くれぐれも英語にはご用心ください (1996年)

○浅草・もり銀という銀製品のお店で品を選んでいたときに、ふと、脳内を次のエッセイ(紀行文)が流れた。

くれぐれもご用心ください>
 恒例のアメリカ研究旅行は、今年は、次女のイギリスでのホーム・ステイが急遽入ったため中止。やや傷心の細君に、「それじゃ、金沢・能登小旅行をプレゼントしましょうか。」ということになりました。
 地元の人に言わせれば、本当の金沢・能登の良さを知らない、というお叱りを覚悟の上で、以下、とっくにフル・ムーン年齢を過ぎた夫婦の「ご用心下さい」の旅のご案内、とございます。

1.くれぐれも地図にはご用心下さい
 金沢の一番暑い時期を選んでしまったとは後で気がついたこと。とにかく暑いこと暑いこと。東京じゃ涼しいっていうのに、ねえ。とはいえ乗り物があまり好きでない我が細君。30分程度の距離などは徒歩を選んでしまいます。しかし、それは歩く先に対象があってのこと。もしその対象に期待をはずされたときには、とたんに、心身症かつ全身疲労が襲ってきて、ダウンと相成り果てる御仁でもあります。
 輪島に宿泊予定の日、金沢での特急バス時間待ちの間に、「絵本・おもちゃの店があるから、そこへ連れてって」とのたまうので、「タクシーで行く?それとも歩いて行く?」と尋ねたら、「もちろん、歩いて!」と元気のいい声が返って参りました。とほと、とは僕の内心。だってさ、このところ、ぼく、腰が痛くて、足がしびれる状態が続いているんだもんね、それに、とても暑いんだもんね、おまけに、そのお店って、兼六園よりもっと先にあるんですもの。.....
 とにかく、町の人に、車の排気ができるだけ少ない道を教わり、白鳥路などでお堀の蓮の花などを鑑賞しながら、行きはヨイヨイ、の調子で歩いて参りました。およそ一時間ほども歩いたでしょうか、どうもそれらしい店がありません。たばこ屋のおばさんに聞いたら、逆に何度も聞き返されてしまいました。地図に書かれている一版書店の名前をいったら、それは知っている、もっと上がったところだ、というではありませんか。上がったところ、というのは、遙か前に通り過ぎたところであるわけです。で、戻りつつ目的のお店を探したのですが、結局見あたりません。お店の跡らしきとおぼしき建物は託児所が構えられておりました。
 そこで、「その地図、何年の発行?」と尋ねたところ、アメリカにて私はライブラリアンだと胸を張ってコミュニケーションを試みている細君、「あらイヤだ、二年前だわ。」というではありませんか。この二年間に、児童文化財の店は消えてしまって、幼児保育施設に衣替えをしてしまっていたのです。
 その日、細君からは元気が消えてしまい、輪島の宿では、ひたすら肩もみと腰揉み、胃のあたりを押す、という作業が、ぼくに命じられたのです。

2.くれぐれもタクシーにはご用心下さい
 そんなこんなはありましたが、金沢、輪島、和倉温泉の温泉の旅は、総じて、「温泉以外に何もない。あるのは、輪島塗だとか金箔だとか、お金のかかる工芸品ばかり。」という発見をし、どうも観光旅行にはふさわしくないなあ、などとひとりごちたわけです。お酒飲まないでしょ、お風呂嫌いでしょ、お金ないでしょ。こういう人間って、あっちこっと団体さんで寄って、ほい次ほい次ってな調子で連れ回される観光地巡りよりも、一つん所でじっくり一日かけて楽しむ、そう金沢の江戸村ぐらいが絶好なんだけど、これなどは、人によっては30分もかからないつまらないところらしいですねえ。といっても、江戸村まで行くのにタクシーで数千円−−−多い方の数千円−−−かかるんだから....。もっと近くになんかないの。
 初日、奮発して1時間5000円也の観光タクシーを利用したけど、寄ったところは、金箔屋さん(トイレが黄金!)、西陣織屋さん、そして郭跡...。郭は生涯利用することはないからお金はかからないけど、そのかわり通り過ぎるだけ、そのほかの所はみ−んな、お金をたんまり出さないと、値打ちがない。
 そうそう、和倉温泉では、おもしろいというか、財布の紐がこんなにゆるめさせられたことはない、という経験をいたしました。
 とにかく交通の便の悪さには驚きました。それにまつわるお話です。
 輪島から和倉温泉までは、一時間ほど、第三セクターの列車に揺られていくわけです。降り立ったはいいのですが、宿のチェックイン・タイムまではまだかなりの時間があります。目の前に能登島が浮かんでおりましたので、そこまでいこうか、ということになりました。宿の人に訊ねると、「ここから橋のたもとまで1キロ、そして橋が1キロ。計2キロですが、それだとただ橋を渡ったというだけですね。」と言われます。後の文言「ただ橋を渡っただけ」の意味の真意をはかりかねたのですが、やがてそれは、タクシーという交通機関を選んで後に分かるわけです。
 能登島に水族館があると聞きました。宿からも入場に際しての割引券を戴きました。水族館といえば、その名を聞いただけで、疲れが飛び、目がランランと輝いてしまう細君のこと、地図を見て、水族館に行きましょうよ、と言います、しかも、歩いて、と。しかし、ここはまあ、宿の人の「ただ橋を渡っただけ」という言葉をはかりにはかって、タクシーで行った方が後々の腰もみ作業などはないだろうと思ったぼくは、おもむろに、タクシーで行く、と亭主関白風宣言をいたしました。
 ....タクシーが能登島への有料橋を渡り終わりました。目の前に交通標識が見えて、水族館という案内文字が見えます。....ちょっと待て、その下に書かれていた数字は、確か、8.5kmとあったぞ。いったいタクシー代はいくらかかるんかいな。地図では、水族館は、橋を渡ってまっすぐ行った島の反対側で直線距離でも3キロはないはずなのに、8.5キロとはいかなることか。
 答は簡単。島をぐるりと半周するコース、要するに観光コース案内してるんですわ。絶対、あれ、観光行政と交通会社とが結託しているぜ。そんな内心のグチグチに関わらず、メーターはどんどん上がっていきます。やれやれ着いた、と思ったら、約1万円でありました。ちょっと時間を過ごそう、ということが1万円とは、ずいぶんと高い、まるで、暇を持て余して入ったパチンコで、ほんの数分でスッカラカンに負けてしまい、残りの大半の時間を再び暇の持て余しすぎ、というような気分でありました。
 で、水族館では、イルカと鯨ショーなるものがメインで、確かに鯨さんの芸なんか、生まれて始めてみたものですから、それなりに感動いたしましたが、その他はあまり整っていない。付設の、子ども向けのあれこれの乗り物の方がずっと整っておりました。確かタクシーの運転手も言っておられましたぞ、ここへ子どもを連れてくると、父ちゃんは一日で破産しかねない、一つ一つにお金がかかるから、って。そういうあなた、タクシーも、破産への強力な助っ人だすがな。
 さあて、行きはヨイヨイ、としておくとして(少しもよくない!)、帰りはどうするか。タクシーに乗って帰ったらまた1万円かかるわけですね。本当に帰りはコワイ。何とかバスの足を見つけたからよかったものの、それとて1時間に1本程度、最終バスの時刻をしっかりと確かめ(17時台)、近くのガラス美術館に足を運び、ここでもおアシがたくさん使われたのでした。

3.くれぐれも歴史にはご用心ください
 金沢小旅行の最終日は再び金沢市内徒歩観光。「兼六園以外ならどこでもいい。」とやけ気味にのたまう細君をご案内申し上げようと思い立ったのは、武家屋敷跡の街でありました。すでに過日、江戸村にて、武家屋敷そのものについては拝見いたしたわけですから、「野村家」など、入館料を払って内部見学をする、ということはいたしませず、ただひたすら、土塀と立派な屋敷門などを眺めつつ歩を進めます。
 時折、「ねえ、この建物など、あなたの実家の町にあるのと同じね」と言われて、ふと「ふるさと」の町並みなどを思い浮かべます。なるほど、我が実家の存在するところは、小さな大名分家知行地の中間管理職の武家屋敷跡地付近なわけです。金沢市のように歴史を保存する文化的環境などはまったくなく、我が学びし中学校などは、平城ながらその城跡にあり、在学中には、絶好の遊び場で、戦時を想定したる迷路などもそのまま残っており、業間の折りにはそこにてしばし身を隠したものでしたが、昨今は実に立派に切り開かれ、市民体育場と成り代わっております。市民体育場と言うからには市民には開かれているのでしょうが、昨年帰省した折りに訪ねてみると、閑古鳥が鳴いておる有様でした。
 かくかく左様に、我が古里なる町は、土建屋市長の「金にならない物など残しておく必要がない」という言葉に象徴されておりますように、歴史文化遺産は次々と破壊され、古びた、今にも倒れそうな旧家が個人の意志によって数件残されているのみ、それとて何の案内もございません故、名古屋大阪あたりへ通勤される方々のベッドタウン化が急速に進んでいる我が町であります、その新市民などから見れば、「まあ、汚い家ね、早く建て替えればいいのに。危険だわ。」との感想を持たれる、まさしく思想そのものも倒壊しようとしている現実に晒され続けております。
 話は元へ。武家屋敷街をそぞろ歩きをしているうち、我が連れ合い、「ねえ、老舗博物館に行って見ようよ。」とおっしゃいます。武家屋敷街のはずれにそれはあるわけですから、さほど苦痛ではありません。ただし、地図を読み間違えて、しばし別の方角に進み、細君のややふくれた顔がちょっと大きく拡大された場面との遭遇はありましたが。
 老舗博物館とは薬事問屋、今でいう大きな薬屋さんですかな、そこの主は町名主などをお務めになったそうですから、千葉県松戸市マツモトキヨシみたいなものかもしれません、「すぐやる課」なんてものを設けたかどうかは知りませんけど。老舗博物館の一階は建物内部のご案内、贅沢三昧という表現しか思い浮かべることができませぬ。木綿生地の衣をただ一枚からだに巻き付け、その日のおまんまにありつけるかどうか分からなかった多くの庶民たちは、この薬屋さんから薬を買うことができたのかどうか、その辺についての案内はなく、逆にお殿様専用であった風なご案内、とにかく立派な社会階層であったとの案内板にため息がでてきます。これも歴史の一部事実だけど、すべてではない、ということだけはきちんとご案内いただきたいものだと、いずこの町の同種の案内を見る度に思わされます。
 二階に上がると、まさに、上層商人たちの本質を知らしめられる展示物がありました。全国お菓子博覧会にディスプレーされたというお菓子の木は、ぼくの脳裏に刻まれている町・金沢らしい風情を味わうことができましたが、その向かい側には婚礼に関わる結納の数々が展示されております。ご案内いただいた老舗の主らしき人が「金沢の結婚は金がかかります」と仰せられたように、婚家の家族一人一人に当てて結納の品が出されるなど、水引は幾重にも積み重ねられておりました。こんな、大商人たちの財産がある−−−それは社会的地位の誇りでもある−−−という証の婚礼の儀を、まさに商人たちの活動を社会制度の基本とする時代に成り代わって後には、一般民に至るまで、「これを婚姻の儀礼となすべし」との風習が成り立ったその歴史的痴呆状況に、しばし目を奪われ、深いため息をついたのであります。
 連れ合い曰く、「私は、このうちのどれ一つとてもらわなかったわ」。略奪結婚?であっても、共同生活20数年を重ねると、こんな言葉が出てくるわけでありますな。げに、歴史とは恐ろしい。
 それにしても何ですな、その結納の品々をしばし眺めるために、ぼくは立ち居から正座の姿勢をとったのですが、その他の見物人数人も、ぼくの姿をまねてか、ぞろぞろと正座を始めたのです。別に正座の必要など求められておりませぬ、お茶室ではあるまいに、ただぼくはその方が落ち着くし、足の疲れが癒せるから、そう内心でつぶやきながら、こんなところにも、「右ナラヘ」の社会的風潮が見られるニッポンコクを実感したのでありました。

