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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2015-06-14 ひきこもりはメゾネットに住むべき このエントリーを含むブックマーク

ぼくみたいな人間がこれまでの人生でわりとうまくやってこれた究極の原因はなんだろうと考えていてある結論にたどりついた。


それは部屋の中にひきこもりながら体を動かしていたことに違いない。


あ、最初にいっておくが、これは駄文である。駄記事である。ブロマガ、はてなブログとひさびさの記事を上げてみて、この一番古いはてダにもなにか書いてみたくなっただけの話である。


2年ぐらい結婚生活を送っていて、当然、嫁との間に深刻な生活習慣の違いというのがいくつか出てきているのだが、ぼくが我慢していることのひとつに本当はベッドルームを暗くして寝たいということがある。


ぼくは真っ暗な部屋でさらにふとんをかぶって丸まって寝たいのである。


そしてなによりカーテンは完全に閉めてほしいし、カーテンがなぜ遮光カーテンじゃないのかということについても納得がいかない。部屋の窓を遮光カーテンで締め切って、朝日が昇ろうが、部屋の中はまったくの暗闇で夜のまま。


ぼくはそういう生活が理想なのだが、妻は逆で遮光カーテンなんかつけているひとの気持ちがそもそもまったくわからないと主張する。


このあたりの生活習慣の違いは、やはり妻が社交的で人との付き合いが苦にならないどころかむしろ好きであって、ぼくはひきこもり体質でできることなら他人との付き合いは最小限にとどめたいと思っていることからくるのだろう。


およそ、ひきこもりたいという欲求はどこから来るのだろうと考えると、それはやはり他人との付き合いが怖いからだろう。だれにも見られたくない、だれからもなにもいわれたくない、そういう感情がひきこもりたいという欲望をつくりだす。


これはたぶんにオタク気質とも関係していて、ようするに自分の趣味・好きなことをやっていたいと思う人間は、だいたいまわりに理解・共感してもらえずに白い目で見られる経験を持っているので、他人に干渉されたくない口をだされたくない、そもそもこっちみないでほしいという感情が育っていくのだと思う。


そう、ほんとこっちみないでほしいのである。ぼくはクラスでも放課後でも気のおけない友達といるときですら、ひとりでもあまり仲良くないひとがいる場合には、空気になりたい、話しかけてこないほしい、といってあからさまな無視もされたくないんだけど、自然にただそこに在りたい、みたいなことをずっと思って生きてきた。


そう、いまでもパーティーや街中で歩いているときに、とつぜんだれかに挨拶されると一瞬で表情がこわばるのが自分でも分かる。知っているひとだったらどうしよう。思い出せるだろうか。うまくあたりさわりのない会話ができるだろうか、とぼくの超高性能な頭脳が全力て回転をはじめ緊張するのだ。


なんだっけ。遮光カーテンの話だった。まあ、なんでひきこもりは完全な密室を好むし、そっちが落ち着くんだから、遮光カーテンにして外界の光は一切さしこまないほうがいい。そういう話だ。


ぼくの友達に地下室に住んでいる奴がいて、彼が新しい地下室をつくって引っ越したあと、ぼくが元の地下室を借りて1年ぐらい住んでいたことがあった。


ここがやばかった。遮光カーテンどころか地下室なので窓がないから、光はまったく存在しない。照明も最小限で全部の明かりをつけてもぶつからずに移動はできるくらいで、壁や床がどうなっているか、部屋の隅になにがあるかはまず見えない。


外に出るといきなり真昼間で太陽が照っていたりして、時間の感覚がなくなるのだ。いったいいつ寝ていつ起きて、今日はいったい何曜日だろう。


ぼくの友達もひきこもり体質で人間嫌いだったのだが、その理想の空間に住み始めて1ヶ月ぐらいたつと、あまりにさみしくなり、外に散歩に出て公園でぼうっと知らないひとを眺めたりするという行動が発生したり、どんどん人恋しくなってしまい、それがきっかけで社交的になっていったんだと説明してくれた。


人間はひきこもりたいときは徹底的にひきこもればいいんだと思う。どんな人間嫌いっていったって、寂しくない人間なんているわけがない。


だからまずは自分のひきこもりたい欲望を完全に満たしてあげることが重要で、窓には遮光カーテン。なんなら目張りして暗闇をつくり、部屋の照明も最小限でいい。パソコンの画面のあかりだけでも十分だ。


