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永結無情遊 このページをアンテナに追加

2012-06-29 グッドバイサマー、ハロー

[]恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+ 恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+を含むブックマーク

公開してもかまわないということなので、とりあえず、こっちだけ公開しておく。ちょっと読み返したら語尾が神経質過ぎてアレだったので、それだけでも直そうかと思ったのだが、序文の時点で飽きたので基本的に印刷されたものと同じである。もう一つの方は、あとがきの予告を現在進行形ですっぽかしていることもあるし、少し言い訳でも付して公開する予定。

1.序文

この高尾登山星空めてお論を書くにあたって、最初に断っておかなければならないのは、わたしが遊演体*1に対する知識をほとんど持たないということだ。周知のようにライアーソフトのメンバーの多くはかつて遊演体に所属しており、登山とめておの両氏もまたその例に漏れない。おそらくライアーソフトの作品に見られる様々な特徴は、遊演体という出自を無視しては語ることが出来ない事柄である。そのため、わたしはこれから展開していく文章の中で遊演体という背景について少し言及するが、それらは全て私の仮説に過ぎない。ここで書かれた文章が正確な知識によって反駁されることを、筆者自身が何よりも待ち望んでいる。

2.二つの枠

高尾登山星空めてお論というテーマを書くにあたり、わたしは大きく二つの枠を用いることにした。一つは「前期ライアー(高尾登山)論」、もう一つが「作品(星空めてお)論」である。その理由は簡単に言ってしまえば、高尾登山星空めておを区分することの不可能性にある。例えば『ぶるまー2000』において、どこまでがめておの担当で、どこからが登山の担当であるかを判別することはわたしには出来ない。そこで、二人が関わった作品を年代順に並べて考えていくことによって、ライアーソフトの特徴を「前期ライアー論」として描き出し、そこに収まらない過剰さを「作品論」として処理する方式を取ることにした。前者が高尾登山論であるのは、彼が『CANNON BALL』までライアーソフトの代表を務めていたからであり、後者が星空めてお論であるのはわたしの信仰によるところが大きい。

また前期/後期という区分は必ずしも適当ではないが、現在ではかつてのバグの多さが冗談で語られるように、ライアーソフトはその体制からして大きな変化が生じたメーカーである。そこには論じるに足るような変化が潜んでいるとわたしは信じる。その変化の標識として、前期という言葉を用いた。*2

3.高尾登山

ライアーソフトのデビュー作であり高尾登山がシナリオを担当した『ちょ〜イタ』は、後のライアーの展開を指し示すようにギャグを主体としたゲームになっている。事故によって超能力に目覚めた主人公とメインヒロインとのデートの一日を描いたこの作品最大の特徴は、ほとんど全ての場面*3で行える「透視」システムだ。右上にある透視ボタンを押すと画面内に小さな円が出現し、その円の中ではCGを透視して登場人物の服の下などをのぞき見ることが可能になる。更に言うなら、この「透視」を特定の場面で行なうことが一部の選択肢を出現させるトリガーにもなっている。街中を行くサラリーマンの下着姿も見れる馬鹿馬鹿しさもさることながら、ただの一枚絵のように考えられることが多いCGをより積極的に作品内に取り込んでいく演出の方向性は、後にまで続くライアーソフトの特徴の一つだと言えるだろう。

3作目にして星空めてお初企画の『ぶるまー2000』も、前作までと同じく馬鹿馬鹿しさを追及した作品である。ひょんなことから神のぶるまーを履くことになった主人公の常葉愛が、十ケツ衆を擁する悪の秘密結社BB団の野望を阻止するため戦うというストーリーは、背景に壮大な設定を抱えながらも決してシリアスに振り切れることはない。また常葉愛は女性であり、ここからライアー女主人公の系譜は始まってゆく。このゲームでは物語は特撮TVシナリオに模されており、30分に満たない計26個のエピソードから、プレイヤーは一定の制限を受けつつ8個を選ぶという珍しいシステムが採用されている。

4.守

わたしがここで指摘したいのは、両方のシナリオにおけるギャグ重視以外の共通点だ。それはヒロインとEDのつながりの薄さである。例えば『ちょ〜イタ』では主人公が悪の道へと進むEDや、ヒロインとの未来における破局といった一風変わったEDが存在し、ヒロイン2人に対してED数は8つも存在している。この特徴は2作目の『行殺新撰組』にも通じるものだ。*4

