「国家」よりも、自分自身。〜北朝鮮への制裁について〜

 いつのまにか、国家とそこに暮らす人々が、一心同体のように扱われるようになっている。そういう体制のなかに生きていると、人類は昔からそのようにして生きてきたかのように錯覚をするが、今日のような人間と国家の関係は、実はそんなに古くないことだ。

 強い国家とは何だろう。良き国家とは何だろう。強い国家を作るためには、税金をきっちりと徴収しなければならない。税金を軍隊に使うか福祉に使うかで国民生活は大きく左右されると言うが、それ以前の問題として、税金をきっちり徴収する体制のなかに、しっかりと組み込まれる生き方を、知らず知らず当たり前のこととして植え付けられていることを冷静に考える必要もあるだろう。

 税金を払うことが問題だというのではない。税金を取りこぼしなく合理的に徴収するシステムに組み込まれることを健全な人間生活だとみなす一種の洗脳が問題なのだ。

 たとえば、日本では企業に所属すると、税金に関する事務手続きのいっさいを企業が行う。フリーで活動している作家や写真家も、企業を相手に仕事をする場合、企業が原稿料から税金を差し引いて、残りを受け取る。国家は企業にその事務手続きを課すことで、取りこぼしがないようにしている。日本の国民の管理システムは、極端なことを言えば「企業」を管理することで、自動的に「国民」を管理できるシステムになっている。

 誰がどこに住んで何をして、どれくらいの現金収入を得ているかということが、「企業」を通して、一目瞭然となる。それが、国家の安泰であり、社会生活の安心につながるという考えをはびこっている。

 そして国民一人一人がその価値観のなかに縛られ、その価値観のなかで人生設計を行う。たとえば、少ない家計のなかから教育費をやりくりして、子供のために頑張っている家族が多い。しかし、その懸命な努力の先にある目標が、一流大学を卒業して一流企業に就職することというのも、何か騙されているように感じる。

 一流企業に就職してからも競争にあけくれ、その競争に勝った場合の報酬も、長期間の努力のわりにあまり大きなものだとは言えず、それなりのものでしかできない。(一流企業だから、いろいろな仕事や、大きな仕事ができるなどというイメージ戦略もあるが、図体がいくらでかくても、無数の一人一人は、そのなかで、それ相応の役割を負うだけであり、会社が大きければ仕事も多彩で大きいというのは錯覚にすぎない。仕事が多彩で大きくなるかどうかは、あくまでも自分自身の問題なのだ)

 さらに、自分のその価値観に子供も従わせようとすると、それだけ出費も大きくなる。といって、子供にそうさせないのも、自分の人生を否定するようで辛い。

 そういうことになると、実質的な価値よりも、どちらかというと、有名企業に所属することで虚栄心を満足させる価値が大きいだけなのだが、価値観が多様になった現代社会において、その幻想のような価値も相対的に低下してしまっている。

 それでも国としては、税収や国民管理の側面で、国民が企業体に所属するように働きかける。メディアもまた一企業であるかぎり、そうした価値観の維持が自らの保身にもつながるから、そのベクトルに添って、情報発信を行う。フリーターと勤め人の生涯獲得賃金を比較するなどして。

 しかし、人の幸福というのは、収入も大事かもしれないが、それ以上に支出に影響を受けるだろう。

 物やサービスにお金をあまり使わずに楽しめれば、人生は楽しく生きていける。そういうことが少しずつわかり、国や企業の管理の下、本音の見えない息苦しい人間関係のなかで生き続けることよりも、人と心を交流させて自分なりの楽しさのなかで生きていきたいと考える人が増えているのは当然のことだ。これだけ変化の激しい時代だから、人間の幸不幸は、どこか特定の組織に所属できているかどうかで決定するのではなく、どのような環境であっても生きていける、その人自身の生活力や人間的魅力こそが肝要になってくるということに、多くの人が気づき始めている。

 肩書きなんて、平常時に自分の周りに同じような価値観を持つ人間が集まっている時だけ通用することで、そのヒエラルキーが崩壊した時や、それを共有しない人との間では、まるで役に立たないものだ。社長が偉いのは、その会社の社員や取引先との関係の中だけであって、一歩、その世界を出たら、その人の生身の生活力や人間的魅力だけが問われる。 

 いまだに国家や企業と自分を一体のように考えている人は、頭が古く堅い。また国家や企業の強みを自分の強みだと考えている人は、それ以上に、頭が硬直し、視野が狭くなっている。

 頭が古く堅いから、新しい環境に順応できない。だから従来の価値観を頑なに守りとおそうとする。その価値観しか見えなくなると、それを自分の周辺の人にも押しつけたくなる。なぜなら、自分の目に見えるところを同じ価値観で固めたくなるからであって、そうしたいのは、実は心の底で不安を感じているからだろう。

 そして、現在社会では、自分の目に見えるところは、家族とか隣近所だけではない。テレビや新聞で知る他国の人々に対してもまた、自分の価値観だけを通して見ようとする。

 どこかの国で自由奔放に生活を楽しみながら生きている人々を見れば、開発が遅れていて野蛮だというレッテルを貼りたくなる。そして、ある国家の指導者が馬鹿げたことをすると、そこに生きる人々も一心同体として扱い、制裁を当たり前だとみなす。

 「制裁」という感覚は、おそろしく傲慢な視点に宿る。制裁というのは、自分の側が主流で正しいと信じ込んでいる人が、それに合わせることができないものを、むち打って改心させるということだ。狡い人々は、国という抽象的な存在にむち打たせることで自分の良心が痛まないようにする。国は、国民の良心を痛めずに国民の自分中心の価値観を守ってあげさえすれば、点数が稼げる。

 「国の制裁」という言い方をすると抽象的な言葉だけが一人歩きしてしまうが、実際に行われるのは、食べ物をはじめとする人間が生きていくために必要なものを断つということだ。こういう絵図をもっと自分事として引きつけて考えなければならない。

 自分の目の前に飢えた北朝鮮の人がいて、手を伸ばして食料を得ようとしているところを足蹴にして、「制裁だ!」といって、それを取り上げること。そういうことを自分自身が行おうとしている。

 「現実がこうだから」とか、誰かに擦り込まれたものを基準にして物を言わない方がいいだろう。

 国とか会社とかではなく、生身の自分自身が、この世界を生きていくのだ。

 モノゴトを全て自分の目の前に展開しているものとしてイメージし、そこに自分が立ち会い、その悲しみや苦しみや喜びを自分で引き受けていくという意識で生きていくこと。それが、自分の生を所有することではないか。

 自分の生にこだわって生きることを、自分勝手とかエゴだとみなそうとする圧力もまた、企業管理や国家管理を強めるためにある。

 強い企業や強い国家に自分の幸福を委ねようとする生き方は、自分の魂を、それらに売り渡すことでもあるだろう。

 自分の幸福は、自分の生身の力で引き寄せる。強い国家や強い企業の傘の下でたくさんの消費財を所有することより、そのことの方がより重要なことだろう。誰のためでもなく、自分自身のために。


風の旅人 (Vol.22(2006))

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