蝶人戯画録

毎日お届けする文芸、映画、エッセイ、詩歌の花束です。

ある丹波の老人の話(25)


それから波多野翁は、若い私に向かって、“積極と消極”ということについて語られました。当時この用語はまだ一般世間では珍しかったんですが、翁はこの当時流行の新語にことよせて私に処世の要諦を説かれました。

翁は“積極”については、自分に確信があったら冒険と思われるようなことでも勇気を奮ってドンドンやれ、とおっしゃいました。

この時私が持っておった78株は主として在来の旧株ばかりで、少数の優先株が混じっていた程度だったんですが、私には「郡是はつぶれない。きっと良くなる」という確信と、財力にも多少の余裕が生まれておった関係から、翁のその言葉に励まされ、引き続き優先株買いに狂奔することができました。

そのためにはずいぶん剣の刃を渡るような冒険もやったもんでした。

思えば津山の武蔵野旅館に泊まったときも、最初は100円のチップと偽装札束を預けていちおう大尽風を吹かせてみたものの、着替えのときに旅館が蒔絵の美しい衣装箱に入れて出したのは、黄八丈のどてらにコロコリしたちりめんの兵児帯、そこへさらに私が脱いだのは袖口の切れかけた袷にヨレヨレの木綿の帯でした。

それを女中がていねいにたたんで衣装箱に納めるときには思わず冷や汗が出ました。

そんなことから偽装札束のトリックがばれやせんかと毎日気が気ではありまへん。時々金庫から偽装札束を出してもらって、その見た目を大きくしたり小さくしたりして、また預け入れたもんでした。

実際に金のやり繰りには格別苦心をしたもんで店で使っていた二,三人の若者を津山、綾部間を往復させて株の売り買い、その他の金策を機敏にやらせたものですから、“丹波紀文”はついに化けの皮を現さずに最後の最後までやりおおせて、まずは存分にもうけたもんでした。

それもこれも若さのさせたことでしたが、一は私の波多野びいき、郡是びいきのなせる業でした。それにしても波多野翁の積極の教えに刺激され、元気づけられたことも多く、やはりこのときも何かが私に乗り移っておったような気がいたします。