『ぶるまー2000』でもトゥルーエンドじみたEDのすぐ横に、ブルマー道を極めるEDとか、アフリカに旅立つEDといった、明らかに蛇足めいたEDが設置されている。またシナリオにおいてヒロインの物語を絶対視しないからこそ、逆説的だが女主人公という発想も可能になるのだ。

これらのEDの特徴は何を意味するだろうか。わたしが思うに、それはライアーソフトの創作上の思想を示している。ライアーの作品においては、ヒロインは物語を彩る要素に過ぎない。物語はヒロインより上位の存在なのだ。名付けるなら、この考えは「物語中心主義」である。言うまでもなく、これは美少女ゲームにおいて一般的なヒロインとEDを不可分に結びつける「ヒロイン中心主義」とは正反対の考え方だ。そして、ここから前期ライアーソフトの作品群は、「物語中心主義」を保ちながら時代の潮流である「ヒロイン中心主義」をいかに取り込んでいくかという問題意識の中で展開されていくことになる。

5.破

4作目にあたる『サフィズムの舷窓』において、問題の処理は分離という形で遂行されている。船舶内で起きたレイプ事件を主人公が捜査していくADV型ゲームであるこの作品において、3人いるメインヒロインへのルート分岐は、最初の選択肢によって決定してしまう。その上で本筋とは別に、ゲームの進行状況によって開放されていくフレーバーという名のエピソード集などによって、6人の「子猫ちゃん」やサブキャラたちによる多くの物語を提供する方式がとられている。*5これによってメインヒロイン制と物語としての多様性の両方が保たれるのだが、その代価として作品としての統一性が崩壊してしまう。これがライアーにとって不本意なものであったことは、後続の作品において別のアプローチが加えられていることからも明らかだろう。

サフィズムの後、ライアーにおける問題の解法は2つに分けられる。それは言ってしまえば、一本道戦略と細分化戦略である。あえて分けるなら、前者を主に担当したのは星空めておであり、後者を担当したのが高尾登山となるが、『腐り姫』や『Forest』には登山も参加しており、ライアー全体として2つアプローチを試みたと考える方が無難であると思う。

『ラブ・ネゴシエイター』は登山が企画した作品だが、 ここで行なわれたのはヒロインルートのフラグメント化である。簡単に説明すれば、このゲームは全ルートほぼ共通の五章からなる物語と、その章の間に挿入されるヒロインのエピソードという構成をもっている。ヒロインのエピソードは1話完結型であるため、各章ではHシーン付きのサブヒロインを絡ませた自由度の高い物語が展開していく。また作品を通して強調されているのは、登場人物たちの二面性である。これは物語の厚みと連続性を増すための処置であると共に、登山の作品において見られる善悪の移ろいやすさというモチーフとも関係している。作中に出てくる悪徳政治家をめぐる悲喜こもごもは、『ちょ〜イタ』における悪の華EDや、『サフィズムの舷窓』におけるアルマシナリオ*6などと共通点を見出すことも可能だろう。

しかし、物語の大筋をサブヒロインのストーリーが担当し、メインヒロインの物語をフラグメント化させるこの方式は、物語の流れがぶつ切りになるという弱点を完璧には克服できていない。その解決策も萌芽的にこの作品には内包されてはいるが、それが本当に実を結ぶのは登山の企画した次の作品を待たなければならない。

腐り姫』は逆に、一人のメインヒロインのシナリオに他のヒロインたちのEDを包括させることによって成立した作品である。個々のヒロインたちに結末を提供しながら、その結末自体を物語の要素へと転じさせることによって、「ヒロイン」と「物語」が調和している。

もちろん、それを可能にするには複雑な物語構成が不可欠であり、 企画の星空めておの名を世に知らしめた作品であることは言うまでもないが、同時にここで行なわれいるフラグ管理は、現在まで続くライアーソフトの作品の中でも屈指の複雑さを誇り、作品の印象を深く刻み付ける。背景の中に潜みプレイヤーを惑わせる樹里の幻影もまた、ライアーがそれまでに積み上げてきたノウハウ無くしては不可能だったはずだ。次の作品と並んで、ライアーソフトが積み上げてきたものが結晶した1本だと言って問題ないだろう。

そして、『腐り姫』と同じ年に出た前期ライアーのもう一つの白眉こそ『ピンク・パンツァー』である。調教ゲームの要素を持ったこの馬鹿ゲーは、今回取り上げた作品の中で、一番ヒロイン中心主義の美少女ゲームに近い作品でもある。ヒロインの同時攻略こそ可能なものの、ライアーのギャグ中心の作品において、女主人公の場合を例外としてヒロインたちがこれほど重視されたのはこの作品が初めてだろう。