4.くれぐれも英語にはご用心ください
 老舗博物館を出て、そろそろ金沢駅に向かいましょうかと、小堀側伝いに武家屋敷跡へと戻っていくと、堀川の向こう側に細君の目を引いたらしい看板がありました。−−−民芸品云々−−−−。「ねえ、あそこに行っていい?」「そうしましょうか」と、そこで子どもたちへの土産を買おうと思い立ち、橋を渡って店に入ろうとしたら、かの君は、そこを通り過ぎ、隣の銀製品を売っているお店に、「こんにちわ」と入っていくのであります。あれま、老舗博物館は金まみれだったが、今度は銀かいな。
 お店には、銀製品の小物から大物まで−−−あくまでも金額のこと−−−、ずらりと並んでおりました。銀という輝きは派手ではありませんが、何か底光りをしており、気持ちを落ち着かせる雰囲気を漂わせております。ぼくは、あくまでも小物の品をあれこれ手にとって、眺めいっておりました。
 すると、店の主、なかなか恰幅のいい、しかし若々しい、そう30代でしょうか、我が側に近寄りて、○印の紙と無印の紙を提示し、○印の方ではin silver、無印の方ではno silverと仰せになられます。ぼく日本人だから、この印のある品物は銀が混ぜられております、無印の方は銀が入っておりません、どうぞごゆっくりご覧ください、という日本語の案内で十分に理解できる、いや、その方が理解度はほぼ100パーセントになります、てなことを心の内でつぶやきながら、なぜか外言は、Ya.... yes. OK.などとご返事申し上げたわけです。店の人は、明らかに、ぼくを、日本語が理解できない人、という感じの扱いで、単語数列英語によって接客いただきました。逆にぼくの方は、このご主人、きっと中国人で、日本語ができないのだろう、また、英語も不十分なのだろう、でも日本語よりは英語の方が意思を伝達できるのだろう、と思ったわけですね。
 このことに端を発して、とうとうぼくと店のご主人とは、この店において、互いに「謎の東洋人」−−−おそらく−−−に変身いたすことになってしまいました。一つ一つの品を手に取る度に、in silver, no silverに始まり、品物の説明をしてくださいます。ペーパーナイフを手に取ったときなどは、ほぼ興奮の面もちで、「それはたいそう優れたデザインで珍しい品物です。」と、たどたどしくご説明いただきました。また、干支を形取ったキー・ホールダーを眺めておりますと、It's in four nine silver.と、よく分からない内容のご説明をくださいました。そえられた製品説明書によると、銀含有量が999.9とありますから、純度ほぼ100パーセントということです。
 方や細君は、不自由な英語から解放されて、のびのびと、大物小物に関わらず、あれこれ品物を物色しておられました。ぼくの方からのプレゼントの旅ですから、ここでの買い物に関わるものも、当然のことながら、ぼくの財布からおアシがお出ましになられるわけで、互いに不自由な英会話を交わしているその目を、互いにちらりと細君の方に向けあうわけです、ぼくとご主人とが。方や「出ていく出ていく」、方や「入ってくる入ってくる」....。
 しばらくあれこれと好みを探していましたが、やがてレジへ。レジのところにはご主人のご父君と見られる方が出てこられ、レジを挟んで、4人が対峙いたしました。レジを挟んで向こう側では購入された品々の包装と計算、レジを挟んでこちら側では支払いの予測計算が始まります。そこで交わされた会話言語は、しっかりと、日本語だけなのでありました。
 それにしても、店の中で、ぼくと細君とは、しっかりと日本語で、「ねえ、これ見て、すてきね」<内言語では「買って買って」を意味しているのでしょうねえ>とか、「ふーん、銀って思ったより安いんだね。でも、それはちょっとデザインがねえ。」<あまりにも高額なので、内言語で「買うな買うな」を明確に意味しております>とかの言葉を交わしているのですから、ご主人、とっくに我々が日本人であることを見破っており、からかっておられたのかもしれません。
 でも、今年も、Englishの旅を楽しみにしていた夫婦でしたので、旅の最後にそれを楽しむことができたのは、テンからの贈り物であったのかもしれませんね。

ウージェーヌ・シュー『イディオ』 (1832年作)

ウージェーヌ・シューの「イデオ」(1832)

