パソコン拒絶社長

 子どもに「仕事というのは何ですか?」と聞いて「ハイ、画面とにらめっこで〜す」と答える時代が、もう来たかもしれません。

 きのうの昼飯どき、ある蕎麦屋で旧知の保険代理店の社長さんと会いました。

 この社長さんは60代後半、この地域でずっとNO1業績を誇るカリスマ代理店社長でした。

 息子さんに跡を継がせながら、今でもバイタリティーあふれるバリバリの現役です。

 私がコンピューターソフトの会社をやっているせいで、カリスマ社長はその話題を出しました。

 「俺はパソコン一切できないし、さわらないから。今までもこれからも」

 「若い人見ると不思議だよね。朝から晩まで画面見て、あとスマホだっけ?、指でササッってひまなしだものね〜」

 今や、保険代理店もパソコンやネットで処理しなければやっていけない時代と思っていましたが、このようなお話はある意味新鮮に聞こえました。

 もちろん本人だけがパソコンしないということで、会社のみんなはバリバリ使っていることでしょう。

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 私は苦労して物売りしてきたので、少しお調子者でもあります。

 ですから、すかさずこんな言葉を。

 「社長みたいな人は貴重ですよ。会社のTOPはかえってそうじゃないといけませんよ」

 「私も以前は携帯ばっかしいじってる若い連中をけなしてたんですが、今じゃ私も女房ももっとはまってますからね〜。まったく中毒で本読む暇もなくなりましたよ。。。」

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 カリスマ社長が再び話しはじめます。

 「つい先日も大変な目にあったよ。本社のサーバーがダウンとかで全国一斉に仕事ができなくなったんだよ」

 私もこう合わせていきました。

 「まったく、今やクラウド化が進みすぎてネットがつながらなくなったら何もかもストップの世の中ですよ。。。怖いもんです」

 「昔なら給与とか会計のプログラムやデータも会社のパソコンにあったんですが、今やぜ〜んぶどっか雲の上のデータセンターにあるんですから。ネットが切れたら給与計算すらできなくなりますよ。。。ある意味怖い時代です」

 (商売柄補足しておきますと、クラウド化は世の流れですしとても便利です。しかし過度な信用は危険です。自力バックアップのしくみや、ソフトの種類によって管理をハイブリッドで考えることも大切だと思います)

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 ソフト屋稼業の私ですら、なんか行きすぎた感じがしているこの「電脳電蓄社会」。ふと昔を思い出しました。

 「ね〜社長、私たちが若い頃パソコンなんかなかったわけですが、いったい仕事ってなにしていたんでしたかね?」

 変な質問ではありますが、今や私も皆も内勤仕事といえば「パソコンにらめっこ」か「キーボードたたき」だけ、つい昔の仕事光景を忘れてしまっていたのです。

 (聞いてから気づきました。この方は今でも昔のままのはず。。。ありゃりゃ!)

 それと素朴な疑問も。。。「昔より今のほうが進歩しているんだろうか?」

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 その日昼飯から帰って、マイクロ便学中に石川英輔さんの『大江戸生活事情』を読んでいたらこんな文章に出会いました。

 なんか似ているな〜と思ったので引用します。


昭和はほぼ江戸時代

 しかし、江戸時代とはいわず、ほんの三十年ほど前の昭和三十年代はじめ頃までの日本人の家の中での生活は、電灯とラジオがあることを除いてこれとあまり違わない状態だったことを忘れてはならない。

 商売をしていない一般家庭では、電話のある家の方が珍しかったから、用があれば直接出向くのはごく普通のことだった。たとえ電話のある家同士であっても、当時の生活水準からいって通話料金はかなり高かったから、子供が友達の家にかけるなどという贅沢は許されなかった。ダイアル通話は、同じ地域内に限られていて、別の地域へかければ、申し込んでから一時間ぐらい待つのは普通だった。

電気水道ガスもなし

 今なら、ない家を探す方が大変なさまざまの電気器具も、まだまだ金持のお屋敷にしかなかった。電気冷蔵庫は珍しい道具だったし、氷屋から買った氷で冷やす氷冷蔵庫でさえ、ない家の方が多かった。テレビ(もちろん白黒)もないのが普通で、商売用でない自家用乗用車や空調機のある家にいたっては、大都会でさえめったになかった。

 だから、電車やバスのない地域では歩くほかないし、夏は暑いのが当たり前、暑い時に氷が手に入らないのはこれまたごく当たり前のことだった。

 また、日本中の大部分の地域には水道がなく、井戸からつるべや手押しポンプで水を汲み上げて使っていた。山村にまでプロパンガスが普及している現在と違って、ガスを使えるのもまだまだ一部の都市だけだった。マッチこそ使えたものの、かまどに火を燃やして煮炊きする技術は日本のほぼ全域で昔のままに保存されていた。

不便とは感じない

 今考えると、いかにも不便だったようだが、当時としては、特に不便だとも思ってはいなかった。昔からそうやって来たのだし、みんなそうしているし、生活の体系がもともとそうなっているのだから、ごく当然のことをしているだけで不便に感じるはずがないのである。

 現在のわれわれも、昔のことを想像してさぞ不便だったろうというが、現在の生活が特に不便でたまらないとは思っていない。たとえば、月へ旅行に行けないからといって不満に思っている人はいないだろう。テレビのない時代には、ラジオで満足していたし、8ミリビデオのなかった時代には、普通の8ミリカメラでも充分賛沢な気分を味わっていた。しかし、今からさらに三十年たってから現在の生活をふり返れば、よくあんな不便なことをして生きていられたものだと、驚くのではあるまいか。
 
 江戸時代でも、これと同じだと思う。当時の人にしてみれば、昔からみんなのやっていることをそのままやっていたので、特に不便だと感じたはずはない。それに、どんなに変化が少ない時代だといっても、やはり少しずつは進歩していたので、昔に比べて便利になり、立派になって有難いというような記述がいろいろなところに見られる。

 江戸時代も今も気分はおんなじってことですね。

 それじゃ、「どっちがいいか?」は「どっちが住みやすかったか?」という比較に変わりますね。

 もしかしたら、江戸時代に軍配が上がるかもしれませんね。

参考
(江戸時代関連)
 ヘビ年に思う
 スーパーマンの涙 
 江戸のベンチャービジネス
 江戸へのタイムトラベラー
 杉浦日向子の「ケータイ観」
 夏祭り、浴衣、江戸の町
 ロートル・ネットシンドローム