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ノボ村長の開拓日誌

2017-09-14

毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」

 意地悪爺さん哲学者ショーペンハウエルの「(毒舌)幸福論」から「他人に対する態度」の日本語訳を勝手に超訳してみました。人も国も似たようなものかな〜?

 ショーペンハウエルの「幸福論(幸福について)」は「べらんめえ口調」で書くと実にしっくりきます。

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(ショーペンハウエル:1788-1860、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』)

 まさに「ごもっとも!」なんですが、現実の彼はタンパラでかなり陰険であったらしい。

  →愛すべき「哲人」たち

 それゆえ自分の傾向を抑えるために、つまり自分のために「幸福論」を書いたんだろうな〜と思います。

 私がこんな超訳をしたくなるのは、彼と似たもの同士だからに違いありません。

 それと認知症の親と付き合うのも、まさにかくのごとしですよね〜。。。

人は変わりようがないのさ
 
f:id:kawasimanobuo:20140619154917j:image:medium:right 世渡りには「注意深さ」と「寛容さ」が絶対必要だぜ。

 注意深く生きれば損することなんてあんまりない。

 寛容な気持ちを持って生きれば、へたな争いもしなくても済むはずだ。

 俺たちはだれでも、いろんな人間と一緒に暮らしていかねばならない宿命さ。

 だから、どんな性質の奴でも、どんなにろくでもない奴でも絶対的に排除してしまうなんて許されないんだ。

 なにせ個性ってやつは、「自然」によって勝手に定められたもんだからな〜。

 「個性」は神様が不可思議な原理でつくった「絶対変わらないもの」とみなすべきだぜ。

・・・・・・・・

 とはいっても、ずいぶんヒドイ個性の奴らもいっぱいいる。

 そいつらと出あったら「こうした変わり者もいるんだな〜」と思えばいいだけさ。

 そう思わなかったらどうなる?

 相手と殺し合いするはめになるぜ。

 だってそうだろう。

 やつらが何を正しいと信じているかとか、物事をどう見るかとか、気質とか、それに人相もだな、これらは持って生まれたもんで誰にも変えることなんかできやしない。

 ところが張り切ってそいつのことを否定してみろ。

 相手の奴はこっちを親の仇みたいにして、すさまじい逆噴射をはじめるぜ。

 だって「今そのまんま」をやめろ、そうしなければおぬしの生存権など認めないって言ってるようなもんじゃね〜か。

・・・・・・・・

 だから多くの人たちと一緒に生きていくためには、誰であっても、どんなワルやらバカだろうが、そいつらをそのまんま認めていかねばならないってことさ。

 そんでもって、そいつらの個性ってやつを、そいつらに合わせてうま〜く利用すればいいんだ。

 あ、ひとつ注意だ。

 利用する際に、やつらが変わることを期待したり、えらそうな道徳ふっかけて変えようなんて決して思っちゃいけないぜ。

 「われも生き、人も生かす」という言葉の真の意味はここにあるんだ。

・・・・・・・・

 とはいえ、言うは易く行うは難しだよな〜。よくわかるぜ。

 この通り実行できてるやつは偉いし、幸福だと思うよ。

 あ、そうそう、この考え方を訓練する良い方法があるんだ。

 他人に対して忍耐心を養おうとするやつはこうすりゃいい。

 日常生活で、自分に頑強に抵抗する無生物を相手にして忍耐力を養うのさ。

 たとえば、足がびっこの椅子とか、切れ味悪い包丁とか、最新OSのくそパソコンだとか。。。

 考えてみたら無限にあるだろう。

 そんなガマン練習をしてから次に人間に移るわけだ。

 他人の嫌なところも、無生物といっしょで変わらぬ本性とみなすのがいいわけさ。

 そんな習慣を身につけろって俺は言いたいわけだ。

 つまり、「他人の行為に腹を立てるのは、行く手に転がってきた石に腹を立てるのと同じ」ってこと。


→原文(日本語訳)はこちらです。

・・・・・・・・

 ショーペンハウエルはゲーテの崇拝者でもありましたから、ゲーテからこんな言葉を聞いたのかも知れません。

 →ゲーテ「嫌な人ともつきあう」
 →ゲーテ「相手を否定しない」

・・・・・・・・

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
 愛すべき「哲人」たち

2016-06-23

ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」

 人の心には「お悩み専用のコップ」があるんだなと思えてきました。そのコップには常になんらかのお悩みが入っていて、決して空になることはないんです。

 
 認知症の父がまたも。。。ということがあって、気持ちがイライラしてしまいました。

 すぐムキになってしまうのが私の悲しき性(さが)でして、自分でも嫌になります。

 これじゃだめだな、と反省しつつ、かつて手帳に書き記していたある箴言を思い出しました。

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ショーペンハウエル『幸福について(筆のすさびと落ち穂拾い)』より

 ある人の状態がどの程度に幸福であるかを測ろうとするには、その人がどういうことを楽しんでいるかを問うよりは、どういうことを悲しんでいるかを問うべきだ。

 些細なことに敏感になるには、万事好調の状態にあることが前提条件となるものであって、不幸な状態にあれば、些細なことは全然感じないはずだから、

 悲しんでいる事柄がそれ自体として取るに足りないことであればあるほど、それだけその人間が幸福なのである。


 この箴言を思い出したら、とても気持ちが鎮まりました。

 もし自分が大病など患っていたとしたら、今カリカリしていることなど、どうでもいいと思うだろうな〜と。

 些細なことで悩む自分は何と幸せなのか。。。

 逆説の幸福論です。

・・・・・・・・

 さて、この箴言を書いたショーペンハウエルはゲーテの大ファンでありました。(ゲーテより39歳年下です)

