どうでもいい話。パソコンの安定性についての話とかとか

最近、ひさしぶりにPC Building SImulaterとかいうクソゲーに嵌まった影響で、Windowsマシンを使い始めるようになった。いままでも一応、定期的に買い換えてはいたのだが、日常はほとんどMacBookで事足りていて、Windowsマシンの起動なんて、そろそろ最新ハードに買い換えたいという時に比較用に起動するぐらいだった。

 

ひさびさに使うとWindowsマシンも悪くない。アプリケーションが安定して動作するんだよね。まったく固まらない。そうそう。Macは昔から不安定だったし、ずいぶんMacも安定して動くようになったけど、まだまだ、Windowsのほうが安定なんだ。と感動した。

 

だいぶ使用頻度もあがって、ふとストレージがSSD1TBしかないことの気づいて、最近でた4TBのSSDを増設しようと思いついた。PCのパーツを買って拡張するなんて久しぶりだが、まあ、ケーブル2本つなぐだけだしと思って、ケースを開けてみた。PC Building Simulaterのリハビリのおかげでディスクのマウント方法もすぐに分かった。ただ、2つのコネクタを間違えた。小さいコネクタが当然、電源で、でかくてカスケード接続できるのが、ATAPIケーブルだと思ってしまったのだが、逆だった。それでAmazonの発注が2度手間になってしまったのだが、増設自体は簡単に済んだ。

 

フォーマットして4TBの増設はあっというまに終わり、楽勝じゃん、と思って数日使っていたのだが、安定だったWindowsマシンがフリーズしはじめた。

 

デリケートすぎるだろう、とびっくりしたが、まあ、自作PCなんてこんなもんだったよね。とだんだん思い出してきた。Windowsが安定だったという記憶はよく考えてみたら美化されていただけだった。

 

アプリまで含めた総合的な環境で考えると、Macよりも枯れていて安定な部分はもちろん多くあるが、OS自体の安定度はもはやOS Xのほうが上かもしれない。まあ、でも昔にくらべればWindowsMacのどっちも本当に安定して動くようになったよね。

 

ぼくがMacを使い始めたのはMac Classicからで、System 7がでるかでないかという時だった。そのまえのSystem 6.04とか?本当にクソ不安定だったが、System 7はわりと安定でなんとか耐えられるレベルだった。でも、それでも、たしかそのころハッカーが活躍するハリウッド映画で主人公がMacを使いまくるやつがあって、たしか、タイトルなんだっけなー、まあ、その2時間ぐらいの映画の中で、主人公のMacが一度もフリーズをしなかったことがネットで話題になって、あの映画にでてくるMacが欲しいと、みんなが書き込んでいたのが面白かったのを覚えている。でも、さらに昔のMacはもっと不安定で、漢字Talkとか、最悪だったと古参Macユーザーがいっていて、いまのMacより不安定なMacが存在していて、しかもそれに熱狂的なファンがついているという事実が信じられなかった。

 

あの当時は、ぼくはパソコンの未来を示しているに違いないMacの良さを分かろうと、我慢してMacを使い続けていた。

 

あの頃から比べると、ずいぶんとパソコンは安定した。当時は永遠に無理なんじゃないかとみんながうすうす思っていたパソコンの家電化が実現しているといってもいいだろう。

 

ただし、若干、ズルが入っていて、パソコンも家電化したけど、家電もパソコン化したので、家電のほうは不安定になった。パソコンが家電化したというのが、現在の不安定化した家電レベルになったということで、昔の家電ほどはいまでも安定して動作してはいない。

 

なぜ、こんなくだらないブログを書いているか。2つの理由がある。

 

明日、長野の大学で講演だか授業だかなんだかがあるので、軽井沢の家に前乗り?してきているのだ。まあ、松本市なので、軽井沢にきても、たいして都内から近くなっていないのだが、じつは明日の講演の準備を、まったくやってない。まあ、とりあえず軽井沢にこもって、一夜漬けで資料をでっちあげようとしたわけだ。しかも、さっき気づいたのだが、どうせ講義なんて90分ぐらいだろうから、半分ぐらい質疑応答にしてやろうと思っていたのだが、スケジュールを確認したら、講義は90分を2回連続でやるらしく、前半90分が講義で後半90分が質疑応答らしい。合計3時間!どうやって、埋めればいいんだ。話すネタあるのか。テーマひとつだけじゃ無理じゃん。いや、もちろんテーマひとつだけでも中身を充実させれば可能だけど、それには準備の時間が足らない。

 

絶望的な気持ちになっていたところ、気がついたら、ブログを書き始めていた。それがひとつめの理由だ。

 

ふたつの目の理由だが、思い起こせば、ここ数年、ほとんどブログを書いていない。そもそもネットをやっている時間が極端に減った。たまに思い出したようにネットに書いているときがあるが、そんなときには共通項がある。長めの海外出張したり、母親と船旅をしているときとか、つまり、自分ひとりになったときだ。

 

そういうときになにをするかというと、音楽を聞く。ふだんはもう音楽なんてほぼ聴かない。いや、聴いているかもしれないけど、だいたいアンパンマーチとかみんなのうたに始まり、子どもが好きなうたばっかりだ。最近、パプリカとか、嵐とか岡本真夜とか、ちょっとJPOPが入ってきた。幼稚園で踊るらしい。幼稚園の先生が好きな曲を選んでいるんだろう。

 

