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ノボ村長の「思い出アルバム」

2018-01-01

第42話 ズボンの虫食い穴

ズボンの虫食い穴

 晴天の元旦もまもなく暮れようとする頃、高台にある地元の温泉施設に来た信雄は、駐車場で車を降りられずにいた。

 四十九日前に父が最期を迎えた公立病院を見下ろせる場所に、偶然車を駐めたからだった。

 フロントガラス越しに病院の窓をひとつひとつなぞりながら、看病していた時、逆にここを見たのはどの窓からだったろう、と記憶をたどっていた。

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 信雄は毎月一度父を乗せてこの病院に来ていた。

 帰りに少しドライブし、蕎麦やうどんの昼食を食べるのが二人の楽しみだった。

 一年ほど前のある情景を信雄は思い出していた。

 「おじいさん、また虫食いズボンはいて!何回言ったらわかんだべな〜」

 信雄は92歳になる父をまたも叱っていた。

 信雄の父は昔気質の人で、病院に行くときは必ず背広にネクタイをしめる習慣だった。

 ところがたくさんある背広のうちお気に入りの一着だけしか着ないのが信雄の悩みであった。

 そのズボンには虫食い穴があって白の裏地で穴が目立ってしまうのだ。

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 信雄は急いで実家の二階にあがり別な背広をさがしたが、なかなかまともな服が見つからない。

 このままじゃ予約の時間に遅れてしまうと思った信雄はあることを思いついた。

 (穴をマジックで塗れば裏地が黒くなるので目立たなくできるぞ!)

 信雄はさっそく玄関でのんびり立っている父のズボンの穴に黒マジックを塗った。

 父は何も言わず信吉がしたいようにさせていた。

 マジックを塗り終わり、これで目立たなくなるはずだった。

 だが、白い穴は同じだった。

 信雄は変だなと思い、もう一度塗ってみたがまた同じ。

 調べようとして父にズボンを脱がせたら、なんとズボンの下にはいていた白い「ももひき」に黒い丸がついていた。

 白く見えたのはズボンの裏地ではなくてももひきだったのだ。

 一人であきれ笑いをする信雄を見ながら父は「そろそろ行くべしや」とやんわり言うのだった。

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 信雄には、父に対してそんな申し訳ない思い出が数限りなくある。
 