 この本(邦題「幸福論」)を読めば、引用したゲーテの言葉の多さに誰でもびっくりするはずです。

 私がとても不思議に思うのは、「意地悪じいさん」のショーペンハウエルと、「マッドマックス哲学者」のニーチェという、いかにもゲーテとは正反対の性格であるお二人が、なにゆえとてつもないゲーテ崇拝者であるのかということです。

 いつかなるほどと思えたときに、それをテーマにしたブログを書いてみたいと思っています。

・・・・・・・・
 
 同じ本の中に、ゲーテが『親和力』に書いたこんな言葉が引用されていました。

 「災厄を逃れようとする者は、ともかく自分の欲するところを自覚した人間だが、現在持っているよりもましなものを望む人は、全くのそこひ盲だ」

 さらにこんなフランスのことわざも書かれていました。

 「もっと良いものが、良いものの敵である」

 悲しみのお悩みどころか、もっと良いものをと常に渇望するお悩みもあり。

 常に何かのお悩みで満たされている「お悩み専用のコップ」こそ、古今東西変わらぬ「人間の本質」だ、ということでしょうかね〜。

 そこから最後に解放されるのが「ボケ」なのかもしれません。

 水木しげるさんは亡くなる一ヶ月前、このように語っていました。

 水木しげる『ゲゲゲのゲーテ』より

 「年をとると、ボケるからいいんです。80歳を過ぎるとなんでも平気な感じになってくる。鈍感になったというより、細かいことを気にしなくなるわけです。

90歳をすぎたいまは別にモンダイみたいなものはなく、ボケも手伝って至福の状態にあります。無のような感じです。ほんとうの幸せは、ボケんと手に入らんかもしれんね。


 実に考えさせられる言葉です。そのとおりかもしれないが、そうなりたくない気持ちも強くて。。。

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
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2014-11-06

睡眠は死への利息払い

 意地悪爺さん哲学者ショーペンハウエルの超訳「毒舌幸福論」その3は、彼の「健康論」についてです。

 厭世?哲学者ショーペンハウエル爺さんの本『幸福論(幸福について)』は「べらんめえ口調」で書くとしっくりきます。

 今回の超訳は「睡眠を軽視してはいけないよ」というお話しです。

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(ショーペンハウエル:1788-1860、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』)

睡眠は死への利息払いさ
 
f:id:kawasimanobuo:20140619154917j:image:medium:right 健康なうちは、どんなひどい環境にも耐えられるようにトレーニングで身体をきたえるのが肝心だ。

 だけど調子悪いときは無理しちゃいかん。

 病気の時に鍛錬したって身体が耐えられないからな。

・・・・・・・・

 さて、筋肉は強い運動すればするほど強くなる。

 ところが神経の方はといえばその逆で、激しく使えば使うほど弱くなる。

 だから筋肉は何事によらず適当に緊張させて鍛えるがよいさ。

・・・・・・・・

 これに反して神経にはどういう意味の緊張もさせないように注意するのがいいんだ。

 たとえばまぶしい光とか小さい文字を長い時間見続けたりはまずい。

 (パソコン、スマホなんかその典型だぜ)

 それと耳には大きい音はまずい。

 (スマホのイヤホンで自分だけ大音響で聞いてるのもヤバいことだ)

・・・・・・・・

 そして一番大事な脳みそはあんまり緊張させないほうがいい。

 脳みそだけは自分でコントロールするのが難しい。

 せめて食事の間だけはリラックスするのが大事なことさね。

 というのは、脳みそがあれこれ「考え」をひねり出すのに使うエネルギーとおんなじ物を、消化管で栄養素を絞り出すために使っているからさ。

・・・・・・・・

 それと筋肉運動したときもおんなじ。

 みんな誤解してると思うんだが、運動神経って感覚神経と同じ性質なんだぜ。

 「痛い!」って思うのは負傷した手足じゃなくて「脳みそ」がそう思うからだ。

 もっと言えば、歩いたり仕事したりするのも本当は脚や腕じゃなくて「脳みそ」なのさ。

 脳みそから延髄や脊髄を通してそうさせるわけだ。

・・・・・・・・

 だから「疲れる」のは脳みそ直結の随意筋って筋肉だけだ。

 同じ筋肉でも「心臓」のような不随意筋ってやつは、どんなに働こうと疲れないわけさ。

 もうわかったろう。

 脳に対して激しい運動と精神的ストレスを同時にかけると、脳みそが悲鳴をあげるのさ。

 ただし散歩とかの運動は別もんで、逆にストレス発散になる。

・・・・・・・・

 脳みそには睡眠がとっても重要だ。

 それって時計のゼンマイを巻くのと同じことだ。

 ここで考えてほしい。

 寝過ぎは無意味だってことをさ。

 ゼンマイを巻きすぎたって効果がないだろう。

 さてここからが大事なオレの見解だ。

・・・・・・・・

 睡眠っていうのは、実は「死」の一部なんだ。

 死の一部を前借りするってわけだ。

 その借りた金というかエネルギーを昼の勤めに費やして「生」を維持してるのさ。

 だから「睡眠は死からの負債である」と言っていいだろう。

 睡眠は生を維持するために死から借金をすることだ。

・・・・・・・・

 あるいは、こんなふうにも言えるぞ。

 死そのものが元金の支払いだとすれば、睡眠は死の当座の利息だ。

 「生」と「死」っていうのは「金を借りる奴」と「金貸し」の関係と同じさ。

 利息さえきちんと払っていれば、金貸しは無理な督促はしない。

 利息払いを怠ると強烈な「取り立て」に会うってこと。

 この喩えならよくわかるだろう?

