鶴福猩が古代を旅した  松阪編

☆松阪ほど近くの車中にて進行方向右の車窓向こうの山並みを指差しして(中世の巻)
 「白米城」と呼ばれる城趾があるのですよ。山のてっぺんが城垣の形をしているのがあるでしょ?水攻めにあったのだけれど白米を流してまだまだ水があると思わせた、という話が伝わっていますね。ハイキングコースとして親しまれています。ただし、マムシがよく出ますけど。
 「白米城」とは俗称で、阿坂城という。城趾は国史跡となっている。標高310mの頂上に城が建てられた。阿坂城は典型的な山城で、北畠氏にとっては伊勢平野を監視する重要な城であった。1415年、国司北畠満雅後南朝を奉じて反幕府挙兵したとき、幕府軍兵糧攻めを行ったのに対し、城側は米を水に見せかけて馬の背に流し、まだ水が豊富にあると思わせて包囲を諦めさせたという言い伝えが生まれ、以来、白米城とも呼ばれている。また、1569年織田信長による侵攻の際、攻め手の将、木下藤吉郎が負傷するほど北畠氏の抵抗は激しかったが、ついに陥落して廃城となった。
 同じ北畠一族であっても、久居の木造城が織田方であったのに対し、こちらは反織田。三重はなかなかややこしい深層心理を抱えていますな。
松阪駅にて(近世の巻)
 ここが松阪牛で有名なところです。和田金という店が有名ですけれど、一見の客はお断りとか。ぼくには縁がありませんけれどね。でも、松阪はぼくの青春期には欠かせないところでした。本居宣長の「鈴の屋」を訪ねて自転車でやっこらやっと通ったわけですからね。当時はまだ未整備状態で、彼が出版した書物の版木が丸裸で積み置かれましてね、何度もこの手で触ったのですよ−(福猩、合いの手)えーっ、いいなぁ−。
 それはそれとして、本居宣長賀茂真淵の「松坂の一夜」もまた、文学史、思想史、教育史において、重要な意味を持ちますね。ぼくは、子どもの頃から、しつこいほどにこの話を聞かされたものです。「学ぶに機を逃すな」「出会いを求めよ」「学ぶには真摯であれ」とまあ、こういう訓話でしたが。宣長は、真淵との出会いの日の日記には「廿五日、曇天 ○嶺松院会也 ○岡部衛士当所一宿【新上屋】、始対面」とだけしか記していないのですが、後に「玉勝間」で詳しく回想しています。佐佐木信綱賀茂真淵本居宣長』(大正6年4月10日)がこれを記述し、国定教科書(第3期)に掲載されたことによって、広く国民の間に知られるようになったわけです。以下、信綱の著書より。

松坂の一夜
 時は夏の半、「いやとこせ」と長閑やかに唄ひつれてゆくお伊勢参りの群も、春さきほ   
どには騒がしからぬ 伊勢松坂なる日野町の西側、古本を商ふ老舗柏屋兵助の店先に「御免」といつて腰をかけたのは、魚町の小児科医で年の若い本居舜庵であつた。医師を業とはして居るものゝ、名を宣長というて皇国学の書やら漢籍やらを常に買ふこの店の顧主(とくい)であるから、主人は笑ましげに出迎へたが、手をうつて、「ああ残念なことをしなされた。あなたがよく名前を言つてお出になつた江戸の岡部先生が、若いお弟子と供をつれて、先ほどお立ちよりになつたに」といふ。舜庵は「先生がどうしてここへ」といつものゆつくりした調子とはちがつて、あわただしく問ふ。主人は、「何でも田安様の御用で、山城から大和とお廻りになつて、帰途(かへり)に参宮をなさらうといふので、一昨日あの新上屋へお着きになつたところ、少しお足に浮腫(むくみ)が出たとやらで御逗留、今朝はまうおよろしいとのことで御出立の途中を、何か古い本はないかと暫らくお休みになつて、参宮にお出かけになりました」。舜庵、「それは残念なことである。どうかしてお目にかかりたいが」。「跡を追うてお出でなさいませ、追付けるかもしれませぬ」と主人がいふので、舜庵は一行の様子を大急ぎで聞きとつて、その跡を追つた。湊町、平生(ひらお)町、愛宕町を通り過ぎ、松坂の町を離れて次なる垣鼻(かいばな)村のさきまで行つたが、どうもそれらしい人に追ひつき得なかつたので、すごすごと我が家に戻つて来た。(後略)

 ところで、「一夜」は「いちや」なのでしょうか?それとも「ひとよ」なのでしょうか?国語教育史を専門とするぼくにとってははなはだ興味深いところ。芦田恵之助という国語教育の神様みたいな人がこう授業で言っているのですね。
「松阪(マツサカ)の一夜(ヒトヨ)と読むんぢやね、一夜(ヒトヨ)と読んでも一夜(イチヤ)と読んでもよい。どちら読んでもあやまりではない。それから、松阪(マツサカ)と三重県ではにごらずにいつて居る。それで三重県でいつてゐるやうに読んだ方がよいと思ふ。松阪(マツサカ)の一夜(ヒトヨ)ね・・・。」(『教壇叢書第2冊 松阪の一夜』)。
 うーん、「松坂」か「松阪」か、「まつざか」か「まつさか」か、新しい問題も出てきましたねー。いや、芦田先生が三重県で言っているように読んだ方がよいと言っておられますが、ならば、ぼくなどが言っていた「まっさか」ってのはどうなるんでしょうか。
 そうそう、これを忘れてはいけませぬ。
 本居宣長『玉勝間』巻14「伊勢国」曰く−
「かくて此国、海の物、山野の物、すべてともしからず、暑さ寒さも、他国にくらぶるに、さしも甚しからず、但しさむさは、北の方へよるまゝに次第に寒し、風はよくふく国なり」
 ほんにほんに風が強おしたなぁ。寒うて寒うてたまりませんどしたえ。北の方ではのうて南へ南へとよるままでありんしたのになぁ。もう、宣長はんの、嘘つきー。(福猩の大いなるつぶやきより)
 それでね、その風のことなのだけれど、北の方へよれば鈴鹿颪、中の方(つまり、津や久居あたりね)へよれば布引颪。はてさて、「まっさか」や伊勢は何颪というのだろう。やはり布引颪と呼ぶようですね。この冬の寒さが美味しい日本酒を造ります。ぼくには関係にゃーけど。(鶴のブツブツ) 

各駅電車が伊勢路を進む・・・。