 亡くなった今にしてやっと、そんな時の父の気持ちがしみじみわかってきたのである。

 温泉を出た後外はもう夜、病院の窓は静かなオレンジ色の灯をともしていた。

 強風にあおられ駐車場を歩く信雄は煌々たる満月をあおいだ。

 そして四十九日の今晩、父は風になり光になり、宇宙というあの世へ旅だったのだ、と確かに感じた。

2015-03-06

第41話 坊ちゃん刈り最後の日

坊ちゃん刈り最後の日

 小学校では「やろっ子」の髪型は二種類しかなかった。

 「坊主頭」か「坊ちゃん刈り」だ。

 私は「町の子」だったので「坊ちゃん刈り」だった。

 思い出アルバムを開いたら、白衣の床屋さんが写っていた。

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 小学校の卒業式が終わり、中学校への入学式の前だった。

 私は床屋さんの椅子に座っていた。

 そこは家族四名でやっている「ラッキー」という評判の良い床屋さんだった。

 私の髪を切ってくれるのは、そこの娘さん。

 エキゾチックな顔だちで、しかも物静かな、とても綺麗な人だった。

 二十代前半ぐらいだったのかな〜。

 そのころ、中学校は「坊主頭」が主流だった。

 髪を伸ばしてだめだということではなかったが、坊主頭が当然という暗黙のルールがあった。

 私も思い切って、坊っちゃん刈りをやめて坊主頭にすることにした。

 「五分刈りにしてください。。。」

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 床屋のお姉さんが、じっと鏡をのぞきこんだ。

 しばらく、そのままでいた。

 私は、どうしたのだろう?と思って鏡に映るお姉さんの顔を見た。

 びっくりした。

 お姉さんは涙を流していたのだ。。。

 お姉さんは椅子を離れ、鼻をかんだ。

 そして、ふたたび私の椅子に戻り、髪を切り始めた。

 何も言わずに。

 私は申し訳ないことをしたような気がして、何もしゃべらなかった。

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 その後何度かふと思いだし考えたものだ。

 あの日、床屋のお姉さんが涙したのはなぜだったのだろう。

 断髪を決心した「少年だった私」への同情はきっとあったことだろう。

 いたいけな少年がまた一人いなくなるという喪失感もあったかもしれない。

 幼き子供時代も、輝く青春時代も、容赦なく過ぎていくことに寂寥感を感じたのかもしれない。

 もうひとつ。

 自由な髪形が許されない社会で自分の技術がなんになるのか。。。という幻滅だったかもしれない。

 歳をとればとるほど、あの日泣いてくれた床屋のお姉さんのことをいとおしく懐かしく感じてくるのだ。

2014-10-07

第40話 ミツバチと校長先生

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(昭和46年高校卒業アルバムより)

ミツバチと校長先生

 「生物部」に入ってまもなく入部歓迎会があった。

 始まってすぐに直感した。

 「これはとんでもないクラブらしい。。。」

 学校の敷地内には「三四郎池」という小さな池があったが、そこには生物部で雷魚を飼っていた。

 歓迎会はその雷魚の試食からはじまった。

 調理道具はメスやビーカー、アルコールランプ、味付けは実験用の「果糖」など。。。

 調理後、食卓?を囲んで伝統芸能のように代々口伝されてきた「ワイカ」の合唱。

 仲間うちで一生語り笑いあえるほどたくさんのエピソードがこの日から生まれ続けていった。

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 入部して一月以内に研究テーマを決めなければいけない。

 すでに先輩が研究しているテーマに加わってもいい。

 さまざまな研究やら調査らしきものが行われていた。

 ガマの呼吸、強酸性湖のユスリカ生態、プラナリアの再生、農薬の毒性、緒絶川の水質調査、チョウチョの生態、人参の組織培養、ヒルの吸血能力、イモリの再生、雷魚の呼吸。。。

 自分の血を吸わせてヒルを飼っていたりとか、実にヤバそうなクラブではあった。

 私はもう一人の同級生と共に、新たなテーマに取り組もうと思って図書館で本を物色した。

 締め切り間際にエイヤ〜!と決めたのが「ミツバチの色覚」であった。

 これはカール・フォン・フリッツという学者の有名な研究であったが、この追実験をすることにした。

 物まねだけでは恥ずかしいので、ミツバチの色覚、形の記憶、匂いの記憶それぞれの優先度合いの研究に持って行きたいな〜と思っていた。

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 さて、研究するにもミツバチのことなど一切解らないし、簡単に手に入るものでもない。

 そのうち学校から2キロくらいはなれたところで養蜂業を営んでいる方がいることを知り早速交渉に行った。

 その養蜂場は快く引き受けてくれて、それから一年以上もそこに通い研究させていただいた。

 ミツバチにはずいぶん刺され、そのたびにとんでもない腫れ方をして学校を何度か休んだこともある。

 かかりつけの医者には「絶対やめなさい」と言われたが、どんなに腫れ上がってもやめなかった。

 今考えると不思議だがその頃はまだ「負けん気」があったのかな〜と思う。

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 研究二年目、仙台二高でもミツバチの研究をしていることを知った。