 ウージェーヌ・シューが代表作『パリの秘密』のなかで一大棄民施設ビセートル救済院内の精神病棟に収容されている白痴〔イディオ:idiot)を詳細に描写し処遇について言及している。じつは、彼はその問題にかねてから興味を示していた。というのは、彼は1832年に短編『イディオ』を公刊している。同作品は1842年に『ラ・キカラチャ』に収録・再版されている。以下の訳文はこの再版版によった。短い話だが、「白痴」概念の広さと深さについて考えさせられることが多い。わが国では今日「白痴」は差別用語だとして使用が制限されており、近似値的な概念「知的障害」を余儀なくされているが、以下の作品の主題を「知的障害(児)」とすることには抵抗がある御仁は多いのではないかと、思う。
 段落の区切りは原作を尊重してそのままです。 (2004年11月初訳の試み)
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 パリの遊興に倦んで、私は、静けさを求めて、レズの森近く、**シャトーに出かけた。そこでの滞在は、不快感とか束縛感とはまるで縁遠く、景色の美しさや宿の主人の親切なもてなしに魅了された。食事時に集まりさえすれば、誰もがそれぞれ自分の好きにその日一日を過ごすことができた。そうした自由こそ私が強く求めるものであった。毎朝、森のコナラの古木の下で、誰に邪魔をされることなく、夢想に耽っていた。
 ある日のこと、本に没頭していたため、夕食の時間を忘れてしまった。陽が落ちて、やっと我に返った。ロンポン大修道院の前にいたのだ。その日の宵はすばらしかった。月が銀色の明かりに染まる地平線からゆっくりと昇り、大修道院の、倒壊を免れた古びた柱廊の天辺にかかる月の白い光が、かつてステンドグラスが填っていた窓々から差し込み、光の影が幻想的な城壁様に形づくる。かつてはそこに居住し敬虔な静修を行っていた修道士の亡霊が現れてくるのではないかとの思いさえする。威厳にみちた廃墟の中へ入り込みたい気持ちに身を任せないために、瞑想するにはまさに都合のいい時の間だった。畏敬の念という深い感情なくしては、暗く誰もいない天空の下で、廃墟となった神殿に入り込むことなどありえなかった。そこは村の住民たちが墓地としているところなのだ。深々とした沈黙が周りを支配し、尾白鷲の長い鳴き声や壁から剥がれ崩れかかった数個の石材が作り出す音が静寂を遮るだけであった。苔生した墓石に座り、これまで身の回りで生じたすべてのことを憂鬱な気分で思い起こしていた時に、人の足音が聞こえてきた。頭をもたげてそちらを見やった。すると棺を担いだ二人の男の姿が見えた。彼らの後に一人の白髪の老人が続く。その年老いた顔立ちには深い悲しみが刻まれている。棺が少し離れたところに掘られている墓穴に降ろされた。二人の男は棺に土をかけ、もとの道を戻っていった。老人は一人残り、盛り上がった地面をじっと見つめていた。私は、彼に問いかけるために、近づいていった。この夜の葬列が私の好奇心をそそったからである。彼は私の問いかけに答えることなく、少しの間、私を見つめていた。
 やっと老人が口を開いた。
「悲しい話なのですが、私には大切なことです。あなたがお聞きになりたいのなら、お話し申しましょう。この年になると話をすることが好きなのでね。もしあなたが悩みを背負っているのなら、辛いことの半分を支えてくるような誰かを見つけて慰めとしたいでしょうし。」
 そう言いながら彼は私の近くに腰を下ろした。そして思い出を語るためのように、その顔に手を添えてから、物語り始めた――。
「16年ほど前のことです。秋のある侘びしい晩、私は自分の農場の畑から戻るところでした。森に雷鳴が轟き始め、大粒の雨雫も降り始め、あたりはすさまじい暴風がすぐ来ることを知らせていました。それで、慌てて、雷雨が始まる前に羊を小屋に帰すために群れを急がせました。やっと森のはずれにたどり着いた時には、風がうなりをあげて耳にゴーゴーと鳴り響いておりました。不安に襲われ、どんなことがあっても私は助かるに違いないなどとは考えられず、逃げました。稲光が走った時に、私からさほど遠くないところに、一人の女が意識を失って倒れているのが見えました。その胸にはしっかりと幼い子どもが抱かれておりました。番小屋が遠くなかったので、走って助けを求めに行きました。かわいそうな女は番小屋まで運ばれ、適うかぎりの手当てが施されました。ああ!それも虚しく、彼女の魂は最良の世界に行ってしまいました。彼女はまだ若い人のようでした。でも名前も身分も、それらを示すものは何も身につけておりませんでした。ただ、この人の衣服は村の女たちのものとはまったく違うぞと、その場に居合わせた者は口々に言いました。どうやら彼女は自分の体力を無視して旅に出たようです。そして疲れ果て飢え、ついに旅路を終えることになったのです。彼女の命を蘇らせようとする私たちの努力は無駄でしたが、引き続き幼子のことが気になりました。上品な美しいかわいい男の子でした。3、4歳に思われました。この子もまた記憶を失っておりました。記憶を取り戻した時には、母親を求めて大声で泣いておりましたけれども。私はその子に、お母さんは眠っておられるよ、と話して聞かせました。それで彼は落ち着き、少し食事を摂り、眠りつきました。ロンポンに戻ってから、私は司祭様にことの次第をお話し申し上げました。翌日、司祭様は森の番小屋にお出かけになり、村の墓地に哀れな若い母親を埋葬され、その子を連れてお帰りになりました。私はこの無こな子を自分の側で見守りたいと思ったものです。でもそうするには私はあまりも貧しかったのです。司祭様は、神にお仕えになる人ですから、小さな孤児を見捨てようなどとお考えになりません。その子はギロームと名付けられ、小教区の貧しい人たちと一緒に暮らすことになりました。
 何週間か経って、驚いたことに、その子に知性のかけらさえ見ることができなかったのです。他の子と一緒に学校に通わせましたが、彼は何一つ覚えることができませんでした。やがてギロームはまったく痴愚であることがはっきりしました。司祭様は、ギロームが幼少期に受けたショックのせいだと、言われました。哀れな障害ではありましたけれども、彼の性格は変わることなく穏和で、愛され続けました。彼は小さな仲間たちのからかいが分かってはいませんでした。また、彼をもて遊ぶすべての者に仕返しをするために、その力を使おうなどという考えも持ちませんでした。少しずつ、皆は、<哀れな白痴(パーヴルイデオ)>(これは彼に付けられた渾名です)への接し方を覚えていきました。いつも一心不乱に身を入れてし遂げるので、ちょっとした仕事のために誰もが喜んで彼を雇い、彼の低い知能でも叶うようなことをさせたのです。
 同年代の子どもたちの間に、ギロームがたった一人だけ愛情を寄せていた一人の子どもがいました。この地方の豪農の一人であるジェルヴァ氏の娘で、テレーズと言い、かわいい子です。毎日母親の墓を訪れることや、テレーズのちょっとした頼み事に走って応えることなど、ギロームが理性を取り戻したのだと人々の口に上るようなことがあったのです。テレーズの両親は、パーヴルイディオが自分の子どもにたいして抱いているように見える愛着を、笑いものにしていました。けれども、女の子の方は、パーヴルイディオが彼女に鳥の巣とか沼地の藤で編んだ籠を持ってきた時など、優しく微笑みかけました。
 成長するに従って、ギロームはたくましく美しい若者になっていきました。けれどもその魂は相変わらずそのままでした。とはいうものの、何かのきっかけがあると、彼に感情の高まりや落ち着きがみられることがありました。それはもう、誰も信じられないほどのものでした。なかでも、池の縁で友達とふざけていて、テレーズが水に落ちた時のことです。彼女の身に危険が迫っていました。というのも、水の流れが大きな赤い風車小屋の下にテレーズを引き込んでいったからです。誰もがもうダメだと思っていました。しかしギロームが流れに飛び込みました。彼のその行動に人が気付くより前に、彼は少女を、悲嘆にくれている両親の手に戻しました。この時、彼の目は新しい輝きを放っていました。それで人々は、彼にいい変化が現れた、と思ったものでした。しかし、徐々に彼はいつもの心を閉ざす姿に戻っていきました。そして過去の出来事は何一つ思い出として残っていないかのようでした。
 一方、テレーズは、優雅で美しく成長していきました。村の若者たちは彼女の手に憧れました。誇り高い娘は恋する男どもを次々と追い払いました。彼女が花束を受け取るのはギロームだけでした。でも、誰もが、ギロームを取るに足りない存在だと見ておりました。そこへある出来事が起こりました。地主の息子で、ロジェルという若者がロンポンにやってきたのです。彼は満期除隊で、武勲によって栄誉勲章と大尉の肩章を授けられておりました。輝かしい軍服と気品に満ちた振る舞いに我が村の娘たちはみんなのぼせ上がってしまいました。しかし彼はただ一人にしか目を向けませんでした。つまりテレーズです。テレーズにしても、立派な大尉の気を引くことに無頓着であり続けることはできませんでした。やがて二つの家族は婚約を交わし、二人の若者が結婚することになりました。結婚の準備の間、ギロームには何ら変わった様子はありませんでした。彼は、新婦からプレゼントされた白い手袋やブーケを、まったく無表情に受け取りました。けれども、一昨日、つまり挙式のあった日ですが、まさに式が始まろうとした時に、何と、驚いたことに、ギロームがブーケと白手袋を持って進み出、厳かに、テレーズに渡したのです。参列していた人々の間で笑いが起こりました。しかし大尉は、ギロームのことを分かっていませんから、荒々しく押し返しました。哀れな若者は、それはそれは悲しみを湛え、その場から退きました。そして私を捜し求めていました。そうです、彼は、打ちひしがれたことがあるたびに、決まって私を捜し求めるのです。私は、テレーズがロジェと結婚し、だから今日から彼女はロジェといつも一緒にいることになるということを、言葉を尽くして、ギロームに説明してやりました。彼は夢を見るような表情で私のところを離れていきました。教会で、いつも座るところにいる彼を見かけました。そして結婚の祝福の時になるのですが、彼の顔色が異様に真っ青であることに気づきました。夜は、みんなで農場で踊ったのですが、ギロームの姿は見えませんでした。みんな楽しみに熱中していましたが、私一人、彼がそこにいないことに気づきました。心配になり、ずいぶんと探し回りましたが、彼を見つけることができませんでした。最後に、ハタと思いつき、墓場に行ってみました。ギロームは身じろぎひとつしないでおりました...。彼の胸には、テレーズに捧げられようとした手袋とブーケとが、しっかりと握り締められておりました...。すべてが分かりました。彼自身でも分からない、そして、誰にももちろん私にも分かるはずもない、逃れようのない心に焼き尽くされ、薄幸の人は、テレーズを失ってしまった、決して彼の元に戻ることはないという思いに耐えることができなかったのです...。彼は母親の墓の側で死んでおりました...。それであなたが彼の亡骸が埋められるのをご覧になったわけです。」
 語り部の羊飼が語りを止めた。と同時に一頭の白ヤギが彼に近づき、彼の手を舐めた。彼が言う。「この白ヤギはテレーズのお気に入りだったのです。ある日のこと、ギロームが猛々しい狼の牙から白ヤギを守りました。その時から、命を助けてもらった感謝の気持ちからでしょうか、まるで犬のように忠実に、彼の行くところ行くところ、ついて歩きました。利口な生き物! こいつは彼にからだをすり寄せ続けました。こいつは、私のように、彼の命のある限り、彼を愛しました。こいつは私と一緒に、彼の死を悔やんでくれています...。」
 羊飼はひとかけらのパンを山羊に与えた。だがその哀れな家畜は悲しげに一声鳴いて首をそらした...。私は心打たれ、老人の方を見やった。彼はうなだれており、大粒の涙が目からこぼれ落ちていた。私は彼の手を優しくさすり、彼に気付かれないように、そっとその場を離れた。教会の門に着いて振り返ると、遠くで、彼が若き友の眠っているところに、粗雑ではあるが木を削って作った十字架を立てているのが見えた。ああ、ステルヌよ!ここにいない君に手紙を書こう!この光景は君が描くにふさわしかろう!私のように君も哀れな白痴に涙することだろう!私と同じように、山羊の悲しげな鳴き声や老いた羊飼の素朴な物語が雄弁に示してくれることだろう!
 

バーゲンと乞食(2001年)

