2009年度の総会を開催します。ご都合のつく会員の方、会友の方々はどうぞご参加ください。

日 時:2009年5月17日(日)午後2時半〜

会 場:とんだばやし国際交流協会会議室
    富田林市甲田一丁目4−31 ?0721−24−2622

内 容:第1部
    代表あいさつ
    2008年度活動報告
    2008年度会計報告および会計監査報告
    会則の改正
    2009年度活動方針(案)
    2009年度予  算(案)
    2009年度運営委員選出

    第2部:学習会
    「富田林市多文化共生指針の具体的実施に向けて」
       長橋 淳美さん

ポムソリ10周年記念コンサートへのおさそい

10年前、モザイク総会第2部のイベントとして韓国の打楽器チャンゴのワークショップを行いましたが、その魅力にはまった数名が中心となって立ち上げたチャンゴサークル「ポムソリ」。10年間の活動の積み重ねの集大成として、このほど10周年記念コンサートを開催します。皆様是非お越しください。

日 時:2009年2月1日(日)午後1時から
場 所:大阪狭山市立公民館大集会室
参加費:無料
友情出演:太鼓サークルわかこま 表現倶楽部うどい

とんだばやし人権セミナー

「地域から考える多文化共生」〜組織の社会的責任と人権〜

今や「企業の社会的責任(CSR)」から「すべての組織(企業、自治体、NPOなど)の社会的責任(SR)へ

自治体や地域のNPOなどが「組織の社会的責任(SR)」を果たすことが、地域にとってどのような意義をもつのか?
自らの組織にとってどのような意義をもつのか?
だれにとっても暮らしやすい地域、人権が実現された地域づくりに、組織が果たす役割について、皆さんとともに学びたいと思います。

日 時:2009年1月19日(月)午後1時30分〜3時30分
場 所:富田林市役所401会議室
講 師:田村太郎さん(ダイバーシティ研究所代表)
参加費:無料
定 員:50名(申込み先着順)
保 育:あり(定員5名・1月9日(金)までに申し込んでください)
申込み:2009年1月6日(火)から下記へ
    (特活)とんだばやし国際交流協会(?0721−24−2622)
    富田林市立人権文化センター(?0721−24−0583)

田村太郎氏 プロフィール
兵庫県生まれ。阪神大震災後に外国人被災者へ情報を提供する「外国人地震情報センター」の設立に参加。1997年4月から2004年3月まで「(特活)多文化共生センター」代表を務める。その後、「多文化共生の推進に関する研究会」委員として、2006年に総務省より発表された「多文化共生推進プログラム」の提言に関わった。

共 催:富田林市立人権文化センター・(特活)とんだばやし国際交流協会 

戦争出前噺

玄骨トークライブ(2008年11月7日)
本多立太郎さん「戦争出前噺」に参加して 
    

「私は私が体験した事実だけを話します。その事実をそっと皆様の前に差し出すだけです。それをどうとらえるかは皆様の自由です。」そう語りだされる、本多さんのお話は、戦争に対する怒り、憎しみだけでなく、潔さと、未来への希望を感じさせるものでした。
戦争による別れ。切り裂かれる日常。無数の死。血まみれになって息絶える仲間たち。そして、戦場の狂気。戦地を離れれば、みんな普通の暮らしを営む人たち。それが、戦場では人を殺す人間につくり変えられる。それが戦争の怖さ。本多さん自身も、無抵抗の捕虜を上司の命令で殺した経験を持つ。殺していなければ自分が殺される。それが戦争。その捕虜の最期の顔は、60年たった今でも夢に出てくると。
そんなお話を聞かせていただいて、確かに60年前に戦争は終わった。でも、戦争を体験された人たちにとって、戦争は本当に終わったといえるのだろうかと考えさせられた。傷つけられた人も傷つけた人にとっても。語られる場合も語られない人の中でも。本多さんのように不本意であれ、誰かを傷つけ殺めた体験は死ぬまでその人を苦しめるだろう。そして、戦争により傷つけられた身体や心は死ぬまでその人のものでありつづける。戦争が終わっても、悲しみ、苦しみ、体験、目にした光景それらは決してなくならないだろう。
本多さんのお噺は、その時代の断片であるかもしれないが、まぎれもない事実。それゆえに語られる内容は重く、深い。本当に、口にしたくないだろう、思い出したくないだろう、そんな体験をよくぞ私たちの前に差し出してくださったという思いでいっぱいになる。戦争で死んだ人のことを英雄だとか、みんな「天皇万歳」と言って喜んで死んでいったとか、そんな風に戦争が語られることがある。だけど、本多さんは、多くの仲間は最期、「・・かあちゃん、助けて、かあちゃんかあちゃん・・」と言っていたと。誰も死にたくなんかなかったんだ。その人たちはみんな、私たちと同じように、誰かを愛し誰かに愛されながら、ご飯を食べて、仕事をして普通に暮らすかけがえのない一人の人なんだ。
世界中から戦争をなくすこと。それは、今そして未来の命を守ることであるとともに、過去あった、体験された方の中に今も息づいている戦争を本当の意味で終わらせることでもあると思う。その想いが、本多さんの「世界中が日本国憲法9条を持てば戦争はなくなる。」と、来年6月パリを振り出しに世界を回る「9条手渡し運動」につながっているのだろう。
「9条手渡し運動は表向きで、本当の目的は、パリジェンヌとデートすること。」と笑顔で語られる本多さんは、94歳とは思えないほどお若い。それは、未来の希望を見ているからだと思う。私たちも、本多さんが差し出してくださった戦争の事実と、つきつけられた、どんな世界に生きたいのか、どんな未来を望むのか、その選択と今の時代を生きる人としての未来への責任を胸に、未来の希望へ向かって進んでいきたい。(K.M)