たまにひとりきりになったときは、ひさしぶりに自分が好きな音楽をエンドレスで聴くことが多い。妻によると、ぼくが好きな曲は不健康で病んでいる気がするので嫌いだそうだ。なので普段は聴けない。不健康で病んでいる曲とはどういう曲か、まあ、ようするに、ずっと聴いていると、どんどんメランコリックな気持ちになるような曲ということだろう。やがて、なんとなく忘れていたせつない気分になってたまらなくなり、ネットになにかを呟きたくなる。

 

ネットに書き込むことによって、ぼくは社会と接続しようとする。ぼくはネットに本当に救われた。

 

まあ、でも、家庭をもった自分にとっては、普段はもはやネットは必要としないらしい。

 

それでも、ひとりになったとき、さらに気が向いたときに思い出して書き込む、今のぼくにとってのネットとの付き合いかたはそういう存在だが、相変わらず、時々は救われているのだろう。あ、ネットサーフィンは結構いまでもやっているけどね。それは救われているというより、悪いクセなので辞めたい。

 

最近、ぼくの昔からのネットの友人や知り合いたちも炎上か、なんかに巻き込まれて、ネットから距離を置くひとが増えた。ネットに理想を見ていたひとほど、その傾向が強いように思う。

 

昔のネットと変わったと悲しんでいるひとも多そうだ。

 

でも、ネットサーフィンをして、若い世代も含めて、観察して思うのは、いまのほうがネットはたくさんの人間を救っているということだ。ぼくたち懐古主義のおっさんたちの好きだったネットよりも、いまのネットのほうが大勢の人間に居場所を与えて幸せにしている。

 

それは尊いことだと思うのだ。

 

ネットはたくさんの人間に居場所と自信を与えて救った。ネットを炎上させている、まったく話の通じない類のひとたちこそ、もっとも救われた人たちだろう。

 

まあ、炎上させられたひとにとっては、いい迷惑な話なのだけど、それでも彼らをネットから排除しようと思わないで欲しいし、できれば嫌いにはならないでほしいと思う。

 

なぜなら、もし神がいるとして、そして、その神とは道徳だかなんらかの能力で人間に点数をつけて上位の人間だけを救うような存在ではなく、すべての人間を駄目な人間も駄目なまま受け入れて救おうとする神だったとするならば、彼らこそ、もっとも世の中で救われるべきひとたちだったはずであり、そして実際、神ならぬネットで救われただろうひとたちだからだ。

 

別に哀れむ必要はない。それは傲慢だし、どうせ彼らはわりと幸せなはずだ。それに彼らをおだてる必要もないし、罵倒とか全然してあげていいと思う。ただ、存在を消そうとするのは駄目だ。

 

いま、なんとなくネット全体がそういう方向の結論に流れそうな雰囲気を感じていて、気になっている。

 

まあ、いいや。夜も更けてきた。

 

軽井沢は寒くて、既に氷点下だ。寒いのでさっきからウイスキーを飲んでいる。

 

そして当然のことながら、ブログなんか書いているので、明日の資料は1ページもできていない。つうか、もう今日じゃん!

 

がんばれネット。そして俺。ついでにみんな!

 

ぼくはいまでもネットを愛している。そんな夜。

  

かわん、とはなにか。

ぼくについて言及されているブログをみつけた。


かわん(id:kawango)さんと、川上量生さんのこと


そういや、かわん、だった。


というわけで、かわんごの名前の由来を書いてみようと思う。
あまりにどうでもいい内容なので、最近、まったくつかってない古いはてなブログを使うことにする。


かわんごとは、もともと、かわんご、でもなく、カワンゴでもなく、kawangoだった。
つまり半角アルファベット7文字である。


idとか、パスワードとか、自己紹介とか、そういうのはどうでもいいと昔から思っていて、いちいち考える時間がもったいなかった。


とはいえ、サービスごとに適当な違う名前をつけていると管理がしにくいので統一はしたい。
ネット人口の少ないパソコン通信時代でも、kawakamiだと既に取られていることが多かった。


なのでぼくがよく使っていたidはkawakawaだった。でも、インターネット時代に入り、それもだれかが使っていて確保できなくなった。一時期、kawakawakawaを使っていたがサービスによっては長すぎて文字制限にひっかかる。kawakawaとkawakawakawaのサービスが混在すると自分でもよく分からなくなる。いまとなってはkawakawakawaですら取られていることも多い。


そこで使い始めたのがkawangoだ。これはほぼかぶらなかった。ひらがなにすると、かわんご、だが、英字のidとひらがなのハンドル名が要求されるケースでは、ひらがなのほうは、かわん、をつかっていた。かわんごとか、自分の会社名を名前に使うのはちょっと気持ち悪いし、かわん、だけで十分に識別子としてのユニーク性は担保されるからだ。


オンラインゲームだとidとハンドル名がほぼイコールになっていることが多い。
ある日、MASAKIというガラの悪い後輩に、「ちょっとかわんごさんよお」といってチャットで絡まれた。
ああ、かわんご、という名前はウケるんだ、と思った。
それ以来、かわんご、という名前を使っている。


いまだと、かわんごというハンドル名自体が、有名になっていて、バレバレの名前だといわれたりもするが、10年前は、会社名もネットの一部のひとしから知らなかったし、ニコニコ動画といえばひろゆきだったし、戀塚君だったし、そのあと夏野さんが加わった。ぼくの存在なんてまったく知られてなかった。かわんご、という名前は、社内やゲーム友達に向けた内輪受けの冗談だった。