バーゲンと乞食

 今パリは冬期のバーゲン真っ盛り。年に2回あるバーゲンはパリの風物詩の一つに数えられる。それぞれの店のウインドウガラスにはSoldesと大きな張り紙がしてある。ぼくは昔から、「特価品」と「特売品」の違いが分からないのだが、パリのSoldesはどちらなのだろうか?たいていの店が50%と書いてある。高級衣料品店などは30%、ときには20%という割引率が相場のようである。パリの街挙げてバーゲンなどと言うと、それじゃおまえ、パリ中の店みんなかい、などと迫られそうだから前もって言っておくと、衣料品、バッグ、靴、化粧品、宝石など身につけるものは間違いなくそうである。それから文具もそうだし、デパートのペット用品売り場もそうである。ひょっとしたらペット類もバーゲン対象にされている。ちょっと変わったところでオートバイを売る店もSoldesと書いてある。中には、ウインドウガラスからそれぞれの品物にSoldeと張り紙をしてあるのが見える店がある。この店は、バーゲンをする品としない品とがあるので、店を挙げてのSoldesではないわけだ。なかなか正直な店だと思う。「大安売り!」などという言葉につられて品定めをして、「これ下さい」と言うと、「お客様、その品は、バーゲンの対象になっておりません。正価どおりです。」などと返され、騙された気分で不愉快になるという、どこかの国のバーゲンセールとは違うわけである。
 このバーゲンセールは1ヶ月ほど続く。
 セールが始まった日からどっと人が街に繰り出し、高級衣料品の店が並んでいる名所では身動きがとれないほど。大きな紙袋を三つ四つ抱えて目をつり上げて急ぎ足で歩いているのは、まだまだ買い足すぞ、という勢いのある人。この人たちの側に寄ることはよした方がいい。紙袋がこちらの体に当たっても、「エクスキューゼ・モア」も「パルドン」も、あ、違った、「ごめんなさい」「すみません」の言葉を掛けられることはまずなく、不愉快になるだけだから。店の中を覗くと、買うつもりなのだろう、両手に品物を持ち、体を斜めにして、人波を乗り越えている人がいる。両手は自分の頭より高く挙がっている。つまり、身動きがとれない状況の中で、とにかくお目当ての品物を奪い合うようにして手にし、それをカウンターのところの列に行き着こうとしている勢いなのだ。どこかの国のスーパーやデパートの開店目玉セールと銘打った「超特価」「超特売」と同じ光景だと思えばいい。どっかの国とパリのバーゲンとの違いは、「やっぱり超特価だけのことだね」と、後日、しみじみとこぼす言葉があるかどうかの違いだと、勢いのある人たちは信じているのだろう、と思う。でないと、高い飛行機代と高い宿代を出してくるはずはないもの。
 面白いと言ってはご当人たちに叱られるかもしれないが、高級品こもごもの店のごった返しは我が同胞の群、有名な高級品店の隣、またその隣、その向かいなどののこもごもの店はそれなりの身なりの、明らかにヨーロッパ系の群。そこら辺の街の店は、それらと比べると閑散としているが、それでもいつもよりは人が入っている。そして我が同胞を除くアジア系、アフリカ系、中東系の人たちがゆったりと構えて品定めをしている。
 バーゲンもまた、現代的な階級制がくっきりとあらわれているのだ。
 (ごった返しにあわずにブランド商品を手に入れるコツがないわけではない。それは開店と同時に行くこと。ただし、掃除中であったり、まだ働く意欲が湧かない店員の緩慢な態度に、せかせか人種日本人は、立腹することだろう。けれど、お目当てのブランド商品は確実に入手することができる。)
 某日。ぼくはいつものお気に入りの恰好で、つまり、ごま塩よりも白さの方が不確かな割合で占めている、前頭と頭頂とがかなり薄くなっている、おまけに櫛でとかない髪と、いっさい手入れをせずに1ヶ月経った顔の髭(これがまた、疎らさがだらしない)、いつクリームで拭いただろうかと自分でもいぶかるほど手入れをしていない靴、膝の部分がふっくらと膨れあがり、ひょっとするとテカテカとしている茶色のコールテンズボン、セーターの下に着ているのは人様には見えないけれどもボタンが幾つも取れたワイシャツ、そして明らかにそれと分かる偽なめし革の、スーパーの吊しでSとサイズ表示がしてあったけれども、だぶだぶの深緑のコートといういでたちで、バーゲンでごった返す街に繰り出した。
 ぼくの目当てはバーゲンではない。古書漁りである。古書というものは行き当たりばったりで買うことが通常である。どのぐらいの量を買うかというよりは予算の上限だけを決めてアパルトマンを出る。量的に多くなることがあれば、本というものは重いので、背に大きめのリュック、そして手には頑丈な紙袋を持つ。こちらでは、簡単に破れてしまう薄いビニール袋に入れてくれるだけ、どんなに重くても大きささえあればビニール袋に入れて渡してくれる、カウンターを離れたらもう破れて本が落ちる、などということは日常茶飯事である。代わりのビニール袋をくれる店もないではないが、あまりあてにしてはいけない。そういう教訓から頑丈な紙袋をあらかじめ用意していくわけである。
 この日の古書漁りは大きな収穫があった。19世紀半ばから終わりにかけての新聞や記録など、大きな専門図書館にでも行かなければ見ることができないものがほとんどである。1年分の新聞の合冊などは厚さだけでもすさまじい。それに類したものが数冊、それにぼくの研究には欠かせない先行研究書も、図書館でも見つけることができなかった稀覯本(とぼくは思いこんでいる)、それが数冊。ちょいとおまけに、ヴィクトル・ユゴーなどの直筆手紙のコピーを集めたもの。ジャン・ジャック・ルソーの直筆手紙は、1編が日本円で90万、100万円もしていた(日本の某「超一流」国立大学が買ったと店の主から聞いた。国民の税金で買ったのだ、是非、国民に公開してもらいたい、当大学関係者あるいは関係機関の紹介を受けた者のみ閲覧可能などという差別、いや排除はやめにして欲しいものだ。日本国国民である証さえあればいいのではないか。)が、ぼくにはそういうもののオリジナルは必要がない、コピーで充分である。だけれどそのコピー本も、もう手に入らない代物。リュックに入る大きさのものは可能な限りリュックに詰め込み、リュックの手に余るものは紙袋に入れ、よっこらしょ、よっこらしょ、と歩いていた。当然のことながら、背中を丸め、バランスを取ろうとするから前屈みで、時にはフラフラしながらの歩行である。
 バーゲンでごった返す歩道を、ようようのこと人混みをくぐりながら歩いていると、出会うこと出会うこと、頭がまるで爆発したような、脱色頭髪の男女の群。そして昔ごく一時茶の間でも、即席動物園でも、水族館でももてはやされたエリマキトカゲの末裔かと思われる首のあたり。…考えてみるとこの姿は、まるで生来の日本人ではない。とくに女性は、眉毛を、当人たち曰く「きちんと手入れしている」のは、完全に日本人顔型からは脱している。何しろ眉があったはずのところにはないのだもの……いや待てよ、本当かどうかは知らないけれど、お公家様と称する階層の人は眉毛が、額の随分上の方で、しかもちょこんと座っているだけだっけ…。眉をできるだけ自然状態から遠ざけるというのは、もしかしたら、きわめて特殊階層のお家芸、それを今日、きわめて特殊階層の人々が、その歴史を知りもしないで、再現しているわけか。しかし、それがまた、パリの街中では日本人以外の何者でもない、ということを証明してくれるのだから、これほど不思議な文化はないと、ぼくは思う。彼らとすれ違うたびに、彼らから、汚物を見るような目線を送られ、顔を背けられてしまうけれども、ぼくはまるで宇宙人に会ったような気分でさえあり、怖くもあり好奇心も湧いてくる。
 彼らの群がいくつか過ぎ、今度は、母娘なのだろう、年格好はそのように見えた二人連れの姿が目に入った。二人は、共に、脱色で、爆発はしていないが、短く、しかし整えて切っているのではない頭髪の持ち主だった。もちろん眉は三日月よりも細く、目尻のあたりで鋭角に曲がり落ちている。そして娘らしい方はやっぱり棲息中のエリマキトカゲ様である。日本語がかなり遠くから聞こえてきたので、彼らの姿に気がついたわけである。鼻をつく異様な匂い、つまり化粧品の匂いが、すれ違いの時に、母親の方からであろう、漂ってきたときは、さすがにぼくも顔を背けてしまった。しかし、どうやら顔を背けたのはぼくだけではなかったようだ。二拍子ほどおいた後、背後から、前よりも大きな日本語が聞こえてきたのだ。
「さっきの人、日本人、ちゃう?」
「どう見てもせやな。」
「きたないカッコやな。」
「パリであんなカッコされたら、うちら、同じ日本人として恥ずかしいわ。」
「ひょっとして、乞食、しとるんとちゃうやろか。」
「紙袋持っとったけど、あン中、ものすごい汚い紙、入っとったもんな。」
 この言語は、懐かしい、ぼくのふるさと訛である。懐かしくはあるが、帰りたいと思うことはまったくない自分を、ひょっとしたら郷土愛が欠落している、似非日本人なのではないかと責め続けてきたが、この会話を背中越しに聞いたとたん、ぼくはぼくを責めなくてもいいんだと安堵した。それと同時に、彼らに保障された以上、ぼくは、パリの、スリという高級技術者に目を付けられることはないのだ、と確信もしたのである。
 もう一度二人の姿を確かめようと思って振り向いたら、二人もこっちを振り向いた。そしてにわかに急ぎ足になり、人混みの中に消えていった。手にはルイ・ヴィトンの紙袋が、それぞれ三つずつ下げられていた。ここはクリニャンクール。二人が某国大使館に駆け込むことのないように、ただ祈るだけである。

古代にロマンを求めた頃のことの巻〜木造赤坂遺跡を訪ねて〜

1.
 お福ちゃん、猩ちゃんを伴って歩いた旧久居市内の街々は「ぼく」が懐に抱かれて育ったところ。いわば羽ばたきをはじめる前の幼鳥と母鳥の如くである。やがて幼鳥は、母鳥の懐から抜け出し、母鳥の視界に収まらない活動をはじめる。
 高校生となった「ぼく」は、ツネユキ君という友を得た。ツネユキ君は美杉村(みすぎむら)という山村に母親と二人きりの生活をしていたが、高校進学にあたって、旧久居市の東南のはずれの集落・木造(こつくり)の祖父母の家に下宿していた。彼は農家の離れの八畳ほどの広さの部屋で起居していたのだが、高校1年生の夏休みを過ぎてから、ほぼ毎日曜日の午後、「ぼく」はその離れの部屋に通った。ツネユキ君は、当時、大正教養主義の書物に浸っていた。代表的な書物といえば阿部次郎『三太郎の日記』である。毎度毎度、「人生いかに生きるべきか」「人間における善とは何か」などの問いを「ぼく」にぶつけてくる。カントを読んだか、デカルトを読んだか、ショーペンハウエルを読んだかという問いは高校生活も終わりの頃であったろうか。正直なところ、「ぼく」には、それらの問いは不明であった。不明ではあったが、正面から受け止めようとする努力はした。しかし、その努力は、ツネユキ君にとっては、耐えられないほどに低俗であったらしい。にこやかな笑みの向こうに冷徹な目線をしばしば感じさせられた。生まれて初めて「劣等感」を覚えさせられたのである。
 その感情の芽生えは「ぼく」自身の手による「ぼく」自身の相対化の作業の開始を意味していた。
 ツネユキ君を訪問する楽しみのうちに、彼のおばあさんとの会話が含まれていた。「川口君、教えてくれへんやろか。」おばあさんの手には、必ず何かが携えられていた。高校1年の冬休み直前の頃、一枚の「古地図」が「ぼく」とツネユキ君の前に拡げられた。「土蔵の中にこんなんがあってなぁ。これは値打ちもんやろか。」その頃、「ぼく」が、松阪まで自転車で遠出し、本居宣長の「鈴の屋」をしばしば訪ね、彼の著作の木版を手で触れることができた喜びや、母から教わって暗記までした「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」の歌意を得々とした調子で語っている姿を見て、おばあさんは、いっちょこいつを試してみようと思ったのか、それとも本当にぼくが歴史に造詣があると信じたのか、そのあたりは分からない、とにかく、江戸地図−数々の大名屋敷名が書かれていたのを覚えている−と思しき図版が畳二枚分、拡げられた。「ぼく」は、図版上に「藤堂藩上屋敷」という文字を素早く見出し、「おばあちゃん、これは、江戸時代の地図やなぁ。江戸の大名屋敷を描いたんやに。」と即断して言った。「そんなんが、なんで、うちにあるんやろなぁ。」「ツネユキ君のご先祖様は、ものすごう、偉い人やったんとちゃう?」こうして、結論がはっきりしないにもかかわらず、おばあさんは、あれこれと品物を代えてはぼくに問いかけた。ツネユキ君との哲学問答、おばあさんとの歴史問答。いずれも「ぼく」はあいまいな対応しかできなかったのだけれども、「ぼく」にとっては歴史問答の方が楽しくかつ思考の整理が容易であった。なにしろ、思考のきっかけとなりかつ「仮説」(独断と偏見)を生み出すことを助けてくれる具体物が目の前にあるからだ。そう、「ぼく」は、まだまだ抽象的思考が容易なほどには、精神発達がなされていなかったのである。
 昭和35年(1960年)の年明け間もなく、おばあさんが、「川口君、木造で耕地整理をしようという計画があってな、今その予備調査をしてるんやけど、これまでもときどき鍬なんかにあたることがあったけど、今度はなぁ、ごつごつごつごつ、まあ私ら百姓にはめんどうなことになりそうなものが掘り出されてるんや。これやけどなぁ。」と、薄茶色い色やら鼠色やらした土器の破片を幾つかを「ぼく」の前に出した。中学時代、郷土研究クラブに所属し、古代史について学んだ経験則から、江戸「古地図」の時とはうってかわって、「ぼく」はおばあさんに向かって断言した。「おばあちゃん、これな、土師器(はじき)と須恵器(すえき)や!茶色い方が土師器で鼠色の方が須恵器。こんなんが畑で見つかったん?」「そんな難しい話はよう分からんけどなぁ。」「土師器の方が歴史が古いんや。赤っぽい色な。ぼくもあんまりよう分かっとらんけど、須恵器の方はロクロを使うて作ったり、焼き方のせいか土のせいか知らんけど、土の中の鉄分が焼き色に出るし、硬いんや。1500年以上も前のものやと思うで。」「川口君、興味あるんやったら、本格的な調査が始まる前の今やったらええと思うで、うちの畑、掘ってみいな。」
2.
 久居駅を二両建てのローカル電車で発った鶴福猩の三人は、次の停車駅「桃園」で下車。ワンマンカーであったことと先頭車両の一番前しかドアが開かないという、三人にとってはちょっとしたアクシデントを楽しんだ。その後は、「ぼく」の記憶−数十年前に形成された−では駅からほんの少しは家並みがあるけれども、後は畑の中のうねった一本道を進めばよかった。しかし、現実はそうではなく、街中の豹変振りとは異なるけれども、自転車をすっ飛ばして走った頃に目の端に入れた風景とは大分変化していた。戸惑いつつ、とにかく、木造集落と思しきあたりをめざして進んでいった。なるほどなるほど、耕地整理がなされたことがはっきりと分かる畑の区割りである。記憶の彼方にあるうねうねとしたあぜ道と溝は完全に姿を消していた。道に不安を覚えて、下校中の小学生に「木造はこの道でいいの?」と訊ねたら、「ハイ!」と元気のいい返事が返ってきた。我が家の近くで「今、学校から帰りなの?」と声を掛けたら防犯ブザーを鳴らされた経験とはまるで違って、温かい人間性を感じさせられた。しかし、「ぼく」の記憶にある、木々に囲われた集落はいつまでたっても現れない。進行前方に、道沿いに家屋が建った集落があるが、そうだろうか?それにしても、ツネユキ君のおばあさんのつぶやきというかぼやきが発端となって、やがて発見・発掘されるに至った大規模な遺跡はどこなのだろう。この旅の直前に、その遺跡の名を「赤坂遺跡」と呼ぶことをあらかじめ調べておいたが、なぜその名が付けられているのかさえ、「ぼく」には分かっていなかった。二度目の道案内を乞う。「赤何とか言う遺跡はどこかしら?」訊ねたのは小学中学年生。応えかねしている様子だったが、側にいた上級生のお嬢さんが、「あの黄色いもののところ!」と教えてくれた。道沿い集落の入口に子どものための交通標識らしきものが建てられている。その根本に、求める遺跡があるというのだ。それにしてもちっこいネー。