・・・・・・・・

 歴史上多くの智者が誤解し、彼らが精神錯乱となった理由を教えておくぞ。

 それは、「脳みそには心が宿っている。それゆえ外界の何ものをも必要としないのだ」というトンデモない幻想を信じていたからさ。

 脳みそも胃袋も同じってこと。


 →原文(日本語訳)はこちらです。

・・・・・・・・

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
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 愛すべき「哲人」たち
 

2014-10-17

人づきあいって必要ですか?

 「蛭子流・内向的人間のための幸福論」と銘打たれた『ひとりぼっちを笑うな』を読みました。とても共感しました。

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 テレビでおなじみの蛭子能収(えびすよしかず)さん、いつもニコニコ飄々としたお人柄です。

 彼の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」は大人気だそうです。

 私も何回か観ましたが、たしかにおもしろい!

 そんな彼が、とても軽くて深い人生哲学?の本を書きました。

 オススメです!

・・・・・・・・

 私がこのブログでよく引用する哲学者ショーペンハウエルは著書『幸福論』で有名です。
 
 私が思うに、『幸福論』でショーペンハウエルが語っていることは次の一文に尽きると思います。

 「群れるな。一人で生きよ。それがとても愉しいのだ」

 そして蛭子さんの語ることも、それと同じと思いました。

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 本書から少しだけ引用させていただきます。

第一章「群れず」に生きる

●「群れ」にはリーダーが君臨する


 グループを作ると、そのなかには必ずリーダー的存在の人が生まれるものです。

 グループにはまとめ役のリーダーたるものが必要だという組織論的な考えは理解できますが、その人がもし、性格の悪い人だったら、グループはメチャクチャになるでしょう。

 そこは、本当に気をつけたほうがいいポイントだと確信しています。

 グループっていうのは「集団」だから、どこかしらで安心感のようなものが芽生えるかもしれません。

 人間は結局のところちっぽけで弱い生き物ですから、きっとその安心感で「自分はひとりではないんだ」「みんなといれば守られている」と思って勇気づけられるのかもしれない。

 野生動物の多くがそうであるように、生き物は「群れる」習性があるから、人間だって同じことなんでしょうね。

 でも、グループは必ずしもいいものではなくて、ときとして凶暴になる恐れがあります。

 ある種、おかしな方向に行ってしまったら、それはもう歯止めが利かなくなると見ているんですよ。

 会社組織もそうですよね。

 社内にそういうグループ(派閥)ができてしまったら、そのグループのなかにいる誰かをいじめようとか、そういう考えのある人が、大人でも結構いるものですよ。

 志が同じだからその派閥に入ったのに、人間関係がおかしくなるようなことだってあると思うんです。

 本人はいいと思って群れたのに、なんだかおかしな話です。

 そんなことも含め、とにかく、グループに入っていいことはそんなにないような気がしてなりません。

 最近は、インターネットを使った生活が当たり前の日常になりました。

 SNSなどで、知らない人とつながるのが流行っているようですが、やっぱり僕は、そういうネットの世界であっても、誰かとつながるのはすごく危険だととらえています。

 もちろん、それで楽しいことやいいこともあるのかもしれないけれど、やっぱり危険のほうが勝ってしまうと思うんです。

 僕はもしかしたら、人一倍警戒心が強くて臆病なのかもしれませんが、悪いことを考えている人っていうのは、世の中には本当にたくさんいます。

 そういうものに巻き込まれて、自分はそういうつもりじやないのに、悪い人の強く絶対的な意見・思考に押されてその人の仲間になって、ついつい一緒に悪さをしてしまうなんてこともあるはずです。

 「俺には無縁なことだな」とあぐらをかいていても、ふとしたことがきっかけとなって、悪い流れになる危険性も十分にはらんでいると感じませんか。

 だから、ネットで仲間になるのは、なるべくやめたほうがいいと僕は心に固く決めています。

 最近も、各地でいろいろ事件が起きていますよね。

 『LINE』で繋がっていたグループのいさかいが、殺人事件に至ってしまった広島県の事件などもそう。

 少額のお金の貸し借りや恋愛関係のこじれがきっかけで、16歳の少女がリンチ殺人にあいました。

 最初は仲がよかったはずなのに、ちょっとしたことで人は凶暴化してしまう典型的な例ですよ。

 それもやっばり、集団だから起こり得ることだと僕は思う。

 友だちが4、5人集まると、必ず誰かがはじき出されるのが群れの特性。

 どうしても誰かをいじめたくなったり、便利な存在として扱うようになる。

 これって、人間の本来的な部分に潜む、ものすごく恐ろしい闇の部分だと僕は見ています。

 別に誰かをいじめるつもりはなかったのに、「リーダー的存在のAさんが、Bさんにつらく当たるから、わたしもBさんにはつらく当たらないといけないのかな〜」と、そんな雰囲気になってしまうんじゃないかな。