かわんごという名前はどうでもいいが、いまとなっては大事でもある。なぜなら、これはもはや自分にとってのキャラだからだ。


ぼくがプロフィールを書かない、書くことにまったく興味が無いのは、自己顕示欲がないからではなくて、他人に関心がもたれることを恐れているからだと思う。


子どもの頃から苦手だったのは世間話だ。ぼくは意味のある話しかできない。どうでもいい会話やノリの会話ができない。これが、コンプレックスで、とにかく自分に話がふられるのが怖かった。


斉藤環さんの本とかを読んで、いまにして考えると、ぼくは学校時代にクラスの中でキャラを手に入れられなかったということだろう。どう振る舞えばいいか分からなかった。ぼくが演じられるキャラは少なかったし、そのキャラは、もうクラスのだれかが演じていて、空いていなかった。


会社をつくってしばらくたつと、会社というコミュニティの中では「社長」というキャラが、まるでぼくのために用意されたものであるかのように空いていることに気づいた。


「給料下げるぞ」とかなんとかいってれば、みんなウケてくれる。「社長」というキャラはとにかく偉そうにしてれば、みんな笑ってくれるという、すごいチートスキルがついていてちょろい。ぼくは人生ではじめて確固たるキャラを手に入れた。


ただし、「社長」というキャラは深いコミュニケーションをするには向いていない。だれも本音を打ち明けてくれたりはしないし、逆に「社長」が本音とかを打ち明けはじめたら、みんなどん引きだろう。


そんななかで、ネットの中において、かわんごとは、はじめて、ぼくが本音をいっても、他人に聞いてもらえるキャラだった。


自己顕示欲の源泉はなにかというと、本当の自分を知ってもらいたい、そして承認してもらい、ということじゃないかと思う。


ぼくにとってキャラとは演じること自体が目的ではなく、本音の自分を知ってもらうための手段だ、という思いが根本にある。


キャラを演じるのは仕事だ。仕事はきちんとやるべきだろうと思うから、ぼくはそれなりにやっている。


かわんごというキャラがなんなのかというと、ネットでしかいえない本音だったり本当のことというのを、打ち明ける、放言するということだろうと思っている。みんなが知らないだろうこと、もしくはみんな思っていてもいえないことを書く、それが仕事だと思っている。それはぼくがやりたいことでもある。


でも、まあ、ぼくがかわんごというキャラに救われたのだとしたら、そういうことではなくて、ネットの中に居場所を確保できたということだろう。高校とは勉強が本分なのかもしれないが、実際に高校生が求めていることは学校生活を送ること自体だ。


ネットに生きるということはどういうことか。たぶん、すごく理解されにくいと思うし、たぶん、ネットに生きていないひとには理解は無理だと思う。


昨日、アップしたブログは高木浩光氏への批判だ。これは意味のあるものだと思っている。必要だけど、だれもちゃんとやってこなかった。でも、ぼくがあの記事を書きたいと痛切に思って短時間で書き上げさせた原動力となったのは、「私は勇気をもってトカゲのしっぽを切ろうと思う」というフレーズを思いついたことだ。これはウケると思った。事実、わりと予想通りの反応は得られたようだ。多くのひとが楽しんでくれたようでうれしい。


ただ、shi3z君もアンチが多いので、彼らのshi3zディスに利用されるのも癪なので彼のために弁明しておくと、彼も3年前の議論で、それほど本質的には、おかしなことはいっていない。ただ、いろいろ間違えたことをいったので足下をすくわれただけだ。
ちなみに、当時から、本人にも、てめえのせえで負けたんだ、と文句をいっている。


ディープラーニングの大成功をきっかけとする今回のAIブームで次第に分かってきたことがある。AIが人間を超えるかというテーマが再燃したわけだが、AIが人間並みの知性を身につけることができるかという命題で暗黙の前提とされているほどの知性をじつは人間自身がもっていないんじゃないかという疑惑だ。


おそらく人間は自分たちが想像する以上に頭が悪い。人間が知性をもっているという前提がそもそも妄想に近い。これはどんなに頭がいいと思われている人間でも同じだと思う。むろん、ぼくも例外ではない。


クソみたいな知性で信じ込んだ絶対の真実なるものを旗印にして殴り合っても馬鹿らしいだけだ。


イデオロギーとは知性の無い人間でも、お経のように唱えると、知性があるかのように振る舞えるというライフハックだ。


本当の知性なんてものがあるのだとすればあらゆるイデオロギーからは自由なものであるべきだろう。
そしてそれはネットにある。そしてそれは笑いとともにある。


ネットというのは、だれが考えたのか分からない本当にみもふたもないセンスある表現が多くて大好きだ。「まなざし村」とか知ったときは大笑いした。「ポリコレ棒で殴る」という表現も実に冷静な観察眼からしか生まれ得ない素敵な比喩ではないか。


イデオロギーやタブーにしばられない真に客観的な評論がネットにはあふれている。全力2階立てとかは、そういうネットらしさを体現したメディアだろう。


そのネットで他人の自由な発言を邪魔しようというひとたちがどんどん巾を利かせはじめている。
それを時代の流れだとかいっていながら、中国の金盾に代表される言論統制は批判する。どんな矛盾した敗北主義だと思う。安全な立場から遠い現実は批判できても、目の前の現実にはあっさり妥協する。


世の中の流れということであれば、必ず歴史はくり返すことを信じるべきだろう。
ネットがはじまったときの興奮はもう戻ってこないかも知れないが、若い世代にとっては別の話だ。そして、ネットがはじまったときほどではなかったとしても、必ず揺り戻しは来るはずだ。