この作品で「物語」と「ヒロイン」を調和させたのはヒロインを調教するゲームパートである。ゲームパートは関東から北海道までの戦車演習の一年間において、ヒロインたちのパラメーターを上げることでイベントを発生させるというものだ。イベントは旅の中でヒロインのものに限らず色々と発生するので、イベントという側面かれ見ればヒロインたちのエピソードもフラグメント化されたイベントの中の一つに過ぎない。しかしながら、ゲームパートにおいてヒロインたちに意識を向け続けることが要請されるため、プレイヤー内部ではヒロインの物語は連続性を保っている。

調教ゲーという性質上、登山における二面性への拘りが、ヒロインの内面へと集中しているため、この作品では主人公によるヒロインのトラウマの解放といったようなストーリーが展開されていく。その上で、トゥルーエンドで主人公の屈折を解放していく展開など、箇条書きすれば普通の美少女ゲームと遜色が無い。*7『ピンク・パンツァー』において「物語」の自由度と「ヒロイン」の連続性の両立は、才能ではなくゲームシステムによって達成されている。ここにおいてライアーは一つの到達を迎えたと言ってもいいのではないか。

6.離

どれほど魅力的な問題も答えを出してしまえば、人を惹き付けておくことは出来ない。次に出た『CANNON BALL』で意図されたのは、新しい何かというより、サフィズムで分離せざるえなかった本編とフラグメントとの統一だった。その意図がどう帰結したかは周知の通りであるが、ここで一つ考えておきたいのは目指された『CANNON BALL』とはどうようなゲームであったかということだ。

それは要約してしまえば、全体を貫く大きな物語の下位クラスとしてゲームパートとサブヒロインのエピソードが存在し、それらが調和しているような作品だっただろう。つまり、アリスソフトが出すような超大作である。その解答はたしかに答えの一つではあるが、そこには限られたリソースの中で解を出そうとした『腐り姫』や『ピンク・パンツァー』のような創意が失われている。ここから高尾登山が代表を辞し、より堅実な体制が志向されたこともあり、ライアーの作品は少しづつ別の方向に舵を切っていくことになる。

Forest』においても、そういう意味での革新性は存在していない。一本道戦略の追求という意味においては『腐り姫』と肩を並べるかもしれないが、ここではアマモリを除くヒロインたちに固有のEDが用意されていないからだ。*8それにも増して『SEVEN BRIDGE』は一本道の作品であり、その一本道性そのものが物語内に組み込まれているという点で興味深くはあるが、ゲームとしての完成度を度外視したとしても、ここにはかつて見られたような挑戦はない。

別にわたしは「前期」のライアーが良く、「後期」のライアーが悪いというような主張をするつもりはない。ただ「変化」はあった。それ自体は記憶に留めておいても良いはずだ。この論で書きたかったのは、結局のところ、それだけなのかもしれない。

7.星空めてお

わたしはここより、別の観点からライアーの作品を検証していく。それは物語とゲームの<はざま>という視点である。これはゲーム性を積極的に導入していくライアーの作品群においては大なり小なり見受けられるものだ。しかし、誤解を恐れずに書くなら、それが不可分なまでに作品内で結実しているのは『腐り姫』と『Forest』だけであり、『CANNON BALL』にその片鱗がのぞくだけである。その不可分なまでの結合の正体を描き出すことが、この論の主な目的である。

星空めておの企画した作品には共通する特徴が存在している。それはEDにおける物語の舞台の消失である。『CANNON BALL』のレースの終わりや『Forest』の新宿からの開放のように、星空めておの作品ではラストで物語を可能にする舞台が消え去ってしまう。

シナリオライターをする前、星空めてお遊演体ゲームマスターをやっていたことで知られている。TRPGにおいて物語の舞台は、ゲームマスターに語られるだけで発生するものではない。それは物語を受けるプレイヤーの存在によって初めて存在可能な<場>のようなものだ。

おそらく、めておの作品群において美少女ゲームとはそのような<場>を発生させる装置である。それは物語とゲームのはざまで、プレイヤーを魅了する幻にも似た <何か>だ。

前述の登山論がライアーの作品の広がりに注目したとするなら、この各論はライアーの深さについて述べるものだと言えるだろう。

8.<記憶>

腐り姫』という作品は、記憶喪失の主人公が繰り返される四日間の中で、失った記憶を取り戻していくというループゲーだ。この作品の特異性は様々にあるが、最も印象に残るのは何の説明もなく画面の中に出てくる樹里の幻影という演出である。主人公である五樹の目に映る幻を表現したその立ち絵は、どうしようもなくプレイヤーと五樹の同一化を妨げてくる。