 − 木造そのもの、そしてその周辺一帯が古代史から現代に至る集落遺跡と言ってよい。ツネユキ君のおばあさんの畑に、歴史発掘の鍬を入れ、壊れた土器、完全な形の土器などを幾点か掘り出した「ぼく」は、まず、中学時代の社会科教師(「郷土研究クラブ」の顧問教師)のところに持ち込んだ。彼は、これは歴史学上の発掘にあたるだろう、博物館にきちんと話しをしよう、と、実物と「ぼく」とを携えて県立博物館に赴いた。博物館の人(おそらく学芸員だったのだろう)は、「雲出川流域は考古学の宝庫です。木造も耕地整理の前にきちんとした調査をする必要がありますね。」と語っていた。「ぼく」が掘り出した土器類はそのほとんどが公有物つまり歴史文化遺産として、博物館に所蔵されることになった。昭和37年に本格的な発掘調査が開始された。その後数次にわたって(今日までも)発掘調査がなされているというが、「ぼく」はその年に東京に出、ツネユキ君は名古屋大学に進学したこともあり、木造にはとうとう行かずじまいとなった。つまり発掘の様子をこの目で確かめることは出来ないでいるけれども、帰省の度に博物館に立ち寄り、遺跡発掘の報告書を目にしていた。−

 鶴福猩は「赤坂遺跡」の史跡看板の前に立った。赤坂とは地名であることをはじめて知った。看板−敢えてこのように表現する−には次の文言が書かれていた。「ぼく」にとっては既知の事柄となっていたので、理解はスムーズに行き、だからこそ、この辺り一帯の歴史の重さを誇りに思いつつ、目の前の「遺跡」保存の実情に激しい怒りを覚えたのである。

 「久居市指定文化財第四号         久居市木造町字赤坂
                      昭和四六年七月指定
  赤坂遺跡
赤坂遺跡は縄文時代から室町時代まで続く複合遺跡で、昭和三七年度の圃場整備事業中に弥生時代の住居跡や多数の土器の破片など遺物が発見されたので発掘調査を行いました。これが久居市での本格的な埋蔵文化財の発掘調査の始まりとなりました。
平成九年度の農道建設に伴う発掘調査でも弥生時代の住居跡や多数の壺や甕や甑などの土器が出土しました。また、住居跡群を取り囲む大きな溝も発見されました。この溝は村全体を囲む環濠ではないかと考えられます。赤坂遺跡は数度の発掘調査によって当時の村落や人々の生活の様子が分かる貴重な遺跡であることが分かりました。
雲出川によって形成された豊かな水田地帯の中の一段高い畑地では今もよく観察すると土器や石器の破片をみつけることができます。
管理者 久居市
平成一四年三月
久居市教育委員会

もう一つの看板に遺跡内容についてやや詳しく描かれている。

「赤坂遺跡は縄文時代中期(約五〇〇〇年前)から室町時代(約五〇〇年前)にまたがって営まれた『むら』の遺跡です。」「むらを囲むような大きく広い溝・・・の底からは、弥生時代後期の土器が一度に投げ込まれたような状態で大量に発見されています。この溝の横で赤坂地区を治めた者が『むら』の安全を祈る祭りを行っただろうと考えています(公示文書としてどうかと思われる表現ですねー)。」「近くから、大きな溝を堰止めるために打ち込まれた古墳時代の杭の列が発見されています。」

 荒れ果てた史跡の前に立つ立派な文言の看板。おそらくこの史跡は住居跡を例示するために残されたのであろう。柱跡らしい穴が見られることでその推測が可能である。しかし、全体的に覆われていたと思われる保護コンクリートは、雑草の勢いに押されて、無惨にも破滅し、あろうことか、モノを燃やした跡がある。
 こういうのを「看板に偽りあり」と言う。お福ちゃんが「投書します?」と言ったが,その気にさえなれない。哀れな歴史感覚を持った教育文化行政である。

「先生はどうして歴史学、考古学を専門にしようとしなかったの?」
「本当はね、歴史学を学びたくてね、文学部を受験したかったの。けど、時代の流れは理工系にあらずんば人でなしというのだったのね。母が、まさに身体を張って文学部進学を阻止しにかかったの。それで、ぼくは、半ば自暴自棄、やけのやんぱちで、文学部・理(工)学部・医学部以外を受験しようと決意した、というのが、青春の締めくくり。せめてね、歴史に対する感性だけは失いたくないと思い、壊れた土師器だけれど大切にしています。」

 久居の町は近世に作られたのだが、木造は、赤坂遺跡の説明に「室町時代」の文字が見られるとおりそれ以前の歴史を物語っている。近世以降は旧久居が政治支配の中心であるが、それ以前は木造がこの地域一帯の政治支配の中心であった。中世期から戦国期にかけては、藤堂の名ではなく、北畠の名でもって語られる必要があるのだ。
 (三重)美杉・多気−伊勢本街道の宿場町であり、伊勢参りでたいそう賑わった−に館(多気御所)を構え栄華を誇った北畠は公家の国司伊勢国司)であったが、実質は武家的な権力構造をもっていた。事実、一時室町幕府から伊勢国守護にも任命されている。応仁の乱(1464〜77)以後の戦国期に入ると、北畠は在国していたこともあって権力を維持し勢力を拡大した。南勢地域を中心に伊賀・志摩・紀伊・大和にも勢力が及んだが、結局、戦国大名化できなかったため、新興の織田に対抗できず滅び去った。
 木造は、1366(貞治5)年に伊勢国北畠顕能の次男が築城し、以後木造を称した。足利義満の時代に木造は北畠を離れ将軍家に直属するほどに権力中央の近くにいた。このことに象徴されているように、木造は、本来は宗家にあたる北畠に弓を何度も引き、政治には北畠と並ぶほどの権力を得ている。しかし、織田信長の伊勢攻めの時には織田に従い、信長は木造城に入城したという。
 閑静な田園地帯の中の静かな農村風景を目の前にすると、同族同士が激しく闘った拠点とはとても思われない。だが、地政学的に言えば、雲出川流域の肥沃な土地、そして都と伊勢神宮とを結ぶ主要な交通路を占有しているのだから、ここを押さえることは政治的に大きな意義があったわけである。

 鶴福猩は木造城のことを気にかけながらも−とりわけ中世史を専門とするお福ちゃんにとっては「北畠」の名が心のアンテナに強く響いたのだが−、次の伊勢路へと歩を進めた。

日本育療学会小規模研修会(2008年度)における拙報告へのお二人の感想

小規模研修会参加報告  長谷川千恵美(日本大学非常勤講師)

