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はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2012-02-05 母親の親友の話 このエントリーを含むブックマーク

母親の親友論には長い間だまされた。


ぼくは、正直、マザコンの気があって、母親の言葉にかなり影響されて育った。10代のときにいわれたいくつかの言葉はかなり長い間にわたって心の中の金科玉条となってぼくの人生を支配した。ぼくが独立したのは30代半ばのころだ。どうもおかしいと気づきだして母親に確認したらいったこと自体を忘れていて愕然としたことを覚えている。ぼくの人生を返して欲しい。


ぼくが心の拠り所にしていた母親の言葉を思いつくまま紹介してみよう。


(1) 親友とは大学時代までにしかできない。社会人になって以降の友達は利害関係の付き合いだから、親友にはならない。

(2) 商売するとき必要なものだからと全部の必要なものにお金をつかっていたら、すぐに商売が成り立たなくなる。本当に必要なのかを吟味しなさい。

(3) 本当に大事な人間関係とは相手が困ったときに自分の身を切ってでも助けるかどうかで決まる。普段いくら仲良くしていても関係ない。 

(4) 社会にでて生きていうことは、いうてもそんなにたいしたことあらへんけど、でも、なめたらあかん。

(5) あんたみたいな性格の悪い子は、だれも愛してくれない。


(2)と(4)は役に立ったと思う。(3)も、まあ、そのとおりだとは思うのだが、ぼくの場合はこの理屈を悪用してしまい、相手が困ったときは助けるんだと決意だけすれば普段の付き合いは適当にしてもいい、というように解釈した。おかげで年賀状は出さないし、普段の人間関係のメンテナンスもいいかげんなので、なかなか親しく付き合う人間ができないはめにおちいった。まったく母親はろくなことを教えない。


(5)が最悪だった。あまりにショックすぎてどういう時にいわれたかも忘れてしまい、ただ、その言葉だけが頭にこびりついて、だれにもいえずに十数年間自分の胸の中でかかえていたのだが、30歳を過ぎたあるとき、母親と一緒に旅行して、勇気を出して聞いてみたのだ。あのときのあれはどういう意味だったんだと・・・。そしたら、もちろんまったく覚えてなかった。どうせ、ろくでもないことをしたからでしょと、容疑も不明のまま、もういちど怒られるはめになった。これは実は(3)とのコンボでぼくの考え方にすごく影響を与えていて、自分はだれからも好かれないことはしょうがないとして、自分が好きなひと尊敬するひとは困ったときに助けようという、実にみっともない決意で自分の心をなんとか慰めるという癖がついたのだ。


(1)の悪影響も大きい。まあ、基本、他人の好意を信用しない人間だったこともあって、大学時代の友人も社会人になったら付き合いはまったくなくなり、会社や仕事で出会った人とは決してプライベートな付き合いはしないことに決めたから、友達がまったくいなくなった。仕事の関係では人間付き合いをしないということは徹底していて、接待も受けなかったし、やらなかった。仲良くなったひとと仕事をするということは、フェアじゃないし、汚らわしいことだと思っていたからだ。


でも、これも30代になったときになんかおかしいんじゃないかと思い始めた。だいたい大学のときの友達だって利害関係じゃないか?同じクラスだから仲良くするなんてことこそが強制的な利害関係以外のなにものではない。利害関係のない人間関係なんてそもそも存在するのか?そう思って母親に聞いてみたらこれも返事がすごかった。すこし考えたあといったのだ。


「確かに大学時代の友人も利害関係かもしれないね」


簡単に納得すんなーーー。


まあそういう母親なわけだから、ぼくと母親の価値観にはかなりの共通点がある。他人に対して、どんなに仲良く付き合っていても、相手が困ったときに自分が助ける決意をしていても、自分のほうは壁が心の奥底にあって、決して心を許していないのだ。母親のほうが全然社交的だし、友人も多いのだが、そこの部分は変わっていない。