本の紹介

《本の紹介》『「母」たちの戦争と平和―戦争を知らないわたしとあなたに』源 淳子(三一書房

 1945年8月6日、午前8時15分、母は広島市内にいた。同じ日の午前8時30分、父は市内を巡回していたと聞く。1948年生まれのぼくは、だから、いわば血統書つきの被爆二世だ。
 二十歳のとき、原爆資料館を訪れる機会を得た。数々の写真や被爆した人たちの人形などの展示物に目を見張り、驚き、ショックを受けて帰阪した。その悲惨な体験を父と共有しようと、「すごかったんやねえ」と父に告げたとき、ぼくの心積もりでは「すごいやろー」と返してくれるはずだった父の口から出たことばは、期待に反して「なにがすごいねん、あんなもん」というつれないものだった。父は続ける。「あれが等身大で、集団でおるんやで。しかも動いてるねんで」「川に逃げ込んで、川の中から『兵隊さん、水おくれ』て呼ぶんやで」。
 二十歳の若造は、声もなかった。資料館を見物しただけで、実体験した人とその体験を共有しようとすること、それをできると思っていたことの浅はかさを強烈に教えられた瞬間だった。
 ぼくは「資料館なんて見てもしようがない」というのではない。見ないよりは見るほうがいい、聴かないよりは聴く方がいいに決まっている。ただ、それだけのことで当事者(被害者や被差別者)と体験を共有したような気になることは、とても犯罪的なことではないかと思うのだ。大切なことは、安易に「その気になる」ことではなく、見、聴き、学び、考えることを繰り返しながら、限りなく当事者に近づこうとし続けることではないだろうか。
 そんな地道な作業を繰り返して著されたのが『「母」たちの戦争と平和―戦争を知らないわたしとあなたに』である。著者である源さんは、ぼくの親しい友人でもある。
 本書は1920年代生まれで80歳代の源さんの友人3人(赤松まさえさん、荒木タミ子さん、川土居久子さん)と、同じく同年代であるお母さん(三澤法子さん)、計4人の女性の戦前、戦中、戦後を、2年の歳月をかけて丁寧に聴き取った事実をもとに構成されている。
 読んでみて驚かされるのは、肉親が亡くなったこと、恋人を奪われたこと、疎開先での苦労など、ここではとても紹介しきれない数々のできごと、「戦争」という「異常」を、けっして大上段から太刀を振り下ろすような表現ではなく、4人の語り口を通してじつに淡々と、だが正確に伝えていることだ。「戦争」という「異常」を「日常」として受け入れなければならないとはどういうことなのか。それがひしひしと伝わってくる。
 第四章「分岐点」はまさに最終章にふさわしい。
 教師として子どもと向き合い、知的障がいのある子どもたちと関わる中で社会を見据えてきた赤松さん。「『この子らに世の光を』から『この子らを世の光に』」ということばは印象深い。敗戦後、「だまされた」と気付いた荒木さんが、やがて「わたしらも間違っていたのではないか」と、自らの戦争責任を問うまでに至った思想の深化もすごい。川土居さんの場合は貝塚市で小学校の教師になったときに出会った部落問題とのかかわりが分岐点の一つになっている。
 最近「侵略国家というのは濡れ衣」などという文書や発言がおおっぴらになされるということがあった。ぼくにはこれが意図的であるように思えてならない。そんな時代だからこそ、本書の輝きは一層増すだろう。ぜひ手にとって読んでいただきたい一冊である。
 最後に、本書の帯に記されている荒木さんの一文を紹介しよう。
 「女が だまってきたから いま ふきだした 男女問題は はてしなく根深い あの戦争さえ おこってなかったかもしれない 女は だまっていては いけないのだ」。(ukkie)