親も話しかけてこないでほしいよね。携帯電話の電源もうざいなら切ってもいいけど、ぼくの場合はそもそもかかってこないので特に切る必要は感じなかった。そうして社会から隔離されないと、もういちど社会に向き合う勇気はでないと思う。


さて、ひきこもり生活をはじめるにあたって、どうせ寂しくなるんだから、社会復帰の糸口もちゃんと確保しておくにはどうすればいいか。


これはちょっと難しいテーマだ。ひきこもりは、よく、一般人から、社会とかまわりのせいにして自分で努力をしないと非難をされる。


環境のせいにばっかりしないで、自分で環境を変える努力をしなさいと責められたりする。


これはぼくはちょっとフェアな非難ではないと思っている。


だって、客観的に考えたら、ひきこもりなんて本人のせいというよりは環境のせいにきまっている。人間なんて自分の努力で決められる人生の範囲なんて、ごく狭くて、ほとんど環境で人生は決まるものだというのは、どう考えても正しいにきまっているじゃないか。


ひきこもりを簡単な努力すらできない怠け者だとか能力が低いと思っているひとは多いが、それはひょっとするとひきこもりになった原因については多少はあたっていたとしても、ひきこもりのひとのほうが、より難易度の高い人生を生きているという現実を見落としている。


ひきこもりの人生のほうが大変に決まっているじゃないか。なんでより簡単な人生を生きているやつらになまけものとか無能呼ばわりされなきゃいけないのか。


ひきこもりに限らず人生において負け組は、どんどん難しいゲームをさせられる。例えて言えば攻略本もリセットもなしに、ファイアーエンブレムをやらされるようなものだ。かろうじてステージをクリアしつづけたとしても、どんどん難易度があがっていき、いまやっているステージをクリアするために必要なはずの仲間たちなんて、とっくに昔のステージで死んでいてもういない。


どんなに上手いゲームプレイヤーだってクリアできないステージを人生の負け組はプレイしつづけれなければいけない。


人生とはそういうものじゃん。


自分がダメなのは環境が悪いとか、正しいし的確な表現じゃん。無能とか怠けものとかいうならもっと早くにいってほしい。


ぼくは本当にそう思う。


なので、いま自分がダメなのは自分が悪いわけじゃなく、いや、多少は悪かったかもしれないけど、本当に悪いのは社会であり環境であり、自分だってチャンスがあればもっとうまくやれるしやるけど、いま、この状況では努力のしようもないじゃんと諦めるようなひとは、どんな場合でも努力で道は切り開けると信じるひとよりも、ヤンキー的価値観ではダメ人間かもしれないが、知性ある生き物であるホモサピエンスとしては、まったく正しく合理的な態度だと、ぼくは思うのだ。


まあ、ということでひきこもりから世間に復帰する糸口を用意する必要があると、さっき書いたけど、もっとも必要なのは運だし環境だ、というのが事実であるとぼくは思っているが、それはそれでおいといて、自分でできる範囲の努力とはどういうものなのかを書く。


それは体力だ。


結局、ひきこもりが社会復帰するためには環境の変化とかきっかけが必要なんだけど、それを生かすための体力が残っているかどうかがカギになる。


多くのひとはやる気があるかどうかで、やる気なんてその気になればいつでも根性で出せるもんだと信じているんだけど、やる気をだせる気になるかどうかは体力で決まる。


体力がないと気力もなくなるし、やる気も出ない。人間とはそういうものだ。


そうすると、なにしろひきこもりは部屋から出ないわけだから、部屋の中でどれだけ運動できるかどうかが非常に重要になる。


やっぱり階段があるかどうかは大きなポイントだ。1日の間に何回も階段の上り下りができればそれだけでかなりの運動になる。


ぼくの場合はあとテレビの前においてあるソファーの高さと硬さが足をのせてストレッチをやるのにちょうどよかったというのが非常に大きかった。


ぼくはむしろ社会人になってから、会社を起業してからのほうがひきこもった回数も期間も長かったのだけれども、毎回、帰ってこれたのは、もちろん幸運にも自分が社会に必要とされている幻想を抱きやすい環境に自分がいたことが最大ではあるが、やはり気力と体力がまだ残っていたということが決定的に重要だったと思う。