 研修会では、知的障害児教育の開拓者であるエドゥアール・オネジム・セガン(1812-1880)の軌跡を、川口幸宏氏(学習院大学教授)が現地で調査入手された豊富な史資料・写真と解説に導かれながらたどることができた。セガンといえばルソー、イタール、精神薄弱児教育、教具、モンテッソリーという図式理解しかない私であったが、サン・シモン主義、山岳派、施療院・救済院、病弱児教育というキーワードからの考察を通して多くの示唆をいただいた。そして「精神の、感情の異邦人」(ウージェーヌ・シュー「パリの秘密」1842-1843)として闇の中に放置されていた知的障害者に対し、教育の力による人格発達の可能性を見出し、市民、同胞として社会参加する権利の実現と「普遍化」をめざしたことの意義、病弱教育施設とのつながりを知るなど、小さなパリ旅行をしたような2時間であった。
 川口氏によると、当時すでにパリの病弱児施療院(1802)内に病児のための学校が創設されており、その院長ゲルサンを介してセガンはイタールと出会い、1838年よりイタールの指導のもとに「白痴」児の教育を試み、1841年からは「白痴の教師」という公的肩書きで実践の「普遍化」をめざしていった。
 病弱教育史に関心のある私としては、病弱児施療院内の学校で、子どもがどのような教育や医療を受けていたのか、また当時の医学や医療レベルについてとても気になった。この時期、1833年初等教育法(ギゾー法)によりはじめて小学校の設置義務が制度化されるが、義務制・無償制・非宗教による一般大衆の初等教育や教員養成の普及は1880年代に入ってからである。この時点では、家庭での教育も義務教育とみなされたようだが、病院内の教育は今日のような訪問教育とはおおよそかけ離れたかたちであっただろう。セガンの考えた「生理学的方法」の中にヒントがあるのかもしれない。
 また、ラエネック(パリ派)が聴診器を発明したのが1816年、英語圏に定着したのが1850年頃、X線や喉頭鏡、検眼鏡などで身体内部を検査できるようになるのは19世紀後半といわれている。セガンが白痴教育にかかわった時期は、問診をもとにした主観的判断から、聴診器を使って身体症状を細かに観察し、臨床的な判断を重視するようになる時代と重なっているようだ。素人の憶測ではあるが、身体に聴診器をあて、聴いて、見て、触って総合的な診断をするようになったフランス医療は、人間観の変化につながり、子ども観や教育観にも少なからず影響を与えたのではないだろうか、教育と医学の関係について思いをめぐらせた。
一般的に、セガンは障害児教育史上の人物として知られているが、それだけではなく19世紀フランス、さらに今日の教育と医療を考えるもうひとつの窓のようにも思えた。なお、病弱児施療院はネッカー子ども病院という名で現存しており院内学級があるとのこと。川口氏が紹介された写真では大病院ではなさそうだが、同病院がどのような歴史を経てきたのか、ますます興味が広がっていった。
 障害をもつ子どもの教育の歴史をみると、セガン、アユイ、ブライユ、レペ、ハウなど諸外国には必ずその開拓者が存在し、日本にも大きな影響を与えている。一方、病弱教育は19世紀後半にデンマーク、スイスに始まり、20世紀にドイツの林間学校、イギリスやアメリカのオープンエアスクールが開設され、日本には明治〜大正時代にかけて紹介され、その後開放学校、露天学校(養護学校、養護学級)の設置へとつながっていった。しかし、病弱教育に関わった人物やその実践、制度化の過程はあまり明らかではない。今回、フィールドワークを大切にされている川口氏のセガン研究とその方法に触れることができ、外国を視野にいれた新たな病弱教育史の手がかりが見えてきたことを実感している。


小規模研修会参加報告  神奈川県立平塚養護学校 総括教諭 桐山直人
 川口幸宏先生の講演「エドゥアール・セガンによる知的障害教育成立過程と「病弱児施療院」(現:ネッカー子ども病院)内の病弱教育学校−フランス社会における近代的福祉・医療・教育の成立の側面から−」を聞きました。私は川口先生から次の2著書を頂いており、講演と著書から得た感想を述べてみます。
   ◇ ◇ ◇
川口先生の2著書は次です。
・「エドゥアール・セガンの半生 イディオ教育の先駆者エドゥアール・セガン<フランス時代>」2005年7月、私家版
・「白痴教育の普遍化を求めたエドゥアール・オネジム・セガン」2008年10月、私家版
 2著書の執筆には約3年の時間経緯があり、川口先生のセガン研究の深まりを反映して記述内容に変化があります。前書で「セガンのイディオ教育は、歴史過程において、病弱教育とリンクしているという視点を持つ必要があることを理解することができた」と記しておられます。それは2005年時点の調査研究において、パリの病弱児施療院の院長ゲルサンが、同院に「収容されたある一人の子ども」アドリアンの施療・訓練をセガンに託し、セガンが病弱児施療院に通って訓練・教育を開始した、と考えておられたことが要因であったと思われます。
 しかし、その後川口先生は公文書館の同院入院患者名簿の調査により、アドリアンが病弱児施療院の「入院児童であったどうかははっきりしない」ことをつきとめられ、セガンは自宅アパルトマンでアドリアンの教育実践を行った、との見解を持つようになられました。そのためか、2008年版においては、病弱教育とのリンクについては触れておられません。
 病弱教育史を研究フィールドにしている私は、当時は栄養や衛生に配慮されない身体状態が悪い虚弱児と病気の子ども、そして知的障害児は渾然としていたのではないか、との見解を持っています。そのため、川口先生の2005年版の次の記述に注目し、病弱教育とのリンクになお強い関心を持ちます。それは、セガンの父親の言葉をロマン・ロランの曾祖父が日記に書き残したものです。「子息は病気に冒された人の治療あるいは少なくとも状態の改善をする目的でパリに施設を作っている」(1840年9月6日)と。その記述は、セガンの父親やその知人レベルにおいて、障害児の状態につての理解は、病気と知的障害が渾然としていたことを示すのではないか、と思えるのです。
 1810年前後に学校が設立されていた病弱児施療院に、病気の子どもも虚弱児も知的障害児もいたと考えられます。そして、病虚弱児の教育方法では効果が上がらない知的障害児の教育方法が課題となってきてセガンが登場する、という経緯があるように思われます。今回の研修会において川口先生は、病弱児施療院及びその院長ゲルサンとセガンの関わりを語られました。「病弱教育とリンク」という言葉が川口先生から語られることはありませんでした。しかし、私には当時のフランスの知的障害児教育において、川口先生が2005年版で言われた「病弱教育とリンク」するという「仮説」は検証する価値があるものと思えました。また、次の2点も「病弱教育とリンク」することを想像させます。
セガンが後にアメリカに渡ってニューヨークに創設した学校は「精神薄弱および身体虚弱な子どものための生理学的学校」であり、「精神薄弱」と「身体虚弱」が並列であること。
セガンの1846年論文が「白痴者とその他の発達遅滞、あるいは不随意運動の興奮、虚弱、聾唖、吃音、その他を持った子どもの精神療法、衛生および教育」であり、「虚弱」をも対象としていたこと。
 川口先生は講演のレジメ「その他の関連事項について」において、病弱教育との関わりのある次の3つの研究課題を示しておられます。
・病弱児施療院との実体的関係があったかどうか
・病院・福祉施設における子どもの教育との関連性
・施療院・救済院の近代化過程との関連
 セガン研究や、知的障害教育史研究において、もっと医療との関係、病弱教育との関係を調査する必要性を感じることができました。
   ◇ ◇ ◇
 講演会の後に、受講者の懇談会を行いました。その席で岡田英己子先生(首都大学東京教授)が、セガ研究史の研究が求められる、と語られました。歴史研究の歴史、となります。それは、障害者をめぐる社会的な課題が変わることによって、セガン研究の視点や方法・評価が変わってきていることによります。たしかに川口先生の研究は、これまでのセガンの研究視点や研究方法と違っています。
 川口先生は、フランスの公文書館等の調査により、これまでのセガン研究の「常識」と「誤解」を解き明かして、これまでにない新しいセガン像を語られました。2008年版のタイトルが「白痴教育の普遍化を求めたエドゥアール・オネジム・セガン」であることが象徴しています。それは、川口先生が障害児教育史の研究者ではなく、「教育実践史」「人間形成(川口先生によると学習者主体形成の教育)研究」の専門家であり、セガン自身の「文明化」の解明という視点を持たれたからできたのではないか、と思っています。川口先生は、セガンが白痴教育を開始するまでの生育史を調査し、教育実践を行った場所や時期をフランスの公文書をもとに調査し、再検討されました。セガンの両親の生まれや結婚、セガンの出生や体質、学歴を調べておられます。セガンが虚弱体質であり、仕事は一日4時間までしかできなかったことから、パリでの住居と仕事場との移動時間まで配慮して考察を進めておられます。セガンの思想、文学活動も調べておられます。セガンという人物を作り上げた経緯を研究するという川口先生の研究視点が、セガンという人物が成したイディオ教育に新しい評価(=白痴教育の普遍化)をもたらしました。
   ◇ ◇ ◇
 セガンは1866年の「白痴および生理学的方法による白痴の治療」序文において「白痴者たちは教育され、療育され、改善され、治療されうるのだろうか?こうした問いを持つことがそのことを解決することであった」(2008年版より)と記しているとのことです。何とも壮大な問題提起です。そしてまたセガンに引き込まれる魅力ある言葉です。この言葉を障害児教育を仕事としている自分の体験から理解し、もう一方で当時のフランスの社会状況や人権意識がどのようであったかを学習して理解したいと思いました。
   ◇ ◇ ◇
 この研修会は、川口先生のセガン研究を西牧謙吾さんにお話したことに端を発します。川口先生は、ご自分の研究をホームページで紹介されており、研究の進展をブログに書いておられました。ホームページ・ブログを通じて私と川口先生の情報交流があり、セガン2005年版著書を送付していただきました。川口先生の、セガンの知的障害教育の始まりが「病弱教育とリンク」する、という仮説を西牧さんにお話すると、強い関心を持たれ、小規模研修会で講演願えないか、との申し出がありました。このことを川口先生にお伝えし、ご了解を得て研修会を開催することができました。
 お会いして研修会のお願いをしたいと思い、7月末に学習院大学の川口先生の研究室を訪問しました。その時川口先生は、1800年代のフランスの医療法規集を、子どもの医療と教育についての規定がないかという観点で読んでおられました。またフランスの子ども医療史展覧会の図録を見せていただきました。以前にフランスに調査に行った時に開催していたとのことでした。1901年のネッカー子ども病院の正門、屋外でデッキチェアーで陽に当たる子どもたち、数人でお風呂に入る子どもたち、算数問題を書いた黒板のある部屋等の写真を見せてもらいました。着々と準備を進めておられました。ご自分の時間を研修会のために、フランスでの再調査、レジメや分厚い冊子作りにあてていただきました。ありがとうございました。
 育療学会は、その創設時の会則「三.事業」の項に「(一)研究の推進 2.心身の健康に問題をもつ子供に関する家庭、教育、医療及び福祉等の歴史に関する研究」とありました。現在の育療学会においても「子どもの教育、医療、福祉等に関する調査研究及び知識の普及」を事業として掲げています。「19世紀、フランス、知的障害、セガン」といった時代的、地域的、領域的に研究の広がりをもたらす川口先生の歴史研究に大いに啓発されました。
 研修会の後の懇談、食事を取りながらの歓談等でも学ぶところが多く、楽しい会となりました。ありがとうございました。