 生物部の顧問の先生にお願いして、そのミツバチを一部譲っていただくことになった。

 そして高校の敷地内に自前のミツバチの巣箱を置き飼うこととなった。

 場所は他の生徒になるべく迷惑をかけないようにと、体育館裏の空き地にした。

 しかしその近くには体育館トイレの窓があった。。。

・・・・・・・

 いつ頃か忘れたが、生徒か先生か知らないがトイレにミツバチが入ってきたとクレームを付けた奴がいた。

 ミツバチは刺せば必ず死ぬ運命なので、よほどのことがない限り刺したりしない。

 じっとして刺激しなければ、そこが蜜源でないことがわかれば後は来なくなるのだ。

 それを知らずに振り払ったりすると刺されるのだ。

 ミツバチは小さいがスズメバチ、アシナガバチに匹敵する毒を持っていて、人によっては大変な腫れを生じてしまう。

・・・・・・・

 さてミツバチの飼育に関してどうやら職員会議でも議題になったらしい。

 今ならまちがいなく即刻研究中止だろう。

 刺された生徒の親が乗り込んでくることだろう。

 しかし、40数年以上も前の高校は少し違っていた。

 校長先生がこう言ったらしい。

 「いいからやらせろ」

 それで会議は終わりとなり、私たちは研究を続けることができた。

 この話は卒業してからずっと後、高校同期会に招待した生物部の顧問だった先生から聞いたように思う。

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 思い起こしてみると、校長先生の家は校舎に近いところにあり、休日、杖をつきながらよく散歩していた。

 時々校長先生は、散歩しながら研究している私たちを遠巻きに見ていた記憶がある。

 ゆったりして、ときどき微笑む柔らかい貫禄がある校長先生だった。

 校長先生は一人一人をよく観察してくれていたのだった。

 私たちが一生懸命研究している姿を見ていてくれたのだった。

 それゆえ職員会議で「鶴の一声」を発してくれたのだ。

 この文章を書きながら感謝の思いで「グッ」ときてしまった。。。

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 あるやんちゃな事件で停学になりそうなとき、一緒によばれた父と並んで校長室で言われたことも思い出す。

 「川嶋くん、ま〜やったことはどうでもいいから、その服だけは何とかしてくれや」

 笑いながら校長先生は言うのだった。

 「は〜、すみませんでした。今後しませんから」と頭をかいた私の右わきは、これまた服が裂けていて大笑いとなった。

 事情を話せば、この前年生徒大会で制服廃止を勝ち取ったのだが、実際は着る服とてほとんどなし。

 上だけは黒い学生服の「着た切り雀」のままのため、そのあちこちが破れていたのだった。

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 この頃の先生たちはそれぞれが信じられないくらいユニークで、本当に生きた教育を受けることができたと感謝している。

 アル中で酔っぱらって授業する美術の先生などもいた。

 代々の美術部の生徒たちはこの先生を「おとっちゃん」とよんでとても慕っていた。

 親が病気でも帰らないような奴らが、この先生が入院したとなればどんな遠くからでも駆けつけたらしい。

   →アル中先生

 生物の先生も、授業の一環として先輩や私たちに研究発表をよくさせてくれたものだ。

 顧問の先生や事務や図書館の女性職員さんたちと一緒に、毎年三陸の「島」でキャンプをするのも生物部の恒例だった。

 男子校だったのでとても楽しく甘酸っぱい思い出だった。

   →腰抜けビーチボーイズ

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 今や先生一人一人の個性を発揮することが罪悪のようになってしまった。

 先生たちは「(お国の)羊の群れ」にされ続けているようにみえてしょうがない。

 個性的で、自由闊達な、そんな昔の良き教育の場はもうどこにもないのだろうか。。。

2014-04-23

第39話 便学の歴史

f:id:kawasimanobuo:20140421211511j:image:w120:right便学の歴史

 ロダンの「考える人」はまさに人生の真実を表していると思う。

 あのスタイルこそ、まさに「勉学」とは「便学」そのものであることを象徴しているからだ。

 な〜んて思うのは、小さい頃から私の一番の勉強場所が「トイレ」だったからに他ならない。

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 思いおこせば小学校低学年の頃からトイレ(大)は私の絶好の図書館だった。

 漫画を持ち込み、おもしろいのでそのまま最後まで読んでしまう日々。

 足がしびれないかって?