ぼくが会社をつくったときに親から多額の金を借りたことがある。母親の貯金と父親の退職金だ。息子の事業にお金を出すと聞いたまわりから馬鹿にされたそうだ。


「いまにけつの毛まで抜かれるわ」


大阪は言葉が汚い。母親はこう言い返したという。


「親が子供の踏み台になってなにが悪いんですか。本望です」と。


会社をつくっていろいろ危機があったけれども逃げないで頑張れたのは、別に事業に夢があったわけでもなく、ぼくの心が強かったわけでもない。ただ、失敗したときに訪れるだろう両親の惨めな老後など見たくなかったからだ。


さて、親友は大学までにしかできないといっていた母親だが、自分自身は高卒で大学にはいけなかった。成績は良かったらしいが、母親の母親、つまりぼくから見ると祖母になるのだが、病気で伏せっていてつきっきりで看病しなければいけなかったからだ。だから大学にいけなかっただけなく、高校生活もろくに過ごせず、高校時代の友達で付き合いのあるひとはひとりもいない。


だいたい自分が学生時代の友達が残ってないのに、学生時代のときの親友しか本当の親友じゃないなんてことをいったのは根拠がなさすぎじゃないかと文句をいうと母親はイヤな顔をした。


そういう母親が去年のクリスマス前に高校の同窓会があるので大阪にいってくるといったので驚いた。


付き合いのある友達がいないというのにそんなところいったら気まずくないかと心配になったのだが、もう、母親も68である。ひさしぶりの同窓会らしく、おそらくこれで最後だろう。今は付き合いがなくても高校時代に仲が良かった親友もひとりいる。行けば会えるかもしれないから、というので、まあ、いったほうが後悔しないよねとぼくも思った。


数日後、母親と会ったらテンションが高かった。


「そう、聞いて欲しいんだけど、親友と会えたのよ」


しかも、親友も母親と会うために同窓会にきたのだという。まあ、それぐらいは社交辞令でもいうだろうとぼくは思ったけど、母親の喜びようは尋常じゃなかった。


母親はいっきょにまくしたてた。はじめて聞く話ばかりだった。


高校の時に住んでいた家は差別される場所にあったということ。小さいときは仲良かった友達もだんだん大きくにつれ減っていったこと。友達は仲良くても親がいい顔をしないので家にはあそびにきてくれないこと。病床の母親から、うちの家の先祖は鳥羽伏見の戦いの落人でサムライだ。サムライの娘だから誇りをもてといいきかされていたこと。そのなかで分け隔てなく家族ぐるみで仲良く付き合ってくれたのはその親友ひとりだけだったこと。


お互いずっと親友だと思っていたらしい。でも学校を卒業後、彼女はどこかに嫁いでそのとたんに連絡が途絶えたという。いくら電話をかけても手紙を書いても返事はこない。母親は、いつか、これはきっと彼女の意志ではなく、嫁いだ家が差別意識のある家だったから付き合えなくなったんだからしょうがないと、自分の中で整理をして諦めたそうだ。


その連絡がつかなかった親友が同窓会に来ていた。しかも母親と会うためにきたという。


ひさしぶりにあった彼女はほとんど身体を動かなかった。ずいぶんよくなったのだそうだ。結婚後、ひどいリューマチに襲われ、全身が麻痺して動けなくなった。電話機のボタンも押せない。ペンも持てない。ずっと寝たきりの生活をつづけていたという。最近、やっとリハビリがうまくいって腕が肩まであがるようになって少し動けるようになった。そして親友であるぼくの母に会ってひとこと謝りたい、それだけの思いで息子の嫁に頼んで同窓会につれてきてもらったのだという。


母親に高校時代に親友がいたという話は本当だったわけだ。


ほかの同級生のことを聞くと、母親は妙なことをいわれたといった。「きれいになった」とみんなにいわれたらしい。ひとりだけじゃなくみんなにいわれたそうだ。高校のときにしかあってない友達に70手前で再会して、きれいになったというのはどういう意味だよとぼくは笑った。