 そして最後には、とうとう殺人まで犯してしまうという、信じられないような事態に陥ることになる。

 そういうことが起こる可能性は、どんなグループにもきっとあると思うし、それこそ僕がいちばん避けたい事態です。

 つまらないことで殺されたくはありませんし、逆に加害者にだってなりたくない。

 僕ほど警戒する必要はないにせよ・・・一見よさそうに感じるのがグループというものですが、本当に恐ろしい要素も含んだものだと認識しておくことは、あながち間違っていないと思います。

 笑顔の裏に悪魔が潜んでいることだって、たくさんあると思いますよ。

●「群れ」もイヤだが差別も嫌い

 グループが恐ろしいのは、そのグループ内の話だけではありません。

 大概のグループは、自分たち(自分たちのグループ)を他の人たちと区別しますよね。

 つまり、自分たちのグループに属している人と、そうでない人を明確に区別しようとするんですよ

 いじめの詰もそう。

 自分たちのグループに属していない誰かをいじめることによって、グループ同士の結束を深めるような、そんな傾向があります。

 いじめっていうのは、大体集団でやるものですからね。

 共通の敵を作ることによって、その「歪んだ絆」を深めていくわけです。

 そうやって、自分たちと他の誰かを「区別」することが、どんどんエスカレートしていくと、どういうことが起こるでしょうか?

 それは、やがて「差別」につながっていくと、僕は見ているんです。

 自分たちの集団とは異なる人を差別する一差別というのは、非常に根の深い問題です。

 誰かを差別する心は、人間の心のなかのどこかに必ずあるものだからやっかいです。

 差別っていうのは、どこの国にもある問題ですよね。

 それはもう、ある意味では人間が生まれ持った性分なのかもしれません。

 ただし、それを表に出しては絶対にいけない!

 たとえ「この人、ちょっと違うな」「あれ、なんだか変だぞ」って感じても、それはそれとして受け入れるべきなんです。

 集団で誰かを差別して、ましてやその人たちに危害を加えるなんて、もってのほか。

 最近、日本でもヘイトスピーチが問題になっていますよね。

 ああいうニュースを見る度に、本当に「群れる」ことは怖いなって改めて実感します。


 だって、群れた上に差別ですから、それは正直なところ始末に負えませんよ・・・。

 国同士の摩擦はあるかもしれないけれど、同じ日本に住む者同士、仲よくやればいいのになあ。

 百歩譲って、仲よくできないのはその人の思考かもしれないけれど、差別的なことを強く意思表示する必要などありませんよ。

 世の中には、外向的な人と内向的な人、お金持ちと貧乏人まで、本当にさまざまな人たちがいます。

 それでも、みんな同じ「人間」なんですよね。

 そのことだけは、常に頭のなかに置いておかなければなりません。

 差別的な感情っていうのは、多くの場合「誰かを見下したい」という、人間のなかにあるネガティブな欲求と結びついているような気がしてならないんです。

 誰か自分より下の相手を作ることによって、自分が偉くなったように錯覚するということかもしれない。

 自分が優位に立つために、他の誰かを貶めるなんて、本当に愚かな行為だと思う。

 ただ、そうやって誰かをいじめたり、差別したりするような人も、実際に一対一で会って話してみたら、普通にいい人だったりすることが多いからこれまた不思議。

 ちょっと拍子抜けするくらい、ごく普通の人だったりしますよ。

 だけど、一旦そのグループの一員になってしまうと、どんな非道なこともしかねないということなんです。

 やっぱり、グループになってよいことなんて、ひとつもないんじゃないかな。

 私も年々歳々、蛭子さんと同じ心境になってきました。

 だから「国家」とか「民族」とか「宗教団体」とか「経済団体」とか、そんな「群れ」がとても苦手なんです。。。

・・・・・・・・

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 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
 愛すべき「哲人」たち
 

2014-10-09

本を読むなという「読書論」

 青色発光ダイオードの研究者にノーベル賞が授与されたというニュースを見ていたら、興味深いお話しに出会いました。それは「本を読むなと言われました」というお話です。

 昨日の朝、NHKニュースで紹介されていました。

 中村修二さんの大学時代の恩師は(同じ研究の)本を読んでいる中村さんを叱ったそうです。

 「人の考えたことをなぞるより独自のことを考えろ」と言って。

 このエピソードを聞いて、ある本の一節を思い出しました。

 その一節はショーペンハウエルという変わり者?の哲学者が書いた『読書について』という本にあります。

f:id:kawasimanobuo:20141008133736j:image:w360

 意地悪爺さんショーペンハウエルは、中村氏の恩師と同じことをこの本の中で語っていました。

 読書は、他人にものを考えてもらうことである。

 本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。

 習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書き線をペンでたどるようなものである。

 だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。

 自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。

 「読書って『自分頭』じゃないよ。『他人頭』だよ」って、ズバリと言い切ってるところが面白いですね。

 だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。

 そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

 常に乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。

 しかしこれこそ大多数の学者の実情である。

 彼らは多読の結果、愚者となった人間である。

 なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。

 だんだん過激な反読書論になってきましたよ・・・

 実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。

 手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。

 だが、バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。

 精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。
 
 食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。

 精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。

 多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。

 たしかに、本をこんなに読んでて、なんでこんなにアホなんだと思わざるをえない人間は多いな。

 つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。

 したがって読まれたものは反芻(はんすう)され熟慮されるまでに至らない。

 だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。

 食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

 それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後で考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