「記憶喪失」というガジェットは往々にして主人公とプレイヤーの距離感を縮めるために存在しているが、『腐り姫』においてはその様な機能は意図されていない。わたしが思うにこの作品が志向したのは、物語とゲームのはざまが生み出す<記憶>に像を結ばせることなのだ。STGを繰り返す内にプレイが上手くなっていくのにも似て、『腐り姫』ではループを繰り返すごとにプレイヤーに<記憶>は蓄積されていく。それはゲームを媒介にしてしか存在を証明出来ないが、自分の中に宿っている何かである。

この物語のラストについては賛否があるだろう。しかし、たとえ物語がSFに飛躍しなかったとしても、五樹の思い出す記憶は絶対にプレイヤーの<記憶>とピッタリ重なるものではなかったはずだ。何故ならば<記憶>とは、物語を色取りながらも決して物語に回収されない余剰のことだからである。

星空めておは読本の中でこう記している。


樹里という「記憶」*9を呼び起こし、受け入れさせることが『腐り姫』のテーマであり犯行である。*10


わたしもまたこの犯行の生きた証人である。

9.<無限>

『CANNON BALL』で意図されたものが何であったのかを指摘するのは容易い。それは作中において不完全ながらも実を結んでいるからだ。宇宙規模のキャノンボールという壮大な舞台設定を持つこの作品は、主人公が宇宙船に乗ってレースを行なうというゲームパートを備えている。レースの結果などはほとんどストーリーに関係してこないのだが、それでもここで目指されたのがゲームパートとADVパートが密接に絡み合った作品であったことはまず間違いない。

順位やレース中の会話、それに呼応するようなフラグと二十人を軽く超える登場人物たち、これらから生み出されるのは<無限>にも思える物語の組み合わせである。理論上は有限でも、あたかも全てのシナリオを読むことが出来ないかのように思わせる作品。『CANNON BALL』が目指したのは読み尽くせぬ物語であったのだ。

その目標はあまりプレイヤーには受け入れられなかったように思う。わたし自身、ゲームパートにおける主人公と登場人物の会話を読んだのは作品ではなく、ネット上にある動画を通してだった。それはこの物語が退屈だからではない。むしろ物語単体で見た場合、これに匹敵する面白さを持った作品は美少女ゲームにおいて、名作にカテゴリーされるようなものに限られるだろう。

にも関わらず、この作品には隅の隅までプレイしようという意欲を沸かせないところがある。それはゲームパートが単に退屈であるということだけを原因にするものではない。たぶん、この作品には信頼が置けないのだ。*11物語とゲームのはざまは、作品とプレイヤーとの信頼関係なくしては成立しない領域である。わたしが『CANNON BALL』に見たのは<無限>の残滓に過ぎない。

10.<音>


ねえ おはなしを聞かせて


開始早々に響き渡る声<音>。異界と化した新宿を舞台にした『Forest』という作品を象徴するのは、この<音>である。

黒のアリスの呼びかけはどこに向かって響いているのだろうか。主人公であるアケルへか。それとも、プレイヤーへ向けてだろうか。その答えを確定することは出来ない。物語内においてアケルがその声に応えるのと同じくして、プレイヤーもまたクリックによって アリスの注文に応えているからだ。

はたして<音>はどこに響いているのか。ときにテキストの戒めを破り、背景の調べをわたしたちの耳に届けるその<音>は、まさに物語とゲームの<はざま>そのものである。これが強引な解釈でないことは、ティンクの鈴を思い出してもらえば分かってもらえるだろう。正しい選択肢*12を選ぶと鳴り響く鈴の<音>は、明らかにわたしたちにも向けられている。

これは言うまでもなくメタ的な演出である。だが、ここで問題にされているのは超越的な存在としてのプレイヤーといった安易なものではない。それはこの作品において最もメタ的である「ザ・ゲーム」の章が示している。

ザ・ゲーム」では選択肢の選び方によって、登場人物の一人であるナガツキからプレイヤーを嘲る台詞を引き出すことが出来る。


やっぱり、あたしのカラダが目当てか。エロガキだな、こいつ……。

だがこれを「現実に帰れ」という類のプレイヤー批判として受け取るのは間違っている。何故ならば「ザ・ゲーム」という章そのものがプレイヤーに何度もプレイを繰り返すことを前提にしたような章だからである。