ぼくはネットの知性を信じている。

ひきこもりはメゾネットに住むべき

ぼくみたいな人間がこれまでの人生でわりとうまくやってこれた究極の原因はなんだろうと考えていてある結論にたどりついた。


それは部屋の中にひきこもりながら体を動かしていたことに違いない。


あ、最初にいっておくが、これは駄文である。駄記事である。ブロマガ、はてなブログとひさびさの記事を上げてみて、この一番古いはてダにもなにか書いてみたくなっただけの話である。


2年ぐらい結婚生活を送っていて、当然、嫁との間に深刻な生活習慣の違いというのがいくつか出てきているのだが、ぼくが我慢していることのひとつに本当はベッドルームを暗くして寝たいということがある。


ぼくは真っ暗な部屋でさらにふとんをかぶって丸まって寝たいのである。


そしてなによりカーテンは完全に閉めてほしいし、カーテンがなぜ遮光カーテンじゃないのかということについても納得がいかない。部屋の窓を遮光カーテンで締め切って、朝日が昇ろうが、部屋の中はまったくの暗闇で夜のまま。


ぼくはそういう生活が理想なのだが、妻は逆で遮光カーテンなんかつけているひとの気持ちがそもそもまったくわからないと主張する。


このあたりの生活習慣の違いは、やはり妻が社交的で人との付き合いが苦にならないどころかむしろ好きであって、ぼくはひきこもり体質でできることなら他人との付き合いは最小限にとどめたいと思っていることからくるのだろう。


およそ、ひきこもりたいという欲求はどこから来るのだろうと考えると、それはやはり他人との付き合いが怖いからだろう。だれにも見られたくない、だれからもなにもいわれたくない、そういう感情がひきこもりたいという欲望をつくりだす。


これはたぶんにオタク気質とも関係していて、ようするに自分の趣味・好きなことをやっていたいと思う人間は、だいたいまわりに理解・共感してもらえずに白い目で見られる経験を持っているので、他人に干渉されたくない口をだされたくない、そもそもこっちみないでほしいという感情が育っていくのだと思う。


そう、ほんとこっちみないでほしいのである。ぼくはクラスでも放課後でも気のおけない友達といるときですら、ひとりでもあまり仲良くないひとがいる場合には、空気になりたい、話しかけてこないほしい、といってあからさまな無視もされたくないんだけど、自然にただそこに在りたい、みたいなことをずっと思って生きてきた。


そう、いまでもパーティーや街中で歩いているときに、とつぜんだれかに挨拶されると一瞬で表情がこわばるのが自分でも分かる。知っているひとだったらどうしよう。思い出せるだろうか。うまくあたりさわりのない会話ができるだろうか、とぼくの超高性能な頭脳が全力て回転をはじめ緊張するのだ。


なんだっけ。遮光カーテンの話だった。まあ、なんでひきこもりは完全な密室を好むし、そっちが落ち着くんだから、遮光カーテンにして外界の光は一切さしこまないほうがいい。そういう話だ。


ぼくの友達に地下室に住んでいる奴がいて、彼が新しい地下室をつくって引っ越したあと、ぼくが元の地下室を借りて1年ぐらい住んでいたことがあった。


ここがやばかった。遮光カーテンどころか地下室なので窓がないから、光はまったく存在しない。照明も最小限で全部の明かりをつけてもぶつからずに移動はできるくらいで、壁や床がどうなっているか、部屋の隅になにがあるかはまず見えない。


外に出るといきなり真昼間で太陽が照っていたりして、時間の感覚がなくなるのだ。いったいいつ寝ていつ起きて、今日はいったい何曜日だろう。


ぼくの友達もひきこもり体質で人間嫌いだったのだが、その理想の空間に住み始めて1ヶ月ぐらいたつと、あまりにさみしくなり、外に散歩に出て公園でぼうっと知らないひとを眺めたりするという行動が発生したり、どんどん人恋しくなってしまい、それがきっかけで社交的になっていったんだと説明してくれた。


人間はひきこもりたいときは徹底的にひきこもればいいんだと思う。どんな人間嫌いっていったって、寂しくない人間なんているわけがない。


だからまずは自分のひきこもりたい欲望を完全に満たしてあげることが重要で、窓には遮光カーテン。なんなら目張りして暗闇をつくり、部屋の照明も最小限でいい。パソコンの画面のあかりだけでも十分だ。


親も話しかけてこないでほしいよね。携帯電話の電源もうざいなら切ってもいいけど、ぼくの場合はそもそもかかってこないので特に切る必要は感じなかった。そうして社会から隔離されないと、もういちど社会に向き合う勇気はでないと思う。


さて、ひきこもり生活をはじめるにあたって、どうせ寂しくなるんだから、社会復帰の糸口もちゃんと確保しておくにはどうすればいいか。


これはちょっと難しいテーマだ。ひきこもりは、よく、一般人から、社会とかまわりのせいにして自分で努力をしないと非難をされる。


環境のせいにばっかりしないで、自分で環境を変える努力をしなさいと責められたりする。


これはぼくはちょっとフェアな非難ではないと思っている。


だって、客観的に考えたら、ひきこもりなんて本人のせいというよりは環境のせいにきまっている。人間なんて自分の努力で決められる人生の範囲なんて、ごく狭くて、ほとんど環境で人生は決まるものだというのは、どう考えても正しいにきまっているじゃないか。