 しかし、一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。

 なるほど、たとえがおもしろい。納得・・・。さて結論です。

 さらに読書にはもうひとつ難しい条件が加わる。

 すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。

歩行者のたどった道は見える。

 だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

 う〜ん。意地悪爺さんショーペンハウエルの言うことは、皮肉も痛烈だが、でも本質を突いている。

 彼はとても人間的な哲学者だったようです。

 ラッセルの「西洋哲学史」に、彼のエピソードが書かれています。

  →愛すべき「哲人」たち

 さもありなんと思わせます。

 でも私はこんな意地悪爺さんを憎めないですね。

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2014-07-11

超訳「毒舌幸福論」2

 意地悪爺さん哲学者ショーペンハウエルの「毒舌幸福論」その2です。「他人に対する態度」について超訳してみました。

 厭世?哲学者ショーペンハウエル爺さんの「幸福論(幸福について)」は「べらんめえ口調」で書くとしっくりきます。

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(ショーペンハウエル:1788-1860、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』)

人は変わりようがないのさ
 
f:id:kawasimanobuo:20140619154917j:image:medium:right 世渡りには「注意深さ」と「寛容さ」が絶対必要だぜ。

 注意深く生きれば損することなんてあんまりない。

 寛容な気持ちを持って生きれば、へたな争いもしなくても済むはずだ。

 俺たちはだれでも、いろんな人間と一緒に暮らしていかねばならない宿命さ。

 だから、どんな性質の奴でも、どんなにろくでもない奴でも絶対的に排除してしまうなんて許されないんだ。

 なにせ個性ってやつは、「自然」によって勝手に定められたもんだからな〜。

 「個性」は神様が不可思議な原理でつくった「絶対変わらないもの」とみなすべきだぜ。

・・・・・・・・

 とはいっても、ずいぶんヒドイ個性の奴らもいっぱいいる。

 そいつらと出あったら「こうした変わり者もいるんだな〜」と思えばいいだけさ。

 そう思わなかったらどうなる?

 相手と殺し合いするはめになるぜ。

 だってそうだろう。

 やつらが何を正しいと信じているかとか、物事をどう見るかとか、気質とか、それに人相もだな、これらは持って生まれたもんで誰にも変えることなんかできやしない。

 ところが張り切ってそいつのことを否定してみろ。

 相手の奴はこっちを親の仇みたいにして、すさまじい逆噴射をはじめるぜ。

 だって「今そのまんま」をやめろ、そうしなければおぬしの生存権など認めないって言ってるようなもんじゃね〜か。

・・・・・・・・

 だから多くの人たちと一緒に生きていくためには、誰であっても、どんなワルやらバカだろうが、そいつらをそのまんま認めていかねばならないってことさ。

 そんでもって、そいつらの個性ってやつを、そいつらに合わせてうま〜く利用すればいいんだ。

 あ、ひとつ注意だ。

 利用する際に、やつらが変わることを期待したり、えらそうな道徳ふっかけて変えようなんて決して思っちゃいけないぜ。

 「われも生き、人も生かす」という言葉の真の意味はここにあるんだ。

・・・・・・・・

 とはいえ、言うは易く行うは難しだよな〜。よくわかるぜ。

 この通り実行できてるやつは偉いし、幸福だと思うよ。

 あ、そうそう、この考え方を訓練する良い方法があるんだ。

 他人に対して忍耐心を養おうとするやつはこうすりゃいい。

 日常生活で、自分に頑強に抵抗する無生物を相手にして忍耐力を養うのさ。

 たとえば、足がびっこの椅子とか、切れ味悪い包丁とか、最新OSのくそパソコンだとか。。。

 考えてみたら無限にあるだろう。

 そんなガマン練習をしてから次に人間に移るわけだ。

 他人の嫌なところも、無生物といっしょで変わらぬ本性とみなすのがいいわけさ。

 そんな習慣を身につけろって俺は言いたいわけだ。

 つまり、「他人の行為に腹を立てるのは、行く手に転がってきた石に腹を立てるのと同じ」ってこと。


→原文(日本語訳)はこちらです。

・・・・・・・・

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
 愛すべき「哲人」たち
 

2014-06-20

超訳「毒舌幸福論」

 意地悪爺さん哲学者ショーペンハウエルの「幸福論」は毒舌です。まるで「たけし」が話しているようで時々笑ってしまいます。

 「幸福論(幸福について)」なんて一ページも読めば眠くなりそうなタイトルですが、ショーペンハウエル爺さんのこの本はさにあらず。

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(ショーペンハウエル:1788-1860、ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』)

 本人が実際に意地悪爺さん、へんくつ爺さんそのものであったせいか、逆に親しみが湧いて読みはじめると数十ページいっちゃいますね。

 おもいっきり簡単にいうと、彼は「群れるな。一人で生きよ。それがとても愉しいのだ」と言ってるんです。

 厭世主義哲学者とも言われてますが、実は裏返しの快楽主義者です。

 文章も話しながら書いている感じで実に活き活きしていて、厭世的になるどころか、生きるエネルギーをもらえるようです。

・・・・・・・・

 でも彼の人間性はとってもユニークで、イギリスの哲学者ラッセルは「西洋哲学史」の中でめちゃくちゃ彼の悪口書いてますよ。

  →愛すべき「哲人」たち

 現代に生きていたら、きっと日本テレビなんかで毒舌コメンテーターとしてレギュラー出演まちがいなかったことでしょう。

 とはいえ「幸福論(幸福について)」はもったいぶった書き方してますから、一見難解そうに感じます。

 そこで、ぱらっとめくったページを、私が超訳してみました。

「礼」ってのは、しょせん粉飾さ。

 
f:id:kawasimanobuo:20140619154917j:image:medium:right 中国人が自慢している「礼」ってあるだろう。

 俺は別な本でその「本当の意味」を書いておいたんだ。

 それはな、「我執の粉飾」ってことさ。

・・・・・・・

 ところが「礼」には、いまひとつ意味があるんだな。

 それはこういうことだ。

 「礼とは道徳的にも知性的にも貧弱なお互いの性質を互いに見て見ぬふりをし、これを互いにやかましく取り立てないようにしようっていう暗黙の協定である」

 わかるか?

