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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2011-08-19 理系だけど「リトルピープルの時代」を批判してみた このエントリーを含むブックマーク

前回の続きだ。最後に書いたようにぼくが宇野常寛氏(以下敬称略)の新作「リトルピープルの時代」での疑問点は3つある。


(1) グローバル資本主義というシステムと小さなビッグブラザーである個人が一体になって新しい”壁”をつくっていると主張しているように本書は読み取れるが、その両者を区別せずにリトルピープルという言葉で扱うのは、本書の議論上では妥当とは思えない。


(2) (1)による混乱からの帰結として、拡張現実が新しい”壁”への対抗法という結論になってしまっているとぼくは考える。これはシステムが生み出す現実からの逃避をたんにいいかえているだけではないか?


(3) 本筋ではないと思うが、村上春樹への批判は想像力の欠如ではなく、倫理的にやってほしいという、これはぼくの個人的な希望である。


(1)についてだが、宇野常寛はだれしもが小さなビッグブラザー=リトルピープルとなるのが現代だといいつつ、しばしば”壁”としてのシステム自体に対してもリトルピープルという呼称を用いているようだ。どうもリトルピープルとは小さなビッグブラザーであるだけではリトルピープルではなく、グローバル資本主義つまり貨幣と情報のネットワークに”つながっている状態でいる”小さなビッグブラザーというニュアンスを宇野常寛は強調したいようだ。つまりリトルピープルは個人でもありシステムでもある。これは序章で壁とは個人の外側ではなく内側に存在するものだと述べられていることからも、リトルピープルの両義的な定義は意図的だろう。


確かに、現在の人間は貨幣と情報のネットワークにつながらずに生きることはほとんど不可能だ。また、貨幣と情報のネットワークも究極的にはひとりひとりの人間の関わりを素子とした集合体として成立していることも事実だ。だから、リトルピープルの時代の”壁”は外部の敵としては描けない。ぼくら自身が”壁”なんだ。ざっくりいうとそういう理屈を主張しているように見えるが、ぼくはやはり個人と敵にもなりうる”壁”とは、たとえ、個人がその”壁”の一部であったとしても分けて考えないとおかしなことになると思う。


考えてもほしいが、個人対その個人自身も含まれる集合という構造自体は人類の歴史が始まって以来の個人と社会の関係とそのまま同じ話だ。そして宇野氏のいうリトルピープルの時代とは、社会が非人間的なシステムから構成されて目に見えにくくなっているわけだから、個人と社会との関係で考えればこれほど個人と社会を別物とあつかうほうがふさわしい時代はない。そこであえていっしょくたに議論しようとするからいろいろとややこしいことになるのではないか。ビッグブラザー=国家に変わる悪の象徴としてシステムを持ってきた場合に、システムから必然的に生み出されるものもシステムの一部だというのは正論のようにみえるが、よくよく考えると論理が主客転倒してはいないか?


宇野常寛の定義するリトルピープルとはいったいなんなのか?たんなるちいさなビッグブラザーだというならあまり矛盾はおこらないが主張としてはすでにだれもがこれまでもいっている陳腐なものだ。現代の価値観はほんと多様化してますよね、のひとことですむ。やはり宇野常寛のリトルピープルというのは小さなビッグブラザーが社会にはりめぐらされたシステムの影響下にあるという特徴を重要視して、それがリトルピープルという定義にもシステムがふくまれているんだという意味をこめたいのであろう。そうであるから、リトルピープルの時代にシステムが必然的に生み出した悪として、9.11やオウム真理教の地下鉄サリン事件がでてくるのだ。宇野氏の世界観ではシステムが生み出す悪と戦うリトルピープルの時代とはシステムの先兵みたいなリトルピープルと戦えばいいということになる。じゃあ、それだと世界的な金融危機や環境問題とかはどう説明するのか?システムもリトルピープルに含まれるという定義だからどっちもシステムの悪ということで問題ないという解釈なのかな?いや、でも、それじゃ定義が広すぎるだろう。やっぱりこのふたつは全然性質の違う別の問題として区別して扱うべきものだ。