「たぶん、高校のときは毎日母親の看病をしていたから、疲れていたんじゃないかと思う」と母親はいった。


母親の高校生活とはいったいどんなものだったのだろう。


学生時代の友達しか親友じゃないとぼくにいったとき、母親はどんな気持ちだったのだろうか。おそらく母親の頭の中にあったのは親友の彼女のことだろう。彼女と連絡が途絶えたあとも、母親はずっと親友のままだと信じて、彼女にだけは心の壁を取り払って生きてきたのだ。


「本当に同窓会に行ってよかった」


母親はうれしそうにいった。

dmwl9dmwl9 2012/03/08 01:03 人は自分の言葉にそこまで責任を持ってないってことですかね。
ド理系人間カワンゴさんなのに、母親の論理的でない意見には素直に受け入れたる

dmwl9dmwl9 2012/03/08 01:09 人は自分の言葉にそこまで責任を持ってないってことですかね。
ド理系人間カワンゴさんなのに、母親の論理的でない意見を素直に受け入れるなんてなんか親近感わきます。
性格の悪い人にこんな文章書けないですね!
母親のように本質を覗けば、カワンゴさんにも何人か親友とも言える人がいるのでは?
親の融資で失望させない為に頑張ったというのは、なんか感動したし、参考になりました〜ありがとうございます。

nbangnbang 2012/03/12 01:07 自分は親子関係に全く問題のない平均的な家庭で育ったと思っていますが、親とそんな深い話したことがありません。
父も母も自分の内面を外に表現することが苦手なんです。
自分もtwitterや日記等で感じたこと書いたりするけど、それはやっぱり建前含んでるし本心を語ることは苦手です。
親の心が分からないわけではないですが、親が素直にうれしかったと話せる関係を少しうらやましく思いました。

2012-02-04 ネットが守るべき言論の自由とはなにか? このエントリーを含むブックマーク

ネットでわんこ☆そば氏なるひとのブログに面白い記事がのった。


ドワンゴ川上会長「中国のようにネット言論は国で規制すべし」 - SKiCCO JOURNAL


そこだけ読むと、多くのひとがこのひとは無茶苦茶いっているなと反感を持つような見出しである。ネットではこういうように自分が都合がいいように情報を切り出して加工して、架空の敵をつくって攻撃をするということがよく行われる。


ちなみに面白いことに、このブログをさらに引用したニュース記事があって、タイトルはこんな風になる。


『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言 - 楽天ソーシャルニュース


要するに読者を刺激する、できるだけ読者が怒り出すようなタイトルをがんばってつけようとしているのだ。そしてネット民はそういう情報を取捨選択かつ判断する賢さはあまりもっていないひとが多いから、そういう作られたイメージでどんどん空想の議論を発展させる結果となる。twitterの発言をいくつか引用してみよう。


manbo kono @jazzmanbo

またまた狂人現る。 RT @R_SocialNews 『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言 r10.to/hEtF8P


Kitten T.T.(脱原発に1票!) @kittenish823

ネット業界の当事者がネットの存在価値を否定する発言をしていることを赦す風潮は絶対にいけない。言論封殺を正当化する根拠はどこにもないのだ!→『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言


T-Katou @k10go244

中国、北朝鮮と同じでいいということか!? RT @R_SocialNews: 『ネットの意見は国が封殺すべし!』ドワンゴ川上会長の驚き発言


seiji watanabe @re_enta

激同⇒ネットサービス事業者からこういう発言が出てくることは実に恐ろしく、そして情けない。 RT ドワンゴ川上会長「中国のようにネット言論は国で規制すべし


彼らはこんなひどい人間が世の中にいるのかと頭の中で想像をふくらませて怒るわけだが、実際の相手が自分が想像するとおりの人間であるわけがないなんてことについては想像する知能を持ち合わせていない。


このようにネットでは相手の意見を自分が攻撃しやすいように加工したり、ねつ造して情報を拡散し、そのねじまがったイメージに対して、たくさんの人間で攻撃するというのが、とてもポピュラーで便利な議論の方法となっている。