ひきこもりを簡単な努力すらできない怠け者だとか能力が低いと思っているひとは多いが、それはひょっとするとひきこもりになった原因については多少はあたっていたとしても、ひきこもりのひとのほうが、より難易度の高い人生を生きているという現実を見落としている。


ひきこもりの人生のほうが大変に決まっているじゃないか。なんでより簡単な人生を生きているやつらになまけものとか無能呼ばわりされなきゃいけないのか。


ひきこもりに限らず人生において負け組は、どんどん難しいゲームをさせられる。例えて言えば攻略本もリセットもなしに、ファイアーエンブレムをやらされるようなものだ。かろうじてステージをクリアしつづけたとしても、どんどん難易度があがっていき、いまやっているステージをクリアするために必要なはずの仲間たちなんて、とっくに昔のステージで死んでいてもういない。


どんなに上手いゲームプレイヤーだってクリアできないステージを人生の負け組はプレイしつづけれなければいけない。


人生とはそういうものじゃん。


自分がダメなのは環境が悪いとか、正しいし的確な表現じゃん。無能とか怠けものとかいうならもっと早くにいってほしい。


ぼくは本当にそう思う。


なので、いま自分がダメなのは自分が悪いわけじゃなく、いや、多少は悪かったかもしれないけど、本当に悪いのは社会であり環境であり、自分だってチャンスがあればもっとうまくやれるしやるけど、いま、この状況では努力のしようもないじゃんと諦めるようなひとは、どんな場合でも努力で道は切り開けると信じるひとよりも、ヤンキー的価値観ではダメ人間かもしれないが、知性ある生き物であるホモサピエンスとしては、まったく正しく合理的な態度だと、ぼくは思うのだ。


まあ、ということでひきこもりから世間に復帰する糸口を用意する必要があると、さっき書いたけど、もっとも必要なのは運だし環境だ、というのが事実であるとぼくは思っているが、それはそれでおいといて、自分でできる範囲の努力とはどういうものなのかを書く。


それは体力だ。


結局、ひきこもりが社会復帰するためには環境の変化とかきっかけが必要なんだけど、それを生かすための体力が残っているかどうかがカギになる。


多くのひとはやる気があるかどうかで、やる気なんてその気になればいつでも根性で出せるもんだと信じているんだけど、やる気をだせる気になるかどうかは体力で決まる。


体力がないと気力もなくなるし、やる気も出ない。人間とはそういうものだ。


そうすると、なにしろひきこもりは部屋から出ないわけだから、部屋の中でどれだけ運動できるかどうかが非常に重要になる。


やっぱり階段があるかどうかは大きなポイントだ。1日の間に何回も階段の上り下りができればそれだけでかなりの運動になる。


ぼくの場合はあとテレビの前においてあるソファーの高さと硬さが足をのせてストレッチをやるのにちょうどよかったというのが非常に大きかった。


ぼくはむしろ社会人になってから、会社を起業してからのほうがひきこもった回数も期間も長かったのだけれども、毎回、帰ってこれたのは、もちろん幸運にも自分が社会に必要とされている幻想を抱きやすい環境に自分がいたことが最大ではあるが、やはり気力と体力がまだ残っていたということが決定的に重要だったと思う。


階段とソファーにぼくは助けられたといえるだろう。


しかし、階段とソファーがひきこもりの環境にあったということもじつはすごく幸運なことだ。


引きこもる部屋がそれほど広くないという場合はどうすればいいか。


それはやっぱり大変危険な状態なんだといわざるをえない。
身動きのとれない部屋でできる運動なんて限られているし、十分には絶対に運動できない。


その場合は、だれも見ていない夜中に部屋を出るしかない。夜中の2時はまわったほうがいいだろう。朝の2時から6時の間。それぐらいであれば外が明るくなっても、会いたくないひとには会わないですむだろう。ネトゲで夜更かししているひとは、眠る前に外に出るのが現実的だろう。生活リズムを人間は大きくは変えれない。


そうやって体力さえ維持しておけば環境が変わった時、環境が変えられるかもしれないチャンスがあったとき、なにかができる可能性がある。


まあ、体力ありすぎるのも問題なんだけどね。ぼくの場合はネトゲにはまらなかった真の原因は20時間とかゲームをやりつづけると肩が凝って頭痛がして、なにもできなくなるぐらいに体力がなかったからだ。ずっとひきこもってゲームをやる体力があったら、もっと絶望的な状況に陥っていたと思う。そしてやがてその体力すら、いつかなくなっていることに気づいたのだろう。


体力があればチャンスのときに頑張れる。まあ、ダメかもしれないけどね。いや、たぶん、ダメなんだと思う。だって難易度の高いゲームをやっているんだから、ほんとやってられない。


もし成功したとしても、世間には当たり前だとぐらいにしか思われなくて、まともな一般人の一番下の階層にやっと入れてもらえるというだけなんだけどね。


でも、本当はそれはすごいことで、起業して運だけで成功した経営者なんかよりも、じつはもっとありえない快挙をやったんだと。


少なくともぼくはそう思う。

みんな好き、がデフォルトじゃないかと思った。

寝起きにぼんやり考えた。


みんな好き、とか、ふと思ったんだけど、これってなんだろう。
ちなみに、ぼくの場合、1日に3回ぐらいは、みんな好き、とかって感情がわきおこる。これってどういう現象なんだろう。
自分が幸せなときって他人へ優しくなれるとかっていうってひとはよく見る。