 この協定あればこそ、お互い馬鹿丸出しを少し我慢して、ケンカしないようにするから両方得ってわけさ。

・・・・・・・・

 言い換えると「礼」は「利口さ」だな。

 だから「非礼」は「愚かさ」だ。

 「非礼」をさらけだして、無用かつ軽率に敵をつくるなんて、わが家に火を放つに等しい気ちがいざただぜ。

 なぜかっていえば、「礼」は「贋もんの銅貨」と同じで、こんなもの倹約するのは馬鹿の証拠ってわけ。

 こんなどうでもいいもん、倹約しないことが「分別」ってもんだ。

・・・・・・・・

 俺の言うことが信じられないって?

 いいか、どこの国でも手紙の末尾はこう結ぶだろう。

 「貴下の最も誠実なる下僕なにがし」

 これが世の常識っていう証拠さ。

 ま〜、ドイツ人だけはこの「下僕」の二字だけ省いてるけどな。

 たぶん「どう見ても嘘だから」って、恥ずかしいんだろう。

・・・・・・・・

 あ、それと反対に現実の利害を無視してまで「礼」を出し過ぎるのは問題だぜ。

 たとえれば、「贋もんの銅貨」の代わりに「本物の銅貨」を大盤振る舞いするようなもんだ。

・・・・・・・・

 「礼」ってやつはろうそくみたいなもんだ。

 堅いんだが少し暖めるとしなやかになってどんな形にも変わるのさ。

 だから、敵意を持った頑固な奴でも素直で優しい態度に出るように仕向けられる。

・・・・・・・・

 とはいえ、やっぱり「礼」を実行していくの難しい。

 なぜかっていえば、ろくでもない奴らに頭下げたり、他人に関心なんぞあんまり持たぬが幸せなのに、その逆をしなくちゃいけないからな。

 だから「礼」を「誇り」ってやつと兼ねられたら、こりゃ見ものだぜ。

・・・・・・・・

 侮辱ということは結局敬意をいだいていないことの表明なんだが、自分をあんまり「りっぱさま」に考えすぎてるとショックが大きい。

 だけど、一般に人が他人を本心ではどう思っているかって考えればあんまり気にもならなくなるのさ。

 それよりはむしろ世の中は「礼」っていう仮面でまわっていて、仮面の奥じゃみんなペロリと舌をだしてるんだ、って思ってたほうがいいさ。

 そうすりゃ、仮面がずれたとかはがれたとかしてもあんまり悩まなくてすむだろう。

 まして誰かが文字どおり無礼をはたらきかけてきたとしたら、そりゃ仮面どころかパンツまでかなぐり捨てて素っ裸になったようなもんだ。

 そうなればもちろん、みんな素っ裸にになりゃ同じようもんだが、とてもみられたざまじゃないってこと。

 超訳とはいえ、べらんめえ口調に直すだけみたいなもんでしたが。。。

 それほど元々毒舌なんですよね。(だから好きですね〜)

 ショーペンハウエル爺さんって悪役っぽくて可愛いし、話の内容も身近なことなのでわかりやすいですね。

 笑ってしまうからやっぱり「幸福論」ですね。さすが!

→原文(日本語訳)はこちらです。

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<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
 意地悪じいさんの本
 愛すべき「哲人」たち
 

2012-07-12

意地悪じいさんの本

 『筆のすさびと落ち穂拾い』こんな原題が『幸福論』ってタイトルに変わると、印象はまったく変わります。これを書いた人も「哲学者」と呼ぶか、「厭世思想家」と呼ぶかで印象は大違いです。私は「意地悪じいさん」と呼びたいですね。