 実はすぐしびれてしまったので、そのまま便器に座り込んで読んでいた。

 なんて不潔な。。。と今は思えるのだが、その頃は世の中一般そんなに清潔とはいえなかったので大して気にもならなかった。

 でもあまりに長い時間居るとたしかに臭いが染みついたような気はする。

・・・・・・・・

 小学校三年生の時だった。

 前の日に宿題するのを忘れ、あわてて朝のトイレでするはめになった。

 宿題は「詩」を一篇書くことだった。

 私はトイレの中で、時計の詩を書いた。

 家中の時計がみんな少しづつ狂っていて、しかもみんな音まで違う。

 どれをあてにしていいかわからない、という内容だった。

 なにせ始業時間も近づいているので一気呵成に書いたのだが、なんとこの詩が郡のコンテストで賞をもらい、文集に載ることになった。

 便学の効用を感じさせる経験だった。

 これがやみつきの理由になったかも。。。(嘘です)

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 ちっちゃい頃から漫画好きだったが、小学校に入ってからは学級一の読書好きになった。

 まじめな本ばっかしかといえばそうでもない。

 小学校高学年の頃、父がとっていた週刊新潮の連載小説を読むことが楽しみだった。

 その小説の題名だけは今でも覚えているが「蓼(たで)食う虫」という官能小説だった。

 主人公の奈美江だったか奈美子だったか、たしかクラブホステスをしていた女性が主人公だったような。。。

 まだお毛々も生えないガキのくせに、結構どきどきして毎週楽しみだった。

 だからトイレでしか読めなかったのだ。

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 そのころ「官能」という言葉を覚えたわけだが、罪の意識があって人前では決して口にしなかった。

 高校一年生になって生物の授業を受けたとき、人間の脳に「間脳」があることを知った。

 授業中、とつぜん私の古いメモリーに電気が通じた。

 「かんのう!」

 私は先生に本気で質問しようと思ったのだ。

 「先生!それでは『官脳』はどこにあるのですか?」と。

 しかし私の無意識が私の質問を止めた。

 (もしかして、俺はとんでもない誤解をしていて大恥をかくかもしれないぞ)

 もじもじしている私を先生はいぶかしそうにしばし見ていたが、私が質問しないようだと判断し、授業は別のことへと進んだ。

 しばらくして自分で調べた私はホットした。

 「官脳」じゃなくて「官能」であること。

 エッチな考えを司る脳なのではなくて、単なる文学的語彙であることをなんとそのとき知ったのだった。

 なんて幼いガキだったのだろう。。。

 私は「生物部」に入り、この時の先生とは何度も海の合宿もともにしたり、お世話になった。

 先生が今でも大事にしてくれているニックネームの名付け親も私であった。

   →あだ名のうらみ

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 さてあれから40年、便学が過ぎて残念ながら「痔」にも恵まれ?、それでも懲りずに今でも便学を続けている。

 なにせ時代は洋式便器に変わり、ますます便学を奨励しているようにさえ思える。

 先日、ある方と話をしていたら「ずいぶん本を読んでますね」とほめられた。

 その時私はこう言った。

 「実は一日の平均読書時間は、たった30分から40分くらいなんです」

 「でも5冊から10冊くらいの本を並行して読んでるんですよ」

 「そのうち一番難しい本は必ず朝便の10分間を利用して読むことにしています」

 「一日たった4-5ページですが、一ヶ月もすれば結構な厚さの小難しい本も読み終わってるんですね〜」

 「一日少しづつだからかえって集中できるようです」


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 実をいえば、大人になってからのかなり長い期間、私の便学教材はずっと「新聞」だった。

 しかし一年前、ついに女房から「トイレで新聞禁止令」が出た。

 おかげで小難しい本を集中して読む場所が出来たのだ。

 偶然の幸運ってやつだ。

 やっぱり便学には何かしらの「うん」がついて回るのだな〜。

2014-02-12

第38話 あだ名のうらみ

f:id:kawasimanobuo:20140202220221j:image:medium:rightあだ名のうらみ

 どんな人にも何かしら得意技がある。

 私の得意技は似ているものを見つけることだった。

 そのせいか小学校から高校まで「あだ名付け」がとても得意だった。

 だいたい学年に一人はあだ名付けの名人がいて、彼が同級生や先生たちほとんどの名付け親となっていた。

 先生に付けたあだ名のうち出来がよいものは後世まで引き継がれ、何十年も続くブランドとなる。

 しかし時の流れとともに、誰が名付け親だったかを知る人はいなくなる。

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 なぜこんなことを思い出したかといえば、先月高校の同期会があったからだ。

