Hatena::ブログ(Diary)

はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記

2012-07-10 クリエイター視点と消費者目線 このエントリーを含むブックマーク

ここ数年のオリコンランキングを見ると、上位はAKBとジャニーズばっかりだ。この現状について音楽好きのひとたちが嘆いていたり非難するひとたちの記事は定期的に見る。


また、ライトノベルや深夜アニメなどのサブカルチャーの程度が低すぎるみたいな話もよく聞く。


問題と指摘されている点をまとめるとだいたい次のようなかんじではないか。


・ 商業主義がいけない。ユーザの欲望に安易に媚びた結果、似たようなもの、質の低いコンテンツばっかりになる。

・ 本当にコンテンツを愛するファンが欲しい作品が登場しない。売れない。

・ これは世界の中でも日本だけの特徴であって恥ずかしい。


この現状認識についてはいろいろ各人によって賛同、異論があるようだが、ちょっと違った角度で現在のコンテンツを巡る状況を考えてみたい。


そもそも質の高いコンテンツとはなんだろうか。一般に対比される芸術性と大衆性という切り口で考えると、商業主義は大衆性と結びつきやすいので芸術性が低いというのが質の低さだろうかというと、どうもそう単純な話でもなさそうだ。一部の少数のマニアではなく万人の心に訴えるコンテンツのほうが素晴らしいものだという考え方も強くあるからだ。


芸術性と大衆性という切り口で考えた場合は、両方を兼ね揃えているコンテンツが質の高いコンテンツであるという定義にいったんはしておこう。


さて、コンテンツの起源について考えてみる。社会的、商業的に考えるとグーテンベルグの印刷術の発明が大量複製されたパッケージコンテンツのはじまりだろうが、コンテンツに対する愛情だったり尊敬あるいは畏敬の念とかいう感情の発生であれば、もっと人類の起源とかに遡る話だろう。それはまわりの自然には存在しない非日常的なものに対する驚き、センス・オブ・ワンダーといったものだろう。


まあ、なので非日常的な驚きを与えてくれるものであれば、そもそも人工物である必要もないわけで自然の中でも非日常的な自然に遭遇した場合にもそういう感情は発生したはずであるし、そちらのほうがむしろ最初にあったに違いない。そういう驚きを与えてくれるものを人間が自らつくりはじめたのがコンテンツの起源だろう。


この説明だと驚きを与えてくれる世の中のものはすべてコンテンツとなってしまうが、すくなくともコンテンツではなくアートというのであれば、その定義はおおむね正しいように思える。そしてアートがコンテンツになる条件はアートが人間にとってなんらかの機能性を伴って切り出せるときだ。絵画、彫刻、音楽とかいったものは人間にとってなんらかの役割を与えられたアートである。


前置きに少し時間を取られたが、そういうコンテンツの起源から考えた場合に、現代のコンテンツってどういうものだろうと考えると、いろいろ矛盾を抱えていることが分かる。


自然にないびっくりするものということでいえば、ぼくらの自然ってなんだろう。ぼくらは自然の中にはもはや生きていない。たとえばぼくがいまキーボードをタイプしているパソコンや携帯電話。こんな不思議なものはない。200年前の人間からすれば当時のどの絵画よりも写真を見た方がよほどびっくりする。自然にはありえないほどなめらかでたいらな表面をもつ机や窓ガラスだってそうだ。神の国の工芸品だ。


同時代でみてもどういうことが起きているか。


音楽を考えてみよう。簡単な例をあげると、一般消費者が日常で聞く音楽はCD音源であるがここの完成度が一番高い。音楽が好きなひとはライブにいって、よりひどい演奏、より下手くそな生声と雑音のなかで音楽を聴く。アイドルの歌なんて見下されることが多いが、優秀な作曲家がついてPVにお金をかけたり、歌は加工されまくって、最終的なコンテンツの完成度はやはり高いといわざるをえない。こういう環境の中でぼくらはコンテンツを愛して消費している実態がある。


現代において、コンテンツの質の高さをどうやって定義すればいいのかは非常に難しいというほかはない。


ぼくらは過去の人間が生みだして蓄積した素晴らしい人工物の中ですでに生きていて、その上で現在生きている人間がちょこっとしたものをつくって競いあっているのがコンテンツというものの実態なのだ。ぶっちゃけもっとすごいものはいっぱいあるけど、それはすでにあるから忘れることにして、範囲を意図的に限定して競争しているのだ。


そのなかでコンテンツの質の高さをクリエイターがいうとき、それは現在であるコンテンツをつくる制約条件をはっきりわかっているひとたちの間でしか価値観は共有できないだろう。つまりはクリエイター自身とコアなファンだけだ。


クリエイターの立場を理解しない一般消費者にはまったく関係ないのだ。


一般消費者の立場から、驚き=センス・オブ・ワンダーを与えてくれるものを素晴らしいという価値観を追求するとどうなるか。それはネットの掲示板とかでよくみる”批評家”ぶったユーザ達を見ればわかる。えらそーに好き勝手な決めつけをしてコンテンツを良し悪しを断じる彼らこそが、現代において古代人同様にもっとも人間的なかたちでコンテンツを捉えているひとたちだ。


いま、ぼくらは神の国に住んでいる。より高みにある神の国に憧れるのも、より人間的な地上の国に憧れるのも、ぼくらにとっては等価なのだ。

momi_18momi_18 2012/07/24 16:38 はじめまして。
そもそも芸術性というものに川上さんがどういう概念を持って話しているのか、過去の芸術と現在の大衆の結びつきをどういう角度から理解しているのか、一口にコンテンツといっても方向性が違うので質の定義が難しいとされるコンテンツとはここでは何をさしているのか、もっと川上さんがどういう立場にたって意見しているのかが知りたいです。
で、そういう疑問を持ちつつ何となく、紐解くと、ファインアートは驚きそのものに価値があるわけではないと思います。驚きに対する感受性の新たな方向性をつくっていくことが意義だと思いますし、
大衆性は完全に一つの価値観が浸透した上で成り立っていて、理解されていると思います(それと大衆性はある程度の人数が集まってはじめて形になると思うので一個一個の個性を追求したところで広い意味では何も生まれないかと思います)
クリエイターと消費者で温度差が生まれるのは、大人が消費者ってところにあると思いますが、大人はテクスチャのみを切り取った鑑賞で好きになるのは困難かと。やっぱり作品のもつ、色んな引き出しが気になるし。そう思うとクリエイターのバックグラウンドにおいてる念頭に共感できるかどうかだと思います。
関係ないですが私は川上さんが好きです。
おわり。