f:id:kawasimanobuo:20110902102116j:image:medium:left 今日の主人公は「ショーペンハウエル」さんです。

 そう、あの「デカンショ節」三羽がらす「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の一人です。

 彼の書いた本は、この『幸福論』と『読書について』しか読んだ(つまんだ?)ことがありません。

 他の本はといえば、ものものしいタイトルだらけで、よっぽどの不眠症にでもならない限り(強力な睡眠薬として)、たぶん私の一生のうちにはぜったい読まないことでしょう。

 『充足原理の四つの根基について』『意志としての世界と表象としての世界』なんて、オッソロシイ!タイトルなんですから。。。

 ところが彼の『幸福論』というもんは、高校の頃に(少しだけ)読んでおもしろいな〜と思いました。

 なんでおもしろいかというと、まるで「意地悪じいさん」が書いているように皮肉たっぷりで笑えるからです。

 そこで、今たまに「昼便学」するときに持参し、数ページ開いたところを適当にバラバラ読んでいるんです。

 まさに、この教室(昼便教室)にピッタリの本です。なので原題『筆のすさびと落ち穂拾い』のほうが、タイトルとしてなんとなく合っているなと思えるんですよ。

 さて、彼の言ってることはただひとつ(言い過ぎかな?)。

 「バカとは付き合うな。一人で生きろ」

 そのことをいろんな場面の例を出しながら、皮肉たっぷり歯に衣着せず語っています。

 『読書について』という本では、自分が本を書いているくせに、こんな真逆のことまで語っています。

 「読書は、他人にものを考えてもらうことである」

  →読書について

 あれこれ世間の意見の相違でお悩みの今日この頃(「の」だらけだな。。。)、彼の本を読むと少し救われます。

 私はこのショーペンハウエルじいさん、何となく好きですね。

 実生活でもかなりの意地悪じいさんだったことを、バートランド・ラッセルが『西洋哲学史』で書いています。

 クリスマスキャロルのスクルージ爺さんそっくりのようです。

 またショーペンハウアーの教説は、彼自身の生涯によって判断していいとすれば、誠実なものであるとはいえないのだ。彼は一流の食堂で御馳走を食べるのがつねであったし、ちょっとした恋愛を幾度もやっているが、それは肉欲的なもので情熱的な恋愛ではなかった。

 また彼はとほうもなくけんか好きであり、異常なほど貪欲であった。ある時彼は、年配の裁縫婦が彼のアパートの扉の前で、友達と喋っているのをうるさく思い、その女を階段から突き落として、終身の傷害を負わせてしまった。その裁縫婦は裁判に勝って、ショーペンハウアーはその女が生きている限り、四半年ごとに一定の金額(15ターレル)を支払わねばならないことになった。

 二十年たってついにその女が死んだ時、彼は自分の会計簿に次のように記した。「あの老婆が死に、重荷は去る」

 彼の生涯には、動物に対する親切心を除いて、いかなる美徳の証拠をも見出し難いのである。動物への親切だけは、科学のための生体解剖に反対するほどまでに強かった。他のあらゆる面において、彼は完全に利己的であった。禁欲主義が美徳であると深く確信した人間が、自分の実践においてその確信をいささかも具現しようとしなかったなどとは、信じ難いほどである。

 いいですね〜。実に人間的で。「美人美人といばるな美人〜♪。美人heもすりゃkus*もする〜♪」ですよ。哲学者さんだって。

 詩人でもあり歴史家、思想家でもあったハイネの本を「つまみ読み」したときには、こんな言葉も見つけました。(たどたどしい記憶より)

 「おまえさんは、生き方が正しいからといって、この世に美味い酒も女もないというのかい」

 なにか開き直りのようですが、「人間ってもんはいろんな側面持ってるのが当たり前なんだよ。そこを忘れちゃだれも言うこと聞かないさ」ってことですよね。 

 私はつぎのように読み替えてみたいなと思っています。

 「世の中には『良い悪い』だけじゃなく『快・不快』だってあるだろう。『理屈』だけじゃなく『感情』だってあるだろう」

 さらに「経済には『多い少ない』『速い遅い』だけじゃなく『美・醜』だってあるだろう。『善・悪』だってあるだろう」もかな?

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2011-10-03

読書について

 衣替えに思いをいたす今日この頃、この季節だけは自分の目を液晶画面から手元の良書に向け直したいものです。読書について先哲のためになる話を一つご紹介します。

f:id:kawasimanobuo:20110902102116j:image:medium:right けっこう毒舌、それゆえピリッとした内容で、お堅いことを書いてるわりに読みやすいショウペンハウエル爺さん。



 彼の『読書について』から、耳に痛い読書論をおひとつどうぞ。

f:id:kawasimanobuo:20111003113351j:image:medium:left
 読書は、他人にものを考えてもらうことである。

 本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書き線をペンでたどるようなものである。

 だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。

 「読書って『自分頭』じゃないよ。『他人頭』だよ」って、ズバリと言い切ってるところが面白いですね。

 だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

 常に乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。しかしこれこそ大多数の学者の実情である。彼らは多読の結果、愚者となった人間である。

 なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。

 だんだん非読書論みたいになってきましたよ・・・

 実際絶えず手職に励んでも、学者ほど精神的廃疾者にはならない。手職の場合にはまだ自分の考えにふけることもできるからである。

 だが、バネに、他の物体をのせて圧迫を加え続けると、ついには弾力を失う。精神も、他人の思想によって絶えず圧迫されると、弾力を失う。
 
 食物をとりすぎれば胃を害し、全身をそこなう。精神的食物も、とりすぎればやはり、過剰による精神の窒息死を招きかねない。

 多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。

 たしかに、本をこんなに読んでて、なんでこんなにアホなんだと思わざるをえない人間は多いな。

 つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻(はんすう)され熟慮されるまでに至らない。

 だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。

 それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後で考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

 しかし、一般に精神的食物も、普通の食物と変わりはなく、摂取した量の五十分の一も栄養となればせいぜいで、残りは蒸発作用、呼吸作用その他によって消えうせる。

 なるほど、たとえがおもしろい。納得・・・。さて結論です。

  さらに読書にはもうひとつ難しい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。

 歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。

 う〜ん。意地悪爺さんショーペンハウエルの言うことは、皮肉も痛烈だが、でも本質を突いている。

 彼はとても人間的な哲学者だったようです。ラッセルの「西洋哲学史」に、彼のエピソードが書かれています。こちらのブログで紹介しました。
 愛すべき「哲人」たち

 う〜ん。さもありなんと思わせます。私は好きですね。

 それとブログっていうのは反芻熟慮に役だつな〜と、あらためて自分自身に対するブログの効用というものを感じました。

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2011-09-02

愛すべき「哲人」たち

 「ブログは修行なり」と最近思いはじめています。でも修行って楽しいもんですね。たぶんスポーツマンが毎日ジョギングなんかするのと同じかもしれません。苦しそうだけどかえって気持ちがいいらしいですね。さて本日の修行は押し入れの奥から出てきた「お堅い本」についての柔らかいお話です。