階段とソファーにぼくは助けられたといえるだろう。


しかし、階段とソファーがひきこもりの環境にあったということもじつはすごく幸運なことだ。


引きこもる部屋がそれほど広くないという場合はどうすればいいか。


それはやっぱり大変危険な状態なんだといわざるをえない。

身動きのとれない部屋でできる運動なんて限られているし、十分には絶対に運動できない。


その場合は、だれも見ていない夜中に部屋を出るしかない。夜中の2時はまわったほうがいいだろう。朝の2時から6時の間。それぐらいであれば外が明るくなっても、会いたくないひとには会わないですむだろう。ネトゲで夜更かししているひとは、眠る前に外に出るのが現実的だろう。生活リズムを人間は大きくは変えれない。


そうやって体力さえ維持しておけば環境が変わった時、環境が変えられるかもしれないチャンスがあったとき、なにかができる可能性がある。


まあ、体力ありすぎるのも問題なんだけどね。ぼくの場合はネトゲにはまらなかった真の原因は20時間とかゲームをやりつづけると肩が凝って頭痛がして、なにもできなくなるぐらいに体力がなかったからだ。ずっとひきこもってゲームをやる体力があったら、もっと絶望的な状況に陥っていたと思う。そしてやがてその体力すら、いつかなくなっていることに気づいたのだろう。


体力があればチャンスのときに頑張れる。まあ、ダメかもしれないけどね。いや、たぶん、ダメなんだと思う。だって難易度の高いゲームをやっているんだから、ほんとやってられない。


もし成功したとしても、世間には当たり前だとぐらいにしか思われなくて、まともな一般人の一番下の階層にやっと入れてもらえるというだけなんだけどね。


でも、本当はそれはすごいことで、起業して運だけで成功した経営者なんかよりも、じつはもっとありえない快挙をやったんだと。


少なくともぼくはそう思う。

adlfadlf 2015/06/14 15:40 親身な鼓舞だ

hidenori_thidenori_t 2015/06/14 21:03 ingressの思想との距離の近さを感じました.

yasmineyasmine 2015/06/14 22:06 いやー、ものすごく共感します。引きこもりたい気持ち。
体力、大事ですよね。あと気の合う人。
体力と睡眠と一人の時間がチャージされると気の合う人のなかに入れて楽しめます。
一人が寂しいとか退屈と思う時はあっても、苦痛に感じることはないです。本と映画とネットがあれば満足です。
放っといてくれと思う気持ちよくわかります。

2013-01-18 みんな好き、がデフォルトじゃないかと思った。 このエントリーを含むブックマーク

寝起きにぼんやり考えた。


みんな好き、とか、ふと思ったんだけど、これってなんだろう。

ちなみに、ぼくの場合、1日に3回ぐらいは、みんな好き、とかって感情がわきおこる。これってどういう現象なんだろう。

自分が幸せなときって他人へ優しくなれるとかっていうってひとはよく見る。


ぼくの場合もじゃあいま幸せなだけかというと、それもなんか違う気がする。

ぼくがすごく不幸に思っていたときも、結構、頻繁に、みんな好き、とか思う。むしろ頻度多い気がするし、すごく切実に、みんな好き、とか思っている気がする。

なにが違うかというと、不幸なときは優しくされたときに、みんな好き、とか思うけど、わりに幸せなときは自発的、発作的に、みんな好き、とか思うというところかな。


ただ、不幸なときは、逆に、みんな嫌い、とか思う感情がおこることがある。でも、冷静にそのときの感情を考えると、みんな嫌い、ってたんに、自分が嫌い、という感情がまず最初に強烈に起こって、耐えきれなくなって、根拠もないのに、みんな嫌い、ってすり替えているだけに思うんだよね。