ネットの言論の実態がどういうものかについての非常に美しいサンプルである。


さて、最初のわんこ☆そば氏のブログに話を戻そう。ネットの言論統制を国家がやるべきかどうか。言論統制の是非はともかくとして、国家がそういうことを志向するのは当然だと僕は思う。実際にジャスミン革命のチュニジアではネット上の運動が燃え広がり、政府が転覆した。国家が国家である以上、国がひっくりかえるリスクに対してなんの対策もとろうとしないのは、間違っている。国としては革命などの社会不安につながる恐れのある暴走は食い止めようとするのが正しい姿だ。あくまで国のとるべき姿としては当然であって、正しい。だいたい今回の記事でもわかるようにネットの炎上事件というのは、原因をよくよく調べてみると勘違いだったり正しくないことも多くて、そんなんで社会がいちいち転覆してたらたまらない。


だから、国が言論統制をおこなおうと決意するのはそのこと自体は当然のことだとぼくは思う。そして、問題があるとすれば国家としては当然で必要性のある言論統制であっても、それによって本当の言論の自由が損なわれるのであれば、とても許しがたいということだ。そしてそういうことはぶっちゃけよく起こりそうでもある。だから、国家がネットの言論をコントロールしようとしたとしてもその手段についてはよくよく議論をしなければならないだろう。だからといってネットでなにがおこっても国家は一切干渉すべきではないというのはネットにいるひとたちは主張しても、国家側が自ら主張することではない。それはネットという新しい領土における国家の主権放棄であるというのがぼくの主張だ。重ねて言うが、それが正しいといっているわけではない。例えば、ネットはどの国家の主権も及ばない自由な場所であるべきだ、という主張もありうるし、そっちのほうが人類の未来のためには正しい道かもしれない。ただ、国家がそんなことを主張するのは自己否定だし、気持ち悪いじゃないか。


中国は手段が正しいかはおいといて少なくともネットの時代に国家はどうやってネットにおいても国民を支配するかということを真剣に考えている。それは国家としては正しいし、なんにもネットについて考えてないように見える日本よりは意識が高い。これは当然の指摘だと思うがどうだろうか?


国の話はこれで終わりにして、じゃあ、ネットの言論を規制するとしたら、なにを規制するべきかとぼくが考えているかについて書こう。


まず、最初に断っておくが、ぼくは規制手段について、こうすればいいという結論は持ち合わせていない。そこはこれからネットで考えていくべきテーマだと思う。


ただ、ネットの言論が問題な部分はどこなのか、それについての自分の意見は持っている。


それは「他人の言論の自由を妨害する自由は言論の自由とは違う」という主張だ。このふたつを混同しているひとがネットに多くいるのだ。


そういう意味では、ぼくは言論の自由を守られるべきだと強く思っている。そしてネットの言論の自由を本当に守るためには、ネットで他人の言論の自由を妨害する自由を規制しなければならないと思っているということだ。規制という言葉が気に入らなければ、ルールという言葉に置き換えてもいい。別にそのルールの主体がネットの自治でできるならそれにこしたことないし、なるべくなら国家権力の介入などないほうがいいに決まっている。


今回のわんこ☆そば氏の記事は非常にいいサンプルで、自分が攻撃したい相手を決めたら、そこだけ読むとみんなが怒るように相手の発言を切りとり加工してタイトルにつける。そうなると別のひとがさらにそのタイトルをより過激なものへ加工する。それをtwitterでみたひとがタイトルだけみてまたなにかを想像して怒り出す。そもそも発端が決めつけとレッテル貼りからはじまっているので、タイトルをクリックして記事を読むひとがいても、元々の記事からして根拠なく歪んだことしか書いてないから、元々のソースがなんなのかがもだんだんわからなくなってくる。