 一ヶ月前に押し入れの奥から出てきた分厚い本、それはラッセルの「西洋哲学史」という本です。たぶん30年ぶりくらいのご対面です。これはホントに分厚いですよ〜。厚さ五センチです。

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 眠り薬にいいなと読み始めたら、実はこれがとてもおもしろい!買った頃はガキだったからこのおもしろさが分からなかったんですね。

f:id:kawasimanobuo:20110902101814j:image:medium:right
 バートランド・ラッセルという超一流の哲学者が古今の哲学者を順番に紹介・解説するのではなく、時空の垣根を取り払った相互関連の中で、彼独自の視点から体系的に批判的に論評しているのです。

 読みながらまるでサー・ラッセルが私の目の前で話してくれているように思えてきます。

 さらにラッセルが開拓した分析哲学の立場や彼の史観から、収録人物にも個性があります。あの恋愛詩人「バイロン」が他の有名な哲学者をおさえて登場したりしているんです。
 
 何よりもおもしろいと感じるのは、哲学者の人となりを豊富なエピソードで辛口に書いていることです。読みながら思います。「哲人」たちも私たちと同じ「愛すべき凡人」だったんだ、と。
 
 そのひとりを紹介します。登場するのは「デッカンショ節」で有名なあのショーペンハウエルです。(デカルト・カント・ショーペンハウエルの上の呼び名をくっつけてデッカンショといいます。旧制高校生の必読書とされていたようです)

f:id:kawasimanobuo:20110902102116j:image:medium:left 厭世哲学者?として名高いショーペンハウエルですが、高校の時に彼の「幸福論」というのを読んで、「逆じゃない?」と思った記憶があります。そこでまた読んでみました。これがまた実に面白い。彼は「群れるな。一人で生きよ。それがとても愉しいのだ」と言ってるんですが、裏返しの快楽主義です。文章も話しながら書いている感じで実に活き活きして、厭世的になるどころか、生きるエネルギーをもらえます。

 それもそのはずショーペンハウエルはとても「人間的」(よくも悪くも)な複雑な人だったんです。まるでクリスマス・キャロルの嫌みな主人公スクルージを想像させます。スクルージは過去・現在・未来を見せる三人の精霊によって善人に変わります。彼も著作の上では生まれ変わっていたんでしょうね。(一昨年ロバート・ゼメキスによるアニメ「クリスマス・キャロル」が制作されました。これはアニメの限界をスコ〜ンと突き抜けたスゴイ出来のアニメです。お勧めです)

 さてショーペンハウエルの実像とはいかなるもの?ラッセルの文章を引用します。

 またショーペンハウアーの教説は、彼自身の生涯によって判断していいとすれば、誠実なものであるとはいえないのだ。彼は一流の食堂で御馳走を食べるのがつねであったし、ちょっとした恋愛を幾度もやっているが、それは肉欲的なもので情熱的な恋愛ではなかった。

 また彼はとほうもなくけんか好きであり、異常なほど貪欲であった。ある時彼は、年配の裁縫婦が彼のアパートの扉の前で、友達と喋っているのをうるさく思い、その女を階段から突き落として、終身の傷害を負わせてしまった。その裁縫婦は裁判に勝って、ショーペンハウアーはその女が生きている限り、四半年ごとに一定の金額(15ターレル)を支払わねばならないことになった。

 二十年たってついにその女が死んだ時、彼は自分の会計簿に次のように記した。「あの老婆が死に、重荷は去る」

 彼の生涯には、動物に対する親切心を除いて、いかなる美徳の証拠をも見出し難いのである。動物への親切だけは、科学のための生体解剖に反対するほどまでに強かった。他のあらゆる面において、彼は完全に利己的であった。禁欲主義が美徳であると深く確信した人間が、自分の実践においてその確信をいささかも具現しようとしなかったなどとは、信じ難いほどである。


 と、こんなふうに歯に衣着せずにこきおろしても、きちんとその業績や後世への影響については評価しているんです。悪口言われていないのはスピノザなど実に少数のようです。(まだ全部を読んでいないので)

 私はショーペンハウエルについて、こんなエピソードがあるからこそとても親近感が湧いてきました。哲人が鉄人だったらついていけませんからね。人間くさいのがかえっていいなと思える歳になったんです。

 ま〜、この本はどこから読んでも、飛び飛び読んでもおもしろい!また段組というんですか、文字数や行間がとても読みやすく組まれているんです。さすが「みすず書房」です。武田鉄矢が言ってました「私の願いは生涯に一冊でもいいからみすず書房から本を出したいということです。」私もみすず書房と筑摩書房が大好きですね。

 「お堅い本が実は柔らかい」これは人の付き合い、学問の付き合い、仕事の付き合いすべてにありうる秘密の隠し味ですね。「固そうだけど噛むと味があってとてもおいしい」こんな人間になれるよう、日々ブログで修行していきたいと思ってます。

<ショーペンハウエル爺さん関係の過去ブログ>
 毒舌幸福論「人は変わりようがないのさ」
 ショーペンハウエル「悩みは幸福の尺度である」
 睡眠は死への利息払い
 本を読むなという「読書論」
 超訳「毒舌幸福論」
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 愛すべき「哲人」たち