焼肉ドラゴン

★ 日韓合同演劇「焼肉ドラゴン」を観て家族を想う…★

2008年4月に東京の新国立劇場で上演された「焼肉ドラゴン」を、8月10日モザイク仲間と我が家のホームシアターで上映した。舞台は1970年の大阪万博の開催地の片隅にある在日1世が営む焼肉屋「焼肉ドラゴン」。家族と常連客が繰り広げるにぎやかで騒々しい物語だ。登場する俳優は日本人、韓国人、在日コリアンで、日本語と韓国語が入り混じり熱気ムンムン。「韓国語落語」で活躍中の在日3世の落語家、笑福亭銀瓶が俳優初デビューで熱演している。実は私、銀ちゃんの大ファン!銀ちゃん大大大ファンで追っかけの先輩が東京まで観に行き、「今までで一番感動した!」と大絶賛。そしてテレビ放映を録画し、銀ちゃん直筆のタイトル字とサイン入りのDVDを私にプレゼントしてくれた。へへ、これ私のお宝!プチ自慢ついでに銀瓶さんのことをちょっと。
銀ちゃんは本当は教師になりたいという夢があったんです。でも高校受験の時に在日は国籍条項で教師にはなれない!ということを知り大変なショックを受け、父にエンジニアの道を進められ工業高専に進学。しかし自問自答の末、人の前に立って人を笑わすのが好きだと、笑福亭鶴瓶に弟子入りし落語の道に…「在日やったから日本と韓国の両方を知り、どっちがじゃなくて、どっちも素晴らしい」「日本の文化である落語の道で生き、日本が大好きやから、韓国人に落語を在日の僕が韓国語で伝え、落語っておもしろいと韓国人が思ってくれたらいいな」と韓国語落語に励んでおられます。(話戻さなくっちゃ^^;)
チャング(韓国の太鼓)とアコーデオンの音が懐かしの昭和歌謡を奏でながら、舞台全般をにぎやかに包み込みながら、在日一家を通し大きな歴史が描かれていく。
冒頭のシーンで末っ子息子の時生が屋根の上から語る。「僕はこの町が嫌いでした。この町に住む人が嫌いでした。時代は高度成長期の真っ只中。なんもかも変わっていくけど、この町だけは昔のまんま。おっちゃんらは昼間からベロベロで、おばちゃんらはろくでなし亭主をこき下ろしながら共同水道の周りで一日中過ごして、笑い声と泣き声とわめき声と怒鳴り声が朝から晩まで騒がしい」。そんな中、再開発の波が押し寄せ、戦後国有地を不法占拠した在日韓国人集落が立ち退きを迫られる。
大学出ても働き口のない娘の亭主が叫ぶ。「一生懸命やればやるほどアホみることになる。俺ら在日のやってることは底辺這いずり回ってるだけや。矛盾の塊や在日は。差別と偏見にまみれ、日本に憎んで、韓国に恋焦がれ、それでもこっから離れられへん」と。
中学校でいじめられ傷だらけになって帰宅した時生に、戦争で腕を失ったアボジが言う。「わしらはこれから先、ずーと日本で暮らしていく。そやから日本の教育が一番や」「わしらにはここしかない。行くとこはどこにもない。この日本で闘っていかんなあかんのや。いじめぐらいなんや」その直後、時生は屋根から飛び降り自殺した。  
いじめ、自殺、結婚、不倫、妊娠、立ち退き、北朝鮮、別れ…という、とても重いテーマを絡めながらも涙と笑いで日本と韓国の現在・過去・未来が描かれている。この手の話にありがちな観終わった後の重たさやドロドロ感は不思議なくらい残らない。作・演出の在日韓国人鄭義信(チョン・ウィシン)の上手さだろう。在日の苦労の歴史を悲劇視せず、むしろ貧乏を笑い飛ばす力強さが観る者にパワーと爽快感さえ感じさせる。胸のつかえのとれた後味で心も軽くなり、一緒に観た人たちと思いを語りたくなった…
ラストシーンで時生が言う。「僕はこの町が嫌いでした。でも、時間が経てば懐かしくなるでしょう。そしてきっと、こう言うでしょう。この町と人が好きだったと。みんなみんな好きだったと…」 桜吹雪が舞い散る中、アボジの引くリヤカーは去っていく…
このラストシーンは私の実体験と重なりちょっと泣けてしまう。
私は在日ではないが、こういう騒々しい在日家族の風景をみるとなんとも懐かしい想いがする。私の育った家庭は6人家族。父と母は無学で自営業、戦後、堺で一番大きな八百屋を営んだが、私が生まれてからは商売が傾き、父は株に失敗し、酒と博打に明け暮れ、借金だらけで、毎日喧嘩が絶えず、割れた窓ガラスには受賞した子どもの絵さえも無造作に貼られ雨風をしのいでいた…わめき声や怒鳴り声の中で私は育った。誰もかれも、家も学校も何もかも嫌いだった。よく屋根に上り妄想にふけった。姉が家出したり、母が錯乱して「一緒に死のう。何もかもなくなってしまえばいいー!」と家に火をつけたり…落ちるとこまで落ちて私たち家族は店も家も棄てて町を去った。
大嫌いだった父と母を軽蔑し反面教師にして私は生きた。
あの頃が嘘のように、今は心穏やかに過ごしている。明るく笑っていると、人からはお嬢さんで育ったあなたにはわからないだろうけど…とよく言われる。苦労が顔に出なくて良かったと思う。あんなに嫌っていたアホでバカでどうしようもない両親のことも、その波乱万丈の人生を思うと、必死だったことも理解できるし、恥も外聞もなりふりも構わず4人の子どもを育ててくれ、私よりはるかに偉かったと思う。もう亡き両親のことを、2人の子どもを育ててみて、今だから誇らしく思える。そしてあの喧しくてドタバタした日常も、今思えば人間くさくて、結構面白かったかもしれない…あの家も家族も、あの時の自分も愛おしく思う。あの家で繰り広げられた家族の物語は、私の胸の中の宝物だ。
 私はみんなが好きだった。そして今も。私の周りにいる人たちが好きだ。(I.I)

