「畏敬」と「解体」

 茂木健一郎さんの、クオリア日記(http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/11/post_0883.html)の10/31の記事に、下記のような記述があった。

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相模女子大学で、日本文学協会のシンポジウム。青嶋康文さん、高木信さん、それに私で、それぞれ30分間「報告」し、その後ディスカッションをした。

 これがなかなか大変な会であった。どうやら、ある文学作品を読んで、自分が感じたことをそのままストレートに表現するということは忌避されることらしく、だからこそ、テクスト論などの理論を駆使して作品を解体して行こうとするのである。

 驚いたのは、高校の現代国語の現場などでも、そのような形で自己の感想を「脱構築」するということを信条として指導する場合があるということで、青嶋先生が小川洋子のエッセイを材料に生徒に書かせた感想文は、私にはとても素直で良いものに思えたのだが、 高木先生を始め会場の多くの人から、「老人を安易に対象化している」「本当の意味での他者との向き合いがない」などと強い批判が集まった。

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 なにゆえにかくも畏れを知らぬ解体業者が、今日の様々な分野で大手を振って歩くことになってしまったのだろう。

 テクスト論などの理論を駆使して作品を解体していく態度は、作品に触れて感じる「畏敬」など、「言うに言われぬ思い」を<無>として扱うことではないか。もしくは、その「畏敬の思い」すら、科学的分析で処理できるものとして扱うことではないか。

 そうした態度を学校教育で教え込むことは、作品だけではなく、人間の営み全体に対して、同じ目で見ることを教えることにならないか。

 「言うに言われぬ思い」を簡単に記号化できないからこそ、芸術家は全身全霊を賭けて、「言うに言われぬ思い」を生み出すモノゴトの諸関係を作品に結晶させて、自らの内から出力していく。その微妙な関係性は、記号化して伝えられる類のものではなく、作品の中に籠められた空気をそのまま伝えることの他に伝えようがないという強い自覚のもとに、分解不能な細部と全体を響き合わる努力によって成り立っている。

 その作品は、有機体のように様々な諸要素が結びついて完成して生命を帯びているものだから、解体のメスが入って切り刻まれると、それだけで死んでしまう。その痛ましさも畏れ多さもわからない人が、作品を「テクスト」などと言って分析のための材料にしてしまうのだ。

 そのように学校内などで、「理論」のためにモノゴトを材料化してしまう態度で子供と接することが、子供の心を歪ませていくのではないか。

 今必要なことは、自分の感じ方を排除して対象を論理で解体していくのではなく、自分の感じ方に素直になって、その素直な気持ちを掘り下げていくことであって、それ以外に真理に至る道はないのではないかとさえ私は思う。

 自分の感じ方というのは、自分本位のものではない。自分がモノゴトを感じる時というのは、刺激があって反応があるわけだから、そこにはモノゴトの関係性がある。

 自分も当然ながら「自然」の一部であるから、自分を媒介にした関係性は、自然界の関係性でもある。そして、自分こそが自分にとって一番身近で敏感に知りうる存在なのだから、自然界の関係性を理解していくためには、まずは自分の感じ方そのものを掘り下げるべきだと私は思うのだ。

 そして、自分を掘り下げれば掘り下げるほど、「言うに言われぬ思い」の壁にぶち当たる。

 自分のなかにある「言うに言われぬ思い」にすら解を与えることができないのに、どうして、世界の諸関係のあいだを満たしている「言うに言われぬ思い」に解を与えることができようか。

 いくら、「自分の感じ方」を排除しても、自分の内側にその感じ方は歴然と存在する。そのことを隠微して世界と付き合っていくことは、自分を分断して生きることになる。すなわち、「世界」は自分の内と外に別々にあって、その間で引き裂かれるのが、「自分」ということになるのだ。

 そうした思考のパラダイムが、実際に今日の社会を覆い尽くしている。「自分は自分、他人は他人、その間の相互理解は絶望的に不可能なことで、外交テクニックを身につけて、うまく泳ごう。相互理解が可能だと信じて熱くなると損をするよ」という社会だ。

 そうした現代社会において、その現状にすり寄っていくためには、「自分の感じ方」を排除する「分断の思考」が優位になるのだろう。そういう意味で言うと、分断の思考というのは、知的な装いをした「処世」にすぎないのかもしれない。

 だから、高校教育の現場で、テクスト論などの理論を駆使して作品を解体する授業というのは、処世の為の思考方法を教えているにすぎないとも言える。そのように「分断の思考」のパラダイムが再生産されて、現代社会の現状が、よりいっそう細かく分断されたものになっていく。

 モノゴトに対する「畏敬の念」が強い人は、「畏敬」を封じ込めることで成立している現代の分断社会では生きにくい。だから、先生達は一生懸命に「畏敬」を無化し、「処世」を教えている。そうした授業を行いながら、「それはそれ、これはこれ」という感じで、モラルを教えなければならないと言う。そうした態度こそに欺瞞がある。なぜなら、畏敬のないモラルなど、社交テクニックにすぎないのであって、敏感な子供はその胡散臭さをすぐに見抜く。

 しかし、悲しいかな、人を愛することをはじめ、「畏敬」のなかにある生きにくさこそが、生きることの醍醐味なのだ。そうした醍醐味を削除した無味乾燥の不毛砂漠のなかの「処世」とはいったい何であろうか。

 テクスト論などの理論を駆使して作品を解体することにかまける先生達は、その方法論に頼って生徒達が歩いていくその先のビジョンをまず見せるべきだろう。そのビジョンが素晴らしいものであるならば、それに従うのも悪くないが、現状をなぞっているだけの人には、その行き先がまるで見えていないし、見えていないという自分を隠微して、知的装いのカムフラージュをしている。

 そんな言い方をしてしまうと、「ならば、それに反対する者は、そのビジョンを見せよ」と噛みつかれるかもしれない。そうした議論の行き先は、「展望」を見出すことがあまりにも困難な現状があるゆえに、「未来は誰にもわからない」などと開き直られて、短絡的に結論づけられるか、新しい記号を並べられて煙に巻かれるかのどちらかだ。

 確かに、「未来は誰にもわからない」。といって、未来の前に立つと誰でも同じというわけではないと私は思う。

 展望を見出そうとする「言うに言われぬ思い」が自分のなかに在ると感じて、その導きを信じて従おうとする気持ちがあるか、「言うに言われぬ思い」という形になる以前の気持ちを「無」と扱って無視するかによって、その人の未来は変わってくるのではないか。

 「展望」とは、現状にいながら形ある目的を設定するだけのことではなく、自分の内側からの必然の力によって自ずから整っていくものであって、「分析」よりも「志向性」を反映しやすいと私は信じていたい。