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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2012-01-04 新年ということで「悟り」について考えてみた このエントリーを含むブックマーク

正月三が日も終わった。


年末年始に書きかけのブログを完成させようと何度かこころみたが、数えてみたら22本も途中で投げ出しているエントリがあった。どれもこれもそのとき書いていたら、面白かっただろうなと手前味噌ながらも思うのだが、なにしろ、今の自分過去の自分は、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず、と鴨長明も指摘するとおりに別人だ。


やっぱ、思い立ったときにブログは完成させないとだめだねえ。なまものだねえ。


というわけで、今朝、ベッドの中で考えていたことを書き留めることにする。


悟りはいったいなんだろうかということだ。


信頼性の低いwikipedia記述によると釈迦が悟りを開いたのは35歳だという。


人間なんて大差ないというのがぼくの信念である。当時の釈迦よりも年長組の僕は、すでに悟りを開いているはずだ。いったい、ぼくがこれまでにした経験のどれが悟りに相当するのだろう?


ひとつの予想としては悟りとは理屈ではないだろうということだ。完全に論理的な理屈であれば、書物となって残っているはずだ。もちろん論理的な部分はあるのだろうが、メインとなるのはなにかの心の状態であろうと僕は思う


どういう心の状態なのか、可能性としては次の3つが有力ではないか。結論からいうと、おそらくは3つとも関係しているのではないかと思っている。


・ 無常観

・ 全能感

・ 刹那主義


インテリというのは大体いつの時代でも肝心なときには役に立たないくせに、普段は不毛なことをずっと考えつづけるものだ。しかし、インテリではなくても自我に目覚めた人間は、生きる意味とはなにか、みたいな生きるためにはどうでもいいことに思い悩む時期が人生に一度はある。


まあ、でも、しばらく麻疹のような時期がすぎるとそんなくだらないことを考えるのはやめて、日常の生活に埋没していくのが大人というものだ。しかし、症状が重い人間は麻疹の時期が過ぎても完全には治らず、ちょうど質量が重すぎる太陽燃え尽きるときに超新星爆発を起こしてブラックホールが残るように、なにか重いもやもやした感情が残る。


それが無常観だ。まあ、冷静に考えて、人の人生になにか隠された重大な意味があるわけもなく、神もいなければ仏もいない。死んだら終わりだということにいつか気づくのはあたりまえだ。真理への問いの行き着く先に無常観はある。


では、これが悟りだろうか。だとするとハードルが少し低すぎる。無常観なんて、だいたい思春期というか第2反抗期に経験するものだ。


おそらく無常観は悟りの条件のひとつではあるがすべてではない。


だいたい、おれは悟りを開いたとまわりに吹聴して回る神経と無常観とはちょっと相反するものがある。なんでそこまでポジティブになれるのだろうか。


そこで登場するのが全能感だ。おれは全てを理解した。いま、おれはまわりの誰よりも賢い。そう思ってしまう瞬間は人間誰しも経験あるはずだ。いまならなんでもできそうな気がする。悟りを開いたと偉そうなことを公言する勇気をもつにはおそらくなんらかの全能感を持っている状態でないと説明が難しいと思う。


まり悟りとは無常観と全能感を併せ持っている心の状態であるというのがぼくの推測だ。


ところが前述のように無常観と全能感はわりと相反する感情に見える。仏教ではだいたい全ての煩悩を捨てよといっているように思えるが、自分は悟ったと思い込むことこそまさに煩悩ではないのか。


このあたりの溝を埋めるのが刹那主義ではないかとぼくは考える。


刹那主義とは無常観のあとに必然的にでてくる考え方で、生きる意味なんて別にないのなら、いま、この瞬間を楽しく生きればいいんじゃないかという考え方だ。しばしば刹那主義は快楽至上主義と同義になる。


ますます悟りなんていう高級そうな考え方にそぐわない方向へいっているように思うが、そうではない。人間本来の自然な感情には忠実になれというのは十分に立派な思想だし、文学ドラマでも頻繁に用いられるテーマだ。刹那主義が堕落した快楽主義に陥らずに、もうちょっと高級感を醸し出すためのポイントとはなんだろうか。


それは刹那や快楽を感じる主体をどこに置くのかという問題に帰着するのだろう。別のいいかたをすると自己認識の範囲を自分以外にも広げることができるかどうかということだ。刹那を感じる自分、快楽を感じる自分、その自分の範囲を自分以外にどこまで拡大できるのかと言うことだ。


一昨日、ニュートンの最新号を読んでいたのだが、そこでは相変わらず宇宙の大きさとかを論じていた。最新の宇宙の歴史は137億年だそうだ。だから、光は137億光年先のものまでが届いている。では、137億光年はての向こうにはなにがあるのだろうか?なにもないのか、それとも宇宙が続いているのか?いまの科学では明確な答えはないが、おそらくは無限に広がっているか、137億光年よりは十分におおきいであろうと記事は結論づけていた。


たとえばこの宇宙の大きさまで自分を拡大することは可能だろうか?ぼくはちょっと宇宙に感情移入が可能かどうか想像してみたが、無理だった。ビッグバンで始まり、いずれ、ビッグクランチで終わるのか、それとも熱力学的な死を迎えるのか、はたまた再度のビッグバンが起こるのか、まったく想像力が及ばないが、とりあえずぼく自身は宇宙の運命にはまったく関係ないということだけは確信できる。しょうがないから太陽系まで大幅に想像を狭めてみる。やがて赤色巨星化した太陽に飲み込まれる地球の運命に思いをはせて、なんとか食い止める方法はないかと考えたりしたものの、やはりぼく自身の運命との無関係さはいかんともしがたい。


結局、実感をもって、自身自身だと思い込める範囲というのは、通常は家族ぐらいまでではないかと思う。それを民族だったり国民だったり人間だったり、あるいは自然も含めてだったり、どこまで拡大していけるか。その拡大された自己認識の中でなおかつ無常観にもとづいて刹那主義を貫いた状態。これが悟りなんじゃないかと思う。


刹那主義とはすなわち己の欲望も含めた全面的な自己肯定である。そこでの自己が範囲を広げた自己であるなら、すなわちそこでの現実を受け入れることができる。


悟りとはそういったものじゃないかと、今朝、ずっとベッドの中で考えていたのだ。なぜ、ずっと考えていたのか?