だから、みんな嫌い、っていうのはたんに自分が嫌いな変形であって、基本、人間という動物は、みんな好き、という感情がデフォルトなんじゃないかなあ。


世の中にくんでいるひとって拗ねているだけじゃないかなあ。


基本は愛情しか人間はもっていない気がする。いや、生き残るのに有利な進化という意味で。


他人を憎むなんてメリットなんもないもん。自分がかわいいか、駄目な自分が本当に嫌いになるか、このふたつしか人間は本当は興味がないんじゃないかな。


そして他人に対しては、みんな好き、これが合理的な進化だよね。嫌いになるのは自分だけ。


おれの場合は自分と照らし合わせて全然納得する説明なんだけど、ちがうのかな。

2012-09-30 物事の本質だったり世界の真理を理系的に考えてみた このエントリーを含むブックマーク

 ネットで東浩紀氏の文庫本に中森明夫氏が書いたあとがきが面白いという書き込みがあったので読んでみた。そこでは東氏の先輩として柄谷行人さんが紹介されていて、要するに東浩紀は柄谷行人の歩んだ道をなぞっているという指摘がされていて確かに面白かったのだが、じゃあ、柄谷行人とはどういうひとなのかと興味を持ち、わりあいに氏の最近の本である世界史の構造という本を序文だけ読んでみた。


 その本で柄谷氏が試みているのはどうやらこういうことらしい。マルクスは資本主義下での商品交換を元にした経済的下部構造の上に国家や民族のような上部構造が成立すると主張したが、商品交換以外にも贈与や略取のような交換様式も考慮にいれて経済的下部構造を考えることによって、上部構造である国家のみかけの自立性を仮定しなくても、世界が説明できるはずだという主張だ。


 氏の主張が正しいかどうかを判断するのは、ぼくなんかの素人の手に余るのだが、このマルクスの上部構造と下部構造の概念をどう解釈するのが正しいかという議論は、文系的な言説では非常によく見る光景である。


 文系のひとたちのこういう物事の本質を見定めようという真理への探究に対する態度を理系的に解釈するとどういうことだろうかと考えてみた。


 物事の本質というのはなにか?これはようするに世界というものが人間にとって複雑で情報が膨大すぎてよくわからないから、簡単に考えてみる、ということだ。つまり膨大な情報を整理して、ごく少ないキーとなる情報に置き換えて考えると頭がすっきりするということだ。なぜすっきりするかというと膨大な情報だと人間は理解できないけど、少ない情報に減らせば理解できるようになるからだ。うまく情報を減らせたとき、人間は物事の本質を掴んだ!とかいう気になる。


 そう考えると、物事の本質を追究するというのはうまいデータ圧縮アルゴリズムを見つけるというのに近い。このアナロジーをつかってちょっと人間の思考についてのモデルを考えてみた。


 人間の思考というはたらきを思い切り抽象化し、外部の世界からAバイトのデータをインプットし、そのデータを解釈した結果のBバイトのアウトプットをおこなうブラックボックスとする。


 できるだけBバイトを小さく出来れば物事の本質っぽくなるはずだ。


 例としてそう、なんでもいいんだけど、たとえば「世の中はしょせんカネだ」という命題を世界を理解する圧縮アルゴリズムとして考えてみよう。


 そうすると、このアナロジーが成立するための必要条件がはっきりとしてわかりやすい。


 「世の中はしょせんカネだ」というのが物事の本質であり世界の真理であるとしても、この圧縮アルゴリズムで扱えるデータ=世の中の出来事というのは、世界のごく一部の現象についてだけだということだ。


 ようするに文脈があり、物事の本質というのはある前提条件や制約条件の中でしか成立しないものであるということがひとつ。


 もうひとつ分かるのは、物事の本質というものは世の中の情報量の圧縮アルゴリズムとして考えると、ある一面の情報しか再現していない非可逆圧縮であるということだ。


 データ圧縮の方法としては可逆圧縮と非可逆圧縮の2種類がある。ZIPでくれ、とかいう慣用句がネットにあるが、ZIP形式でファイルを圧縮した場合は可逆圧縮であり、解凍するとまったく同じ元のファイルが再現される。ところが音楽や動画などで使われるmp3や動画のMPEG形式のデータ圧縮は、とてもデータが小さくなるかわりに少し音質や画質が元よりも悪くなるのはご存じだろう。より高い圧縮をしてデータを小さくすればするほど元の音楽や映像が劣化する。


