オートファジーと未開社会

 この前ノーベル賞に輝いた大隅教授の業績は「オートファージーのしくみ」解明だそうです。オートファジーとは「細胞の自食作用」つまり「リサイクル」によって元の姿(恒常性)を保つ機能のようです。
 オートファジーという「断捨離」がうまく機能しないと、体内によけいな物質がたまり続け、それが認知症を引き起こしたり様々な病のもととなってしまうそうです。

 細胞のオートファジーは社会にもあてはまりそうだなと感じたのは、以前自分が書いた「熱い社会」「冷たい社会」というブログを思い出したからです。

 再編集しながら独想、独断をしてみました。

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 世界には、私たちの住むいわゆる「文明社会」と、原始時代と変わらぬ生活を送っている「未開社会」とが併存しています。

 構造主義の祖とされる文化人類学者のレヴィ=ストロースはこう結論づけました。

 「未開社会は文明社会の前段階ではない、二つの社会はそもそもタイプが違うのだ」と。
 彼はそのタイプをわかりやすく次の二つの言葉にたとえました。

 「文明社会」とは「熱い社会」であり、「未開社会」とは「冷たい社会」であると。
 (または「傲慢な社会」と「謙虚な社会」と言えるかもしれません)

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 小田亮著『レヴィ=ストロース入門』より、その部分を私なりに要約してみました。

 私たちの社会と未開の社会に優劣はない。

 それぞれの社会モデルが根本的に異なるのである。

 私たちの社会は「熱い社会」である。

 未開社会は「冷たい社会」である。


 「熱い社会」とは蒸気機関のような熱力学的な機械にたとえたものである。

 それは西欧などのごとく、歴史的変化や偶然的な変動を社会自体の発展の原動力とするような社会をいう。

 つまり(どうなろうとも)「変化」を無条件にくっつけていく社会である。


 「冷たい社会」とは時計などの工学的機械にたとえたものである。

 それは歴史的変化や偶然的な変動を無化し、始めの状態を保とうとする社会をいう。

 つまり「変化」についてナイーブであり、「変化」を吸収していく社会である。

 細胞の新陳代謝を人間社会にあてはめることは無謀かもしれませんが、

 私は、「冷たい社会(未開社会)」こそ、オートファジーが大いに機能している社会なのではないかと思ったのです。

 「変化する」を至上価値と考える私たちには、「変化させない」ことに価値があるとはとうてい思えません。

 さらに、戦争という破局によって社会の大きな変化を経験してきた私たちは、「変化」ゆえにそれを「必要悪」として肯定する傾向を持っています。

 それに対して、オートファジーの社会とは「破局をさける行動」が絶え間なく行われている社会と言えるかもしれません。

小田亮『レヴィ=ストロース入門』より

 「未開」社会は、「まだ歴史がない社会」ではなく、歴史ある社会が経てきた歴史以前の姿なのでもない。それは歴史を原動力とする社会とは異なるタイプの社会なのである。

 つまり、冷たい社会は、歴史なき社会ではなく、歴史を嫌悪している社会であり、歴史に抗する社会だというわけである。

 クラストルは、その著作『国家に抗する社会』において、南米のトビ・グアラニ社会の文化人類学的調査を通じて、「未開」社会は、まだ国家や歴史や余剰生産物の欠如した社会、それらをまだ知らない社会なのではなく、国家や歴史や余剰生産物を知ってはいるが(つまりもとうと思えばもつことができるが)、それらが形成されないように「未開」に留まっていることを選択した社会であり、「国家に抗している社会」なのだという。

 そして、そのような「国家に抗する社会」と、国家を形成する社会<「熱い社会」ないし歴史に取り憑かれた社会>とは異なるタイプの社会なのだとしている。

 さらに、次の文章にとても興味を覚えます。

上掲書「あとがき」より

 レヴィ=ストロースに倣って予言すれば、グローバリゼーションとそれに対抗する国民国家という、どっちも魅力的とは言いがたい二者択一を押しつけられている現代において、野性の思考によって想像された、もう一つ別の「想像の共同体」こそますます重要になっていくでしょう。

 私たちの生まれつきの「傾向」を克服し、「破局」を回避するために、今までと違った「ものの見方」「思考の枠組み(パラダイム)」を持つことが、あらためて大切に思えてきます。

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 長い文章になったついでに、レヴィ・ストロース『野生の思考』から大切な一文を引用します。

 この文章はサルトルへの批判として書かれた「歴史と弁証法」の章に書いてあります。

 ともすれば私たちが陥りがちな「自己優越主義」に対して、鏡の役目を果たす文章であると思います。


 ・・・すなわち、現在の地球上に共存する社会、また人類の出現以来いままで地球上につぎつぎ存在した社会は何万、何十万という数にのぼるが、それらの社会はそれぞれ、自らの目には、(われわれ西欧の社会と同じく)誇りとする倫理的確信をもち、それにもとづいて(たとえそれが遊牧民の一小バンドや森の奥深くにかくれた一部落のようにささやかなものであろうとも)自らの社会の中に、人間の生のもちうる意味と尊厳がすべて凝縮されていると宣明しているのである。

 それらの社会にせよ、歴史的地理的にさまざまな数多の存在様式のどれかただ一つだけに人間のすべてがひそんでいるのだと信ずるには、よほどの自己中心主義と素朴単純さが必要である。人間についての真実は、これらいろいろな存在様式の間の差異と共通性とで構成される体系の中に存するのである。