現在のネットの言論の自由はとても進んでいて、他人の言論まで自由にこのひとはこういうことをいったんだとねつ造することが可能なのだ。


わんこ☆そば氏が面白いことをいっている。


>マトモなことを言う人が吊るし上げられたとしたら、今度は吊るし上げた奴が非難されるのがネットである。それこそが自浄作用だ。


こういう自浄作用が本当にネットにあるだろうか?たまにあるのは認めよう。だが、多くの炎上事件でつるし上げられるのは”自分たちへの反対意見”であり、いっている内容は関係ない。敵か、味方かそれしか判断しない。まともな反対意見をいったとしたら、たしかに他のまともなひとたちは自浄作用により納得するかもしれない。ただ、それで浄化できるのはまともなひとだけなので、炎上事件の終盤になると、自浄作用により、逆に、ばっちすぎて浄化できない、まったく話の通じない馬鹿ばかりが濃縮されて残っているというのが現実ではないか。


こういうネット世論の特性というのはある意味単純なので、それを意図的に利用しようとするひとはたくさんでてきている。なにかの検索ワードに定期的にネガティブキャンペーンを投稿するボットはtwitterを眺めていればすぐに見つかる。自然発生なのかどこかが意図的にやっているのかは不明だが、組織的になにかの主張を広めようと、ネットでたくさんのひとがそう思っているかのようにいろいろな工作活動しているひとたちも多い。広めようという主張には正しいものもあれば、たんなるデマもあるだろう。だが、見ている限り、人間の善意よりは悪意のほうが数も多く長続きしているように思える。たいていの場合はなにかの主張を広めるときにはすごく悪い敵を勝手につくって想像上のイメージをどんどん悪くしていくという手段がセットになっている。そういうのは問題ではないのか?


だから、ネットの言論を規制すべきといっているわけではない。でも、他人の言論をねじまげる自由が、逆にネットの言論を不自由にさせているという事実を指摘したい。


最後に、わんこ☆そば氏の記事の最後のほうになにもかもぶちこわしにする本当にひどい文が登場して、ぼくは目を疑ったのだが紹介しよう。


>もちろん、表現の自由も行き過ぎれば暴力になる。だが、表現の自由は責任を課すことで制限すべきであって、


おいおい。結局、責任を課して制限すべきなのかよ?だったら一緒じゃん。


一体彼はだれとなにについて戦っていたのか?残念ながらこれが日本のネットでまだまともなことをいっているひとたちのレベルだ。


どうやらわんこ☆そば氏のブログを見る限り、彼はジャーナリストを気取っているらしい。ジャーナリストとして自分の発言には責任をもち、批判されることも覚悟しているらしいわんこ☆そば氏自身には果たして自浄作用があるのかどうか?期待して見守りたい。

miyadai454miyadai454 2012/02/05 22:02 ネット特有じゃないものにまで『ネットでは』とつける事が多いな。カワンゴさんは。

fwmaltofwmalto 2012/02/22 00:44 そのような加工された情報を信じて他人を批判する人間、またはこの「わんこそば」さんみたいに悪意があってかはわかりませんが、全く間違った理解の元批判する人間、そしてその批判を鵜呑みにする人間、そんなの全員放っておいていいんじゃないでしょうか。会社経営者とかが実名でそういう批判を受けると株価とかに影響するから嫌でしょうけど。でもそもそも自分に対して弾が当たっていないのに気にする理由がわかりません。そんなレベルの人間から好意を受けようが受けまいがどうだっていいじゃないですか。
勝手にやってろ、でいいと思います。
チュニジア革命を引き合いに出してましたけど、そんな国家規模の人間に影響をあたえるような場合は、そこそこ頭を使う人が情報の真偽を確かめるでしょう。本人に確認を取ることもあるでしょう。

ヨウ素問題だって、結局収束したじゃないですか。

2012-02-01 ハウルの動く城がファンタジー映画の最高傑作であるわけ このエントリーを含むブックマーク

ファンタジーとはなにか?現代のファンタジーの大きな源流はトールキンの指輪物語など一世紀ほど過去のイギリスの児童文学に遡ることができるだろう。それ以前はお伽噺や童話の世界になる。