ちなみに、ぼくの見解では9.11やオウム真理教の原因は、ビッグブラザーでもリトルピープルでもどっちでもいいが、とどのつまりは人間が起こした事件である。人格を持たないシステムが起こした事件ではない。リトルピープルの時代はむしろ個々の人間はもちろんこと、大きな物語を用いてすら、もはや人間には全体のシステムをコントロールすることが難しくなってきた時代だと考えるべきだと思う。システムが人間の手を離れて自律的に進化しはじめている時代なのだ。9.11やオウム真理教は倫理的な是非はひとまずおいといて、歴史の主導権をシステムに奪われはじめた人間側からの必死の抵抗だと位置づけてもいいぐらいだと思う。


(2)であるが、上の議論ともつながるが、自分のまわりだけを見つめて、そこの世界を豊かにしていくというのを、壁へ対抗する想像力と位置づけるのはいろいろ矛盾しているんじゃないかということだ。それってたんに現実を受け入れてあきらめているだけじゃないか?ようするにシステムの存在については受け入れて抵抗しない。そして自分もシステムのパーツであるとしてシステムにコミットするわけだ。しかし、それを宇野氏は壁への抵抗をあきらめたこととはみなしていない。上述したようにシステムとリトルピープルは一体であるとみなしているので、他のリトルピープルとの干渉の中で壁へは抵抗できるということにしているからだが、これは欺瞞ではないか?


思うに社会を支配するシステムを自分には関係ないとものと、とりあえずおいといて自分のまわりだけしか認識しない生き方というのはなにもリトルピープルの時代と名付けなくても日本ではむしろ江戸時代からつづく本来の生き方ではないかと思う。ようするに「お上」という概念ってそういうことではないのかと思う。「お上」は別世界と認識して日々の日常を生きることに集中する。それだったら、まさしくただの本書で村上春樹がいうところのデタッチメントとしての態度だ。その日常を仮想現実化して充実させる方向へつきつめれば、お上へ対抗したことにはたしてなるのか?お上はお上、うちらはうちらで楽しくやる。楽しんだが勝ち。主張したいのはそういうことなのか?


(3)は、上のふたつにくらべればどうでもいい話だが、絶対的な正義のない世の中において、主人公がデタッチントなんだかニヒリズムなんだかを貫きながらも、それでも正義にコミットメントする方法を模索した村上春樹の試みについて宇野氏は責任転嫁モデルと評している。夢の中で殺した相手を、ヒロインが現実でかわりに手を汚して殺してくれるというプロットってなんなんだと、ぼくも思ったから、とても妥当な命名だと思う。ついでに倫理的な批判ではないと何度も宇野氏は主張しているのだが、村上春樹はナルシスズムに溢れた主人公になぜかヒロインが勝手に惚れてくれて無条件の承認を与えてくれるという設定を多用することに関して、レイプファンタジー構造というどうみても倫理的に批判しているとしか思えない名前で呼んでいる。また、ライトノベルとかにもよくある構造だということも同時に指摘している。


なににもかかわらず、倫理的な問題で批判するのになんの意味があるのか、そんなことよりも想像力が足らないことのほうが問題なのである、として批判しているんだが、いや、むしろそこは倫理的に批判しろよと思った。だって、自分勝手な主人公がなにもしていないのに、なぜか女の子がよってきてやさしいやさしいとかいって誉めるって、ようするにライトノベルとか深夜アニメに多用されている設定の原形を村上春樹は何十年も前からやっていたってことじゃん。


村上春樹・・・おまえか、そもそもの元凶は・・・、とぼくは思った。(タグ:おまわりさんこっちです)


あんなひどい設定をよく堂々とみんな使うなと思っていたが、広義の純文学のジャンルにも分類されている大ベストセラー作家がつかっているんじゃ、しょうがない。みんな真似するわ。そして、なにもしなくても勝手に女の子がよってくるんだから、レイプファンタジーというよりは和姦ファンタジーとでも呼んで非難したほうが適切なんじゃないかと思った。まあ、これは本筋とは関係ないどうでもいい文句だ。本書中にも引用されていたが、実はぼくがしらないだけでいままで、いろんなひとがさんざん指摘してきたことなんだろう。きっと。でも、とりあえずぼくはしらなかったので、村上春樹がライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った。