ぼくの場合もじゃあいま幸せなだけかというと、それもなんか違う気がする。
ぼくがすごく不幸に思っていたときも、結構、頻繁に、みんな好き、とか思う。むしろ頻度多い気がするし、すごく切実に、みんな好き、とか思っている気がする。
なにが違うかというと、不幸なときは優しくされたときに、みんな好き、とか思うけど、わりに幸せなときは自発的、発作的に、みんな好き、とか思うというところかな。


ただ、不幸なときは、逆に、みんな嫌い、とか思う感情がおこることがある。でも、冷静にそのときの感情を考えると、みんな嫌い、ってたんに、自分が嫌い、という感情がまず最初に強烈に起こって、耐えきれなくなって、根拠もないのに、みんな嫌い、ってすり替えているだけに思うんだよね。


だから、みんな嫌い、っていうのはたんに自分が嫌いな変形であって、基本、人間という動物は、みんな好き、という感情がデフォルトなんじゃないかなあ。


世の中にくんでいるひとって拗ねているだけじゃないかなあ。


基本は愛情しか人間はもっていない気がする。いや、生き残るのに有利な進化という意味で。


他人を憎むなんてメリットなんもないもん。自分がかわいいか、駄目な自分が本当に嫌いになるか、このふたつしか人間は本当は興味がないんじゃないかな。


そして他人に対しては、みんな好き、これが合理的な進化だよね。嫌いになるのは自分だけ。


おれの場合は自分と照らし合わせて全然納得する説明なんだけど、ちがうのかな。

物事の本質だったり世界の真理を理系的に考えてみた

 ネットで東浩紀氏の文庫本に中森明夫氏が書いたあとがきが面白いという書き込みがあったので読んでみた。そこでは東氏の先輩として柄谷行人さんが紹介されていて、要するに東浩紀柄谷行人の歩んだ道をなぞっているという指摘がされていて確かに面白かったのだが、じゃあ、柄谷行人とはどういうひとなのかと興味を持ち、わりあいに氏の最近の本である世界史の構造という本を序文だけ読んでみた。


 その本で柄谷氏が試みているのはどうやらこういうことらしい。マルクスは資本主義下での商品交換を元にした経済的下部構造の上に国家や民族のような上部構造が成立すると主張したが、商品交換以外にも贈与や略取のような交換様式も考慮にいれて経済的下部構造を考えることによって、上部構造である国家のみかけの自立性を仮定しなくても、世界が説明できるはずだという主張だ。


 氏の主張が正しいかどうかを判断するのは、ぼくなんかの素人の手に余るのだが、このマルクスの上部構造と下部構造の概念をどう解釈するのが正しいかという議論は、文系的な言説では非常によく見る光景である。


 文系のひとたちのこういう物事の本質を見定めようという真理への探究に対する態度を理系的に解釈するとどういうことだろうかと考えてみた。


 物事の本質というのはなにか?これはようするに世界というものが人間にとって複雑で情報が膨大すぎてよくわからないから、簡単に考えてみる、ということだ。つまり膨大な情報を整理して、ごく少ないキーとなる情報に置き換えて考えると頭がすっきりするということだ。なぜすっきりするかというと膨大な情報だと人間は理解できないけど、少ない情報に減らせば理解できるようになるからだ。うまく情報を減らせたとき、人間は物事の本質を掴んだ!とかいう気になる。


 そう考えると、物事の本質を追究するというのはうまいデータ圧縮アルゴリズムを見つけるというのに近い。このアナロジーをつかってちょっと人間の思考についてのモデルを考えてみた。


 人間の思考というはたらきを思い切り抽象化し、外部の世界からAバイトのデータをインプットし、そのデータを解釈した結果のBバイトのアウトプットをおこなうブラックボックスとする。


 できるだけBバイトを小さく出来れば物事の本質っぽくなるはずだ。


 例としてそう、なんでもいいんだけど、たとえば「世の中はしょせんカネだ」という命題を世界を理解する圧縮アルゴリズムとして考えてみよう。


 そうすると、このアナロジーが成立するための必要条件がはっきりとしてわかりやすい。


 「世の中はしょせんカネだ」というのが物事の本質であり世界の真理であるとしても、この圧縮アルゴリズムで扱えるデータ=世の中の出来事というのは、世界のごく一部の現象についてだけだということだ。


 ようするに文脈があり、物事の本質というのはある前提条件や制約条件の中でしか成立しないものであるということがひとつ。


 もうひとつ分かるのは、物事の本質というものは世の中の情報量の圧縮アルゴリズムとして考えると、ある一面の情報しか再現していない非可逆圧縮であるということだ。


 データ圧縮の方法としては可逆圧縮非可逆圧縮の2種類がある。ZIPでくれ、とかいう慣用句がネットにあるが、ZIP形式でファイルを圧縮した場合は可逆圧縮であり、解凍するとまったく同じ元のファイルが再現される。ところが音楽や動画などで使われるmp3や動画のMPEG形式のデータ圧縮は、とてもデータが小さくなるかわりに少し音質や画質が元よりも悪くなるのはご存じだろう。より高い圧縮をしてデータを小さくすればするほど元の音楽や映像が劣化する。


 そう考えると、世の中で物事の本質や世界の真理とかと呼ばれているものの大半は圧縮アルゴリズムと考えるとかなり出来の悪い精度の低いものばかりだということが分かる。冒頭の上部構造とか下部構造の議論もまあある程度の妥当性があるのだろうけども、音声の圧縮アルゴリズムとしたら、mp3なんかとは比べないものにならないほど元の音声の再現性は低い。昔の8ビットパソコンでビープ音で音楽を鳴らしてみたとかはちょっと古い例だが、他の例えだと、よくピアノで人間のセリフを弾いてみせるという芸があるが、「あー、ほんとだ、そういわれてみれば、そういう風に聞こえる!」ぐらいの再現性しかないものが物事の本質としてありがたがられているのが実態ではないか。