 そう考えると、世の中で物事の本質や世界の真理とかと呼ばれているものの大半は圧縮アルゴリズムと考えるとかなり出来の悪い精度の低いものばかりだということが分かる。冒頭の上部構造とか下部構造の議論もまあある程度の妥当性があるのだろうけども、音声の圧縮アルゴリズムとしたら、mp3なんかとは比べないものにならないほど元の音声の再現性は低い。昔の8ビットパソコンでビープ音で音楽を鳴らしてみたとかはちょっと古い例だが、他の例えだと、よくピアノで人間のセリフを弾いてみせるという芸があるが、「あー、ほんとだ、そういわれてみれば、そういう風に聞こえる!」ぐらいの再現性しかないものが物事の本質としてありがたがられているのが実態ではないか。


 別にそれが悪いといっているわけではない。人間が世の中を理解する能力というのはその程度が限界だということだろう。いま書いている記事だって、当然ながら、その限界を超えているものではない。人間が発見した物事の本質の中で、可逆圧縮といえるものがあるのかというと、抽象化された現実だけを扱えばいい論理学も含めた数学ぐらいじゃないかと思う。理系の学問といえども現実を扱うものは物理学とかですら精度の高めの非可逆圧縮でしかない。


 物事の本質を情報の非可逆圧縮アルゴリズムと捉えるアナロジーで分かることのひとつに、抽象度の高い=現実の再現性の低めの物事の本質に対してさらに抽象度の高い物事の本質みたいなものとらえようというはたらきを重ね合わせると、どんどん現実の再現性が悪くなっていくだろうことだ。写真をPhotoshopで加工する場合はRAW形式のデータをつかったほうが出来が良いことは常識だ。すでに圧縮のかかっているJPEGの写真を元に加工をすると、モアレがでやすくなったりして、汚くなる。加工するなら元のデータに近いものを使うほうがいい。


 ぼくが文系の文章でよく出会う高度に抽象化された概念にさらに抽象化された理屈を重ね合わせてそのまま空想の世界に飛び去っていくのならまだしも、現実に舞い戻ってきてこれが真理だと解説をするスタイルに生理的な違和感を感じるのもここらへんが原因だ。いかにそれが高度に階層化された緻密な論理構造をもっていたとしても、いや、むしろ、だからこそ、でてくる結論を怪しく感じる。


 もうひとつこのアナロジーを考えていて、思ったのは、ネットのひとびとが好む物事の真理というのは、現実の再現度が高い情報圧縮アルゴリズムというより、アルゴリズムそのものが単純なものだということだ。


 元々、人間が物事の真理を追い求めるのは現実が複雑で情報量が多すぎてわかりにくいからだ。だから、ものごとを簡単に理解しようと情報を減らそうとする。そこで、ふつうのひとは、現実の再現精度も高い複雑なアルゴリズムよりは、現精度は悪くても大胆に情報を大幅に圧縮してくれて、しかも簡単なアルゴリズムをより真理だとして好む。


 しかも、いったん真理だとされたものはその真理の現実の再現度の高さがどれほどのものなのかは無視されて一人歩きをすることが多い。

 

 とまあ、情報の圧縮アルゴリズムとして物事の本質とか世界の真理を考えると、しょせん、そういうのは圧縮しすぎて、精度の低くなった現実でしかないし、あんまり神秘性を感じて盲信するのは本当に危険だなあと思ったという話です。

futureeyefutureeye 2012/10/01 10:01 興味深いブログなのでコメントします。
文系での物事の本質の追究は、「データ圧縮」というよりはむしろ「自然法則の発見」により近いのではないかと思っています。
例えば、「リンゴが木から落ちた」という自然界での現象から「万有引力」という自然法則を導き出す作業に似ています。

この仮説が正しいと仮定した場合には、次のステップで問題になることは、「データの再現性」ではなく「導き出された自然法則の信頼性」です。理系分野では、新たに発見された自然法則が正しいか否かが実験等によって検証されます。そして、検証の結果正しいと判断された後には、その自然法則が広く工学分野に応用され、世の中に役立ちます。

文系での物事の本質の追究は、このような追求結果の検証により白黒はっきりさせる術がない点だと思いますが、どう思われますか?