ボードゲームTRPGを混ぜ合わせたような様相を見せるこの章は、『Forest』というゲームに参加するプレイヤーの存在を認めている。ここでナガツキが問題にしているのは、どこまでもプレイヤーの欲望だ。飽きることなく幾度なく物語をやり直し、そして進めていく原動力。物語とゲームプレイヤーを媒介する欲望こそが、ナガツキの目に映りこんだものの正体である。

こうは考えられないだろうか。ナガツキが上がったのではなく、プレイヤーが気づかぬ間に下がってきたのだと。あのご都合主義のED。彼らはみな新宿から離れ、全ての物語の輪は閉じる。画に描いたようなハッピーエンドは、本当に主人公の努力だけで実ったものなのだろうか。

答えは否だ。わたしたちはそこに自らの欲望を投じた。一週目の結末を否定し、二週目を求めるために試行錯誤を繰り返したのだ。

「ねえ おはなしを聞かせて」

再び響き渡る<音>はわたしたちを捕えて離さない。二度の呼びかけのどちらかはわたしたちに向けられている。あの幸せな結末の後ろ側、<音>の鳴り響く深遠で、わたしたちの欲望は森に喰われたのだ。さあ現実に戻ろう、他に手はないのだから。

11.結び

章題に逆らって綻びの話から始めよう。高尾登山論と星空めてお論において『Forest』の評価が明らかに食い違っている。これはこの作品の主題がずばり「物語」であることの起因していると言っていい。登山論において記した「物語中心主義」という単語は、今よく見かけるプレイヤーに黙々と物語を読ませるタイプの美少女ゲームを指した単語ではない。むしろ、わたしはそれこそを「ヒロイン中心主義」と呼んだのだ。

ここでの「物語中心主義」とは、プレイヤーが受身の存在と定義するのではなく、積極的に作品に参加する存在と定義する考え方である。ライアーソフトの作品にゲームパートが多い理由はこれであり、この考え方のルーツは前身である遊演体にあると考えられる。

つまり、PBMTRPGのような作品とプレイヤーの相互交渉を、擬似的にでも美少女ゲームの中で表現しようという意図がライアーソフトには存在しているのだ。そして、この意図の下に作られた作品は、基本的にプレイヤーに向けて開かれたものになるはずである。

しかしながら『Forest』はそのライアーの「物語中心主義」を逆手にとったため、閉じられた作品になっている。*13そのため、開かれた作品に価値を置く登山論の視点では評価が厳しいものになった。だが、めておの<はざま>もまた美少女ゲームにおいてプレイヤーの存在に重きを置く考え方に連なるものである。その一点において両論はしっかりとつながっている。

わたしの文章がどれほど説得的であるかは疑問の残るところではあるが、なんとか綻びを結びへと繕って、わたしがライアーソフトに見た夢の形ぐらいは示すことが出来たと思う。

いつか誰かがこの論を開いてくれることを祈りつつ、この論を閉じる。

*1遊演体(ゆうえんたい)は、1987年設立された日本のゲーム製作会社である。プレイバイメール(PBM)、テーブルトークRPGTRPG)、PCゲームの製作などを行っていた。

*2:論としては現在のライアーソフトの主力ライターの一人である桜井光がシナリオの一部を担当した『Angelbullet』を目印にして大まかに前期と後期を分けている。

*3:全CGの90%を透視可能。(公式HPより)

*4:『行殺新撰組ふれっしゅ』はED数が優に10を超えており、ライアーのEDの多様性における一つの完成形であるが、メインライターが違うので、ここでは取り上げない。

*5:フレーバーはCG閲覧などの、いわゆるオマケにカテゴリーに置かれている。

*6:この論では「登山=アルマ、たたら=アイーシャ、めてお=ソヨン」として扱う。「月刊うそ」2号より

*7トラウマの解消が兵士としての大成を意味すること。絶対平和主義者のサブヒロインが悲惨な最期を迎えることなど、皮肉さをもったゲームであることも確かである。

*8新宿脱出はやはり例外的だ。

*9:「」は筆者による

*10腐り姫読本P30

*11:ここではレースの順位に関係なく主人公が総合優勝してしまうゲームデザインなどを念頭に置いている。大きな声では申せぬが虫も潰しておいてくれるなら、その方がいいのは言うまでもない。

*12:一般にはそう認識されている。

*13:作中で『ぶるまー2000』のけーこちゃんが死ぬのは何とも象徴的だ。

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