 別にそれが悪いといっているわけではない。人間が世の中を理解する能力というのはその程度が限界だということだろう。いま書いている記事だって、当然ながら、その限界を超えているものではない。人間が発見した物事の本質の中で、可逆圧縮といえるものがあるのかというと、抽象化された現実だけを扱えばいい論理学も含めた数学ぐらいじゃないかと思う。理系の学問といえども現実を扱うものは物理学とかですら精度の高めの非可逆圧縮でしかない。


 物事の本質を情報の非可逆圧縮アルゴリズムと捉えるアナロジーで分かることのひとつに、抽象度の高い=現実の再現性の低めの物事の本質に対してさらに抽象度の高い物事の本質みたいなものとらえようというはたらきを重ね合わせると、どんどん現実の再現性が悪くなっていくだろうことだ。写真をPhotoshopで加工する場合はRAW形式のデータをつかったほうが出来が良いことは常識だ。すでに圧縮のかかっているJPEGの写真を元に加工をすると、モアレがでやすくなったりして、汚くなる。加工するなら元のデータに近いものを使うほうがいい。


 ぼくが文系の文章でよく出会う高度に抽象化された概念にさらに抽象化された理屈を重ね合わせてそのまま空想の世界に飛び去っていくのならまだしも、現実に舞い戻ってきてこれが真理だと解説をするスタイルに生理的な違和感を感じるのもここらへんが原因だ。いかにそれが高度に階層化された緻密な論理構造をもっていたとしても、いや、むしろ、だからこそ、でてくる結論を怪しく感じる。


 もうひとつこのアナロジーを考えていて、思ったのは、ネットのひとびとが好む物事の真理というのは、現実の再現度が高い情報圧縮アルゴリズムというより、アルゴリズムそのものが単純なものだということだ。


 元々、人間が物事の真理を追い求めるのは現実が複雑で情報量が多すぎてわかりにくいからだ。だから、ものごとを簡単に理解しようと情報を減らそうとする。そこで、ふつうのひとは、現実の再現精度も高い複雑なアルゴリズムよりは、現精度は悪くても大胆に情報を大幅に圧縮してくれて、しかも簡単なアルゴリズムをより真理だとして好む。


 しかも、いったん真理だとされたものはその真理の現実の再現度の高さがどれほどのものなのかは無視されて一人歩きをすることが多い。
 

 とまあ、情報の圧縮アルゴリズムとして物事の本質とか世界の真理を考えると、しょせん、そういうのは圧縮しすぎて、精度の低くなった現実でしかないし、あんまり神秘性を感じて盲信するのは本当に危険だなあと思ったという話です。

クリエイター視点と消費者目線

ここ数年のオリコンランキングを見ると、上位はAKBとジャニーズばっかりだ。この現状について音楽好きのひとたちが嘆いていたり非難するひとたちの記事は定期的に見る。


また、ライトノベルや深夜アニメなどのサブカルチャーの程度が低すぎるみたいな話もよく聞く。


問題と指摘されている点をまとめるとだいたい次のようなかんじではないか。


・ 商業主義がいけない。ユーザの欲望に安易に媚びた結果、似たようなもの、質の低いコンテンツばっかりになる。
・ 本当にコンテンツを愛するファンが欲しい作品が登場しない。売れない。
・ これは世界の中でも日本だけの特徴であって恥ずかしい。


この現状認識についてはいろいろ各人によって賛同、異論があるようだが、ちょっと違った角度で現在のコンテンツを巡る状況を考えてみたい。


そもそも質の高いコンテンツとはなんだろうか。一般に対比される芸術性と大衆性という切り口で考えると、商業主義は大衆性と結びつきやすいので芸術性が低いというのが質の低さだろうかというと、どうもそう単純な話でもなさそうだ。一部の少数のマニアではなく万人の心に訴えるコンテンツのほうが素晴らしいものだという考え方も強くあるからだ。


芸術性と大衆性という切り口で考えた場合は、両方を兼ね揃えているコンテンツが質の高いコンテンツであるという定義にいったんはしておこう。


さて、コンテンツの起源について考えてみる。社会的、商業的に考えるとグーテンベルグの印刷術の発明が大量複製されたパッケージコンテンツのはじまりだろうが、コンテンツに対する愛情だったり尊敬あるいは畏敬の念とかいう感情の発生であれば、もっと人類の起源とかに遡る話だろう。それはまわりの自然には存在しない非日常的なものに対する驚き、センス・オブ・ワンダーといったものだろう。


まあ、なので非日常的な驚きを与えてくれるものであれば、そもそも人工物である必要もないわけで自然の中でも非日常的な自然に遭遇した場合にもそういう感情は発生したはずであるし、そちらのほうがむしろ最初にあったに違いない。そういう驚きを与えてくれるものを人間が自らつくりはじめたのがコンテンツの起源だろう。


この説明だと驚きを与えてくれる世の中のものはすべてコンテンツとなってしまうが、すくなくともコンテンツではなくアートというのであれば、その定義はおおむね正しいように思える。そしてアートがコンテンツになる条件はアートが人間にとってなんらかの機能性を伴って切り出せるときだ。絵画、彫刻、音楽とかいったものは人間にとってなんらかの役割を与えられたアートである。