寒くてベッドから出たくなかったからに決まっている。

truehirotruehiro 2012/01/04 19:45 久しぶりの更新ですね。とても面白く読みました。
触発されて適当に思いつきいたこと以降書きます。

まず確信を持っていえることは、悟りを開いた人間というのは、自分から
「いやー、俺今日夜飯食ってたときに悟りの境地に
至っちゃったわー」なんてことは絶対に公言しないだろう
ということだ。そうしたことはおくびにも出さないはずである。

当然、釈迦も自分で悟りを開いたなんて言わなかったはずだ。
ぼくの考えでは「悟り」という状態を担保するのは、自分自身の心の
持ちようだけでは不十分で、外部からの承認が必要である。
それは時代によって異なり、具体的な人であったり、社会であったり、自然であったり、
神であったりする。

ソクラテスのデルフォイの神託を思い出して欲しい。
神託を実際に受けたのは、弟子のカイレフォンであった。
カイレフォンが「ソクラテスこそ最も賢い人である」
と神の声を預かったのである。
(しかし、神なんて現実には存在しない。であるとすれば
これはカイレフォンの願望であるということが容易に推測できる。)
こうして、それを真に受けたソクラテスは確かにどうやら自分より賢い人間はいないらしい
ということを世に名高い賢者、政治家、技術者、職人、臣民などなどと
相対することによって確認していくのである。

悟りは仏教で、ギリシャ哲学とは発祥が異なるが、この無知の知も一種の悟りであるということができる。



 カントによれば、すべて人間の哲学的な問いは以下の4つに収斂されることになるという。

?私は何を知ることができるのか

?私は何をなすべきなのか

?私は何を望むべきか

?私とは一体何者なのか

おそらく悟りとは上記?〜?の条件を満たすことで
内的自己と外的自己が完全に一致し、なおかつ自分以外の何者かによる保証があったときに
初めて自覚的に経験される心的境地であるということだ。


ここでは詳細な説明は省くが、(というか無理)形而上学が不可能であることは
決して遡及して覆ることのない原理として既に証明している。


これらから導き出せる帰結は何かというと、悟りって実は超壮大な勘違いなんじゃね?ということだ。
自己の外部をも含めた偉大なる幻想・・・・・・。それこそが悟りの正体だ。

kawangokawango 2012/01/04 20:19 >truehiro

そうそう。どう考えても勘違いですよね。

halfyouhalfyou 2012/01/04 20:29 いつも楽しく読ませていただいてます。
心の状態を3つに分けたところはさすがだと思いました。

無常観について考えたら、
ブッダが「泥棒が急にやってきて自分をノコギリで切ろうとしても、
決して怒りや嫌悪、悲しみの感情を持ってはならない」のようなことを言ってたのを思い出しました。

これを現代風に言うと、
全財産が急に没収される。家族が事故に遭う、地震が起きる等となり、
その時、悲しまず、怒らず、負の感情を挟まずに
その事実を受け入れられるかどうかという話になります。

この、物事は自分の意図しないとこで常に変化していくという無常の概念を、
当たり前のように受け止める、その無常観をどれだけ突き詰めていくか、
これは現代の人をみてると、とても難しい事だと思います。

もちろんその不条理が起きた時、ただ受け入れるだけではなく
受け入れた上で、どう最善の形に持っていくかが全能感と刹那主義の力によると思います。

ブッダが考えた無常を、理屈だけではなく、
思考プロセスとして自らに組み込むとなると、
結構厨二病に留まらず、これは奥が深い考えなのかなと思いました。

gensaygensay 2012/01/04 22:32 いくつか精神世界の本を読みあさったことがあって、その中で、スピリチュアル系で言う悟りっていうのはだいたいこんなものかな、というのがわかってきたのだが、カワンゴさんが言う悟りとかなり近いのが面白かった。

というか、そういう本を読んだんじゃないの?と思えるほど、カワンゴさんは、別の切り口から同じ話をしているんじゃないかと思えた。

宇宙との一体感を感じながら、全能的であり、今この時を面白く生きている。スピリチュアル系の本から読み取れる悟りの姿w

ただしカワンゴさんは、こんなヤツ痛いだろwというスタンスの文章で書いているのではないかとも思うが、カワンゴさんが思い描いている「悟ってる奴ってこんなだろw」というイメージが的確で、それでいてソレ系の悟りの状態をうまく表してるのが個人的に面白かった。
全能感に関しては、自称と他称の違いがあるがw(例えば釈迦やキリストは、普通の人にはわからない問題をズバズバ回答解決したそうなので、人から全能感を持たれたのでは)

僕の感じた所では、悟った人とは、どんな状況であろうと(いつか死ぬとわかっている無常な状況)、代替不可能な役割を果たし(人から見たら全能的に見え)、自分の周りの状況に対し、瞬時にバランス感覚を発揮して最良の反応ができる(宇宙と一体化している)人。

つまり、、、大地震があって原発事故があって放射能が飛んでいても、楽しくジブリとドワンゴに通ってエンターテイメントを創っているカワンゴ氏は悟っている!

これは私の勘違いなのだろうか。。。?