(旧稿)ある日ある時のパリ歩き <9区 ピガール通り>

オネジム=エドゥアール・セガン(1812年フランス生まれ〜1880年アメリカで没す)が1841年に白痴・痴愚の子どものための教育施設を開いたピガール通り(パリ9区)近辺は、パリ・コミューン1871年)を研究するぼくにとってもなじみの地名である。パリ・コミューン下で生きる一人の少年を主人公にした児童文学「パリ・コミューンの頃、ぼくは子どもだった」(直訳題)の冒頭は少年が義勇兵として従軍する父親に衣類を届ける場面である。モンマルトルの丘の麓ピガール広場の中央に設置された噴水のところで久しぶりに父子が再開する・・・。
 そのピガール広場から放射線状に通りが走っている。1871年3月18日、政府は軍隊を使って、義勇軍である国民衛兵隊の軍備解除を強制しプロイセンに恭順の姿勢を示す活動を開始しようとしたその瞬間、パリ民衆たちはそれを阻止し、政府軍を撤退させた。そればかりではなく、政府はパリを捨てヴェルサイユ宮殿に移る。パリが政治的に空白になったその時からパリ・コミューンが成立するわけである。その舞台は現在サクレクール寺院がそそり立つモンマルトルの丘である。

 ピガール広場からの放射線通りの一つ、ウドン通りがモンマルトルの丘の方へと走っている。ウドン通り2の住居で、偉大な革命家ルイズ・ミッシェル女史が私立学校を開設している。現在その跡地はティー・サロンとなっていた。
 ピガール広場を挟んでウドン通りと反対側に走る一本の道がピガール通りである。ルイズ・ミッシェルはピガール通りでも子どものための施設を開設していたという。そして我がエドアール・セガンが白痴・痴愚の子どものための学校を開設しているのだ。

 ある半日を、ピガール通りの散策に当て、二つの施設の跡地を探し求めることにした。じつは、ピガール広場を中心とした地域はパリには珍しく、夜になるとネオンが灯る。日本の歌舞伎町は極めて特殊な地域でありそれと比較するには気が引けもするが、性格的には歌舞伎町のような地域である。パリの古い時代から酒色を求めて人々が集まるところだ。長く続くピガール通りの、広場に近い半分がそのようなところであり、まちがいなくルイズ・ミッシェルが子どものための施設を開設したあたりである。また、広場から遠ざかって半分はがらりと雰囲気が変わって住宅街兼オフィス街である。セガンが学校を開設したのはピガール通り6。すなわち現在はオフィス街として姿を変えているところである。
 ピガール通りの起点はピガール広場とは反対側となっている。ということは、ぼくはピガール通りの終点から探索を始めたわけである。日中気温が38度という何十年ぶりかと言われる暑い夏のパリ、慣れない土地、しかも安全が保証されない土地を、左右に史跡を求めるという緊張の度合いの強い散策で終点にさしかかった頃には疲労の極致に達していた。赤い文字で「氷」と表示された張り紙の店を見つけた。そこはケーキとお茶の小さな日本茶屋である。
 MOMOKAという名前の茶屋で熱い抹茶をいただきながら若い女性店主に、エドアール・セガンとルイズ・ミッシェルの名を出して尋ねた。予想のごとく彼女は知らないと言いながらも、親切を重ねてくれた。すぐ近くに学校があるからそこで尋ねてみたらどうだろうか、と。残念ながら学校は9月まで休暇中で閉門されている。さらに店の上のアパルトマンに古くから住む婦人がいるから機会があればその人に訊ねておくとも言ってくれた。抹茶ケーキのおいしさと親切に感謝の辞を述べながらその店の番地を見ると、なんとピガール通り5とあるではないか。となれば、道路を挟んだ向かい側こそエドアール・セガンが学校を開設したところ、ピガール通り6である。現在は立派なオフィスとアパルトマンとして使用されている。(注:オスマン改革によって、現在の6番はセガンの時代のそれとは異なっていることを、後日知った。現在の8番がセガンが学校を設立したところ。)

 ・・・ピガール広場から歩き始めてまもなく一人の客引き女と出会った。同行の通訳をお願いしているAさんが「昼間から客引きするのですか?」と聞いたのもやむを得ないだろう。ついでながら復路では二人の客引き女と出会い、そのうちの一人から「ボンジュール、ムッシュ」と声を掛けられた。その時にはAさんと少し間をおいて歩いていたから、一人歩きの老日本人(・・・金持ちでスケベ・・・という定評があると噂に聞いている)に見えたのだ。もちろん応答することなく側を通り抜けたが、これが夜となれば安全は保証されたかどうか、不明である。

 二人の男女――エドアール・セガンとルイズ・ミッシェル――の、約20年ほどの時間差を置いた歴史の具体的な跡(壁面に張られたの顕彰文など)を見つけることはできなかったが、パリの下層の人々の暮らしと酒色の舞台でもあったピガール通り界隈をこの目に収めることができたことは大きな収穫であった。ちなみに、地下鉄駅ピガール構内に近辺の歴史ガイドの掲示があったが、そこにもまた二人の名前は記されていなかった。
(2003年8月記)