 もう高齢なので先生たちはお呼びしなかったのだが、二次会に誰が呼んだのか恩師の一人が来てくれた。

 もう時効のやんちゃな事件のことなど話されて、当事者の一人である私も恥ずかしくも懐かしい思いをしたものだ。

 その連想で生物部の顧問の先生を思い出した。(当時の写真)

 以前の同期会にいらしていただいた先生は挨拶でこう言った。

 「君たちには感謝している。なにせ私の生涯にわたるペンネームとなった「あだ名」を付けてくれたんだからね〜」

 先生のあだ名は「ミトコンドリア」を略した「ミトコン」というもので、私が名付けたものだった。

 生物の先生だったが、少しアブナクアヤシイ感じがあって、あだ名の語感にとてもマッチしていた。

 先生は本気で気に入ってくれていたし、いろんな文章で自らその名を名乗っていた。

 おなじように化学の先生に私は「アボガドロ」と名付けた。

 この先生は早口なので時々どもってしまうことがあった。

 そのどもり具合と語感がよく合っていたのでこれも代々受け継がれたようだ。

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 数ヶ月前に、18歳下のいとこが何かの話のついでに、その「ミトコン」というあだ名が代々高校の名物になっていたことを話してくれた。
 
 彼はまさか目の前にいる私が名付けたとは思いもしていなかった。

 「たしか俺だよ、そのあだ名付けたのは」と言ったら感心した顔をしていた。

 しかし、もう四十数年前の話なので私も記憶にあまり自信がない。

 それで、今年の同期会の準備会合の折、悪友同級生に聞いてみた。

 彼は「あんだだっちゃ、それ付けたの」と言ってたので、やはり間違いないと確信した。

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 と、ここまではそう悪くもないあだ名の話なのだが、小学校がちとヤバイ。

 それも女の同級生に付けたあだ名がヤバイのだった。

 「コブラ」「ゴリラ」「ブル」「ロボイド」。。。

 もうタイプしながら冷や汗が出てくるヤバ過ぎるあだ名。。。

 なにせ(決してカワイイとは言えない)動物ズバリそのものが多い。

 と言いつつ、特徴をよくとらえていたな〜という思いも。

 しかし、42歳の時に開いた小学校同級生の「歳祝い」では、女性陣から30年越しの猛烈な抗議が!

 あたりまえではあるな〜

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 あだ名ではないんだが、けっこう名付けのセンスは良かったな〜と思えるのものがある。

 小五のときに野球チームみたいなものを作った。

 私が勝手にキャプテンになって、いざチームの名前を付けようという段になった。

 なかなかよい名前は出てこない。

 そのとき雲間から太陽が顔を出し、周囲が突然明るくなった。

 「よし、『ヒカローズ』にしよう!」

 このチーム名は、私以外もうだれも覚えてはいないだろうが。

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 小学校では花形でも、それ以降の人生はけっこう苦労や挫折が多かった。

 仕事人生も数々の遍歴を重ねたが、歳祝いの頃ようやく小さな会社の経営者になれた。

 やっとごはんがまともに食えるようになった、と思った。

 ふと今こんなことを思う。

 「もしかしたら、人のうらみを買ったせいでこんなに苦労が多かったのかな〜」

 続けてこう思う。

 「この歳になってようやく『うらみの借金』を返し終わったような気がするよ」

 しかし、苦労といってもリカバリーできないほどひどいものはなかった。

 「自分もガキ大将からサンザンなあだ名や替え歌を頂戴したよな〜。それで相殺されたのかも」

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 名前もあだ名も同じく一生もの。

 実に大事なものだとつくづく思う。

 「人を傷つけることは実によくないな〜。その人にも自分にも」

 と今頃になって反省する日々だ。