つまり、もともとはファンタジーは子供に聞かせる話として誕生したものである。


お伽噺や童話そしてファンタジーに人々はどんな思いを託してつくってきたのか。


ぼくの母親から聞いた話だが、昔、母親の子供時代、日本が貧しかった頃、狸に化かされたという話は学校 に弁当をもってこなかった子の冗談めいた定番の言い訳のひとつだったそうだ。つまり家が貧乏だから、弁当を持ってこないのではなく、狸に化かされて盗られただけだというわけだ。


人々は現実がこうあってほしいなという夢を物語に託したりする。シンデレラという話は貧しく冴えない少女が、魔法で身なりを整えたら実は美女で王子様に求婚されるというはなしだ。シンデレラと類似の民話、伝説の類は世界中にあるらしいが、別に昔話でなくても、自分もなにか奇跡が起きて条件さえ整えば、実はすごい才能があって他人から認められて幸せになれるんだという筋書きは、現代の日本のマンガやアニメでも王道といってもいい。


一方、そういう王道のストーリーと異なり、童話らしい奇跡は起こったんだか起こってないんだか分からず、現実によくあるような苦しみをただ綴ったような悲しい童話もある。たとえばマッチ売りの少女という有名な話がある。マッチを擦っている間だけ、美味しいごちそうの幻が見えたり、死んだはずの母親が現れるというはなしだ。この話は客観的に考えると、凍え死にかけた少女が死ぬ間際に幻覚をみただけじゃないかとも解釈できて、そうすると実は不思議な話でもなんでもないリアルな小説だ。昔話にもこういう文学的な作品はあるんだなあと思っていたら、マッチ売りの少女は言い伝えられた民話の類ではなく、アンデルセンが19世紀の半ばにつくった大人のための童話らしい。


さて、ハウルの動く城についての話だ。ハウルは僕は映画公開時に一度観て、いろいろ不満があったけど、まあまあ、面白かったなあと思った作品だ。わくわくする冒険は少なかったけど、宮崎駿がひさびさに正統派ファンタジーをつくってくれたことだけで満足しなきゃとか思ったことを覚えている。


つまり、去年、ハウルをDVDで観たのは映画以来の2回目で、だから、とても驚いた。こんないい映画だったのかとびっくりしたのだ。


あちこちのシーンで心が動かされて涙が溢れそうになった。さらに興味深いことに、その多くの箇所で、なぜ、ぼくが今、感動しているのか自分でもよくわからなかった。


これはいったいどういうことなんだろう、と考えてみたのだが、まず、第一のポイントは観るのが2回目だったので余計な期待をしてなかったことだ。最初にハウルを観たときの自分を思い返してみたら、ぼくはずっと最後の戦いが始まるのを待っていた。ハウルが敵と戦争を開始する決意を固めるのをいまかいまかと見守っていたのだ。そしたら、そういうカタルシスをもたらしてくれる戦闘シーンはまったくでないまま映画は終わってしまい、本当にがっかりしたのだ。だが、2回目にハウルをみたときには戦争シーンなんてほとんどないことは最初からわかっていたので、余計な期待はせず、素直に映画を観れたのだと思う。


そういえば去年、映画監督のHさんと酒席でご一緒する機会があって、そのときにHさんがハウルを批判していた話が面白かった。Hさんが文句をつけていたのは一点だけ、ハウルの城についている大砲のことで、なんで撃たないんだ、と怒っていた。登場した武器は最低一回は映画が終わるまでに使うべき、と主張していて、ああ、ぼくも気分的にはまさしくこんなかんじでハウルを観ていたなあ、世の中の多くのひともそうだったんだろうなあと思ったのだ。