今夏、ネパールへのスタディツアーに参加したUさんからのお知らせです。


「もっと知りたいネパール講座」第一回
〜ネパールの社会構造と開発について考える〜

世界の屋根、ヒマラヤに位置するネパールは、数多くの民族が共に暮らしている多様性の国です。エベレストや多くの国立公園をはじめとした美しく雄大な自然や、自然と共に生きる人びとの素朴な暮らしは、数多くの外国人を魅了し続けてきました。しかし、社会には貧困・差別・汚職がまん延しており、数多くの人びとが厳しい暮らしを強いられています。

2006年には、10年間続いた反政府武装闘争(マオイストによる人民戦争)が終結し、今年4月には新しい憲法を制定する制憲議会が開かれました。そして、230年間続いた王制が廃止され、共和制に移行。女性、先住民族、被差別カースト、性的マイノリティなど、長年抑圧を受けてきた少数派の人びとも参加して、「平等社会」に向けた新しい国づくりが行われているところです。

このワークショップでは、長年ネパールの農村の人びとと共に地域開発に関わっているカマル・フヤルさんを迎え、現在のネパールについて、そして差別を生み出す社会の仕組みや「開発とは何か」について学びます。ネパール、参加型のコミュニティ開発、NGOに関心のある方、どなたでもお越しいただけます。奮ってご参加下さい。

講師:カマル・フヤルさん(参加型開発ファシリテーター、ネパール・フルバンチャル大学教員)

日時:2008年11月8日(土)19:00−21:00(開場18:30)
会場:伊丹市立文化会館いたみホール)大会議室
(阪急伊丹駅より徒歩3分、JR伊丹駅より徒歩8分)
兵庫県伊丹市宮ノ前1丁目1番3号

地図:http://hccweb1.bai.ne.jp/itamihall/
定員:50名(先着順)
対象:テーマに関心を持つ人
使用言語:英語(日本語の随時通訳あり)
参加費:1000円

主催:サマンタ(反差別草の根交流の会)
兵庫県伊丹市堀池3丁目1−22 NPO法人伊丹人権啓発協会気付

問合・申込先:お名前と連絡先をメールもしくはお電話にてお知らせ下さい。
サマンタ(担当:山本)
(Eメール)samanta_sgid@yahoo.co.jp
(電話)090-6553-6515

<講師紹介:カマル・フヤルさん>
1965年ネパール、カトマンドゥ生まれ。学生時代からイギリスの開発協力NGOの現地スタッフとして農村住民と共に活動。現在はフリーの参加型開発ファシリテーター、大学教員として数多くの住民参加型の地域開発事業にかかわる。その手腕には定評があり、ネパールのみならず、日本及び海外の国際協力ワーカー対象にも数多くの研修を行うなど、国際的にも最も優れた参加型開発ファシリテーターの一人として知られる。