「セガン」に向かい合って、10年―私と「セガン」

I 2005年7月2日、清水寛氏の編著書『セガン 知的障害教育・福祉の源流―研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター)出版と、同書を対象として日本社会事業史学会から文献資料賞が授与されたことをお祝いする会が、東京・豊島区の学習院大学文学部大会議室を会場として開催された。100人近くの参加を得た盛会だった。会の結びに、清水寛氏が、2012年のセガン生誕200年記念としてクラムシーで国際的なセガン研究シンポジウムが開催されるだろう、そこで、日本のセガン研究の到達を発表する意向である、とご発言になった。新しいセガン研究の踏み出しが、こうして宣言されたのであり、「日本セガン研究会」という会則を持った団体がその場で出発した。私に事務局の役割を果たすように命じられた。
 「日本セガン研究会」がどのような活動をしたかと言えば、会報「セガン研究報」を発行したのみであり、執筆者も多くいたと言えば聞こえがいいが、それは最初の数号のみで、ほとんどが川口の個人通信のようなものであった。これまでのセガン研究にない新しい史料発掘に基づいて、歴史エッセイ風に綴ったが、会員や読者の反応はほとんど無かった。正直に言えば、「ああ、セガンはもう終わったんだな」と思わされ、とてもではないが、「2012年の生誕200周年記念国際シンポジウムでセガン研究の新しい到達を発表する」など、万に一もあり得ない妄言なのだと、諦観に支配されるようになった。
 そのような中で、私にはまったく未知の世界からの強い反応が寄せられた。日本育療学会でご活躍で、病弱児教育史の研究を精力的に続けておられる桐山直人氏から、育療学会小規模研修会でセガン研究について報告しないか、というお誘いをいただいた。その日が2008年10月18日。これまでのセガン研究の史資料的ずさんさを指摘し、新しく発掘した当事史料を基にした報告は、それなりに好意的に受け止められたと思っている。
 研修会での報告に勢いを得て、2009年度に予定された内外研修の課題にセガン研究を据え、 研修の場の一つにフランスを加えた。
 そして、この研修では、それまで考えもしなかったような史料収集が実現した。セガンのフランス時代の実際(生育環境、公的機関における活動、革命参加等)を証拠づけることができる公文書やそれに類する史料の発掘が多々できた。この在外研修の成果は、『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン〜孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)として纏めた。拙著に対して寄せて下さったお声は、一、二を除いて、とてもありがたいものであった。
 その内のお声より。
 「若かりし頃の輝きを失ってしまったあなたはそれだけの人でしかなかったのかと思っていたが、この著書であの輝きが本物であったことが分かって、とても嬉しい」と研究者としての資質に言及下さった志摩陽伍先生。また藤井力男氏がフランス教育学会紀要での拙著書評で「本書により解明されたセガンの実像は、サン=シモニストとして位置づけられてきた理解よりも、はるかに実践的で、「社会権」、「労働権」の実現を求めた、果敢な青年であった。イディオ児の教育方法の開発にあたっては、子ども自身の能動性を引き出すべく努めただけでなく、それをさらに「公的な機関」で実践すべく、自ら関係大臣に直訴するという、きわめて論理的で意欲的な青年であった。・・・・国際的に高く評価されるだろう」と研究内容に言及下さった。
II だが、「いずれにしてもセガン研究を終息するべきだろう」という心には変わりなかったが、2009年の在外研修中に訪問したセガン生誕の地クラムシーの「クラムシー科学芸術協会」会長ルモアーヌ氏から、セガン生誕200周年にあたる2012年に記念のシンポジウムを開催したいが、どのようなテーマがいいか、どのような人選がいいか、日本から参加が可能か、との問いがなされた。清水寛氏編著の大著がクラムシーに寄贈されたのは2004年、第1巻冒頭には当時市長のバルタン氏が寄稿しておられる、そして私が2003年以降たびたびクラムシー入りし調査をしている、そういう事情などから、ルモアーヌ氏から問いかけがなされたわけである。国際シンポジウム開催の一翼を担うことなどできるはずはないが、あれこれと提案し、日本からは少なくとも清水寛氏と川口が参加する、と回答した。
 さあ、我が日本でも、可能ならばセガン生誕200周年記念の催しを何かできるようにしたいものだ。2012年に向けて、とりあえずできることは、休刊状態にあった「セガン研究報」を再刊し、国際シンポジウム開催の情宣をし、せめて記念誌の刊行をしよう。それが、あまりにも遅れてきたにせよ、とりあえずは自称セガン研究者が後世代にバトンタッチすることの責任であろう。
 このうち、「記念誌」は「セガン研究報」通算第8号、特集「セガン生誕200周年記念」、発行:2012年1月20日セガン生誕の月日)として刊行ができた。全108頁。200部発行。執筆者とタイトル等:
竹田康子「モンテッソーリ教育におけるセガン教具の継承と発展」、村山拓アメリカにおけるセガン像の解明に向けて」、川口幸宏「旅路」、瀬田康司「「子ども期」をどう捉えるか」、川口著書(前出)書評:東海林篤、桐山直人、藤井力男、神郁雄、清水寛
 セガン生誕200周年記念国際シンポジウムは、2012年10月28日29日に開催された。結局、日本からは私だけしか参加する者はおらず、この件に関する問い合わせも1件もなかった。ああ、セガンは本当に終わった人なんだなあ、と痛感させられたものである。このことと併せて感じたことは、私のセガン研究に興味・関心を寄せて下さる人たちは、「セガン」そのものにあるのではなく、私の主たる研究方法・フィールワークにあるのだ、ということだった。事実、「セガン研究の足跡を辿る旅」が企画・実施された。2012年夏のことである。
 シンポジウム当日、セガンの半生史を博士論文に纏めたジャン・マルタン氏(医学博士、パリ在住)と、セガンの生育史に関して情報交換し、氏の研究課題と私のそれとが近似していることを知った。氏も「なんと誤りの多いセガン半生史か」と、シンポジウムの基調報告の冒頭で述べていた。その氏でさえ、基調報告の中で、「ムッシュ川口の研究から、セガンが出された里子先のオセールの祖母の家が実在すること、セガンが1848年革命当時に労働者のクラブという集まりを組織していたことなど、史料を添えてあるので、貴重な史実を知ることが出来た。セガンが共和派の活動家であったことが史実として確定できるし、その他セガンの未解明の部分に分け入るための貴重な事柄が示唆された研究だ」と、私の研究を評価した。つまり、セガンを産み育てセガンの教育研究から多くの果実を摘み取ってきた母体であるフランスにおいてさえ、日本在住の、しかもセガン研究ではぽっと出の私の気づきが意味を為すという、研究実体なのだ。
III このシンポジウムをもって私のセガン研究の約10年の「旅」は終わるはずであったが、障害児教育(史)研究者でない私にとってのセガン研究の課題は何なのか。せめて幕引きのための弁だけは残しておきたいと思い立ち、パリ・コミューン研究で課題としてきた「教育の権力的なものからの自立」とつなぐ意志で、セガンは「白痴の教師」という専門職自立を果たそうとした先駆けであるという視点から、論理を建てて、綴り直した。
 これは、直接には、日本育療学会の機関誌『育療』に随意題寄稿という機会を与えていただいたことをきっかけにして、かねてから心の内にあった、セガンの19世紀的位置づけを明らかにしたい、という課題意識を公刊することへ進んで行く。日本育療学会機関誌『育療』第50号(2011年3月)「『イディオの教師』の誕生とその意義」という論題に纏めた。そして、その時より数年後、先のパリ・コミューン研究の課題意識と結びつけたのが、『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)との書名で出版の運びとなった。本書はその刊行が、たまさか、私の学習院大学退職時と重なったため、本人の真意とは別に、退職記念の書であるかのようにみなされている。
 これで、私はセガン研究の重荷を下ろすはずであった。そして、フランス社会文化史の研究に身を投げ込む準備を始めた。
 しかし、重症の病(脳梗塞による左半身不全ならびに構音障害)を得たため、フィールドワークを伴うフランス社会文化史の研究は断念せざるを得なくなった。昨年3月末からの自宅療養の傍ら、他に課題も見いだせず、かといって他にやることも見いだせず、また不可能でもあり、心身の命をつなぐために何とか見いだしたのが、セガン研究の再整理であった。二つの自著の間違い探しから入り、研究課題になり得るかどうかの検討を加え始めた。2012年のセガン生誕200年記念国際シンポジウムは、格好の材料である。私のシンポジウムの報告文は拙著『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)に収載したが、著作紙面上には書き表せなかったことも多くある。私は、どうしても、セガンの生育史にこだわりを持つ。19世紀論としてセガンを素材にしたいという思いがまだまだ強く内在しているのだ。
 ところで、シンポジウムを総括的に捉え直しているうちに、セガンを産んだと言って誇りを持ち、1980年には「セガン没後100年祭」を主宰し(これには日本からも、大井清吉氏、松矢勝宏氏他の参加があったようだ)、2012年には「セガン生誕200年」祭を主宰したクラムシーのセガン認識が、なんとお粗末なことよ!と気づいた。まさに、ジャン・マルタン氏の基調報告の冒頭の辞「なんと誤りの多いセガン半生史か」の様態なのだ。
 シンポジウムのプログラムに載せられた主催者挨拶文(クラムシー市、クラムシー市メディア・センター共催)に、セガンの経歴の概略が綴られている。その部分を再録しよう。
エドゥアール・セガンはクラムシーの出身である。1812年にオー・バ・デュ・プティ・マルシェ通りに生まれた。その地域圏で長く続く家柄の出自であった(1)。父と叔父は医師であった。セガンはオセール中等教育の学習の第一歩を踏み出し、続いてパリのリセ・サン=ルイで終えている。
 1830年に法学部に学籍登録をしているが、これといった信念に基づくものではなかったと思われる。実際、そのわけもほとんど分かっていないが、1837年に、父の友人でありアヴェロンの野生児の教育者として著名な、医師ジャン・イタールの好意の下で、一人の白痴の子どもの教育に取りかかった。この取り組みは著作『H氏へ・・・私が14ヶ月間行ってきたことの要約』(1839)に纏められた。1839年には、ゲルサンとエスキロルによる一編の好意的な報告が、セガンに、セヴル通りの不治者救済院(2)の障害のある子どものクラスでその方法を当てはめる道を拓いたのである。一方で(3)、ピガール通り6に私設を開いた。1842年にビセートルの門が彼に開かれるまでに、セガン教育は大医学者の間で知られるようになる。しかし、改革者は決して受け入れられることはなく、逆に、無視、嫉みに見舞われた。それ故セガンは1843年に職場を離れるが、罷免されたのかそれとも辞職したのか?(4)
 セガンの職業経験はいずれも緻密な作品の対象となっている。とりわけ『遅れた子どもと白痴の子どもの教育の理論と実践』(1842)と『白痴と他の遅れた子ども...の精神療法、衛生および教育』(1846)はよく知られている。
 1850年、彼はアメリカ合衆国に渡った。その地では彼の方法がよく知られ高く評価されていた。彼はその地で大きな成功を収めた。オハイオ州で10年過ごした後ニューヨークに身を落ち着けた。1861年にはニューヨーク市立大学に職を得た。
 1862年アメリカ医学協会のメンバーに任ぜられた。当時彼は検温に関心を強めており、1876年に著した著作『医療検温と人の体温』で、医療への導入の優位性を強く論じている。
 最後に、エドゥアール・セガンは1873年のウイーン国際博覧会アメリカ教育代表者として派遣された。その際彼はヨーロッパの様々な教育制度を関心を強めて調査している。
 1880年ニューヨークで死去。」
 上記引用中、フランス時代にのみ付したカッコ書き数値箇所は、誤りあるいは不確実理解を誘発する記述である。これらについて、数字順に解題しておきたい。
(1)セガンの告別式(1880年、ニューヨーク)で、セガンの友人ブロケット博士が述べているところを援用したと思われる。地域で代々有力な医師の家系という説は、多くのセガン研究者によって無批判に引用されてきているが、私は、セガンの家系調査に入り、この説―それが医師の家系ではないにせよ―は誤りであることを、史料を添えて実証した。前記の『セガン研究報』第8号に寄稿した「旅路―オネジム=エドゥアール・セガン その生誕からフランスを去るまでの光景」がそれである。父はクラムシー出身ではなく医師としての入植者であること、母も結婚によってクラムシーに入ったこと、祖父母は父方母方共に、クラムシーとは無縁であること、またそれぞれの上世代はさらに別の地域の出身であることを、戸籍調査等で明らかにしている。
(2)セガンがセヴル通りの不治者救済院で白痴教育を展開したというのは、ブルヌヴィルが、1889年7月12日のフランス下院で行った緊急の法律提案書の中で記述されたことである。これは研究史で延々と語り伝えられてきた。この情報を起源としてセガンが「サルペトリエール院」で実践をしていた、という誤謬の論に「発展」してもいる。しかし、これについては、我が国では、まず藤井力男氏が異を唱えられ、次いで川口が、セガンは、セヴル通りの不治者救済院とフォブール・サン=マルタン不治者救済院の両院に「白痴の教師」として雇用されたが、実際にはセヴル通りの方には就業しなかったことをセガン自身が『1843年著書』で明言しているし、史実も記録もそうであることを公文書を添えて明らかにしている。この解明を史料的に行ったのは藤井氏と私だけではないだろうか。米仏の研究では見かけられない。
(3)「一方で」という記述は、セガンの白痴教育の展開史の誤認を招きかねない。史料的確認がすでになされている事柄だが、念のために記しておく。1840年1月からピガール通りの「私設」(公認)の学校の3人の子どもの教育、1841年10月からフォブール・サン=マルタン不治者救済院(「学校」に相当する機関は設置されていない)に収容されていた10人の白痴の子どもたちへの教育、そして1843年1月からがビセートル救済院内の「学校」の子どもたち(正確な人数は不詳)の教育。
(4) 21世紀の幕開け以前、テュエイエ、ペリシエ両者編集『子どもの精神医学の開拓者 エドゥアール・セガン(1812−1880)』という史料集にセガンは馘首された旨の記述がなされている。川口は前記の2010年著作や論稿「旅路」において、その原史料を紹介している。
 これでは、私が我が国のセガ研究史の第二期(主として我が国1970年代以降に特徴的な研究)に対して行っている批判がそのまま生きて来るではないか。要は、それほどにセガンは注目もされず、一通り舐めれば、はい終わり!という対象として研究的には扱われてきた、ということを意味しているのだろう。セガンを研究する意義と任務は何か、と、1970年代から1980年代に、喧しく研究が燃えさかった。論文も数多く生まれ、セガン原著の翻訳も出された。あえて言えば、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(前掲書)は、その残り香的なものであったのだ。ただし、藤井力男氏の緻密なセガン研究を含んではいる。私の知る限り、その後にちらちらと出されるセガン研究は、シンポジウムの主催者挨拶文から、一歩も出ていない。セガン研究第二期そのものなのだ。
IV セガンのフランス時代の作品は、可能な限り入手し、飛び飛び読みはした。しかし、巷で聞こえる「セガンはむずかしい」(翻訳書をあてにしている人たち)という声に、私は首を傾げ続けていた。「むずかしいのではない、誤解、曲解をしており、日本語としても矛盾しているのではないか」と。知的障害教育史上のセガン像はもう確立しているだろうが―セガン的な教育のやり方については、とっくに伝承され発展させられていることだ―、訳本の理解や研究論文の到達では、19世紀に生きたセガン像は、けっして明確にされていない。原文は、確かにまっすぐな文章の組み立てではないけれど、網膜に光景を浮かべて考察できるほどに具体的である、という印象を持つ。セガンをセガンのままにきちんと紹介すれば、セガン研究は推進されるのではないか、教育方法論・技術論として読むことは現代にあてはめるのに無理があるかもしれない、しかし、哲学として、歴史対象として読むには、絶好の素材ではないか。理論と実践とが同居しており、本筋が通っており、比較的ハンディな図書といえば、1843年に発表された「白痴の衛生と教育」だ。これは、当時のフランス社会の理性の塔・王立科学アカデミーで、異例な扱いとなる、高評価を得たものである。つまり、白痴教育がフランス社会の理性の塔の内部で正式に議論され、セガンの努力―人間の新しい可能性の誕生―に対して謝意がアカデミー総会総意で送られたのである。つまり、19世紀の理性の中にセガンの白痴教育の成果が組み込まれたのである。
 私の残された人生がどれほどのものなのかは、神のみが知ることであろう。だが私は今を生ききりたい、それを可能な限り連続させていきたい。その手段として、19世紀セガン像の解明にあてよう。
到達するところは、セガン自身によってセガンの本当の姿を語らせることにある。