宮崎駿は間違いなく、ハウルで戦争なんて描く気はハナからなかったのだろう。じゃあ、彼はなにをハウルで描こうとしたのか。


Hさんの話をきいた酒席にいた別の監督Aさんはハウルのことを、ソフィーがハウルの城に到着するまでが最高に素晴らしかった、と評した。ぼくも同じ意見だ。ハウルは全体的にすごく完成度の高い映画だが、特にハウルの城に到着するまでは完璧としかいいようがない。


ファンタジーとは現実には起こらない奇跡を描く。観客にとって起こって欲しい奇跡や起こると楽しそうだなと思う奇跡を描く。


でも本当は奇跡なんて起こらないなんてことをみんな知っているのだ。奇跡は現実の中ではなく、みんなの心の中に願いとして存在しているのだ。


ハウルの特に序盤で宮崎駿はそのことを残酷なまでに描写する。彼が表現したのは奇跡を起こって欲しいという主人公ソフィーの感情である。奇跡そのものは・・・空中散歩などは本当に名場面ではあるものの実はどうでもよくて、そういう奇跡が起こって欲しいと願う気持ちがどういうときにあらわれるのかを見事に表現している。だから、ぼくは涙がでそうになった。奇跡で救われているはずのソフィーを見て涙が溢れそうになったのだ。


ソフィーがハウルの城にたどり着くまでの物語は、実はソフィーの頭の中で夢見た幻にすぎないという解釈が可能だ。これは実は冒頭で書いたマッチ売りの少女と同じ構造を持っている。ソフィーに起こった奇跡はソフィー以外のまわりのひとには見えていないし関係ない。ソフィーには本当は奇跡なんておこっていなかったのだ。


じゃあ、本当のソフィーの物語はどうだったのか。街角でのハウルとの出会い、これはおそらく自分とは身分違いのかっこいい青年とすれちがってちょっと優しい言葉をかけられた、ただ、それだけの出来事だったのだろう。ちょっとした恋心を抱きながらも付き合えるワケがないと諦めながら、少女は年を重ね、やがて老婆になっていく。たぶん、生活に疲れた彼女にとって、若い日のちょっとしたこのエピソードは一生心の奥にしまっていた大切な思い出だったに違いない。映画では魔法で老婆にされたソフィーは山に向かう。なんのために山にいったのか?途中で馬車にのせてあげた夫婦は、親戚がいるから、とソフィーというソフィーの説明を訝しがる。もちろんその話はウソだということをぼくらは知っている。ソフィーにはこの家にはいられないといって黙って家をでていったのだ、あてなどあるはずがない。ソフィーは山に死にいったのだ。死を決意したソフィーの荷物は台所から持ち出した少しの食べ物だけで、お金は一銭もない。きっと、これは本当の話なのだ。いきなり90歳になる魔法なんてなかった。ただ、ふつうに年を取り老婆になったソフィーが居場所がなくて山に死ににいったという話なのだ。姥捨て山の物語だ。


姥捨て山で死をまつ年老いたソフィーはなにを考えていただろう。自分の人生がひょっとしたら変わったかもしれないかすかな可能性、若い日に街角で出会った青年のことで空想をしていたにちがいない。彼は魔法使いで実は自分のことを愛していて、いま、この寂しい山奥で運命の再会をするのだ。ハウルの動く城とはソフィーが死の寸前に夢想した幻覚の物語である。まさにマッチ売りの少女なのだ。


ハウルの動く城ではアンデルセンが書いた童話と異なって、悲劇的な結末は描かれない。ソフィーは冒険の末、ハウルと結ばれるだけでなく、新しい家族と手に入れ一緒に暮らすことになる。まさに絵に描いたような理想のハッピーエンドだ。


ぼくが本当にすごいと感動したのは最後の最後で唐突にかかしの魔法が解けて、隣の国の王子様にもどったときだ。なんだかんだいってファンタジーとしてすすんでいた映画が、いきなりおとぎ話の世界になったのだ。余計な説明も演出もなにもない。いきなりお姫様のキスでかかしにかけられた魔法がとけて王子様になる。おとぎ話の典型的なラストである。リアルに描かれた登場人物の心情も映画の世界観もぶちこわしにいきなり子供向けのお話のエンディングがくっついたのである。