最後にぼくが主張したいことを書くと、非人格的に自律進化をつづけるシステム、とりあえずは貨幣と情報のネットワークとしてのグローバル資本主義ということにして、それとどう人間が向き合うべきかというのが、リトルピープルの時代の人類のテーマなんだと思う。そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。


それよりもぼくがこの本を読んで気になったのは、人間が貨幣と情報のネットワークとの直接対峙を避けて拡張現実のほうへいったとしてその舞台となるネットとは、いまいちばん自律進化したシステムが大量発生している現場だ。今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う。


そしてもうひとつだけいおう。この本が3.11の震災後の最初の言論の書であるとするのであれば、3.11とは社会を支配する非人格的なシステムが突然崩壊することもありうるということを示したイベントであると定義できると思う。宇野氏がビックブラザー解体時の80年代後半からブームとなったと指摘した世界終末後を描いたファンタジーの物語が現実味をおびはじめたということだ。システム自体の崩壊の危機をうっすらとでもひとびとが予感しはじめた震災後のひとびとの想像力の結論が仮想現実への逃避ということで本当でいいのか、と思うのだ。

noborinnnnoborinnn 2011/08/19 19:25 人間の生体組織とシステムのネットワークというのが同列で人間の行為自体もシステムと同化反復できるみたいなことでは

truehirotruehiro 2011/08/19 21:43 抽象的な思考・議論が苦手である・慣れていない、
あるいはそもそもその有用性を認めていない。
こういったタイプの人間が、人文系の本に対する
反応・批判は概ねパターン化されて
1)そもそも抽象的すぎて理解できない
2)昔からいわれてたよね系
3)書かれるまでもなく知ってたし系
4)それってなんか実際に役に立つの?系
5)途中で投げて寝る
6)そもそも読んでいない
と様々なバリーションがある。
4)と関連して、それってなんか意味あるの?
とでもいおうものなら、著者からじゃあお前
はなんか意味あんのかよとキレられること請け合い
であるw。とまぁ前置きはこれくらいにして
本稿の批判には、宇野常寛もいささか閉口したかと
思う。ちゃんと読んでくれたのかよっと。
誤読の権利は常に読者にあり、その本を読んで
どういった感想を持とうが、無論その人の勝手
自由であるし、
何人も誤読してはならないという法はない。
むしろ誤読することで、新しい着想が生まれること
も多分にあるのだ。理系的な言葉でいえば
セレンディピディと似たようなもんかw
そもそも多くの人文系の本がわかりにくく書かれている
のは自明のことだが、これはある種確信犯的な所がある
なぜといって、ジャックラカンという
20世紀で最も頭のよかった人がぶっちゃけている
からである。有難みが増すようにあえて難しく
書いているんだとww。ここで多くの人がまじ
性格悪っと思うかもしれない。
しかしよく考えてみれば
人が何年もかけて考えたものを数時間程度で理解
できるはずというそのスタンスは非常に浅ましいのでは
ないかと個人的には思う。
と話が脱線しすぎてしまったわけだが、
川上さんにいいたいことはひとつで、
読んで速攻役立つとか、具体的な解決策を
この種の本に求めるなよwということである。

(本文まま)
そこでは、自律進化するシステムが今後どういうふうになっていき人間にどういう影響を及ぼすかを研究し分析することが学問の本筋じゃないかと思う。人間の文化が現在の環境でどうなるっているかの分析ぐらいなら、まだ成立するかもしれないが、それだったら分析にとどまるべきで、その結果を肯定して、これから人間の生きる道の指針はこれだという結論にもっていくのは根本的に間違っていると思う。
>といっているが、根本的に間違っているのはむしろ
川上さんのほうで、批評はそもそも学問ではない。
批評は常に冷静な観察であるとともに
情熱ある創造だ。だからある種の独断というもの
を必要とする。理系からみれば、思考の飛躍も
多々あるだろう。しかし、そういうものがなければ
表現できないものもこの世にはあるのだということを
わかって欲しい(いや別にわからなくてもいいけどw)
もし学問的な意味で、システムの統合と社会の統合
が連動しなくなっている過程とその影響を知りたければ
ハーバーマスの『公共性の構造転換』を読むことを
おすすめする。