yamadahifumiyamadahifumi 2013/06/21 07:48 なるほど。
でも、現実そのものが変化しているから、それを固定する真理というそのものに一つの限界があるのではないでしょうか。真理というのは例えば、時速三百キロで移動する新幹線を写真でとらえるようなもので、不完全だというのが前提だと思います。にも、関わらず、認識は人にとって必要だから、完全な真理というのは不可能にも関わらず、完全な真理を目指して、人間は歩む事を義務付けられているとしか言えないと思います。「絶対とはいうものは存在しない。だから、ただ前進あるのみだ」・・・これはチャーチルの言葉を、僕が勝手にアレンジしただけの言葉ですが。

manmalmanmal 2013/07/29 05:33 【まとめ】
1.現実世界の分からなさとは情報の膨大さであり、
2.分かるとはその膨大な情報の圧縮であるが、
3.大切なことは復元情報を現実世界と比較してその再現性の度合いを確認することである

【コメント】
再現性の度合いを確認するときに現実世界に関する何らかの答えを知っていなければならない。再現度の値は用意する答えに依存し、再現度の確認は恣意的なものになる、にもかかわらず川上はそこに目が行っていない。このような態度は理系のものではない。
 また、『「現実世界の分からなさとは情報の膨大さである」という仮説自体が非可逆圧縮である』、という予期される反論にあらかじめ一瞥をくれるような文章を書けるようでなければ、これもまた理系とは認めがたい。

2012-07-10 クリエイター視点と消費者目線 このエントリーを含むブックマーク

ここ数年のオリコンランキングを見ると、上位はAKBとジャニーズばっかりだ。この現状について音楽好きのひとたちが嘆いていたり非難するひとたちの記事は定期的に見る。


また、ライトノベルや深夜アニメなどのサブカルチャーの程度が低すぎるみたいな話もよく聞く。


問題と指摘されている点をまとめるとだいたい次のようなかんじではないか。


・ 商業主義がいけない。ユーザの欲望に安易に媚びた結果、似たようなもの、質の低いコンテンツばっかりになる。

・ 本当にコンテンツを愛するファンが欲しい作品が登場しない。売れない。

・ これは世界の中でも日本だけの特徴であって恥ずかしい。


この現状認識についてはいろいろ各人によって賛同、異論があるようだが、ちょっと違った角度で現在のコンテンツを巡る状況を考えてみたい。


そもそも質の高いコンテンツとはなんだろうか。一般に対比される芸術性と大衆性という切り口で考えると、商業主義は大衆性と結びつきやすいので芸術性が低いというのが質の低さだろうかというと、どうもそう単純な話でもなさそうだ。一部の少数のマニアではなく万人の心に訴えるコンテンツのほうが素晴らしいものだという考え方も強くあるからだ。


芸術性と大衆性という切り口で考えた場合は、両方を兼ね揃えているコンテンツが質の高いコンテンツであるという定義にいったんはしておこう。


さて、コンテンツの起源について考えてみる。社会的、商業的に考えるとグーテンベルグの印刷術の発明が大量複製されたパッケージコンテンツのはじまりだろうが、コンテンツに対する愛情だったり尊敬あるいは畏敬の念とかいう感情の発生であれば、もっと人類の起源とかに遡る話だろう。それはまわりの自然には存在しない非日常的なものに対する驚き、センス・オブ・ワンダーといったものだろう。


まあ、なので非日常的な驚きを与えてくれるものであれば、そもそも人工物である必要もないわけで自然の中でも非日常的な自然に遭遇した場合にもそういう感情は発生したはずであるし、そちらのほうがむしろ最初にあったに違いない。そういう驚きを与えてくれるものを人間が自らつくりはじめたのがコンテンツの起源だろう。


この説明だと驚きを与えてくれる世の中のものはすべてコンテンツとなってしまうが、すくなくともコンテンツではなくアートというのであれば、その定義はおおむね正しいように思える。そしてアートがコンテンツになる条件はアートが人間にとってなんらかの機能性を伴って切り出せるときだ。絵画、彫刻、音楽とかいったものは人間にとってなんらかの役割を与えられたアートである。


前置きに少し時間を取られたが、そういうコンテンツの起源から考えた場合に、現代のコンテンツってどういうものだろうと考えると、いろいろ矛盾を抱えていることが分かる。


自然にないびっくりするものということでいえば、ぼくらの自然ってなんだろう。ぼくらは自然の中にはもはや生きていない。たとえばぼくがいまキーボードをタイプしているパソコンや携帯電話。こんな不思議なものはない。200年前の人間からすれば当時のどの絵画よりも写真を見た方がよほどびっくりする。自然にはありえないほどなめらかでたいらな表面をもつ机や窓ガラスだってそうだ。神の国の工芸品だ。