そう、ハウルの動く城とはおとぎ話だったのだ。宮崎駿は人間の悲しみを描き、その中からこういう現実だったらいいなという願いをすくいあげてファンタジーの物語をつくった。しかし、その手法としては完全に現実とは別の世界をつくるのではなく、登場人物の心情がとてもリアルに描かれた文学のようなファンタジーをつくった。シンデレラではなくマッチ売りの少女をつくった。ただ、それではエンターテイメント作品にはならない。マッチ売りの少女の妄想の話はふくらんで長く続き、シンデレラのような話がうしろにくっついた。そして最後にやっぱりこれはうその話、おとぎ話だったんだよとけっして視聴者に絶望を与えないかっこいい形でつきつけて映画を終わらせたのである。おとぎ話であるとはっきり宣言することでハウルの美しい物語にこめられた世界はこうあってほしいという宮崎駿の願いが純粋な形で伝わったのだ。


これほど美しい物語をぼくは知らない。


ハウルがファンタジーとして異質なのは、登場人物の感情の描写のリアリズムでそこが文学的である所以だ。だいたいファンタジーとは世界の設定だけではなく、登場人物の性格設定までもがステレオタイプで荒唐無稽なものだ。


ここで宮崎駿のリアリズムについてぼくの考えを話したい。よく宮崎駿の特徴として描く絵が空間的に歪んでいるということをプロデューサーの鈴木敏夫は指摘する。遠近法では正しくないんだが注目してほしいものをより大きく描いたり、なにかの背後に隠れて見えないはずの風景をまわりこませて画面に描きこむ。それが実は人間の脳での情報の認識方法にはなじみやすくて気持ちいいのだと説明する。宮崎駿の絵は写真のように遠近法では正しくないが、人間の脳ではよりリアルに感じられるということだ。


だから、宮崎駿の絵は空間が歪んでいると鈴木敏夫はいうのだが、さらに付け加えれば、ぼくの意見では宮崎駿の映画の歪みは空間方向だけでなく時間方向にも及んでいると思う。宮崎駿は絵描きである以上にアニメーターなのだ。映像として観客の脳がどう感じるかというのをシミュレーションして、いらない情報は省き、必要な情報は強調しながら、映画の構成を考えているはずだ。一般にも宮崎駿はシナリオも脚本もない状態で、いきなり絵コンテから物語をつくりはじめるといわれているが、その理由はこのあたりにあると思っている。


宮崎駿の絵が実は歪んでいることに気づかないのと同じように、宮崎駿のつくる物語はストーリーに矛盾や説明不足がたくさんあって歪んでいるのに気づかれにくい構成になっているのだ。そして歪んでいるのに、よりリアルな物語に感じられるのだ。


これはちょうど夢と似ているのではないか。人間が夢の中で見ている映像とはどういうものか、多くの人は白黒の夢をみていて天然色の夢を見ているひとは割合的に少ないといわれる。おそらくは、天然色の夢を見ているひとというのも起きているときに視神経から飛び込んでいる映像ほどの情報量は脳内では再現できていないのではないかと思う。夢を見ている間、きっと人間は現実よりも不完全な映像を見ている。そしてそれが夢の中ではほとんど意識されないのは、もともと人間は起きているときも視覚情報を大幅に削減し抽象化して、脳内で扱っているからだろうに違いない。それでも夢の中では現実以上に恐怖を感じ、うれしかったり、悲しかったり、感情が揺れ動く。そういう夢を見ることがある。


宮崎駿のつくる映画は良質の夢なのだ。それがリアルじゃないアニメ、リアルじゃない物語で、なぜか現実よりもリアルな感情が呼び覚まされる理由だ。


ハウルの動く城、まだまだ書きたいことはたくさんあるが、見せたら長いと文句をいうひとがいるので、ここで筆を置く。


ぼくが、人生で出会った中で最高のファンタジー映画である。