前置きに少し時間を取られたが、そういうコンテンツの起源から考えた場合に、現代のコンテンツってどういうものだろうと考えると、いろいろ矛盾を抱えていることが分かる。


自然にないびっくりするものということでいえば、ぼくらの自然ってなんだろう。ぼくらは自然の中にはもはや生きていない。たとえばぼくがいまキーボードをタイプしているパソコンや携帯電話。こんな不思議なものはない。200年前の人間からすれば当時のどの絵画よりも写真を見た方がよほどびっくりする。自然にはありえないほどなめらかでたいらな表面をもつ机や窓ガラスだってそうだ。神の国の工芸品だ。


同時代でみてもどういうことが起きているか。


音楽を考えてみよう。簡単な例をあげると、一般消費者が日常で聞く音楽はCD音源であるがここの完成度が一番高い。音楽が好きなひとはライブにいって、よりひどい演奏、より下手くそな生声と雑音のなかで音楽を聴く。アイドルの歌なんて見下されることが多いが、優秀な作曲家がついてPVにお金をかけたり、歌は加工されまくって、最終的なコンテンツの完成度はやはり高いといわざるをえない。こういう環境の中でぼくらはコンテンツを愛して消費している実態がある。


現代において、コンテンツの質の高さをどうやって定義すればいいのかは非常に難しいというほかはない。


ぼくらは過去の人間が生みだして蓄積した素晴らしい人工物の中ですでに生きていて、その上で現在生きている人間がちょこっとしたものをつくって競いあっているのがコンテンツというものの実態なのだ。ぶっちゃけもっとすごいものはいっぱいあるけど、それはすでにあるから忘れることにして、範囲を意図的に限定して競争しているのだ。


そのなかでコンテンツの質の高さをクリエイターがいうとき、それは現在であるコンテンツをつくる制約条件をはっきりわかっているひとたちの間でしか価値観は共有できないだろう。つまりはクリエイター自身とコアなファンだけだ。


クリエイターの立場を理解しない一般消費者にはまったく関係ないのだ。


一般消費者の立場から、驚き=センス・オブ・ワンダーを与えてくれるものを素晴らしいという価値観を追求するとどうなるか。それはネットの掲示板とかでよくみる”批評家”ぶったユーザ達を見ればわかる。えらそーに好き勝手な決めつけをしてコンテンツを良し悪しを断じる彼らこそが、現代において古代人同様にもっとも人間的なかたちでコンテンツを捉えているひとたちだ。


いま、ぼくらは神の国に住んでいる。より高みにある神の国に憧れるのも、より人間的な地上の国に憧れるのも、ぼくらにとっては等価なのだ。

文明が退化していることを発見した12の事実

現代は野蛮だから、子供は平等に財産を相続する。昔のひとは賢かったから、長男だけが相続し、せっかく集めた財産が散逸しない仕組みをつくった。


現代は野蛮だから、戦争では本気で人間を殺し合う。昔のひとは賢かったから、戦争してもときの声をあげて威嚇しあったりして人間ができるだけ死なないように戦う。代表者だけ戦う一騎打ちなんて大変に知的な発明もした。


現代は野蛮だから組織のリーダーは実力で決めようとして争いが絶えない。昔のひとは賢かったから、リーダーは世襲で決めることにして後継者を巡る組織の混乱を防いだ。


現代は野蛮だから、世襲する自分の後継者は自分の血を受け継いだ子供を選ぶ。昔のひとは賢かったから、世襲する自分の後継者はまったく血がつながってなくても、できるだけ優秀な子供を捜してきて養子にした。


現代は野蛮だから、自分たちのリーダーも同じ人間だからと尊敬しないし、厳しく欠点を指摘して引きずりおろす。昔のひとは賢かったから、リーダーと決めた人間は無条件に敬うことにしてもりたてる。


現代は野蛮だから、民主主義で話し合い、だれもが正しいと思わない結論で国を動かす。昔のひとは賢かったから独裁者が正しいと思った結論で国を動かす。


現代は野蛮だから、神を信じないかわりに、この世界は自由と平等と博愛で動かすべきだと信じる。昔のひとは賢かったから、自由、平等、博愛なんかでなく、もっと地に足をつけてこの世界の現実を見つめた。そしてあの世での平等な裁きと楽園を信じた。


現代は野蛮だから、親も子供もそれぞれ自立した平等な個人である。だから、親は子供も個人として尊重するし、成長した子供は親の面倒をみない。昔のひとは賢かったから、子供は親の所有物だった。だからたくさん産むし、子供は親の面倒を見た。


現代は野蛮だから、すべての人間は平等であり、身分制度はないと子供に嘘を教えるから鬱病になる。昔のひとは賢かったから、身分制度はちゃんと情報公開して、子供には分をわきまえるということを教えるから、平安な心で人生を過ごすことができる。


現代のギャンブラーは野蛮だから、ギャンブルに不正はなくだれもが平等に負ける競馬やパチンコや宝くじなのに自分だけは勝てると信じている。昔のギャンブラーは賢かったから、賭け事とは八百長をするのが当たり前で自分だけは勝てると信じていた。


現代のオタクは野蛮だから、見た目オシャレだし、彼女もいるし、友達も多い。昔のオタクは賢かったから服を買いにいく服を持たず、友達もつくらない。だから、好きな趣味にお金をすべて使えた。



科学技術の発達している現代に生きているからといって、昔のひとよりも自分は頭がいいはずと思っているとしたら大間違いですね。