、初年度からイブキタモンヤグラ・エイシンサンサンなどの活躍馬を送り出したキャロルハウス、そして97年に産駒がデビューしたばかりのドクターデヴィアスの売却が行われたのは98年である。一昔前であれば、初年度産駒から重賞勝ち馬が出た種牡馬、まだ産駒がデビューしたばかりの種牡馬をこのようにすぐに海外に売却するといったことは考えられなかった。だが98年という時代を考えれば売却に至った事情もうっすらと浮かんでくるか。
92年トニービン、93年ブライアンズタイム、とりわけ94年サンデーサイレンス産駒のデビューは競馬界、生産界が一変したといってもおかしくはないほどの衝撃を与えることになる。彼ら御三家の産駒は早くから勝ち上がり、クラシックを総なめにし、古馬になってもその競走能力は衰えることは無かった。早熟性とそれを上回る成長力を持つ種牡馬に対し、仕上がりが遅めのキャロルハウスなどヨーロピアンタイプの種牡馬は自ずと厳しい戦いを強いられることになったのだ。
さらに景気低迷による馬主側の厳しい懐事情の影響も大きかったか。投資を早く回収したいという需要の流れに生産者側も応えた結果、早熟色の強い種牡馬の人気が高まるとともに、種牡馬サイクルの早期化からどうしても初年度産駒に力を入れざるを得なくなったのだ。確かにキャロルハウスは初年度から小倉3歳Sを制したエイシンサンサンを出し、ドクターデヴィアスも初年度産駒からそこそこ健闘は見せている。だが、そうした環境にあって2頭とも生産者を惹きつけるだけの武器を持っていなかったことも事実である。御三家の産駒がデビューした後もメジロライアンなど続々と新星が産駒デビューを迎えた種牡馬市場において、これから良質な繁殖牝馬が2頭に回ってくることが難しいことは自明の理。そこに舞い込んだ2頭へのオファー。オファーが到着した時点で2頭の売却を決断することは照哉氏にとって決して難しくはない決断だったのではないだろうか。
さて、今回も無駄に長くなってしまった。一応後編に続くのだが、これからタクティクスオウガやるので完成はいつになるかね…。