手元に無い本に準拠しちゃいけないよねって話。

自分のコメントがキモい気がして仕方が無い今日この頃ですが、それは自分の中に目標とするハードルがあるということだから、むしろプラスに考えてみた。究極生命体だって、どうにもならないと思ったら、考えるのを止めるわけだしね。
悲劇の主人公の条件を考えたときに、アリストテレスの『詩学』が頭にポっと浮かんだので、「認知」という言葉を使ってみたんだけど、wiki見たら用法としては間違ってたので補足しておきます。
記憶によれば、かの碩学は、全くの善人と悪人が不幸に見舞われても悲劇の条件を満たさないと主張します。悲劇に値するのは、善良でもないが邪悪でもない人間が、何らかの過ち故に不幸に見舞われる事態なわけです。悪人が不幸になるのは当然であって、別に悲劇ではない。
そして、彼らがその過ちを「認知」し自らの立場を「逆転」をさせ、不幸に見舞われる劇こそが、良いものだと主張します。*1だけど、ルルーシュはこの「認知」に相当する両親の言葉を全面否定するので、もう悲劇の主人公の条件を満たせないんだなと思ったわけです。だって過ちを過ちと認めない人間はただの下種だから。
この位の緩い定義で使ってるので、悪しからず。

*1:どうも本来の「認知」の意味は人物再認に限定されている様子。