同時代でみてもどういうことが起きているか。


音楽を考えてみよう。簡単な例をあげると、一般消費者が日常で聞く音楽はCD音源であるがここの完成度が一番高い。音楽が好きなひとはライブにいって、よりひどい演奏、より下手くそな生声と雑音のなかで音楽を聴く。アイドルの歌なんて見下されることが多いが、優秀な作曲家がついてPVにお金をかけたり、歌は加工されまくって、最終的なコンテンツの完成度はやはり高いといわざるをえない。こういう環境の中でぼくらはコンテンツを愛して消費している実態がある。


現代において、コンテンツの質の高さをどうやって定義すればいいのかは非常に難しいというほかはない。


ぼくらは過去の人間が生みだして蓄積した素晴らしい人工物の中ですでに生きていて、その上で現在生きている人間がちょこっとしたものをつくって競いあっているのがコンテンツというものの実態なのだ。ぶっちゃけもっとすごいものはいっぱいあるけど、それはすでにあるから忘れることにして、範囲を意図的に限定して競争しているのだ。


そのなかでコンテンツの質の高さをクリエイターがいうとき、それは現在であるコンテンツをつくる制約条件をはっきりわかっているひとたちの間でしか価値観は共有できないだろう。つまりはクリエイター自身とコアなファンだけだ。


クリエイターの立場を理解しない一般消費者にはまったく関係ないのだ。


一般消費者の立場から、驚き=センス・オブ・ワンダーを与えてくれるものを素晴らしいという価値観を追求するとどうなるか。それはネットの掲示板とかでよくみる”批評家”ぶったユーザ達を見ればわかる。えらそーに好き勝手な決めつけをしてコンテンツを良し悪しを断じる彼らこそが、現代において古代人同様にもっとも人間的なかたちでコンテンツを捉えているひとたちだ。


いま、ぼくらは神の国に住んでいる。より高みにある神の国に憧れるのも、より人間的な地上の国に憧れるのも、ぼくらにとっては等価なのだ。

momi_18momi_18 2012/07/24 16:38 はじめまして。
そもそも芸術性というものに川上さんがどういう概念を持って話しているのか、過去の芸術と現在の大衆の結びつきをどういう角度から理解しているのか、一口にコンテンツといっても方向性が違うので質の定義が難しいとされるコンテンツとはここでは何をさしているのか、もっと川上さんがどういう立場にたって意見しているのかが知りたいです。
で、そういう疑問を持ちつつ何となく、紐解くと、ファインアートは驚きそのものに価値があるわけではないと思います。驚きに対する感受性の新たな方向性をつくっていくことが意義だと思いますし、
大衆性は完全に一つの価値観が浸透した上で成り立っていて、理解されていると思います(それと大衆性はある程度の人数が集まってはじめて形になると思うので一個一個の個性を追求したところで広い意味では何も生まれないかと思います)
クリエイターと消費者で温度差が生まれるのは、大人が消費者ってところにあると思いますが、大人はテクスチャのみを切り取った鑑賞で好きになるのは困難かと。やっぱり作品のもつ、色んな引き出しが気になるし。そう思うとクリエイターのバックグラウンドにおいてる念頭に共感できるかどうかだと思います。
関係ないですが私は川上さんが好きです。
おわり。

2012-06-30 文明が退化していることを発見した12の事実 このエントリーを含むブックマーク

現代は野蛮だから、子供は平等に財産を相続する。昔のひとは賢かったから、長男だけが相続し、せっかく集めた財産が散逸しない仕組みをつくった。


現代は野蛮だから、戦争では本気で人間を殺し合う。昔のひとは賢かったから、戦争してもときの声をあげて威嚇しあったりして人間ができるだけ死なないように戦う。代表者だけ戦う一騎打ちなんて大変に知的な発明もした。


現代は野蛮だから組織のリーダーは実力で決めようとして争いが絶えない。昔のひとは賢かったから、リーダーは世襲で決めることにして後継者を巡る組織の混乱を防いだ。


現代は野蛮だから、世襲する自分の後継者は自分の血を受け継いだ子供を選ぶ。昔のひとは賢かったから、世襲する自分の後継者はまったく血がつながってなくても、できるだけ優秀な子供を捜してきて養子にした。