村上春樹がライトノベルや深夜アニメに与えた悪影響というのは相当あるんじゃないかと思ったし、そのあたりのことをもっと知りたいと思った
>このあたりについては、東浩紀 村上春樹で
ぐぐれば、解説したものがみれると思う。

今後の人間社会にしろ文化を論じるときシステムやネットをブラックボックスではなく、きちんと理解して議論することが圧倒的にいまの日本に足らないのではないかと僕は思う。
>これについてはその通りだろうと思った。

いいたいことは山ほどあるが、具体的な反論は
著者自身に譲ることにしよう。
長文失礼しました。

jyrmsjyrms 2011/08/24 22:46 理系も文系の本を読みなさいとうことについてひとつ。
文系の論評の多くはほとんど、過去に誰かが唱えた論のやき回しです。
完全に論者のオリジナルであってもたいてい過去の書物を当たれば同じ事を書いている人がいる。
文系の本を読むなら、そういう意味で、現代の日本人の本を読むよりは、古典を読んだほうがいい。

わたしは理系の必須科目が数学なら、文系の必須科目は歴史だと思っている。
文系学問の論理は、たいてい歴史的理由をその根拠にもつからだ。

中でも理系にとっつきやすいのは産業革命前後だと思う。
この時期に多くの科学的発明と発見が立て続けにおこなわれている。
1800年代後半はとくにすさまじい。
細菌がやっと学問の対象になりワクチンの原理が発見されたのものこのころだし、
ノーベルがダイナマイトを作ったのも、エジソンが電球をつくったのも、フォードが自動車を開発し、電話が発明され、100年以上続く産業や会社や製品が産まれた頃だ。
放射線というものが発見され、相対性原理ができたのも少しずれるがこのころだ。
大きな発明、発見がなされた年代を記入した年表を見るとおもしろい。紀元前後から1700年くらいまではポツポツとしか記述がない。
基礎的な数学と物理の理論(ニュートン前後)の発見のあと、産業革命前後になると、爆発的に発明発見の数がふえる。
それはなぜなのだろうかという疑問には多くの仮説があるのだが、それを自分なりに考えるのがおもしろい。
私は宗教と絶対権力の弱体化とそれに伴う、言論統制の緩みと、宗教時代のエリートコースで、天才の才能のブラックホール的性質をもっていた神学の魅力の低下にも要因はあったとおもっている。
アインシュタイン級の科学者がみな神学に没頭して、聖書の解釈の研究に人生を捧げていたとおもうとぞっとするが実際そういう時代だった。
ニュートンも神学という答えのない学問にのめりこんだ人間のひとりだ。

このころ大きな偉業をのこした理系偉人の伝記を見ると面白い。
変人タイプでなく、意外と優等生タイプも多いものだ。ただ、そういうひとたちはほとんど、基地外じみた研究熱をもっている。
そして当然、研究対象と結果は、人より早いが時代の先を行き過ぎていなかったという点だ。

現代の日本人の軽い論評をよむよりは、もっといい発見をえられるd読書対象があるだろうという話でした。

makubemakube 2011/08/25 00:56 jyrms様へ
×「焼き回し」
○「焼き直し」

「使い回し」と混同されているんですかね?

ninjaid2000ninjaid2000 2013/08/18 16:36 http://ninjaid2000.hatenablog.com/entry/2013/06/18/001550
これは何かすごいですね。
自分なりの批評軸をもってるんですね。
私なんか典型的文系でコレ↑読んだんですけど(上のリンク先)
著者の考えたことそのまんまなぞっただけです。
特に異論なし、というかんじで、批判とかでてきませんでした
私も理系の本読んでみようかなあとおもいました。
どういう理系の本が批評眼を養えるのでしょうか?とか聞いてみたりとか。