現代は野蛮だから、自分たちのリーダーも同じ人間だからと尊敬しないし、厳しく欠点を指摘して引きずりおろす。昔のひとは賢かったから、リーダーと決めた人間は無条件に敬うことにしてもりたてる。


現代は野蛮だから、民主主義で話し合い、だれもが正しいと思わない結論で国を動かす。昔のひとは賢かったから独裁者が正しいと思った結論で国を動かす。


現代は野蛮だから、神を信じないかわりに、この世界は自由と平等と博愛で動かすべきだと信じる。昔のひとは賢かったから、自由、平等、博愛なんかでなく、もっと地に足をつけてこの世界の現実を見つめた。そしてあの世での平等な裁きと楽園を信じた。


現代は野蛮だから、親も子供もそれぞれ自立した平等な個人である。だから、親は子供も個人として尊重するし、成長した子供は親の面倒をみない。昔のひとは賢かったから、子供は親の所有物だった。だからたくさん産むし、子供は親の面倒を見た。


現代は野蛮だから、すべての人間は平等であり、身分制度はないと子供に嘘を教えるから鬱病になる。昔のひとは賢かったから、身分制度はちゃんと情報公開して、子供には分をわきまえるということを教えるから、平安な心で人生を過ごすことができる。


現代のギャンブラーは野蛮だから、ギャンブルに不正はなくだれもが平等に負ける競馬やパチンコや宝くじなのに自分だけは勝てると信じている。昔のギャンブラーは賢かったから、賭け事とは八百長をするのが当たり前で自分だけは勝てると信じていた。


現代のオタクは野蛮だから、見た目オシャレだし、彼女もいるし、友達も多い。昔のオタクは賢かったから服を買いにいく服を持たず、友達もつくらない。だから、好きな趣味にお金をすべて使えた。



科学技術の発達している現代に生きているからといって、昔のひとよりも自分は頭がいいはずと思っているとしたら大間違いですね。

Pseudonym_ZPseudonym_Z 2012/07/01 16:58 現代は野蛮だから、こういうことを書いたり言っちゃったりする人がいる(無論、僕も含めて)。昔の人は賢かったから、こういったことを言わないし、書かず、ただじっと我慢して、行動で世の中を変えようとした。
今昔について語るのは別に構わないですが、そもそも自分が本当に正しいことを言っているのか、あるいは客観的立場に立てているか、熟慮した方がよろしいのでは?

minigorira2005minigorira2005 2012/07/01 20:45 +12000を生む仕組みを作る時に出た、-12の事実に注目してみた。

taobaoyosikotaobaoyosiko 2012/07/02 10:23 タオバオ代行タオバオ新幹線の中国担当楊です、どうぞ宜しくお願いします、
いい文章ですね、勉強になりました、今日の中国は少し雨が降りそうです、
http://www.taobaoshinkansen.com/feature.html

tukarerakuttukarerakut 2012/07/02 16:48 読めてない人がコメントしてる気がします。
まあそんな事より振り込みお願いします。

ig623uueig623uue 2012/07/09 20:43 独裁政治は独裁者以外に支配される危険が強いですけどね。
摂関政治とか執権政治みたいに。

kendukendu 2012/09/11 09:23 ネタやとおもうんですけど、マジレスしたら負けなのですかね?
昔っていつの時代やねんとも思いますけど、昔は呪術的なことがあったので人をいけにえにしたりしてましたけど。それでも賢いんですかね?江戸時代だって、武士階級で男が生まれなかったらお家取りつぶしですぜ。奴隷階級に生まれたら、人生オワコンだろう。

l2345679x81l2345679x81 2013/04/09 11:54 昔の人は甲冑を身に着けて戦ったのに現代の人は野蛮だから裸同然ですね

l54ol54o 2013/05/31 08:52 まあね、たしかにそう思える部分が多々ある社会だよな。

野蛮っていう切り口よりも、
支配の構造が転々流浪しているといううことであって旧世代の人間の個々の知性が劣るという馬鹿げたマスゴミ的な思想がドン引き対象であってw、

人間性の決定的な要素ではないということだよな…

むしろ昔の人間のほうがテレビなど見てない分だけ賢い奴が多かったからこそ明治維新もあったわけでw 

ということですかね